墜ちていた巨星
008
軽いモーター音と共に、自動の遮光カーテンがサイドウィンドウを覆っていった。
同時、座席正面の19インチはあろうかという液晶モニタに電源が入る。
「これから御覧いただくのは、先ほどお話した洞窟で調査用に撮影された映像資料です。その洞窟〈シビル・ケイヴシステム〉は内部の本格的な測量が行われていない処女地――いわゆる新洞で、彼らは主に地質学的なアプローチから、この洞穴のマッピングを行いました」
車内は薄闇に包まれ、向かい合う雪崇からさえ、ヴァシリーサの表情がほとんど識別できなくなっていた。
そんななか、液晶ディスプレイに変化が現れる。放射されたバックライトが、ヴァシリーサの左頬と鼻梁の側面をそれぞれ違う種類の三角形に浮かびあがらせた。
ほどなく画面に現れたのは、思わず息を呑むような光景だった。
淡く、だが広範囲に広がる青白い人工光に、見たこともない空間が照らし出されている。
そこは、氷の玄室としか表現しようのない場所だった。
正面にそそり立つのは恐ろしく透明度の高い氷壁だ。
その表面は鏡面加工されたように傷ひとつなく、滑らかな平面によって構成されていた。
多面的な立体構造が生む光の拡散がなければ、そこに氷壁があることにすら遅れて気づいたかもしれない。真正面からの光は透過させてしまうが、角度がつけば鏡のように跳ね返す性質を持つのか。調査隊のヘッドライトと撮影用の閃光電球光らしきものが乱反射し、玄室内部は、ミラーボールのように彩られている。
そしてその分厚い水晶のような氷中に、それは閉じ込められていた。
「なんだこれは……」
スピーカーから、誰かが呆然とつぶやく声が流れてくる。
まさしくその通り。なんだ、これは――?
固唾を飲んだ雪崇は、その瞬間、頚部に鋭い痛みを覚えた。
喉が一瞬で乾ききったせいだ。
ここが玄室であるならば、眠っているのは当然ながらに〈王〉ということになる。
そして確かに、それは王者たる風格を圧倒的なまでに秘めていた。
食物連鎖の頂点に位置していたはずの人類が、はじめて本能的に認める上位種。
その存在感に肌が粟立つ。
生殺与奪の権、その一切を画面越しに握られてしまったかのような戦慄。
噛みしめていなければ奥歯が鳴り出しそうだった。
――これは、生物なのか。だとしたらなんなのか。
――九尾である点だけ見るなら、神話上で語られる一種の狐に該当するのではないか。
――だが、この生物は明らかに、我々の知る狐とはなんら共通点を持ってない。
画面のなかでは、調査隊が震える声でそんなやりとりを続けている。
確かにこの玄室の主は、一見して生物に相違ない存在だった。
左右対称の頭部と胴、それに連なる四肢、尾。すなわち脊椎動物の特徴を備えてもいる。
しかし、これを前にして狐と見間違える者はひとりもいないだろう。
氷づけの〈王〉は、侵入者を睥睨するように、人間たちを正面から見下ろす位置にあった。二本足で立った犬のような、獣と人間の中間的なポーズで躍動を凍てつかせている。
体高は調査隊との相対差から概算する限り、五メートル超。全長に至ってはその倍前後になるのだろう。胴に対して四肢が太くやや短い点だけ見れば、どちらかというと爬虫類より。だが、首の長さからは馬のような哺乳類が連想される。
また、全身に体毛らしきものは一切見当たらなかった。かわりに全身を覆っているのが、金属質にも見える無数の逆立った鱗だ。正確には鱗状の何か、というべきか。
ギターのピックを縦方向にだけ倍に引き延ばしたような形状のそれは、先端へ及ぶに至って輪郭を曖昧にし、炎に似た不定形に揺らめく灰色の気体と同化している。
そして何よりこの玄室の主を特徴づけているのが、孔雀さながら、扇状に展開された無数の尾だった。その本数は全部で九つ。
