三十一話
遅い昼食を終えた後、真岡は寝転がって頭にタオルを掛けて昼寝をする。行楽シーズンを過ぎた山は冷気の塊で、寝たら凍死してしまいそうだった。それでも横になって休みたい欲求が勝る。体力の回復が百稲たちのためになると納得もしていた。
横になるとどこからか睡魔がやってきて、真岡の目に蓋をする。
世界が真っ暗になった。
夜、一人でトイレに行けるようになったのは愛犬が死んでからだった。
頼るものがなく、一人で生きていかねばならないと思い知ったとき、甘えが消えたのだ。
子供の頃の恐怖は不思議だと思う。トイレに行くまでの廊下の暗がりは怖いくせに、両親のいる部屋の暗さは落ち着くのだ。同じ暗闇に対する矛盾を、うつらうつらとしながら思い出していた。
「真岡さん」
まどろんでいた所を百稲に起こされる。
「ん?」
「白玉様が反応してます」
「そうか。二人は逃げる準備を」
いつもなら、素早く返事が来るところだった。
「百稲?」
百稲の沈黙に耐えかねて、真岡は訊いた。
「無茶はしないでくださいね」
ちょっと見たことのない百稲の表情だった。練りに練られた感情がやっとの形で押し出されてきたような凝縮された目なのだ。瞬間的に沸き上がるような強い感情ではなかった。これまでのすべてを込めて作られた濃い感情だった。
「ああ」
それは真岡に有無を言わせなかった。
百稲のためにも生きねばならないと思わせた。
今の真岡に、採用通知を探さないからという理由で百稲の価値を決めることはできなくなっていた。
真岡の答えに満足したのか、百稲は白玉を抱き上げて山の奥へと走っていく。
「さぁて」
真岡は脇腹から響く痛みを受け入れつつ立ち上がった。
遠く離れていく百稲たちの運命が、背中に張り付き肩に乗る。重圧は心地よかった。本懐を遂げられそうな予感があり、楽しさすら感じている。
静かだった山に枝を踏み折る音がした。
真岡から離れたところにある獣道を猟犬が走っていく。あっという間のことで見逃すしかなかった。白玉が、猟犬に捕まるとは思わなかった。これから氷漬けにされるのだと、むしろ猟犬を憐れに思った。
再び足音が聞こえる。徐々に落ち葉を蹴散らす音になり、息を切らした三人の男が現れた。
「君はたしか、サイド探偵事務所の人だったね」
普神は、薄ら笑いを浮かべて山登りで乱れた呼吸を取り繕った。
「いえ、もう無関係です。個人情報を売り渡すような人とは関わり合いたくないので」
「はっはっは! そうか、バレているのか」
ひとしきり笑うと、普神は真顔になる。
「なぜ、邪魔をする?」
「私は神獣学研究所へ入所予定の院生です。はっきり申し上げます。普神博士、あなたの研究は神獣とそれを祀る文化を破壊するため、間違っていると言わざるを得ない! 即刻、中止することを求めます!」
真岡は、採用面接のような気分だった。現役の研究者に対して、対等に物を言うことは嫌な緊張感がある。
「ふむ、なるほど。君はもしかして、中平博士の回し者か?」
自分の主張が中平博士と同じ物だったと理解した。
「いいえ、違います」
軽率にも。
「そうか。なら、時間稼ぎだな」
普神の深謀遠慮は、真岡の意図を見抜いていた。
どういう推理でその答えに達したのか聞きたいくらいだった。
真岡の目論見が露見し、普神が話す価値はないと判断する。
真岡を押しのけてでも白玉を探そうと一歩を踏み出した。
真岡に残された選択肢は、もう一つしかない。
和成も鬼崎も間に合わなかった。二人が、それぞれの仕事をサボっていたなどとは思わない。これが、普神のやってきたことの積み重ねなのだ。付け焼き刃の知恵で突き崩せないほどの執念だった。
「あー、行かせませんけど?」
「どかせ」
真岡の宣言に、普神が命じる。
神獣ハンターは、嫌そうな顔をしてから真岡を押しのけようと向かってきた。
真岡は百稲に謝った。無茶をしなければ、白玉を守れない。
腰にあるトランシーバーを取り、近寄ってきた神獣ハンターへ投げつけた。
「こいつ!」
「もう一つ!」
