誘拐犯と街歩き
人のざわめきが、途切れることなく耳に流れ込んでくる。
石畳を踏みしめる足音に、呼び込みの声が重なり、遠くでは車輪の軋みが低く響いていた。
その合間を縫うように、どこかで弾かれた弦の音が、軽やかに空気を震わせた。
顔を上げると、視界いっぱいに、街の光景が広がっていた。
行き交う人々の間を縫うように店が軒を連ね、吊るされた色布が風に揺れている。
その下では果実やアクセサリーなどの商品と見られる物品が、陽の光を受けて鮮やかに輝いていた。
目に映るものすべてが騒がしくて。
それでも、不思議と落ち着いていた。
「わぁ……」
思わずそんな声が漏れる。
意識していたわけじゃない。
ただ胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
こんな風に、人が歩いていて。
誰かが笑っていて。
何かを選んで、買って、また次の場所へ向かっていく。
それだけの当たり前の光景を前にして、いつの間にか警戒心で張り詰めた気持ちがほぐれていくのを感じた。
ふと、ノクスが隣から俺の顔を覗き込み、視界に影が落ちた。
「なぁに?安心した?」
からかうような声音で言われた。
口元にうっすら笑みを残したまま、すぐに顔が離れていく。
「あはは、ずいぶん素直じゃん」
そのままスタスタと前を歩いていく。
彼の腕の中には、幼い子供を抱くように、セレナが片腕で抱きかかえられていた。
セレナも何も言わず、その行為が当然とばかりに身を任せていた。
白磁のような肌。
光を受けて揺れる淡い髪。
睫毛までもが白い、白銀の眼。
現実離れしたその整った顔立ちの彼女を抱いているノクスの姿は、何も知らない人が見れば、人形を抱いている男にしか映らないだろう。
「レイン様。置いて行かれますよ?」
クローディアスの声に、はっと我に返る。
視線を上げると、ノクスの背中はすでに人混みの向こうへと紛れかけていた。
慌ててその背を追いかける。
そのまま歩みを進めると、人の流れに自然と身体が押し出されていく。
肩をかすめる風。
袖がわずかに触れそうになる感覚。
すぐそばを誰かが通り過ぎていく足音。
視界の端で揺れる人影が、絶え間なく流れていった。
ふと、ティアの足がぴたりと止まった。
視線は一点に固定されたまま動かない。
そのまま、ノクスの袖をぐいっと軽く引っ張った。
「ねぇ、あれ食べたい」
言いながらティアが視線の先を指差して示す。
彼女が指差された先には、小さなクレープ屋があった。
鉄板の上で薄く焼かれた生地が、くるりと器用に巻かれていく。
ほんのりと甘い香りが、焼き上がるたびにふわりと風に混ざって流れてくる。
ノクスはちらりとそちらに視線を向けた。
そして仕方ないとばかりに笑った。
「はいはい。わかりましたよ」
歩みを止めると、片腕に抱えたままのセレナの体勢を軽く持ち直した。
焼き台の前では、白いワンピースにエプロン姿の幼い少女が忙しそうに手を動かしている。
焼き上がる生地の甘い香りが漂う中、その手つきは驚くほど無駄がなく、手慣れた様子だった。
こちらが注文しようとしている気配に気付き、少女がくるりとこちらを振り向く。
「いらっしゃいませー!」
明るい声が弾むように響いた。
ノクスが一度こちらへと振り返る。
「君たちも食べるよね?」
にこりと笑みを浮かべながら問い掛けてきた。
こちらが返事を返そうと口を開いた。
しかし、ノクスはこちらの返事を待つこともせず、店員へと向き直り、
「店員さん、クレープ5つお願い」
と、ノクスは全員分のクレープ注文をしてしまった。
俺やクローディアスの返事を待つ気配すらない。
(……今の、確認する意味あったか?)
あまりにも流れるように注文を始めるものだから、思わずそんなことを考えてしまう。
「はーい!5つですねっ」
店員は明るい声を響かせてくるりと焼き台に向き直り、手際よく生地を広げていく。
その動きは軽やかで、どこか楽しそうですらあった。
あっという間に5つ分のクレープが出来上がり、差し出された。
片腕にセレナを抱えたまま、片手で器用に財布を取り出し、代金を支払う。
店員が差し出したクレープを、流れるように受け取っていく。
受け取ったクレープのうちの2つは、その場でティアとセレナへ渡される。
そしてすぐに、こちらへと歩み寄ってくると、目の前に、ずいっとクレープが差し出された。
「はい、キミたちもどーぞ」
包み紙の隙間から覗く生地は、まだほんのりと熱を持っていた。
ふわりと漂う甘い香りが鼻をくすぐる。
薄く焼かれた生地の上に、淡い色のクリーム。
その上から、とろりとした透明な蜜がかけられている。
さらに、その上に添えられているのは、小さな花の形をした焼き菓子。
可愛らしく良い香りを放つそのクレープに、ティアが嬉しそうにかぶりついた。
「んー!美味しっ」
発せられる言葉は静かながらも、子供のように目を輝かせていた。
その様子を見ていると自然に頬が緩んでしまう。
一方、その隣ではクローディアスが、無言でクレープを見下ろしていた。
「……」
ほんのわずかに眉が寄り、躊躇うように手が止まっている。
(あー……、クロは甘いの苦手だもんな)
ノクスお手製の料理内にもあったタルトも、「良かったら食べてください」と俺に渡して来たのを思い出した。
その時は周囲から見ても嫌いだから他の人に押し付けたなんて思われづらいい言い回しで、サイズも手のひらサイズだったから違和感が無かった。
だが、今回はクレープだ。
流石に他の人に渡すなんてことしたら不自然に思える。
暫く見つめた後、クローディアスは意を決したように一口齧り付いた。
「……っ」
途端に、表情が固まるのが分かった。
だがすぐに、何事もなかったかのように咀嚼し、静かに飲み込む。
それをノクスは見逃さなかった。
「あれあれ~?黒犬くん、もしかして甘いの苦手だったりする?」
くっくっと喉を鳴らしながらからかいを含んだ声で問われる。
「……別に、そんなことない」
「いや~、その顔で言われてもねぇ?」
「うるさい。それと、黒犬って呼ぶな」
低く押し殺した声。
ぴりっと空気がわずかに張り詰める。
クローディアスの口調も敬語が崩れて、苛立ちを隠そうともしていない。
「えー、いいじゃん。似合ってるって」
「似合っているかどうかの問題じゃない」
軽い調子のままのノクスと、わずかに温度の下がったクローディアス。
このまま放っておくと、まずい予感がして、「まぁまぁまぁ!」と2人の間に割り込んだ。
「せっかく美味いもの食ってるんだし、ケンカは後にしようよ」
俺の言葉に、クローディアスは不服そうにしながらも、
「……申し訳ございません」
と、謝罪の言葉を口にした。
しかしその言葉は恐らく、ノクスではなく、俺に向けてだろう。
ノクスもわざとらしく肩を竦めてからかうのをやめ、小さく呟いた。
「喧嘩してるつもりはないんだけどなぁ」




