第50話
あれから、五度目の春が来た。
ガルドの街の北の丘には、今、白い石造りの学舎が建っている。ヴァルデン薬師学校。生徒数二百四十名。出身は王国全土、レンドル、さらに海を越えた国からも。入学試験の倍率は年々上がる一方で、今年はとうとう十倍を超えた。
「――いいか、お前ら。うちの学校の決まりは三つ。一つ、視て、確かめるまで信じない。二つ、分からないものは口に入れない、入れさせない。三つ!」
「「「薬は、人を選ばない!」」」
「よろしい」
教壇で新入生に号令をかけているのは、すっかり背の伸びた青年教師だ。ヴァルデン校教諭のトマ、十九歳。最年少で上級薬師の資格を取った、この学校の看板であり、私の一番弟子であり、そして今も時々「ミレイユ、この配合どう思う」と職員室に駆け込んでくる、永遠の弟子一号でもある。
王国も、変わった。
聖女制度は改められ、水源と防疫は複数の官署が記録で引き継ぐ仕組みになった。王都の施薬院はうちの卒業生が支え、南部では灌漑局のアルディス書記官――今では「溜め池のアルディス」と農民に慕われる局長だ――が、地味で確かな水路を引き続けている。ソフィアからは年に二度、修道院の薬草園の報告が届く。彼女の育てた薬草は、今年から正式にうちの学校が買い上げている。
辺境と王都の関係も、対等なものになった。何しろ王家は薬師学校の出資者で、辺境伯家は王都の防疫の恩人で、そして両者の間には、毎年律儀に更新される「検毒業務委託契約」があるのだから。あの見積書は、今や両家の縁を繋ぐ書類になっている。世の中は分からない。
そして、私はといえば。
「奥方様、旦那様が食堂でお待ちです」
「はあい、今行きます」
今夜も、ヴァルデン城の食卓につく。
席に着くと、給仕が皿を並べ、私は夫の皿を一瞥して、一口だけ味を検める。五年間、一日も欠かしたことのない儀式だ。もっとも――。
「毒はありません。今日の煮込みは料理長の自信作ですよ」
「だろうな。この城の食卓に毒が出たのは、もう何年前の話だ」
夫が呆れ半分、笑い半分で言う。事実だった。宰相派は根こそぎ消え、調毒師の系譜は絶え、この食卓は世界で一番安全な食卓になって久しい。
「なら聞くが、もう毒見は要らないだろう。妻にいつまで毒見役をさせていると、カインがうるさい」
「あら。何もお分かりでない」
私は匙を置き、胸を張った。
「これは毒見ではありません。――あなたの毎日を、一番近くで味わう権利です。契約書のどこにも、返上するとは書いてありません」
「……口の減らん奥方だ」
「どなたの教育の賜物でしょうね」
夫が喉の奥で笑ったとき、食堂の扉が勢いよく開いた。
「ちちうえ! ははうえ! 見て、月光草のはっぱ!」
泥だらけの小さな嵐が、駆け込んでくる。私たちの息子、四歳。祖母譲りだという黒髪に、私と同じ色の瞳をした、畑と厨房が大好きな子だ。突き出された小さな掌には、産毛の生えた若葉が、得意げに載っていた。
「まあ、上手に摘めたのね。裏の毛は確かめた?」
「かくにんした! 毛があるほう!」
「よろしい。……ね、あなた。この子、いい目をしていると思いません?」
「ああ。……この城で一番高くつく目だ、間違いなく」
夫が息子を膝に抱き上げ、食卓に、湯気と笑い声が満ちる。
窓の外では、春の夕陽が薬草畑を金色に染めている。丘の学舎に灯りがともり、街の鐘が穏やかに時を告げる。
――かつて、王国に捨てられた聖女がいた。
その人は今、世界で一番豊かな食卓で、今夜も幸せの味を検めている。
毒は、一滴もない。この先も、ずっと。
(完)




