三十二話
「だが、そのためにも確かめないとなぁ」
追い詰められた普神は、雇っていた神獣ハンターへ近づいて行く。
再び真岡を不整脈が襲った。首筋を血の塊が登る。身体に自分の物ではない力が沸いてくるようだった。
白玉はずっと真岡を見ていた。
真岡も白玉の視線を感じていた。いや、目をそらしていたのだ。
状況は変わらない。
白玉は普神に狙われている。
鬼崎が落ち葉を蹴った。百稲も白玉を包もうと手を伸ばして走っている。
死にたいと言った。子供の時に。
愛犬は死んだ。死にたいという願いを叶えるように。
動物の行動は謎が多い。
主人のために戦ったり、誰かに報せたりする犬もいる。
主人のために死の手本を見せる犬がいるのだろうか。
真岡は、大学へ入り、そんなことを調べたりもしたが犬ならぬ身には犬の考えはわからないと言うことで考えるのをやめていた。
それが戻って来たのだ。
白玉の目を通して。
白玉は訴えていた。
お前はいつ死ぬのだ、と。
冷めない悪夢の中にいたのだとようやく理解した。
真岡は愛犬のために死なねばならなかった。
愛犬の忠義に報いねばならなかった。
白玉は知っているのだ。真岡の罪を。だから戻ってきたのだ。
真岡は痛みを感じなかった。夢の中にいるような気分だった。
すっくと立ち上がり、普神が熊撃ちをふんだくるのを冷静に見ていた。
普神が白玉に向かって銃を構える。その間に真岡は立っていた。
自分で進んで入ったのか、立った場所がそうだったのか。
音もなく風もない夢の中の真岡にはどうでも良いことだった。
銃口が向いている。
普神は狙いを定めようとして、真岡の存在に気づいた。
真岡が怖じ気づくと高をくくって構えを解かない。
真岡は上か下か逡巡し、下を選んだ。右や左には鬼崎や百稲がいるのだ。
犬に噛まれた右腕が動き、銃口を下へ叩く。
引き金が引かれた。
銃口から飛び出したスラグ弾は、たやすく真岡の腹へ沈み、突き抜ける。血に濡れた弾丸は弾道を狂わせ、山肌へと刺さった。
「真岡さん!」
銃創よりも百稲の叫びのほうが痛かった。
「なにやってんだお前!」
怒り狂った鬼崎が普神から乱暴に銃を取り上げると、薄ら笑いを浮かべる顎に拳を叩き込んだ。
真岡は、上下反転した世界で白玉が木に登る姿を見た。
真岡の死に満足したような木登りっぷりだった。
「真岡さん! 真岡さん!」
「おい、救急車を早く!」
百稲と鬼崎。二人の声は、死を目前にして聞ける最も良い声だった。こんなにも嬉しい声はなかった。
ガサガサとその他大勢が動き回るが、真岡にはどうでも良かった。
愛犬の痛みを、命を失う恐ろしさをようやく知ることができたのだ。
そんな辛い思いを独りでさせていた。真岡の罪の重さにも気づくことができた。
思い残すことはなかった。
寒い寒いと思っていた山はいよいよ寒くなってきたのか、身体を蝕む冷気は恐ろしいほどに強くなっていた。
山の土が、体温をたちまち奪っていく。全身が凍るのも時間の問題だった。
ただ一カ所、百稲の握る手だけが暖かかった。
「どうして、どうして無茶をしたんですか?」
百稲の口調が戻っているのに気づくが、答えたくても答えられなかった。腹部に開いた穴が起こした炎症で、内臓を動かす発声が困難なのだ。
「ふははは! 見ろ! これが神獣の力だ!」
殺人未遂で現行犯逮捕された普神が、山の途中で叫んでいた。
「なに?」
鬼崎が空を見上げる。
秋晴れが急速に暗くなっていくのだ。
「明かりになりそうな物と応急処置できそうな物を取ってくる」
鬼崎はそう言い残し、暗くなる前の下山を決行した。
ぼんやりとした視界には、百稲しかいなかった。
「まだ三時前。暗くなるには早すぎる」
