☆8かいめ☆ それは甘美な響き
「……よし。とりあえず着替えはこんなもんでいいだろ」
大地は、満足そうに両手の荷物を持ち直した。
「そ、そなた……正気か?」
ラビリスは、彼の両手に下げられた袋——彼女の目には「国宝級の衣が詰まった宝物庫」に見える代物——を、震える指で指差した。
「これほどの財を一度に投げ打つなど……。明日から道端の草を食んで生きるつもりか!?命あっての物種という言葉を知らぬのか!」
「どこでそんな言葉覚えるんだ……異世界の教育は進んでるのか?ていうか、さすがに草は食べないぞ」
言いながら大地は、中年の悲哀を微かに滲ませた苦笑いを浮かべた。
「まぁ、しがないコンビニの店長だが、これくらいで破産するほどヤワな貯金はしてないつもりだ。大体、子供のお前がいちいちそんなことを気にするな。素直に『ありがとう』って言ってればいいんだよ」
「お、おのれぇ……っ!」
ラビリスは顔を耳まで真っ赤にし、地団駄を踏んだ。
「余を子供扱いするでない!そもそも、余の身の回りを整えるのは、下宿先の主たるそなたの光栄であり、神聖なる義務じゃ!あさましくも感謝の言葉を求めるなど、万死に値するわっ!!」
鼻息を荒くして喚く彼女だったが、その手は大地のシャツの裾をぎゅっと掴んだままだった。
すると、その騒ぎを聞いていた周囲の数人がざわついた。
「あれって親子よねぇ……」
「さっき店の中で『貴様』とか言ってたのは聞き間違いじゃなかったのか」
「でも今、下宿先とかなんとか……」
(やばい、やばすぎる……!)
大地の背筋に冷たい汗が流れた。
周囲の「正義感に溢れた視線」が、鋭いナイフのように突き刺さる。
ここで職務質問なんて受けたら、どう言い逃れしても「不審な事案」で終わりだ。
「おい、ちょっと静かにしろ!」
大地はひったくるように重い袋を片手にまとめると、ラビリスの手をがっしりと掴んだ。
「お、おい!離せ貴様!次はどこへ連れて行くつもりじゃっ!余を暗がりに連れ込んで、暗殺でもする気か!?」
「頼むからそれ以上喋るな!いいから黙ってついてこい!」
彼は、半分宙に浮き上がった状態でジタバタするラビリスを連れて、人混みを縫うようにして人影のまばらな連絡通路へと逃げ込んだ。
「……はぁ、はぁ……。いいか、ラビリス。この世界には『不審者』っていう、魔物よりも恐ろしい概念があるんだ。頼むから外では、その『余』とか『貴様』とかいう喋り方を封印してくれ……!」
「……ふしんしゃ?魔物より恐ろしいじゃと?」
大地の尋常ではない焦りっぷりに、ラビリスは毒気を抜かれたように小首を傾げた。
「そうだよ。このままだと、俺とお前は引き離されて、俺は鉄格子の向こう側に行くことになる」
「な……っ!?余の専属の下僕を、勝手に連れ去る奴らがいるというのか!?許せん!そやつはどこにおる!余の魔力で塵にしてくれるわ!!」
「だから声がデカいって!!」
「……いやいや、しかしそうは言うても、話し方というのは一朝一夕で矯正できるものではない。それは無理な相談じゃぞ」
ラビリスは腕組みしながら首を横に振った。
「ならせめて、外で俺に『貴様』とか『そなた』って言うのはやめてくれ!」
それは彼の切実な叫びだった。
「ふむ。ならばなんと呼ぶのがいいのじゃ?」
「え……?」
(お兄ちゃん?いや、俺もうすぐ40だしさすがに無理があるか……)
「お、お父さん……とか?」
「はぁ!?何を血迷ったことを!!余の父は魔王ヴィラル以外に存在せぬ!!」
(くっ、やっぱり無理か……どうすりゃいいんだ?)