いずれも全長に匹敵するほど長く、先端は灰色の業火に包まれていた。
「雪崇君……雪崇君」
リティーナはすっかり怯えきっていた。もはや頑としてモニタを見ようとはしない。雪崇の胸に額を押し当て、暴風雨にさらされた小動物のように震え丸まっている。
「あれ、なに? あれ、生きてるの? ロシアにはあんなのがいるの?」
「俺もだ。ドラ、ゴン……みたいだ。恐竜か?」
「尾が九又っていうのが気になるけど、指摘通り、まあ狐には見えないしねえ」
さすがに驚きを隠せない様子ではあるが、一方で素芹子は愉しむような笑みを浮かべてもいた。「それに、氷のなかで燃えてるっぽい、あの非常識な灰色のモヤはなに?」
解答を求めて、全員の目がヴァシリーサに集まった。
「これが何であるかは、私たちも正確な情報をまだ掴んでおりません」冷ややかな声が応じた。「分っているのは、これがもっぱら〈ナインライヴス〉と仮称されていること。似た化物が発見されたのはこれがはじめてのケースではないこと。そして、これを手中に収めることが莫大な利益を生むと考える者が少なからずいるということだけです」
モニタの電源が唐突に落とされた。
呼応するように、窓にかかっていた暗幕が小型モーターによって縁に回収されていく。
主張の強い春の陽光が、瞬く間に車内を黄金色で満たした。
「この九尾のバケモノが何であるかは、ひとまず置いておくとしても、よ?」
当然ながら、と素芹子はヴァシリーサを上目遣いに見やる。
「この発見は、地主である柾本刀自にも報告されたはず。とすれば、おそらくそこから情報が漏れたのね。あなたの話を聞く限り、彼女は父ロジオンから監視されていたようだし」
「その通りです」
「分からねえな」雪崇は思い切り顔をしかめながら言った。「その段階で、ロジオンがこのバケモノを土地ごとブン盗ろうとしなかったのはなぜだ? やつなら簡単だったはずだろ」
「マーリヤ様はそういう事態に備え、土地の法的な管理をアメリカ籍の企業に任せると同時に、藤田准教授に依頼して、洞穴内部に無数の高性能爆薬を設置したのです」
それは、決まったルートを決まった手順で通過しなければ起爆する。
そして、ひとたび発破すれば洞窟そのものが連鎖的に崩壊していき、分厚い永久凍土に閉ざされる。そんな仕掛けなのだという。
元が数万メートルという総延長を誇る大複数接続型洞穴だ。
潰れてしまえば、人の手で掘り起こすのに何十年、何百年という月日がかかるだろう。
また、天文学的な予算も必要となる。〈ナインライヴス〉自体の無事も保証されない。
「ですがそれ以上に、ロジオン様には手出しできない大きな事情がありました」
「なんだってんだよ」
「亡くなられたのです。去年の十二月に」
「えっ――」
あるいは、この日最大の衝撃であったかもしれない。
雪崇は思わず、リティーナを抱く左手に力を込めた。
その痛みのせいか、もしくは別の理由からか、腕の中で彼女が身を強ばらせる。
「ロジオンが死んだ……死んでたのか? 去年って、じゃあ、マリア婆さんより先に?」
「約三ヶ月ほど前に先立たれています。肝硬変でした」
「ということは」乾燥のあまりひび割れそうな唇を舐める。「今のトップはアレクサンドルか」
ヴァシリーサが首肯した。「ご長男、アレクサンドル様が跡を継がれています」
「ロジオンが……」
ロジオン・ブリューハノフ。
ロシア新興財閥の巨人。雪崇から祖母と実母を奪い、後者を死に追いやった男の名だ。
もう関わりたくない。呪縛されたくない。だがその一方で、叶うのならこの手で殺してやりたい――そう思っていた男の名でもあった。
だが、その願いはもう永遠に実行不可能となったのだ。まるで実感を掴むことすら許されず。ただ、唐突にすべてが終わった。もう二度と届かなくなった。そういうことらしい。