胸ポケットから引っこ抜いたのは、パワースポット山口から借りたGPSだった。それも投げつけて、牽制を完了させる。GPSはどこかに飛んでいった。
真岡は神獣ハンターの横を抜けて普神へのタックルを成功させる。
「お前!」
「悪いけど、一緒に落ちてもらいます!」
研究生活でやせ細った普神は、若さだけが取り柄の真岡でも押し勝つことができた。
真岡の選択。普神と滑落することだった。
「や、やめろおおおお!」
痛む脇腹を無視して、無我夢中で太ももを動かし、普神を斜面へと押していく。
その痛い脇腹に銃床が打ち込まれた。
神獣ハンターが依頼人を守ったのだ。
「いっ」
声にならなかった。
全身の力が、その一点を突かれただけでスイッチが切れたようになる。
「こ、こいつ正気じゃないぞ!」
普神は、ふぬけになった真岡から離れると動揺を落ち着かせるために辺りを歩き回った。
「狂信者かお前は! 自分ごと落ちるとか正気じゃない!」
恐怖したことが許せなかったのか、普神は真岡へ罵声を浴びせた。
「あんたは間違ってる」
真岡は、痛みに狂いそうになりながら反論する。
力が抜けても意識だけは燃えていた。まだ、止められる。一秒でも長く止めるのだと、真岡は自分に言い聞かせる。
「間違っているのはお前だ! それに中平もだ! なにが文化だ! いいか、先進国の中で、神獣はもう日本にしかいない! それを証明することで日本の自然科学は世界から大きくリードできるんだ! そうなれば中平やお前のようなクズ院生にだって膨大な科研費が下りてくるようになるんだぞ! 神獣がいると証明することが、文科省のバカどもに手っ取り早く理解させる方法なんだ! それを邪魔するなんて大馬鹿のすることなんだよ!」
科学者の貧乏を真岡だって知っている。研究に資金を出さない国が世界に出遅れるのも知っている。普神が、その科学者の立場を改善したいという考えも理解できる。
だが、支持できなかった。
まだ容疑は固まっていないが、女性を使って学術振興会の人間を殺したり、怪しい男に調査計画へ許可を出さない人間の孫を誘拐させたり、百稲の個人情報を得るために善良な探偵を唆したりしているのだ。
「手段を選ばないあなたは、間違っている」
「なに?」
普神が食いついたので、真岡は黙ることにした。
会話を遅らせることでさらに百稲たちは走ることができる。
「おい、お前は何を知っているんだ? 言え! 何を知っているんだ!」
真岡は答えなかった。
イライラを募らせた普神が、ふと別の方向を見た。
真岡は、時間稼ぎに水を差した存在を疎ましく思い、それを確認する。
白玉だった。
「おお! 神獣だ! ついに見つけたぞ! なんて素晴らしい毛並みだ!」
「白玉様!」
百稲まで戻ってきた。
理解しがたい状況だった。
白玉が戻ってきたこともさることながら、白玉が見ているのは普神ではなく真岡なのだ。
神社の狛犬のようにお座りをして、まっすぐに真岡を見ていた。
かつての愛犬のように。
「おい、捕まえろ!」
普神が命じたとき、真岡は不整脈をはっきりと確信する。身体が、動くべきだと主張しているようだった。
「待て!」
「今度はなんだ! 誰なんだあんたは!」
「警視庁捜査一課、鬼崎だ。普神祐介。都内で発生した殺人事件と誘拐事件の犯罪教唆容疑で逮捕する」
鬼崎が来た。これでもかと見えるように逮捕状を掲げている。
真岡は、気に入らなかった鬼崎が、待ちに待った鬼崎が来てくれたことで視界が歪んだ。
倒れて情けない姿を見られてもかまいはしないくらい、嬉しかった。
普神を止める法的根拠が、ついに揃ったのだ。
「警視庁? 東京の刑事がここまで来るのは管轄外だろう?」
「ああ、だから連れてきたぞ。福島県警の刑事をな」
真岡も無茶はしたが、鬼崎も無茶をしたようだった。
鬼崎の後から、へとへとになりながら警察手帳を提示する男が二人追いついてきた。
「ふ、ふふふ、そうか。逮捕状があるならしかたない。獄中でも論文は書けるしな」
普神は不気味なほど冷静だった。




