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上村真凛は夜洗顔をしている時にそれに気がついた。
「あれ?ここ、こんなに出っ張ってたっけ?」
入浴中にモコモコに泡立てた洗顔料で顔を洗う。頬から小鼻へ、そしてまた小鼻から頬全体へ。それから頬部側面から下顎へと、泡で皮膚を擦るように指のひら全体を入念に滑らせていく。鼻の下からまた頬へ。そして前額から眉間、鼻へと移動していく時に真凛は違和感を感じた。
前頭結節部がいつもより出っ張っているように思える。
真凛は泡で指先をくるくると滑らせながらその出っ張りを確認する。
──こんなもんだったかなぁ?
真凛は気になりいつつも、もう一度顔全体を泡で洗うとシャワーで泡を洗い流した。
泡を洗い流した後、もう一度顔全体を擦りながらおでこを確認する。二十代半ばの真凛にとって顔の形状はとても重大な案件である。
「やだなぁ、これ以上でっぱってこないといいけど」
鏡に映る自分の顔を見返しながら真凛はそう呟いた。
────────────────────────…
「そっか今日は櫻川さんは午前中いないんだっけ」
いつもように朝、クリニックに出勤するといつもなら見かける晶湖の姿がない。晃輔は昨日の帰りに晶湖が言っていた事を思い出した。
──では先生、申し訳ありませんが、明日の午前中お休みいただきますね。
「一日お休みでもいいって言ったんですけどねぇ…クリニックの事を考えてくださってありがたいですわね」
朔は珈琲を運んで来ると診察室の晃輔の机の上に置きながらそう言った。
「それはありがたいねぇ…お休みの理由はなんだったの?」
晃輔は運ばれてきた珈琲を啜りながら聞く。
朔はトレーを小脇に抱え、片手を頬に添えて考えながら答えた。
「確かお墓参り、と仰っていたと思います」
晃輔は、カップを持つ手が止まる。
「そうか…白川くんの…」
晃輔はゆっくりとカップを置いた。
「白川…なる人物とは?」
朔は小首を傾げた。
「朔さんは覚えていないかな?…櫻川さんの…亡くなられた…彼氏だよ」
「ああ…あの」
──魂が削られても晶湖を護っていた。
朔はあの時の巴蛇が吐き出した人の魂を思いだした。
晃輔もあの光景を思い出す。
巴蛇から吐き出されたふたつの魂。
一つは元気に病棟へ。そしてもうひとつは魂を──文字通り命を削りながら、それでも愛する恋人を約一年もの間護り通した。
晃輔は思う。
誰かを愛したとして、果たして自分に同じ事ができるだろうか。
「例え同じ事が出来なかったとしても、だからといって思いが劣るわけではございませぬ」
晃輔の考えていたことが見抜かれたようだ。
「朔は今まで人間というものの沢山の愛の形を見てまいりました。命を賭して愛するものを守るもの、愛するもののために共に生きるもの。愛するがゆえに見捨てるもの。愛するがゆえに命を奪うもの…これも歪んではいますが愛のカタチと言えるでしょう。肝心なのは愛された側がどう受け取るか…朔には人の心はわかりませぬが、愛する人には出来ることならばどんな形でも一緒にいてほしいと思うのではないでしょうか」
「残された側はそうかもしれないね」
では先に逝く方はどうなのだろうか。
晃輔はマグカップを持ち直し珈琲を啜る。
──自分なら俺の事は忘れて、次にいってほしいと思うだろうな。
「さて、じゃあ始めようかな。朔さん、午前中大変かも知れないけど頼むよ」
詮もないことを考え晃輔はフッと笑うと、今日の診察に頭を切り替えた。
──おかしいな。何だか頭がぼーっとしてることが多い。
真凛はパソコンを前にして額を押さえた。
「上村さん、どうしたの?具合でも悪いの?」
隣の席の同僚の鹿山が声をかけてきた。
「い、いえ、違います。大丈夫です」
──いけない、ちゃんとしなくちゃ。
真凛は大学卒業後、小さな建設会社の事務として就職し、働いている。
学生時代アッシュ系に染めていた髪もかなり暗めの茶色に染め直し、伸ばした髪は仕事中はアップにしている。ダークブラウンのベストに同色のタイトスカートというありがちな制服が支給されているので、仕事中はあまりおしゃれはできないが、その分気を使わなくて楽ではある。
この仕事について二年、取り立てて楽しくもないが、悪くもない職場でそれなりに仕事をこなしていた。
隣の席は二年先輩の営業職の男で名前を鹿山保といった。
営業職で事務所にはいないことが多いが、何かと気にかけてくれ、頼りになる先輩ではある。
「その書類、来週までで大丈夫だから無理しなくていいよ」
「お気遣いありがとうございます」
真凛は当たり障りなく答え、作業を再開する。
「俺はこの後外回りで直帰しちゃうけど、上村さんも残業しないで帰るんだよ」
