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ワイズブレット  作者: 槙弘樹
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10/18

隕石と乱舞

  009


「おい、こりゃあまたえらいのを連れてきたな」

 それが、リティーナ、素芹子、ヴァシリーサの三人娘と対面した東臣桑人の第一声だった。

 さしもの彼も、少なからず意表をつかれるところがあったのだろう。

 国籍の無秩序ぶりと、三者三様の美貌を考えれば至極当然の反応とも言えた。


「それに、雪坊。お前さん、その怪我はなんだ」

「階段から落ちたんだ」雪崇はにやりとして定番のでまかせを返した。

 振り返って、怪訝そうにしている三人に説明してやる。

「この家にはTVってもんがないんだよ。新聞は取ってるけど、この爺さんときたら仙人みたいでさ。世事に全然興味がないもんだから、読まずに焼き物の包み紙にしちまうんだ」


「おいおい、ちゃんと折り込みチラシは見てるよ。たまに回転寿司なんかの割引券がついたやつも入ってるしな」

「今の若いのは、そういうのをクーポンってんだよ」

「まあ、クーポンでも味ポンでも良いや。ちょっと待ってな。今、茶淹れて来てやる」

 もっとも、彼は通いの家政婦を雇う身だ。支度は彼女に任せたのか、翁は茶菓子だけを持ってすぐにもどった。雪崇の予想通り「茶はすぐに持ってこさせる」とことわり、縁側の指定席にどかりと腰を落とす。それから雪崇を無言で手招きした。


「それで、なんなんだ、あの別嬪(べっぴん)さんたちは?」

「いや、まあ、色々とあってね。あの子たちは、俺のメイドと護衛と命の恩人だよ」

「なんだ、そりゃあ」老翁は鼻を鳴らして笑う。

 雪崇は、もとより要約には向かない事情を強引にかいつまんで話した。

 ただし、オレッドをはじめとした幾つかの固有名詞については使用を避けた。


 話の途中、四十がらみの女性が現れ、淹れたての緑茶を振舞っていった。徒歩三分の隣家に住まう家政婦だ。雪崇が東臣に出会う以前から出入している、気さくな婦人である。

「じゃなにか。釣ってる右腕は撃たれたもんで、他の包帯は爆弾にやられた傷だってのか」

「うん、まあ」

「で、撃たれたときの命の恩人が、あの一番別嬪な娘ってわけか」


「素芹子のこと?」一瞬、迷って雪崇は結論した。

 心情としては、リティーナより素晴らしい娘などこの世には存在しない。しかし、身内びいきを抜きにすれば結論は変わる。三人のなかでも素芹子の存在感はやはり別格だった。

「黒髪の、肌が白い方だろ」

「おう。あの子、なにかやってんのかね」


「なんかやってるって、どういう意味?」

「心得って言うかねえ」言葉を探すように翁は両腕を組んだ。「やろうと思えば、ありゃあどこでも音を立てずに歩けそうだ」

「体重移動がうまいってことか? 俺は特別そんな気はしないけどな」

「だから、修行が足りないって言われんだ。おう、嬢ちゃん」

 小首をひねる雪崇を置いて、東臣は直接本人に呼びかけた。


「良かったら、こっち来てちょっと手を貸してくれるか」

「私?」素芹子は怪訝そうな顔を見せたが、すぐに縁側から立ち上がる。雪崇には自然に見える歩き方で、東臣老と向かい合う位置に寄っていった。

「悪いな。ちょっと右手出してみてくれるかい」

 肩を軽くすくめてから、素芹子は言葉に従った。


 東臣はもう一度「悪いな」と囁き、自らも無造作に右手を伸ばす。

 節くれだった老夫の手が、少女の華奢な手首を内側から掴んだ。

 それは、雪崇も遠いむかしに経験したやりとりだった。


 軽く握ったように見える老人の手は、その実、鉄の手枷にも等しい。

 合気の極意をして、脱出を試みる力をすべて吸い取っていく握りだ。

 仮に東臣の倍の膂力を持っていたとしても、それに任せるだけではまず解けない。


「外せるかい?」あぐらをかいたまま、翁が上目でたずねた。

 素芹子が返したのは思わず見惚れてしまうような微笑だった。

 直後、ふたりの身体が揺れた。風に撫でられた木の葉程度の小さな震え。

 しかし、もたらされた変化は劇的とも言えるものだった。


 気づいた時にはもう、攻守は魔法のように入れ替わっていた。素芹子の手が、包み込むようにして相手の手を外側から掴み返している。翁の手首は内に向かってほぼ直角に曲げられていた。素芹子がほんの少し力を込めるだけで、逆小手が極まる形成だ。

