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地獄からバイバイ  作者: 梅したら
二章 脱出を目指して

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4 イコの嘘?

 深く眠っていたつもりだけど、ふいに目が覚めた。

 窓に打ち付けられた板張りの隙間から見える空は、暗いけれど、明るくなり始めている。5時くらいだろうか。


 疲れすぎていると、長時間眠れないことがある。今回も、多分それだ。

 まだ頭は重いけれど、精神が興奮しているのか、すぐには二度寝できそうにない。


 眠気がこないかと、ゴロゴロする。

 いつもならスマホで眠くなるまで時間をつぶすけれど、カバンから取り出してみても相変わらず電源が入らなかった。


 隣を見ると、イコがすうすうと穏やかな寝息をたてている。起きる様子はない。


 あどけない話し方をするイコは、寝顔もあどけなかった。鉄パイプも殺人も、つくづく似合わない顔をしている。


(そういえば、イコはなんで眼帯をつけているんだろう)


 寝る時もつけたままの眼帯が、ふと気になった。


 学校の保健室で着替える時、イコは豪快に脱いでいた。俺の方が気を使って目をそらしたくらいだ。

 でも眼帯だけは、「こっち、みないで」と言って背を向け、部屋の隅っこでコソコソと替えていた。


 眼帯の下を、見られたくないんだろうか。


(俺、イコのこと何も知らないんだな……)


