第11話 契約
霊木の根元に、三つの影が立った。
精霊の森の中心。最も古い霊木の前。銀色の幹が天に向かって伸び、枝が空を覆うように広がっている。木漏れ日が精霊力の粒子を含んで、銀色の雨のように降り注いでいた。
わたし。レオンハルト。そしてネーヴェ。
三日間の準備を経て、今日がその日だった。
「始めるわ」
ネーヴェの声が森に響いた。銀色の霧が渦を巻き、霊木の根元から光の線が走り始める。
わたしは目を閉じた。精霊力を集中させる。契約の術式を胸の中に描く。三年間使っていなかった能力だが、身体が覚えていた。指先に、微かな痺れが走る。
レオンハルトの手を取った。右手で。彼の手は硬く、温かかった。
「わたしが通訳します。ネーヴェの声が聞こえたら、わたしの手を握ってください」
「……ああ」
精霊力が流れ始めた。わたしの手からレオンハルトの手へ。レオンハルトの血に流れる守護者の力が応え、大地を通じてネーヴェに届く。三つの力が環になって循環する。
術式が動き出した。呪いの構造が目の前に可視化される。黒い糸の塊のような、歪んだ術式。イレーネが仕掛けた呪い。わたしが封印した層。レオンハルトに流れ込んだ分岐。
書き換える。一本ずつ、丁寧に。黒い糸を解いて、新しい線で編み直す。
◇◇◇
儀式の途中で、記憶が来た。
止めていたはずだった。思い出さないと決めたはずだった。けれど、三者の力が呪いの構造に触れた瞬間、封印ごと記憶が震え始めた。
呪いを書き換えるということは、封印も同時に組み替えるということ。封印に閉じ込められた記憶が、扉を叩いている。
溢れた。
断片ではなかった。洪水だった。
銀木犀。朝。一輪だけ、机の上に。振り返ったときにはもう背中しか見えない。あの人の背中。二年目の春。
違う、もっと前だ。一年目の冬。火の前。毛布を分け合って、肩が触れた。心臓がうるさい。白い結婚だから、と自分に言い聞かせた。言い聞かせなければならない時点で、もう。
順番がぐちゃぐちゃだ。
結婚式の日。レオンハルトの震える指。「ずっと隣にいてほしい」と言った夜。いや、それはもっと後だ。混ざっている。記憶が。時間が。
二年目の夏。精霊の森で昼寝をした。目が覚めたら、あの人がわたしの顔を見ていた。目が合った瞬間に逸らした。耳が赤かった。いつも耳が赤い。この人は。
風邪を引いた夜。深夜の三時に薬湯を持ってきた。「料理長に頼めばいいのに」「今は料理長は寝ている」。あの不器用な人が、一人で厨房に立ったのだ。
花。花。花。毎朝の花。二年目の春に始まった。一日も欠かさなかった。わたしが倒れてからも。三年間。千日以上。目覚めない妻の枕元に。
日記。夜ごと、一行だけ。「大丈夫、明日も晴れる」。読まれるかも分からないのに。
そして。
呪いの夜。イレーネの呪いが発動したとき、わたしは迷わなかった。ネーヴェとの契約を使い、封印を施した。代償は記憶。分かっていた。分かっていて、選んだ。
指輪に文字を刻んだ。震える手で。夜明け前の暗い部屋で。
「忘れても、戻る」
忘れる前に、最後にレオンハルトの寝顔を見た。穏やかな顔。眉間の皺が消えていた。この顔をもう覚えていられない。
泣いた。声を殺して。それでも選んだ。この人が生きている世界のほうが、わたしの記憶よりずっと大切だと。そう思った自分を、わたしは嫌いになれない。
◇◇◇
目を開けた。
涙で視界が歪んでいる。精霊の森の木漏れ日が、銀色に揺れている。
手を握っている。レオンハルトの手を。彼もわたしの手を握り返している。強く。痛いくらいに。
すべてを思い出した。
あの日の夕暮れ。あの夜の星空。朝の花。夜の一行。不器用な笑顔。震える「すまない」。窓の外を見る癖。天気の話で逃げる癖。耳の先が赤くなること。
レオンハルト。
この人の名前を、わたしは知っている。
「ネーヴェ。呪いは」
「書き換えは完了した。封印は安定している。もう、記憶を代償にする必要はない」
精霊の声が遠くから聞こえた。
レオンハルトの顔を見た。
灰青色の瞳が、わたしを見ている。不安と期待が入り混じった目。三年間、ずっとこの目で待っていたのだ。花を摘み、日記に一行書き、部屋の前で立ち止まって。
何を言えばいいのか分からなかった。「ありがとう」では足りない。「ごめんなさい」でもない。「好きです」は近いけれど、三年分の重さを包めない。
口を開いた。閉じた。また開いた。
出てきた言葉は、ひとつだけだった。
「——ただいま」
レオンハルトの目が見開かれた。唇が震えた。喉仏が上下した。
そして、声が出た。かすれて、震えて、三年分の重さを全部載せた声が。
「おかえり」
精霊の森の木漏れ日が、銀色の粒子となって二人の頭上に降り注いでいた。ネーヴェの霧が、微かに温かくなった。
呪いは終わった。
三年間の冬が、終わった。