「……こりゃあ、凄いな」

 東臣老が状況を愉しむように目を細めた。口元の皺がゆっくりと深まっていく。


 素芹子はもう一度微笑し、戒めを解いた。「もうよろしいので?」

「大した合気だ」右手首を撫でながら翁は素直な賛辞をあらわにした。「どこで覚えた?」

「フフ、必殺サンボ・マンボ・コマンドサンボは謎に包まれた史上最強の戦闘術なのです」

「またそれかよ」

 雪崇は苦笑しつつも、ここへお茶を飲みに来たのではないことを思い出す。


「――さってと」湯のみを置いて立ち上がる。「東爺。ちょっと風呂借りていいかな」

「風呂か?」

「ああ、俺んちは危険だし、爆発しちまったしでさ。もう二日もご無沙汰してんだ」

 いい加減、頭髪にこびりついた皮脂が不快だった。

 リティーナが抱きついてくる度、自分の体臭を気にするのもこれ以上は避けたい。


「そういうことなら一風呂浴びてこいや。その間、俺は嬢ちゃんたちに窯でも案内しとくかな。それとも、若いのにそういうのは退屈かね?」

「そんなことはないと思うけど、リティーナは寝かしてやってほしいな」雪崇は踵を返しながら、今度は本人に向けて言った。「昨日も寝てないんだろ。仮眠とって待っててくれ」

「ううん、私も行く」


「そっか。リティーナ、お風呂好きだもんな」

「違うの」リティーナは、なぜか嬉しそうに首を振った。「雪崇君、怪我してるでしょ? だから、お風呂のお手伝いをしようと思って」


  †


 ――本来、雪崇にとって入浴とは〝くつろぎの時〟である。

 だが今回に限って、それは対極ともいうべき〝忍耐の時〟と化した。

 なにせリティーナが一緒だったのだ。

 高一の男子として、もはやリラックスどころ騒ぎではない。

 小一時間後、こざっぱりした雪崇は、だが心身共に憔悴しきった状態で浴室を出た。


「危なかった……そして、疲れた……」

 リティーナに最低限の着衣を維持させたこと。こちらが下腹部を常にタオルで覆っていたこと。この二点が守られていなかったら果たして正気を保ちきれたか。

 自問する雪崇は血の気の引く思いを味わった。もう一度、同じ試練に耐えられる自信はまるでない。それでいて片腕を使えない入浴は、今後、何か月間も続くのである。


「雪崇君、お風呂気持ちよかった?」

 片付けをしてくれていたリティーナが遅れて浴場から出てきた。

 小走りに雪崇へ追いつき、無邪気な笑顔でまた微妙なことを訊いてくる。

「リティーナ君。あなたはさっき、とても間違ったことをしました」雪崇は呼吸と心拍を整えながら言った。「家族だからって、異性の背中にチュウとか気軽にしちゃいけません」