 イコのことは信じたい。

 でもまだ少し、怖い。


 イコと共に向かうあの山のまがまがしさが、心にブレーキをかけていた。

 俺は本当に、イコを信じて山に向かってもいいんだろうか。

 日常と同じ風景の中で、唯一まがまがしく感じた、あの山に。


 ――考えても、答えは出ない。


「トイレいこ……」


 俺は起き上がり、イコを起こさないよう静かに部屋を抜け出した。





「トイレって、使っていいのかな……」


 公民館のトイレ前で、俺は立ち尽くしていた。

 ナナシさんは、ここが他の人には違う景色に見えると言っていた。じゃあ、俺が見ているトイレは、他の人にとってはトイレじゃないのかもしれないと思い至ったんだ。


 万が一、誰かの大切な場所を汚してしまったら、最悪だ。


 誰かに聞こうにも、早朝だから、寝静まってシンとしている。


「あ……入口の見張りの人なら起きているかな」


 ああいうのは、交代しながら1日中見張っているイメージがある。

 聞きにいこうと、階段の方を向いた。


 その時。


「おや、サンくん。早いですね」


「あ……ナナシさん!?」


 急に背後から声をかけられて、驚いた。


 この公民館のトイレ近くに、階段なんてあっただろうか。

 記憶をさらいながら振り向いて、ナナシさんを見る。


 ――やっぱり、そっちの方向は突き当りで、壁しかなかった。


「え……なんでそこに……」


「ああ、すみません、驚かせてしまいましたね」


 ナナシさんは洗濯物が入っているらしいカゴを両手に持っていたけれど、穏やかに笑ってそれを廊下の端に置く。


「こちらを、見ていてください」


「はあ……え!?」


 ナナシさんがおもむろに壁の方へと歩いていった。

 ぶつかる、と思った直前、ナナシさんの前に、下り階段が現れる。

 数段下りてから、戻ってきた。俺がまばたきをすると、階段は消えてしまう。


「説明がややこしいのですが……私の認識している建物では、ここに階段があるんです。しかし、君の見ている建物には、ここに階段はない。

どちらも正解なのが、この世界なんです。

私が使っている時は、君も認識します。『ナナシが下りている以上、ここに階段がなければおかしい』と、魂が判断するようですね」


「えっと……つまり……」


 難しくて、上手く頭に入ってこない。

 俺の成績は悪くなかったけれど、非現実的なことをすぐに飲み込むのは、公式を覚えるよりも難しかった。


「この世界は、観測する君自身の思い込みや意思の強さによって、形を変えるということです。

そして、思い込みが強いほど、他者が認識しているこの世界にも影響を与える」


「はあ……」


 わかったような、わからないような、難しい話だった。

 俺たちは同じ世界にいるように見えて、別々の世界を観測している。

 意思が強ければ、他の人が観測する世界にも、影響を与えることができる……ということだろうか。


 ナナシさんは、ここに階段があるという意思が強かった。だから階段を使うことができる。

 そして俺は、ナナシさんが使っている時だけ、階段が見える。


 多分、昨日畳を叩いた時も、そうだったんだろう。

 ナナシさんが板の間を叩くと信じていたから、俺の耳には板の間の音が届いた。


「難しい……けど、便利そうですね。なんでもできるんじゃないですか?」


 思い込みだけで世界の形を変えられるなら、例えばすごく強い城塞とか、豪華なお城とかも、作り放題な気がする。


「いえいえ、それほど実用的ではないんですよ。

思い込みの力というものは強すぎて、普通の意思では太刀打ちできない。

私がいくら『ここに階段がありますよ』と言って、実際に下りて見せても、今はもう階段は見えていないでしょう?」


「たしかに……すぐに消えました」


「私の意思では、あなたの世界に強く干渉できない。それくらい、あなたの『ここに階段はない』という思い込みは強いんです。

理論上は、この世界では空を飛んだり水の上を歩いたりすることだってできるはずです。魂は、肉体や重力の影響も受けないのだから。

でも、できない。空を飛べると信じられないからです。我々は、常識という思い込みに、縛られ続けている」


「なるほど……」


 少し残念だった。空は、飛んでみたかった。


「でも、思い込みがあるから便利なことはあります。

君は『この建物内に階段はひとつしかない』と思い込んでいるから、私が使った階段を認識できなかった。

でも、私も君も『この建物内にトイレがある』と思い込んでいると、なぜか同じ場所にトイレがあると認識できるんですよ。

つまり……」


 ナナシさんはニコッと笑い、トイレの方向を指さした。


「トイレはそこを使ってもらって大丈夫です」


「あ……! ありがとうございます!」


 そうだ、俺はトイレに行きたかったんだ。

 ナナシさんと会ったことで一時的に忘れていたけれど、途端にぶり返してくる。


 考えてみると、今の俺は魂なのに、ものを食べるし、トイレにも行きたくなる。これも思い込みなんだろう。


「説明を忘れていてすみません。皆さん、同じことで戸惑われるんですが、最近は新しい出会いもなかったので忘れていました」


 そんな苦笑交じりの声を背に受けながら、俺はトイレへ飛び込んだ。





「あれ、ナナシさん……もしかして、俺を待っていました?」


 手を洗ってトイレから出ると、ナナシさんがまだそこにいた。背中で手を組んで、板張りの隙間から窓の外を眺めている。


「ええ、少し、君に話がありまして」


 振り向いたナナシさんは、変わらず微笑んでいた。


「話、ですか?」


「はい。――イコくんには、聞かれたくない話です」


「!」


 イコに聞かれたくない話。

 なんだか胸がざわつく。

 こんな切り出し方をされて、いい話が待っているとは思えなかった。


「率直に聞きます。君はイコくんから――どこかに向かえと、言われませんでしたか?」


「…………」


 答えにためらい、俺は唇を引き結んだ。


 言われた。

 この世界から脱出するために、街の北にある、まがまがしい山の頂上へ行く必要がある、と。


「やはり……言われたんですね」


 俺の反応で、ナナシさんは察してしまったようだ。

 横目で、先程眺めていた窓の方向を見る。


「それはもしや、向こうにある山の頂上……ではないですか?」


 窓には板張りがされているけれど、隙間から景色が見える。

 ナナシさんの視線の先には、朝焼けに照らされてもなお暗く感じる、まがまがしい山がそびえ立っていた。


「……そう、です」


 俺がうなずくと、ナナシさんは「やはり……」と、いたましそうに俺を見た。


「落ち着いて聞いて下さい、サンくん」


 俺より少しだけ背が高いナナシさんは、かがんで、こちらの目をまっすぐに見つめた。


 そして、静かに告げる。


イコくんは(・・・・)嘘を(・・)ついています(・・・・・)


「…………ッ!」


 それはある意味、一番聞きたくないことだった。

 山の頂上に行けば元の世界へ帰れるというのは、俺にとって唯一の希望だったし――それにイコを、俺を守ると言ってくれたあの男を、信じたかったからだ。


(そうか、俺……イコを信じたくて、ナナシさんについてきたんだ……)


 今更、自分の気持がわかる。

 俺はイコを信じたかったけれど、山のことがどうしても引っかかっていた。

 だから疑いを晴らすために、知識を求めた。あの山が安全だと、他の人にも言ってほしかったんだ。


 しかし、言われたのは真逆のこと。


「嘘、って、どういうことですか」


 だからといって、ナナシさんの話をそのまま信じるつもりはない。

 悪人は、最初は親切にしてくると、詐欺注意のポスターで見たことがある。


「これまで、何度も見てきたからです。たまに現れるんですよ。山の頂上に救いがあるから、一緒に行こうと言う者が」


「で、でも、救いがあるのは本当かもしれないじゃないですか」


 食い下がる俺に、ナナシさんは辛そうな顔で、首を横に振る。


「向こうには、何もないんです」


「え……でも……」


「見えないんです。私たち正常な者は、誰もその『山』を見たことがない」


「え……?」


「私の認識では、向こうにあるのはただの森。今までも、皆そうだった。平地や、街だった。

化け物に魅入られた者だけが、向こうに『山』があると言い、そちらに救いがあると吹き込まれるんです」


 そんな、おかしい。だってあの山は、生まれた時から見飽きた山のはずだ。


 ――本当に?

 本当に、あんなにまがまがしい山を、俺は見ていたというんだろうか。


「化け物、って……」


 誰のことを指しているのか、考えたくもない。


「イコのことを、言っているんですか……?」


 否定してほしくて、そう問いかけた。

 でもナナシさんは、うなずいてしまう。


「はい……。

あれはおそらく、人ではありません。

人ではない何かが、人の形をとって、あなたに取り憑いているんです」

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