百稲もスマートホンを確認し、雲行きではない空の変化を怪しんでいた。
「見ろ! 太陽が!」
下山中の神獣ハンターか刑事が叫ぶ。
秋空の青空へと溶けるように、それは見えなくなりつつあった。
「太陽が、消えた」
百稲の呟きで、真岡の考えていた仮説が証明された。
白玉のもっとも強い力は、地球の寒冷化を促す。すなわち、太陽の活動を操作できるのだ。
地球に訪れたのは常夜の闇だった。
人類は、これを打ち破る科学技術をまだ発明していない。
絶滅が始まったのだ。
「白玉様」
闇が深まりつつある中で、百稲は木の上で毛繕いする白玉を見上げていた。
「わかりました」
真岡は、なにもわからなかった。
百稲が衣服を脱ぎだし、裸になろうとしていることだけは理解できた。
百稲の裸体を見る間もなく、地球は太陽の光を失う。
真っ暗な中で、真岡を時計回りに回りながら落ち葉を踏む音が聞こえた。
一周すると、今度は反時計回りに回る。
それが終わると、真岡の頭の横で足踏みをしながら回る音がした。
それも終わると、再び真岡をぐるぐると二度回る。
百稲が何をしているのか考えて、死にそうなことを忘れた。
真岡の周りの落ち葉が粉々になるのではと思い始めたとき、その規則性のある動きが、舞であると理解した。
百稲は舞っているのだ。白玉へ舞を奉納しているのだ。
明かりのない世界で舞うことの意味はないと思ったとき、日本の神話が思い起こされた。
何千年前か未だに特定されていないが、少なくとも日本は太陽を失ったことがある。
天を治める天照大神が天の岩戸へ隠れたときも世界は暗闇だった。
そこで、世界に光を取り戻すために踊った女神がいたのだ。
百稲は女神になろうとしていた。
百稲にその意図はないにしても、真岡はそう思うことにした。
時間の感覚がわからない中で、百稲の正確な舞音だけが世界の音だった。
そこへ、とさっと音の波紋が立つ。
その音を境に、百稲が舞うのを止めた。
百稲が力尽きたのではないかと不安になる。
この寒さにも関わらず服を着ていないのだ。不調になるのも無理はなかった。
少し考えて、真岡は自分が死んだのではと思う。
それは勘違いだった。腹部から伝えられる痛みに際限はない。
その真岡の腹に開いた傷口をなにか暖かいヌルッとした物が触った。
傷口を舐められたとわかる。
百稲ではない。
白玉だ。
狐だ。
狐と言えば、寄生虫だ。
「エキノコックス!」
真岡は飛び起きた。
寄生虫だけは嫌だった。
生命の尊厳を破壊する存在を真岡は許していない。
「あれ?」
飛び起きた拍子にあるものだと思っていた激痛が来なかった。
真っ暗闇で傷口があると思われる部分を触るが、血のぬめりはあるもののヘソ以外に穴はなかったのだ。
視界にも変化がある。徐々にではあるが、うっすらと森の輪郭が見えるようになった。
空に光が戻ってきている。
「あ」
薄暗い中で服を拾い集める百稲がいた。
「こ、こっちを見ないでください!」
「すまん!」
真岡は慌てて振り返り、黄泉比良坂で夫婦げんかをした神々の話を思い出す。
「百稲」
「なんですか?」
「百稲は女神だ」
「それより、動いて平気なんですか?」
渾身の褒め言葉を軽く流された。
「ああ、白玉様が直してくれた。百稲の舞のおかげだ」
百稲の額が背中に当たる。
「よかった」
か細く涙ぐんだ声を聞いて、もう一度腹の穴を確かめた。
生きて、いいみたいだった。
「早く服を着ないと」
「うん」
光を取り戻す世界は夜明けのようでいて、生きることを喜べと言わんばかりに、より鮮やかな色を取り戻して行く。
真岡は、愛犬に黄泉比良坂から追い返されたのだと思った。
真岡のこれまでは、長い長い黄泉比良坂だったのだ。