「おう、遅かったな」

 縁側に戻ると、風呂に行く時と同じ位置で東臣が待っていた。

 既に自宅ツアーの務めは果たしたらしく、のんびりと豆大福を頬張っている。

「年頃の娘さんに三助《サンスケ》の真似させるたあ、お前さんもなかなか大したもんだよ」

「なんだよ、そのサンスケって」


「いや、知らねえなら良いんだ」彼は愉快そうに肩を揺すって笑う。

 気にならないではないが、今は追求するほどの余力がない。

 雪崇は縁側の空いた場所に腰を落とした。意図せず、どっと深い吐息が漏れ出した。その様子を、また東臣が面白そうに笑う。


 見当たらない素芹子とヴァシリーサを探すと、ふたりの姿は水車の傍らで見つかった。

 周辺地理と陶芸との関係性あたりをレクチャーしているのか。

 十歳の少女が新緑も瑞々しい裏山を指差し、彼女の倍を生きた女性がそちらを見ながらうなずくような仕草を見せている。


 ふたりの足元を流れるのは、四王寺山脈の深奥から引かれた小川だ。良質の清水を提供すると同時、水車の動力源ともなる、陶芸には欠かさざるべき存在である。

 この水流からもたらされた運動エネルギーは、幾つかの歯車を経由して唐臼へ辿り着く。

 そこで粉砕された荒土こそが、陶土と呼ばれる焼き物の材料となるのだ。

 耳を澄ませば、ししおどしの原理でゆっくりと上下する唐臼の軋みが聞こえてくる。


 だが直後、その風流を台無しにしてくれる二連の轟音が周囲に響き渡った。

 雪崇の横で、リティーナが表情と身体の両方を強ばらせる。

「東爺、これって」

「おう」伸びる大福の衣を頑丈な歯で噛みちぎり、翁はひとつうなずいた。

 半世紀前、大戦を経験した男だ。戦場に鳴り響く同種の木霊には覚えがあるのだろう。


「こりゃあ、銃声だな」

「雪崇様!」ヴァシリーサが血相を変えて飛んできた。

 片手には、腰に釣っていた軍用の携帯無線機を握りしめている。

 その様子を見て雪崇は直感した。今度の襲撃は、対応を誤れば死人が複数出る。

「またあいつらの襲撃か」なんとか平静を装いつつ訊いた。


「そのようです。西側から山林地帯を突っ切ってこちらに接近しつつあります。今のペースだと、二分もすればここに着くでしょう」

「敵の数は? 武装は?」

 その声はヴァシリーサの背後から聞こえてきた。

 素芹子が落ち着いた足取りで近づいてくる。


「単独。白人男性。身長百八十センチ前後。ライトブラウンの短髪、皮のジャケットにジーンズ。武装は確認された限り、PSMらしき自動拳銃(ピストレット)が一挺です」

 ロシア製の小型セミオートマチックで、装弾数は八発。携帯性を優先して設計されているため小口径だが、被甲鋼弾(フルメタルジャケット)と呼ばれる特殊な弾丸を用いるという。そのため、グレードの低い防弾チョッキなら抜かれる危険も大きいらしい。


「そんなに貫通力が高いなら、今度は肩で防いでも貫通して内臓まで届くな」

 つぶやきながら雪崇は立ち上がった。幸い、膝は震えずにいてくれている。

「ごめん、東爺。なんか巻き込んじまった。まさか、こんなに節操のない連中だとは思わなくてさ。安心させようと思って顔見せたのに。長居したのがまずかったみたいだ」


「ああ、良いって」東臣は蠅でも払うように手を振った。「こんなもん、襲ってくるやつらが悪いに決まってる。それより早く家ん中に入んな。外につっ立ってたんじゃ良い的だぞ」