「このロジオン様の急逝によって、状況は一気に複雑なものになりました」
整理のつかない雪崇を尻目に、ヴァシリーサは淡々と話を進めていく。
「どうしてそれで複雑になるの?」素芹子が訝しげな顔でたずねた。「十億長者の訃報が大きな話題になるのは分かるけど」
「相続人の正確な数が把握できないのです。――というのも、ロジオン様は多くの愛妾を囲っておられました。著名人や傘下企業の関係者から気に入った娘を集めたり、貧民街から容姿に優れた少女を買い上げてくることもあったようで。問題は、そうした側室、妾に産ませた子が――自称他称を含め、三桁近い数に及ぶということなのです」
「相続権を持つ百人近い私生児、か。十歳の子に聞かせる話ではないわね」と素芹子。
「雪崇様が亡くなれば、シベリアの土地と〈ナインライヴス〉の所有権はオレッドがさらっていくでしょう。法的な地固めも、強引な手法で既にかなり進められているはず。そうした状況を背景に、新当主アレクサンドル様は一計を案じました」
それが、今回の〝人間狩り〟ゲームなのだという。
ロジオンの遺産目当てに群がってきた有象無象――
これらをけしかけ、競わせ、相馬雪崇を始末させる。
最初に首を取って来た者に財閥関係者としての末席を確約するという条件で。
オレッドの汚点「相馬」を労せず消せる上に、マリアの遺産をオレッドの所有物とでき、おまけに薄汚い私生児問題をも綺麗に整理できる、一挙三得の策だ。
「ちょっと待った」雪崇は眉間のあたりを揉みながら口を挟んだ。「それだと、洞窟に婆さんたちがしかけたっていう爆薬の件はどうなるんだ?」
「それに対するオレッドの解答が、先ほどお見せした新聞記事です」
ヴァシリーサが答える。
「あっ……」
「オレッドは手始めに藤田准教授らへ近づき、藤田助教授はその協力要請にHetを返しました。マーリヤ様への背信になるとして、協力と資料提供を拒んだのです」
「つまりオレッドは、藤田准教授らの案内か、もしくは彼らの作ったトラップ回避用の地図がないと〈ナインライヴス〉に到達できない。しかし、どちらも正攻法では得られなかった、と」
険しい表情の素芹子が、上唇の辺りを指でこする。
「直後、彼と助手は死体で見つかってるのよね。これって偶然?」
ヴァシリーサの表情を消し去った顔が、ゆっくり左右に振られた。
「少なくとも我々は偶然とは考えていません。あれが自殺であったとも、心中であったとも」
「……シビル・ケイヴシステムの探索には、他にも四人参加してたはずだけど。彼らは?」
「全員無事です。彼らは重要度の低い情報しか与えられていない小物とみなされています」
だが、無価値と判断されたからこそ、命だけは助かったとも言える。
「それで、問題の測量図は今、どこにあるの?」素芹子が質問を続けた。
「マーリヤ様の遺品の一部として、我々の管理下にあります」
藤田准教授が生前、マリアに測量図の複製を渡していたらしい。
彼女が土地の所有者であることを考えると、これは至って普通の手続きだ。
「問題は、藤田准教授の持ち帰った原本ですが、これの所在は現在のところ不明です。准教授が処分したとも、オレッドの手に渡ったとも考えられます」
「彼らが殺害されたと仮定するなら、後者と考えた方が自然ね。用済みとなったからこそ、准教授たちは今後、他勢力の情報源になる可能性を潰す意味で処分された――」
「は! まったく素晴らしいね、新総帥アレクサンドル閣下は」
雪崇は叩きつけるように、背を座席のクッションへ投げた。
「流石はロジオン陛下の全てを受け継ぐご長男。自分以外の人命なんぞ、今朝、丸めて流したトイレットペーパーくらいにしかお考えでない」
