二十九話
「凶作。いや、天候不順だ」
オカルト研究会で聞いた、白狐の伝承が思い出された。
動物よりも高度な群れ、社会を形成する人間を抹殺するには、食料生産を攻撃する方が早い。数が多ければ多いほど、その被害は深刻になるのだ。
「待てよ?」
凍死した猟犬の姿が、真岡に別の答えを閃かせた。
縄文時代と弥生時代では、気温に差があったことを思い出す。農耕をするようになったのは、山の採集では追いつかなくなったからだ。植物には温暖な気候が必要で、寒冷化すると人間は自分たちで植物を育てる必要が出てきた。それが水耕栽培への変遷だと真岡は考えていた。
「寒冷化だ」
地球規模の気候変動。それが答えだと真岡は考える。
真岡は足を速めた。白玉が普神からの誤ったメッセージを受け取ったら、世界は寒冷化する。そんな予想に辿り着いたのだ。
間に合わなかったら、誰かが白玉へメッセージを送らなければならない。白玉にも理解できる言葉で。
「ダメだ! 早まるなよ、百稲!」
百稲がそれをやりそうだった。
人間と動物の共通言語は命だ。それ以外に伝わる言葉はない。
真岡はGPSで時間を確認しながら下山をしていたが、三十分で十メートルも進めないことを知ってから時間を気にするのはやめた。負傷のせいで急ぐことはできないのも考えないことにした。気にしたり考えたりしたら、歩みを止めてしまいそうだったのだ。それは避けたかった。なんとしても白玉が誤解するのを防ぎたかった。
真岡が森を抜けたとき、太陽は南を通りすぎていた。
恐る恐るみると、GPSの時計は十三時半を回っている。
「くそ」
毒づいて脇腹を押さえながら崩れやすい斜面を降りた。
「おーい!」
真岡が苦労して斜面を降りると、副自治会長が車の中から声を掛けてきた。
「助かった!」
「大丈夫か? なんか苦しそうだけど」
「百稲は?」
「もうとっくに神社へ隠れてるよ。君のことを頼まれたからここで待ってたけど、なかなか降りて来ないから心配した」
「そうですか」
「さぁ、乗った乗った」
「はい」
骨折の痛みが顔に出ないようにしながら、バックパックを後部座席へ放り込んで助手席へ座り、シートベルトを締めた。
「神社へ行くよ」
「お願いします」
エンジンの振動は拷問のようだった。絶えず与えられる振動が真岡の痛覚を刺激し、口の端から声を出しそうになる。脂汗が額やこめかみを流れ、歯を食いしばる唇の端まで入ってきた。汗の塩気に舌が嫌がった。
「着いたけど、誰かいるな」
神社へ行く坂道の下へ何台か車が止まっていた。
「たぶん普神たちです」
真岡はシートベルトを外して車を降りる。地面に足を着いただけで意識が飛びそうになった。
「まだ間に合うぞ」
口からうわごとが漏れる。肺を膨らませることすら難しいのだ。
庭渡神社の境内へまっすぐとは入らず、大回りして裏手へ回る。
山の神の遣いを持ち出したのだから、当然、神社の周りには動物たちがたむろしていると考えていた。
社殿の影に隠れて様子を伺う。
「ここに匂いが来ているんです。ご協力願えないでしょうか?」
「今は神事の途中です。お引き取り下さい」
動物は普神を導いた猟犬しかおらず、和成が普神と瀬戸際の攻防をしていた。
「そうですか。では、終わるまで待ちます」
普神は、焦らずに待つことを選択する。和成の負けだった。
「普神を引き離さないと」
真岡はトランシーバーとスマートホンを取り出して、誘導作戦を仕掛ける。
「あー、聞こえますか? 山中の捕獲器に白い狐を発見しました」
「なに? どの捕獲器だ?」
普神が即座に応答した。
「SJゼロ五七です。SJゼロ五七です」
「トランシーバーを近づけて音を聞かせろ」
普神の用心深さに舌打ちをしそうになる。
「えー、近づくことはできません。周囲が真っ白に凍り付いています。逃げるのも時間の問題かと」
普神の要望には応えず、焦らせることにした。
普神が黙考する間、真岡は意識を失いそうになっていた。早く答えろと内心で二十回ほど念仏のように唱える。
「わかった。今行く」
「了解です」
普神を神社から遠ざけることに成功した。
「お前たちはここに残れ」
雇われのハンターへ、さも当然のように命令を下す。
「はぁ」
猟犬を連れたハンターが二人も残った。
普神だけが車を運転して神社から離れる。
「どうする? あと二人もいるぞ」
妙案がないかと考えていると、さらに人が増えた。
「よぉ、お疲れさん。少し休憩しようや」
「お、おう。でも」
「大丈夫だって。この神事はあと三時間くらいやるからよ」
「そうか。なら、ちょっとだけ」
新しく来た人物の声に聞き覚えがある。和成の家で顔合わせをした猟友会の人だった。
休憩という言葉に誘われ、二人の監視が外れる。