「いや、これ以上は迷惑かけられないよ。それに、ここを銃で滅茶苦茶にされたくない」

 雪崇は、自分が生まれる前から変わっていないのであろう風景を一望に収めた。


「ねえ、とりあえず、あっちの山林に入るってのはどう?」

 素芹子が東のそちら側へ首をかたむけながら言った。

「幹の太い木が密生してるから、拳銃相手に地形効果を稼げると思う」

 ヴァシリーサは一瞬考え、無線機を口元に寄せた。

 ロシア語で短いやり取りが交わされる。


 通信を終えた彼女は、素早く全員を見回しながら宣言した。

「ここは素芹子さんのプランに乗りましょう。敵はもう数十秒の距離です。急いで」

「分かった」雪崇はうなずき、左手でリティーナの柔らかな右手を捕まえた。「ヴァシリーサ、あんたはしんがりを頼めるか」

「そのつもりです。さあ、急いで」


「じゃあ、東爺。俺たち行くよ。本当、迷惑かけてごめんな」

「今度、窯出しやる時は手伝え。それで手打ちにしとくよ」

「約束する」

 走りだしながら、雑木林までの距離を目測した。直線にして五十メートル弱。

 運動能力の高いリティーナの走力は、半身とひとつになった状態の雪崇を上回る。

 手を繋いだ状態でさえ八秒で悠々走り抜けることができた。すぐ後ろには余裕の表情で素芹子が、それからやや距離を置いてヴァシリーサがついてくる。


「――来ました。もっと奥へ!」

 ヴァシリーサが鋭く叫び、牽制の一発を放った。

 直後、お返しの銃声が二発鳴った。泣き出しそうなリティーナが恐怖で肩を縮こませる。

「撃ち返してきた!」すぐうしろの素芹子が驚いたように言った。

 疾走しながらも、その声にはまったくブレがない。


「装弾数がたった八発の銃なのに、無駄弾にしかならないこの距離で」

 ややあって、彼女が急に足を緩めるのが分かった。

 音でそれを感知してしまった以上、雪崇も立ち止まらざるを得ない。

「どうした、素芹子」

 だが少女は答えず、かわりに最後尾を走るヴァシリーサの方へ声を投げた。


「後方の味方に、頭上には発砲するなと伝えて。あと、私の直下に敵の誘導よろしく」

 相手からの返事も待たず、素芹子は屈んで地面にハンカチを広げた。

 なにを思ったか、その上に素早く土を盛りはじめる。

 その間、視線は何かを探すように周囲へ巡らされていた。


 最後に大きめの石を一緒に包むと、彼女は立ち上がった。それからすぐに、あらかじめ定めていたらしき雑木の一本――捜し物はこれだったらしい――に取り付いていく。

 なんの真似かと訝しむ間もない。素芹子は、そのままするすると樹幹を登りはじめた。

 灰色のデニム風レギンスに、白いチュニックカットのワンピース。足元にはスニーカー。どこにでもいる活動的な格好をした少女は、あれよという間に枝葉のなかへ消えていった。


「素芹子さん、何を! 危険です」

 慌てて距離を詰めてきたヴァシリーサが、後方と頭上を交互に見やりながら言った。

「分かるでしょ? 援護して」

 ヴァシリーサはなおも言い募ろうとしたが、時間がないのは事実だった。

 ロシア語でなにか悪態らしきものをつくと、覚悟を決めた様子で走り出す。


 と、二種類の銃声が、互いのそれをかき消そうと競い合うかのように重なって木霊した。

 リティーナが声にならない悲鳴をあげる。雪崇も、耳を平手で直接横殴りされたような衝撃に襲われていた。金属的な耳鳴りが鼓膜の裏側に残り、一時的に聴覚が麻痺する。

 その現象は本能に近い部分を直接刺激し、人間を萎縮させる力を持っていた。


 一瞬ひるんだあと、雪崇は慌てて木陰へ身を隠した。繋いだ手を引っ張って、もはや行動不能に陥っているメイドを抱き寄せる。彼女は身体を丸め、固く目を閉じきり、今起こっている状況のすべてを拒絶しようとしていた。芯から怯えきっていた。

