三十話
「必ず守りますから」
「ああ、頼むぞ!」
気合いが入り、副自治会長の顔がこれまでになく引き締まる。
真岡は、百稲が自然に笑っているのを見逃さなかった。地元の人と価値観を共有している状態が、百稲にとってのリラックスなのだ。真岡の暴言や道祖土の裏切りで心を乱した姿は、もう見たくなかっただけに、百稲の自然体は真岡にも一服の清涼剤となった。真岡の心を癒し、強くする。折れた骨から間断なく走る痛みに心が耐えられるようになってきたのだ。
真岡はしっかりと体幹に力を入れて重い鞄を背負う。疲労と先の見えない神獣保護にようやく終わりが見えてきたのだ。
「ここは昔、ちょっとした城があったんだって」
庭渡神社から山の奥へ登る小道があり、そこを登りながら百稲が解説をする。
「ああ、それで館なんだ」
館は、若干の歩道が整備されており、徒歩であれば、進み続けることができた。
枯れ葉が舞う山にはしんとした冷気が漂い、真岡や百稲の吐き出す息を白くする。枝葉を踏む音と木々の揺れる音だけの空間だった。鳥はいないようだ。鳥はおろか動物の気配がない。
「寒くない?」
「白玉様がいるから大丈夫です」
先頭を行く真岡は、普段着にブルゾンという山登りを意識していない百稲の体調を気にした。
背筋をぞくぞくとさせる空気が落ち着かないのだ。
大塚という場所は、熊や猪に囲まれた異様な光景に呑まれたが、こちらは何の不思議もない森だった。
「白玉様がいるから、かな」
「なにがです?」
「この館って場所は、動物はいないの?」
「館に限らず、この辺りの動物は、人間には姿を見せません」
「そうなんだ」
立派な森がありながら生態系を作らないというのも変だと真岡は思った。
館は周囲を人家に囲まれているからだと、納得することもできた。
「縄張り、なのかな」
簡単には納得せず、別の予想を立てた。
白玉の縄張り説であれば、うかつに入る動物はいない。
館は、大塚よりも標高はないため、簡単に頂上へ到着した。
城跡を思わせるようなものはなにもなく、林が広がっている。落葉が進んでおり、館の東には四倉町狐塚が一望できた。
「田んぼばっかりなんだね」
「そうですね」
百稲は白玉を降ろすと、その場へすとんと腰を下ろした。
「大丈夫?」
「はい。少し疲れました」
真岡も登山バックを降ろして、中から毛布を取りだし百稲へ掛けた。
「ありがとうございます」
「昼飯は食べた?」
「いえ、下山した後はずっと神社に隠れていたので」
「よし、少し遅くなったけど昼食にしよう」
バックの奥を探り、保温性の水筒とビニール袋の包みを取り出した。
「そういえば、ここへ来る途中になにか買ってましたね?」
「うん。百稲がオススメしていたソースカツ丼を見つけたからね」
猟犬に噛まれて滑落したため、弁当は無事ではなかった。盛りつけは崩壊し、プラスチックのケースはひしゃげ、米粒とソースカツは袋の中に散らかっていた。
「なにがあったんですか?」
「え、いや、なにもなかったけど」
「腕から血の臭い。犬の匂いもします」
百稲の鋭い鑑識眼ならぬ、鑑識鼻を誤魔化せるわけもなかった。
「猟犬に噛まれたとき、少しだけ斜面を転がったんだ」
「怪我はありますよね?」
「まぁ、あばらの骨がぽきっとしたような気がするな」
なるべく正直に答えた。
「無茶をしたんですね」
「これが終わったら病院へ行くよ」
百稲に指摘されて、怪我の処置をしていなかったことを思い出す。
バッグから応急処置用品の詰まったポーチを取り出し、そこから出した消毒液を右手の手首へ塗りたくった。焼けるような痛みがビリビリと神経を刺激する。