鹿山はそういうと椅子にかけていたスーツの上着を羽織るとA4の茶封筒に書類をつめ、バッグに入れると肩にかけて出かけていった。
「はい、ありがとございます。お疲れ様です」
真凛は鹿山の背中に声をかけると、ご丁寧に振り返って手をひらひらと振って出ていった。
──さてと。
改めて真凛はパソコンに向かう。
入力を続けていると、すぐ頭がもやがかかったように、集中出来なくなる。
「これはダメだ」
真凛は諦めて、休憩タイムにすることにした。
事務所の隅にウォーターサーバーがあり、その横には緑茶や紅茶のティーバッグや珈琲が置いてある棚が設置されておりいつでもセルフで飲めるようになっている。
真凛は自分用カップにティーバッグを準備し、お湯を注ぐ。十分蒸らしたところでバッグをゴミ箱へ捨て、スティックシュガーとミルクポーションを一つずついれてマドラーで混ぜる。
マドラーをゴミ箱へ捨てるとカップを持って自分のデスクに戻った。
デスクの引き出しの中にはチョコレートバーが入っている。いざという時のおやつだ。
──そう言えば、あそこで出してもらった紅茶、美味しかったっけ。
真凛は以前かかったクリニックを思い出す。
──忙しくて行ってなかったな。そもそも病気にもなってなかったし。最近体調もあんまり良くないし、久々に診てもらいに行こうかな。
カップを両手で持って紅茶の温かさを感じながら紅茶を少しずつ口に運ぶ。
──そうと決まれば頑張ってさっさと終わらせなくっちゃ。
カップの紅茶を半分ほど飲むと真凛はパソコンの入力作業に戻った。
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「お疲れ様です。午前中おやすみありがとうございました」
晶湖は午後の十三時にクリニックに出勤すると休憩室にいる朔に声をかけた。
晃輔は昼休みはぎりぎりまで三階の倉庫件仮眠室で寝ている。
朔は休憩室の椅子に座って珈琲を飲んでいた。
「お疲れ様、お早い到着ですのね。ゆっくりで大丈夫でしたのに」
午後の診療開始時間は十五時からである。
「思ったより、早く着いてしまったので、ここでお昼食べようと思いまして」
晶湖はブルーのフレアブラウスの下は黒のパンツを着込み、ベージュのブルゾン姿で更衣室に入ると、グレープにアクセントでネイビーの入ったスクラブに着替え、手洗い場の水道で手を洗ってうがいをする。
それからテーブルに着くと買ってきたサンドイッチを頬張った。
朔が晶湖のために珈琲を入れる。
「わあ、ありがとうございます」
晶湖は早速珈琲にミルクと砂糖を入れてカップに口をつけた。
「相変わらず美味しいです」
朔に向かってニコッと微笑む。
「それはようございました」
朔も笑顔で返した。
しばらく無言が続く。
晶湖はもくもくとサンドイッチを食べている。
「お天気が良くてようございましたね」
朔が窓の外を眺めながら言った。
換気のため開け放たれた窓からはここ数年の異常気象により十一月後半にしては冷たくもない気持ちの良い風が入る。
晶湖はその言葉につられて、食べる手を止めて窓の方をみた。
「そうですね。ちょっと厚着してしまって。少し歩くだけで汗がでました」
そういって額を拭う仕草をした。
「ふふふ、それは大変でしたね」
朔は小さく笑いながら話を聞いた。
またしばらく食事に専念したあと、晶湖は徐に口を開いた。
「…ねぇ、朔さん」
「はい、何でしょう」
朔は穏やかに返事をする。
「あの時…絹人がずっと私を護っていてくれていたことを、朔さんは知っていたんですか?」
「…ええ。最初は晶湖さんの恋人だということは知りませんでしたが」
「そっか…そうですよね」
晶湖は自分のマグカップの縁を指でなぞる。
あの時、とは多分晶湖がここに患者として来ていた時のことだろう。晶湖は中林がかけた呪い(かけた本人は知らなかったが)によって、蟒蛇に殺されていておかしくなかったところを、亡くなった白川の魂が蟒蛇から護っていた事があった。
「…晶湖さん、もしもあの時の記憶が辛いのであれば私はそれを消して差し上げることができます」
「え…」
晶湖は顔を上げて朔を見た。
朔は真っ直ぐに晶湖を見ていた。
「今までもそうやってモノノ怪・妖に遭遇した人の記憶を弄り、時には記憶を消してまいりました。晶湖さんが望むのであれば消して差し上げます」
「あ…」
そういえば晶湖がここに務めるようになってからも幾人かは朔によって記憶が操作されている。晶湖が勤め始める前から、きっとそうやって妖関係でここに来た人の記憶は消してきたのだろう。
「どうして…私は記憶が消されていないのですか?」
晶湖は自分だけが今まで消されていなかった事に気がついて朔に訪ねた。
「それは…晃輔坊っちゃんが消すなとおっしゃったからです」
「晃輔先生が…」
──晃輔先生が何故?
