第1話
聖誕祭の夜、王都の大聖堂は千の蝋燭に照らされていた。祈りの鐘が鳴り終わり、貴族たちの談笑がさざめきに変わった、そのときだった。
「ミレイユ・オルレア。お前との婚約を、この場で破棄する」
第二王子ラウル・アルディス殿下の声が、聖堂の高い天井に反響した。ざわめきが波のように引いて、数百の視線が私一人に集まる。
ああ、とうとう来たのね。
驚きよりも先に、そんな諦めに似た感想が胸に落ちた。この半年、殿下が私を見る目は日ごとに冷えていた。理由も、隣に寄り添う少女を見れば明らかだった。
「殿下。理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
私の声は自分でも驚くほど静かだった。ラウル殿下は一瞬怯み、それを誤魔化すように声を張り上げる。
「白々しい。お前の聖女の力は偽物同然だ。神殿の測定で、お前の浄化量は歴代最低だったそうではないか。国母となる者に、その資格があると思うのか」
「浄化量、ですか」
「そうだ。真の聖女はここにいる。ソフィア・メルローズこそ、神殿が認めた本物だ」
殿下の隣で、ソフィア様が恥じらうように俯いた。淡い金の髪、庇護欲を誘う潤んだ瞳。彼女の浄化の儀は光に満ち、見る者すべてを魅了するという。私のそれは、光らない。ただ静かに、水から毒が消えるだけ。
目に見えるものしか、人は信じない。
思えば、最初からそうだった。五年前の婚約の日、殿下は私にこう言ったのだ。「地味だが、聖女なら仕方あるまい」と。それでも私は務めを果たそうとした。夜会で笑い、儀式に立ち、そして誰も知らないところで、この国に忍び込む毒を黙々と消し続けた。眠れない夜も、指先が痺れるほど力を使った朝も、数えるのはとうにやめていた。
「ミレイユ様が、その、私に嫌がらせを……とても怖くて」
ソフィア様が震える声で言い、聖堂のざわめきが敵意に変わった。身に覚えはない。けれど、ここで叫んで否定したところで、誰が地味な聖女の言葉を信じるだろう。
私は五年間、この国の水を見てきた。王家の食卓に上るすべての皿を検め、王都の水源に沈む澱を人知れず祓ってきた。記録には残らない。浄化量の数字にも表れない。それが私の仕事で、私の力だった。
でも、もういいのかもしれない。
見えないものを見続けて、見えないまま捨てられるのなら。
「――わかりました」
私は左手の指輪を外した。五年前、婚約の証にと嵌められた、青い石の指輪。一度も温かいと感じたことのなかったそれは、指を離れると驚くほど軽かった。
歩み出て、殿下の手のひらにそっと載せる。
「婚約破棄、確かに承りました。ソフィア様と、どうぞお幸せに」
「……っ、負け惜しみか。泣いて縋るなら今のうちだぞ」
「いいえ、殿下」
私は顔を上げて、まっすぐに元婚約者を見た。金の髪、整った顔立ち、そして分かりやすいものしか映さない瞳。この人の隣で老いていく未来が消えたのだと思うと、胸の奥で何かが、微かに、ほどけた。
「お祈りしております。あなたの目に映るものだけで、この国が守れますように」
殿下の顔が屈辱に歪む。ざわめきに背を押されるように、私は聖堂の長い絨毯を一人で歩いた。ざわめきと嘲笑が背中に刺さる。父も母もすでに亡く、没落した伯爵家に私を庇う声はない。それでも不思議と、足取りは軽かった。扉の前で一度だけ振り返り、私は誰にも届かない声で呟いた。
「わかりました。では、私はもう――この国の毒を、見なくていいのですね」
その言葉の意味を、この場にいる誰一人として、理解していなかった。
聖誕祭の鐘が、頭上で高らかに鳴っていた。