人の気配がなくなってから、真岡は拝殿の前へよろよろと現れた。
「真岡君、無事だったか」
神事を中断して和成が声をかける。
「ええ、まぁ」
「いや、無事じゃなさそうだ。怪我をしているのか?」
和成は、真岡の呼吸が深く荒いことから、不調があるとわかった。ただ、それ以上の質問は意味がないとすぐに理解する。
真岡の目は、それを意に介していない。強い意志の光だけで和成を見ていた。
「真岡さん!」
社殿の奥から白玉を抱えた百稲が姿を表した。
真岡は二人とも怪我がなさそうで安心する。
「百稲と白玉様は無事だ。とはいえ、ここも離れなければならない」
和成の問いかけに真岡は指を指した。
「この山はどうです?」
庭渡神社は、四倉町狐塚の南西へぽつんと出た岬のような山にある。
真岡はそこに隠れることを考えていた。
「館か。だが、隠れるには限界がある。いっそ副自治会長に頼んで町外へ連れ出してはどうだろう?」
真岡の提案へもっと合理的な対案を提示する。
「熊と猪の大群を引き連れてもいいのなら、それもありですね」
山の神の遣いが、動物たちが命を捧げるほどの存在だと思い知った。白玉の住処を離れれば、動物たちもついていく。この神社の周りには来ていないが、山から離れればどうなるかわからないのだ。
「そうか。そうなるのか。なら、山の近くに潜伏する方がいいだろうな」
「四倉町の人に迷惑は掛けられません。逃げるならここの山ということになります」
「だが、そうなると追いつかれるのも時間の問題だぞ」
和成は厳しい目で、真岡の選択を見ている。
普神に追いつかれた場合、とても話し合いでは解決できそうにないのだ。
知恵の出し所だった。
真岡は、さんざん考えた普神を合法に止める方法へ見落としはなかったかと、思考がねじ切れるまで絞り切る。犯罪に走ればいくらでも止められるが、それでは神獣を守れたとは言い難いのだ。
和成と百稲が見守る中、真岡は白玉を見た。
犬のような長い鼻で、猫のように頬骨が出ている真っ白い動物。ぐにゃっとした抱き心地を思い出し、猫のようだったと思ったのだ。
白玉を抱きかかえる百稲の姿が、猫を抱く大蛇森婦人の姿を思い出させた。
「猫だ」
「狐だけど?」
白玉を見て呟いた真岡へ、百稲は心配そうに訂正する。
「違う。百稲と初めて会った依頼を憶えているか? あれは猫探しだった!」
「それがなに?」
道祖土のことなど思い出したくもない百稲は、露骨に嫌そうな顔をした。
「ペットの猫は、勝手に持ち去ることはできない。飼い主の所有物となっていただろ?」
「あ」
百稲も、真岡がどのように切り抜けようとしているのか理解した。
「普神を追い返すには、白玉様の所有権を主張するしかありません。大塚という山の所有者を探してください」
「なに?」
「日本の法律では動物はペットにすれば所有権が認められます。和成さんが飼い主になるんです。そうなれば、おいそれと捕獲することができなくなるはずです」
真岡がもっとも嫌っていた法律の概念を利用することになり、真岡の顔は喜ばしさで晴れやかになりそうでならなかった。
「そんな急に言われても」
和成は、土壇場で思いついた真岡の閃きに難色を示す。
「それがいいと思う」
百稲も真岡の意見に賛成で、和成を促した。
「わかった。山の所有者に頼んで、白玉様を譲り受けてペットにすればいいんだな」
「本当にペットへするわけじゃないですけど」
「当たり前だ。そんな大それたことできるわけないだろう!」
真岡の余計な気遣いに和成が憤慨する。
「そうとなれば、真岡君と百稲は館へ行って時間を稼ぎなさい。私も忙しくなる」
「はい」
「それと、百稲だけでなく君も無茶はしないように」
和成は、真岡の脇腹を見ていた。
不調の原因を見抜いたのだ。
「はい。ありがとうございます」
真岡が答えると、和成は頷いて神事の装束のまま山の所有者捜しへと出かけていった。
「よし、館とやらに隠れよう」
「はい」
真岡と百稲は、神社から降りて待っていた副自治会長の車へ近づいた。
「お、次はどうするんだ?」
「館へ隠れます」
車から登山用のバックパックを持ち出す。
「そうか、そう、か」
副自治会長はあんぐりと口を開けて固まっていた。
「どうしました?」
「驚いた。その狐が、白玉様か?」
「ああ、そうですよ」
「ありがたや。ありがたや」
副自治会長は、白玉へ手を合わせて拝みだした。
神獣の捉え方は人それぞれなのだと感じる。真岡や普神のように研究対象の動物と考えたり、百稲や狐塚の住人のようにありがたい存在だと思ったりと、はっきりと違いがある。どちらが好ましいかと言えば、真岡は、百稲たちの捉え方のほうが古来より受け継がれるもっとも優れた距離感だと思った。