「確かに組織としてのオレッドは非情かもしれません」ヴァシリーサは静かに認める。「ですが、オレッドすべての人間がそうだというわけではありません。少なくともマーリヤ様はお優しい方でした。あの方は病床についたあとも、雪崇様に被害が及ばぬよう〈ナインライヴス〉の放棄や譲渡も含め、様々な手を打とうとしておいででした。ただ、苛酷を極める闘病生活のなかではそれも思うように進まず、志半ばで――」
「マリア婆さんのことは信じるさ」
自分の言葉が徐々に熱を帯びていったことに、ヴァシリーサ本人は気付いているのか。
ともかく、雪崇は本心から彼女の言葉を認めた。
「確認しておきたいのは、その婆さんの命令で来たって自称してるあんたらのことだ」
「私たち、ですか」少し面食らったようにヴァシリーサは二、三度しばたいた。
「俺なりに考えてみたんだが、オレッドの中には俺を殺したがってる〈本家〉と、俺の味方をしてくれてる〈マリア派〉のふたつがあって、派閥争いみたいな対立関係にある。で、ヴァシリーサたちは〈マリア派〉の人間っぽい。この認識は、あってるか?」
「……なるほど、〈マリア派〉ですか」
響きを確かめるようにヴァシリーサは数拍の沈黙をはさんだ。
「事実を的確に言いあらわした言葉だと思います。マーリヤ様には人を惹きつけるような所がありましたし、理解者やその境遇に同情的であった方は非常に多く数存在していましたから」
それは雪崇にも分かるような気がした。財閥内部にも、ロジオンの独裁的なやり方に反発はあったはずだ。彼ら反本家勢力の象徴として、マリアの人柄やカリスマ性、そして駆け落ちが示すような行動力が利用されたとしても不思議はない。
私財を持たないはずの祖母が自分のために遺産を残せたのも、彼ら〈マリア派〉の援助があったためではないか。
そう考えた雪崇は、自分の仮説をそのままヴァシリーサにぶつけた。
彼女はすぐにそれを事実と認め、自らの活動資金の出所もそこだと付け加えた。
「特に、無理やりロジオン様の愛人にされた女性たちの一部は、立場的に共感できる部分もあったのでしょう。彼女らはマーリヤ様と密かに連絡を取り、親交をあたためていたようです」
聞けばハーレムの中にも序列のようなものがあったらしい。ロジオンの特別なお気に入りともなれば、一生遊んで暮らすに充分な金銭的援助が受けられたのだという。
その金に目が眩む女も確かに大勢いた。しかし、金では決して篭絡できない女もいた。
そして、後者に属する高位の愛妾たちからは、マーリヤの元へかなりまとまった額の金が流れ込んでいたらしい。
「あの――」
雪崇の胸元からゆっくりと顔をあげ、リティーナが遠慮がちに質問の口を開いた。
「じゃあ、雪崇君を撃ったり、家を爆発させたりした人達は、まだいなくなったわけじゃないの? 今もいっぱい周りにいて、まだ雪崇君を狙ってるんですか」
「そう考えるべきだと思います。ただ、相続権を持つ私生児たちのすべてがこの相続争いに加わっているわけではありません。彼らのなかには〈マリア派〉も多いですから」
「一方で、その気になってるやつらも、いる」
素芹子が冷静に事実を指摘する。
その左証として、彼女の視線は雪崇の右肩にじっと注がれていた。
「確かにな」雪崇は認め、まぶたを閉じた。ヘッドレストに後頭部を埋める。疲労感を追い払うようにして、また深く息を吐き出した。
それは同時に、「これ以上は話を聞くつもりがない」という意思表示でもあった。
色々なことが起こり過ぎ、色々な情報が飛び交い過ぎている。時間が必要だった。
祖母とロジオンの死も。巻き込んでしまった友人たちのことも。永久凍土の地下深くに眠る巨大なバケモノの話も。肩の痛みも。今はすべて忘れて、ただ眠っていたかった。
当然、相手が片時も――今この瞬間すら、相馬雪崇のことを忘れてくれないことは分かっていたが。




