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◇◇◇
「ということで、今日の放課後、シリウス先輩には来て頂けることになりました」
「ふうん。思ったより早かったね」
帰りの馬車の中でアステール様にシリウス先輩が今日、屋敷に来てくれることを報告すると、彼は私の腰に手を回し、自らの方へと引き寄せた。
ふわりと漂うアステール様の匂いに、ビクリと身体が反応する。
「ひゃっ!? あ、アステール様!?」
「うん。スピカが遠いから」
まるでそれが当たり前であるかのように言われ、頭の中が混乱する。
――え、遠いから? 遠いからなんだって言うの?
一応言わせてもらうなら、普通の距離だ。
別にわざと距離を取って座ったりなどはしていない。それなのに遠いと言うアステール様の真意が分からなかった。
「あ、アステール様。ち、近すぎます……」
引き寄せられたせいで、完全に身体が触れ合っている。馬車の中なので誰にも見られてはいないが、服越しにさえ感じる彼の体温に羞恥が限界に達した。
「は、離して下さい……」
「嫌だよ」
身じろぎするも、私を引き寄せるアステール様の力は強く、逃げられない。
元々距離が近い方ではあったけれど、本当に最近、スキンシップが激しくなってはいないだろうか。
まるで恋人同士であるかのように接してくる。
顎を擽られたのだって、つい昨日のことだ。
――何? なんなの……。どうしてこんなことに。
こんなに甘く接されるのは、とても困る。
そして、一番困っているのは、嫌ではないと思っている事実。
アステール様に抱き寄せられているこの状況に一種の心地よさを感じている己に気づいてしまい、私は頭を抱えたくなった。
顔を真っ赤にしつつ、なんとか逃れようと頑張っているとアステール様が言った。
「どうして逃げるの? 私たちは婚約者なんだし、これくらい構わないだろう?」
「そ、それは……」
そうかもしれないが、私が耐えられないのだ。
意識している異性がこんなに近くにいて、平常でいられるはずがないし、心地よさを認めてしまっては、それはそれで大問題な気がする。
「は、恥ずかしいんです」
「大丈夫。そのうち慣れるから」
さらりと返された言葉の意味を理解し、目を見開いた。
――嘘でしょ。慣れるまでするつもりなの?
驚いている私を尻目に、アステール様が楽しげに言う。
「前々から思っていたんだよ。スピカはあまり私に近づいてくれないなって。私としては物足りなかったんだけど、仕方のないことだからと我慢していたんだ。でも、止めることにした」
「な、なんで止めたんですか?」
そのまま我慢してくれれば良かったのにという気持ちを込めてアステール様を見る。彼は楽しそうに笑っていた。
「ん? だってスピカってば、最近シリウスと仲が良いし。別にそれはもう構わないんだけど、それなら婚約者である私はもっとスピカと仲良くなる必要があると思ってね」
「……仲良く、ですか?」
「だって、婚約者である私は、スピカにとって誰よりも特別な存在のはずでしょう?」
ポカンとアステール様を見上げる。
アステール様は腰から手を離し、代わりに私の髪を優しく撫でた。その感触はどこまでも心地良くて、もっとと言いたくなってしまう。
「友人と婚約者が同じ距離というのはね、さすがの私も嫌だって思うんだよ。だから、我慢するのは止めることにした」
これからはもっと攻めていくからと柔らかく微笑まれ、私は絶句した。
――これから? もっと? これ以上があるの?
想像もつかない。
今でもいっぱいいっぱいだというのに、まだ上があるのかと思うと眩暈がしそうだ。
ただただ目を見張る私に、アステール様が心配そうな目を向けてくる。
「もちろん、スピカが本気で嫌だっていうのなら止めるけど……。君に嫌われたくはないから。ね、スピカは私にこうされるのは嫌?」
ストレートに尋ねられ、思考が止まった。頭が考えることを拒否している。
私は何も考えられないまま、ただ思ったことを口にした。
「嫌、ではありませんけど……でも、恥ずかしいんです」
だから止めてくれると嬉しい。そう言いたかったのだが、アステール様は「良かった」と安堵したような顔をした。
「嫌じゃないなら、このままで構わないよね。私もスピカに触れられて嬉しいし、物理的に距離が縮まればもっと仲良くなれるから、恥ずかしいのは我慢しよう。うん、じゃあこれからもっと慣れていけるように頑張ろうね」
「へ……?」
――頑張る? 頑張るって何?
ますます思考が空転する。
私が頑張らなければならないのは、アステール様を好きにならないようにすることであって、アステール様とイチャイチャするのに慣れることではないはずだ。
それなのにどうしてこんなことになっているのだろう。
混乱する私にアステール様が言う。
「私はスピカが好きなんだよ。とてもね。だから私との触れ合いにも徐々に慣れていって欲しいと思ってるし、私のことを男としてもっと意識して欲しいと思っている」
「……アステール様」
意識して欲しいという言葉に、それがアステール様の本音であると気がついた。
アステール様は、私に自分の気持ちをなんとか気づかせようと思っている。
今回のこれは、あまりにも鈍い私に彼が業を煮やした結果なのだろう。
それは分かったけれど。
――いきなりレベルが上がりすぎなんだってば!
コレに尽きる。
アステール様のしかける攻撃の威力が高すぎて、私はすでに瀕死状態なのだ。
――気づいてる。気づいてますから……! だから、お願いだからこれ以上は勘弁して……!
そう言えないのがもどかしい。
いや、言ってしまってもいいのかもしれないけれど、そのあとのことを考えるとやっぱり言えないと思うのだ。結局このまま気づいていないふりを続けるしかない。
「……」
「ねえ、私が気づいていないとでも思った?」
「え?」
ふと、耳元で囁かれた。
目を瞬かせる。その言葉の意味を測りかねていると、彼はクスリと笑った。
「スピカ。君は、意外と意地悪だよね」
「……?」
――私が意地悪? 何? アステール様は何を言っているの?
彼が何を言っているのか分からない。
固まってしまった私の頬をアステール様の指がなぞっていく。その指が一瞬唇に触れ――離れていった。
「ま、いいよ。嫌じゃないって言質も取れたことだし。じゃ、これからは本気を出していくから……覚悟してよね」
「えっ……あ、その……」
「好きだよ、スピカ。君のことを愛してる」
「……」
その言葉に、「私も好きです」と返せた私はもういない。
はいはい、社交辞令ですね、お疲れ様ですと照れつつも思えた私はいないのだ。
だって、彼の言葉が本気なのだと知ってしまったから。
「あ……私、は」
馬車が停まる。
屋敷に着いたという御者の声が聞こえた。
アステール様が「残念、時間切れ」と笑い、そうして私はようやくこの恐ろしい時間から逃れられたことを知った。