その時、大地の頭に一つの妙案が浮かんだ。
「パ、パパはどうだ……?」
「……ぱぱ?なんじゃそれは。呪文の一種か?」
ラビリスは不信感たっぷりの目で彼を睨みつけた。
(おぉ、異世界にパパの概念はなかったか!いける、いけるぞ……!!)
「そ、そう!パパっていうのは、この世界で『男の保護者』を指す、いわば管理職の称号みたいなもんだ。さ、先に言っておけばよかったな!」
大地は心の中で手を合わせながら、全力で嘘を並べ立てた。
「なぁ~んか怪しいのぅ。余を騙そうとしておるのではあるまいな?」
「ほ、本当だって!女の保護者はママって呼ぶのがルールなんだ。嘘じゃない、この世界の常識だ。だから、外では俺のことを『パパ』って呼べ。そうすれば、さっきの『不審者』っていうのも寄ってこなくなるから」
「ふむ……。不審者とやらを退けるための隠語というわけか」
ラビリスは、ようやく納得したように小さく頷いた。
「よかろう。余としたことが、この世界の儀礼を軽んじておったようじゃな。……では、試してみるぞ」
彼女は一つ深呼吸をし、真っ直ぐに大地を見上げた。
「……ぱぱ?」
(バファッ……!!)
大地の心臓が、変な音を立てて跳ねた。
羞恥心からか、それとも「40手前でパパと呼ばれた」ことへの衝撃からか。
想像を絶する破壊力に、彼の顔は一気に沸騰した。
「……大地?なぜ黙る。やはり余の発音が悪かったか?」
「い、いや……バッチリだ。最高に『不審者』が寄ってこない完璧な呼び方だ。よし、それで行こう。頼むから人混みのど真ん中でそれを言ってくれよ……?」
「あ、それと。もう一回言ってみてくれない?」
「パパ?」
(ブフォッ……!!やべぇ、鼻血が出るかと思った……)
「……へへ、パパか。パパ……いい響きだ……」
大地は、締まりのない笑みを浮かべ、足取りも軽くラビリスに引かれていった。
その顔は、客観的に見れば「別の意味で不審者」に近いものがあったが、今の彼にそれを気にする余裕はない。
「……なにをそんなにニヤついておる。その称号を授かったのが、それほどまでに誇らしいのか?」
不慣れな単語を使いこなすことに必死なラビリスは、彼の様子を不思議そうに見上げながら、ついにフロアの最奥にある巨大な食の聖域へと足を踏み入れた。
「……なっ!?なんじゃ、この広さは!!」
ラビリスが絶句する。
そこには、数百という人間がひしめき合い、思い思いの料理を貪っていた。
漂ってくるのは、香ばしい肉の焼ける匂い、刺激的なスパイスの香り、そして魅了するような甘い蜜の匂い——。
「ここは、この国を挙げた国葬か何かの晩餐会場か!?それとも、全人類がここで餌を食らわねばならぬ呪いにでもかかっておるのか!?」
「……ただの昼飯時だよ。ほら、あそこに並んでる店の中から、好きなものを選んでいいぞ」
「……どれでもよいのか?この、壁一面に描かれた『極上の絵画』にあるもの、全てか!?」
ラビリスは、目を血走らせてフードコートの店舗を順に見渡した。
そして、周囲の人間が自分たちを見ている(気がした)瞬間、彼女はハッとして大地の袖を引いた。
「……あ、おい!パパ!パパよ!余は、あそこの『分厚いパンに肉と野菜を挟んだ、塔のような食い物』が気になるぞ!」
(グッハ……!!)
不意打ちの「パパ」に、大地の心臓が再び悲鳴を上げる。
「よ、よし、わかった!ハンバーガーだな!?パパが、パパが何個でも買ってやるからな!!」
それは財布の紐が、音を立てて崩壊した瞬間だった。