真岡が治療している間に、百稲はバッグから折りたたまれたレジャーシートを引っ張り出して、落ち葉の上に広げた。同棲していたので、真岡のバッグに何が入っているのか憶えていたのだ。その上で、バラバラになった二つのソースカツ丼を蓋も利用して三等分にした。
「白玉様って食べるよね?」
「雑食性だけど、人間の味付けは病気の元になると思う」
「そっかぁ」
ソースカツ丼を食べさせてやりたいのか、百稲は割り箸を咥えてぶら下げた。
白玉は、百稲が取り分けたソースカツ丼の匂いを嗅いでから興味ないと言わんばかりにそっぽを向いて、木の根元に丸くなってうずくまる。
「いらないみたいだ」
「おいしいのに」
真岡と百稲は、保護した白玉を眺めながら昼食を取った。
猫のように身体を丸めて眠ると、その名前のように白玉を思わせる。神獣の威厳というよりも、動物園で人気の出そうな愛らしさがあった。
「白玉様っていくつなの?」
「正確にはわかりません。戦争の時から生きていると聞いています」
「七十年くらい前か! 狐にしては明らかに長寿だね」
「いえ、戊辰戦争です」
「戊辰戦争! 人は無闇だから一八六八年でー、百五十年前ってことは百五十歳? そんなバカな!」
「世代交代しているかもしれないですけど、ずっと山の中にいるので子供がいたのか誰も知らない状態ですから」
「そ、そうだよね。さすがに百五十歳はねー」
すやすやと寝息を立てる白玉を見ていると、年齢不詳の雰囲気はあった。髭まで白いのだ。猫なども髭が白くなることがあった。
百稲は無駄口に飽きたのか、目元を厳しくする。
「もし、間に合わなかったらどうするんですか?」
山の持ち主が見つからず、白玉をペットにできなかったときの話だ。
「んー。俺がペットにしようかな」
「そんなこと許しません」
「許してもらう方向で普神博士を説得する、と見せかけて時間を稼ぐよ」
「それでも来なかったら?」
「百稲が白玉様を連れて逃げるんだ。俺はもう走ったりするのは疲れた。ああ、でも、普神博士の足止めくらいはするよ」
他に打つ手がないわけではなかったが、実際に実行できるのはこのようなことくらいだった。
「白玉様にお願いしてみてはどうですか?」
百稲が、箸を止めて真岡に尋ねた。
神頼みならぬ神獣頼み。真岡も考えないではなかった。山中に置き去りにした氷漬けになった猟犬の姿を思い出し、神獣と人間の対立を煽る結果にしかならないと考える。なにより、神獣には人間に危害を加える存在であって欲しくなかった。
「それはやめよう。白玉様にとっても人間にとっても良いことはない」
「そうですか」
真岡はもう一つ思い出した。
酔った百稲を送り届けるときに見た、百稲の不思議な力だ。
「そういえば、百稲は酔っぱらってるときに絡んできた男たちを歯周病にして撃退してたよね。それは憶えてる?」
「あー、半分は。でも、あれは白玉様が私を守るためにやったことなので」
真岡にとって驚愕の事実だった。福島から東京までの距離をものともしない狐憑きの繋がりなのだ。白玉は、千里眼でも持っているのか、百稲の近辺を常に見張っていることになる。
「それなら安心して逃げられるね」
真岡は、同棲中に百稲へ変な気を起こさなくてよかったと今更ながら安心した。
「いえ、あまりよくありません」
「どうして?」
「人間が、白玉様を危険だと思ってしまうからです」
真岡と同じことを危惧していたのだ。
救急現場で見たチンピラ男の恐怖に満ちた目を真岡は忘れていなかった。
「そうだね。それはやめよう」
めぼしい対策は尽きていた。残されたのは最後の手段だ。百稲から白玉が取り上げられたときのことなど考えたくもなかった。そうならないためにも普神や神獣ハンターを全力で足止めする気でいた。