晶湖は不思議に思った。
「はい、普段ならありえませんが、あの件では晃輔坊っちゃんは、白川…さんの想いを消してしまう事をよしとしなかったのです」
「絹人の…」
──絹人の想い…。夢現の中で見た発光体。私を優しく包むように纏わりつき…そして消えていった。
晶湖の胸がツキンと痛む。
「はい、それにこうも仰ってました。『櫻川さんはいつか自分で乗り越えられる』とも」
「先生…」
──晃輔先生、ありがとうございます。消さないでくれて──
知らず知らずのうちに晶湖の目から涙が溢れる。両手を組んで胸を抑える。
「どうされますか?消しますか?」
朔は真剣な顔で晶湖に聞いた。
「い、いえ、ダメです。これは私の記憶。私が持っていなくちゃいけない記憶です。そして、晃輔先生の言う通り、私が自分で乗り越えなきゃいけない記憶です。ごめんなさい朔さん、折角のお申し出ですが、消さないでください」
それに対し晶湖は慌てて否定した。それから朔にあやまる。
「わかりました。朔には貴方の辛さを分かって差し上げることができません。でも…貴方はきっと乗り越えられると朔も信じております。そしてそのために朔の力が必要な時はいつでも仰ってくださいませね」
朔はフッと表情を緩めると晶湖に気遣うようにそう伝えた。
晶湖の目に涙がふたたび溢れる
「朔さんはどうしてそんなにやさしいんですかぁ」
「それは──」
晃輔の嫁候補だから、と思いながらもそれだけでは無いことに気がついた。
──どうやら晶湖さんの事を、「晃輔ぼっちゃんの嫁」候補として以外にも気に入っているらしい。
ふふっと微笑むと朔は晶湖の前にティッシュボックスを差し出し
「大切な同僚…だからでしょうか」
そう答えた。
「ふぇーん、朔さぁーん」
「よしよし、晶湖さんまるで子供のようでございますよ」
ティッシュペーパーで鼻をかむ晶湖を朔は子供をあやすように頭を撫でる。泣いて熱くなったのか、頭が汗をかいている。本当に子どものようだと朔は思った。
「目を真っ赤にしたまま午後の診察に出させるわけにはいきませぬ。まだ少し時間がありますからお顔を洗っていらっしゃいな」
「はひ、そうします」
晶湖がティッシュペーパーで目と鼻を押さえながら立ち上がると、朔は洗いたてのタオルを渡した。
「ありがとうございます」
そう言って晶湖はタオルを受け取ると、鏡のある化粧室へ向かった。
入れ替わるように晃輔が三階から降りてくる。
休憩室に入るなり晃輔は言った。
「あれ?櫻川さんはまだ来てない?」
「いらしてますよ」
「そっか」
晃輔はあからさまにほっとすると、朔に珈琲をいれてくれるよう頼んだ。
そんな晃輔の様子を見ながら朔はため息をついて、珈琲をいれるために立ち上がった。
「あれ?なんで人の顔みてため息?」
「大したことではありませぬ。…寝癖がついておりますよ」
「え、そうなの?」
晃輔は慌てて頭のあちこちを触る。元々天パなので、いまいち手で触っただけではわかりにくい。
朔は晃輔の珈琲を入れると、眼の前のテーブルの上に置き、それから
「ここですよ」
と、右後頭部の跳ねを指で弾いた。
「目立つ?」
晃輔は跳ねを押さえながら聞いた。
「いつもの晃輔ぼっちゃんからみたら大したことはありません」
朔はしれっとした顔で答えた。
「じゃ、いいか」
晃輔は寝癖の位置を探すのをあっさり諦めると珈琲を啜った。
そして、そんな晃輔に改めてため息を零す朔であった。
「遅くなっちゃった」
真凛は結局定時に上がることが出来なかった。
思ったより書類作成に時間がかかってしまったためだ。
結局休憩後も集中できず、何度も作業が中断してしまい、書類が出来上がったのは、定時の十七時を三十分ほど過ぎたころだった。慌てて片付けると会社を飛び出して電車に乗り込んだ。
帰りの電車は混んでいて、真凛はどうにか乗り降り口の隙間に陣取ることができた。
窓に映る自分を見ながら、心のなかで独り言つ。
──何だか今日は本当に仕事に集中できかなったな。
おまけに、なんだかとてもお腹がすく。お昼もしっかり食べて、おやつまで食べたのに。
──晩ご飯何だろう。お肉だったらいいな、お魚でもいいけど、お肉が食べたいな。てか、こんなに食欲があるなんてやっぱ病気じゃないのかな。単なる寝不足?折角先生に会いたかったんだけどな。でも、もう診療時間に間に合わないか。
スマートフォンの時間を見て真凛は考える。
──うーん、ぎり間に合わない。しゃーない、明日こそ定時で上がってクリニック行こ。
真凛は受診するのを諦めると、ワイヤレスイヤホンを耳に押し込みスマートフォンで音楽を流し始めた。
──────────────────────────…タイ