 雪崇はなんとか彼女をなだめると、以前、自らがプレゼントした手鏡を借りた。


 陽光を弾かないよう注意しつつ、木陰からそっと鏡をのぞかせる。

 距離にして十歩といったところか。

 最初に映し出されたのは、散り果てた染井吉野を背にするヴァシリーサだった。

 そこから更に二十歩程の距離を隔て、何かが鏡ごしの視界を横切った。


 少し篭った感じのある銃声が二発。間を置いてもう一発。

 刹那、雪崇は短く刈り込まれたライトブラウンの髪と、ラガーのような肩幅を持つ巨躯を垣間見た。すぐに木立の作る死角に姿を消していったが、間違いない。

 今のがオレッドに放たれた猟犬役なのだろう。


 挟撃の位置につけているはずの男性護衛たちは、今のところ見える距離にはいなかった。

 だが、ヴァシリーサとの連携はうまくいっているらしい。

 仕留めるためではなく、相手を誘導するための銃撃を繰り返し、徐々に素芹子が指定したポイントまで相手を追い込んでいく。


「必殺――」

 頭上から降ってくる場にそぐわない少女の声。

 猟犬はおそらく、その瞬間、はじめて自分が罠に嵌められたことを知ったことだろう。

 銃口と青い眼が弾かれたように真上へ向けられる。

 だが、それすらも相手にとらされた行動であったことに、果たして気付き得たか。


 直後、猟犬の顔面を加速度のついた土砂が強打。男の太い喉から苦痛の呻きを漏れた。

 その時にはもう、猫のようにしなやかな着地を決めた素芹子が次の一撃を繰り出していた。猟犬の右腕が爆ぜ、拳銃(PSM)が高く跳ね上げられた。

「サンボ・マンボ・メテオストライク」


 一端、バックステップで間合いを取った素芹子が、クイックモーションで投擲に入った。

 体重の乗った美しいフォームから、鞭のようなしなりをきかせて腕が振り切られる。

 豪速で放たれた何かは、猟犬の右頬辺りに着弾したように見えた。かなりの距離を隔てていても、ゴンという鈍い音が雪崇の元まで届いた。


「でもって」崩れ落ちようとする男の巨体に、素芹子が疾風のごとく迫る。「必殺、サンボ・マンボ・コンボ!」

 ふざけた名前とは裏腹に、それは極限まで洗練された連撃だった。

 まずは関節の破壊を前提に、相手の膝を正面から打ち下ろす前蹴り。

 男の足が危険な角度で曲がった瞬間、首相撲で捕まえた頭部を引き寄せ、顎を打ち抜くような左膝。かち上げられた無防備になった側頭部に、危険な右肘が叩き込まれる。


 意識が飛びストンと崩れ落ちようとする巨体は、しかしまた解放されない。

 既に素芹子の左手が相手の右袖を取っていた。その腕を引手に肘関節を逆に極めながら、タイミングと速度、技のキレだけで繰り出される芸術的な背負いがフィニッシュだった。

 超重量《ヘヴィ》級の巨躯が綺麗に一回転し、大地にぐしゃりと叩きつけられる。


 駆けつけたヴァシリーサたちの援護はまったく必要なかった。

 背筋も凍る日本刀の切れ味。

 動悸がするのは、素芹子が努力して相手の殺害を回避したことが分かるからだ。

 まともに入れたのは最初の前蹴りのみ。膝も肘も、ポイントを微妙にずらして危険度を数段階落としていた。投げも肘関節を遠慮無く破壊する一方、明らかに引手を調整していたのが分った。頭からではなく、より安全に背中から落としてやるための配慮だ。


 それだけではない。雪崇の目には巻き込みも不自然に甘く見えていた。

 そうすることで危険な繋ぎ技を省略したのだろう。

 本来なら投げたあと、自らも回転して追撃を入れていたはずである。

 古流に近い素芹子の動きからすれば、おそらくそれは左猿臂(ヒジ)。回転で加速度のついたそれを、水月あたりに叩き込むのが本来の終わり方であったに違いない。


「雪崇君……苦しいよ」

 腕の中でリティーナが身じろぎした。困惑した表情が雪崇を見上げている。

 恐怖が力加減を誤らせたようだった。言われてようやく、自分の左手が、彼女の肩を圧壊させようかというほどきつく握り締めていることに気づいた。


「あ、悪い」雪崇は慌ててリティーナから身を離した。「ごめん、リティーナ。気づかなくて」

「なにを米つきバッタみたいに謝ってるの」

 弾むような足取りで近づいてきたのは素芹子だった。

 雪崇は反射的に身構えかけ、すんでの所で押しとどめた。


「ね、それより今の見てた?」素芹子は上機嫌に問うてくる。「フフ、これで銃を持った悪者相手に二連勝。どうしたの。遠慮せずに賞賛して構わないのよ?」

「お前なあ……」

 半ば呆れたように言いながらも、雪崇はどこか奇跡を目撃するような心境だった。

 幼くしてこれほど大きな力を持ちながら、彼女は精神の健やかさを自然な形で維持し続けている。


「まったく。ほんとにお前、デタラメ過ぎだよ。どこもかしこも冗談みたいなやつだ」

「日吉の女なら十歳でこの程度は並よ。デタラメって言うなら泪姐さんくらいでないと」

「どんな一族だよ」

「そんなことより、せっかく生け捕りに成功したんだし、早く尋問タイムをはじめましょ」


 その準備はオレッドのスーツ組が既に整えつつあった。ふたりの男性護衛が慣れた手つきで気絶した猟犬のボティチェックを終える。それからヴァシリーサが拘束を固めた。

 手錠までかけるその徹底ぶりは、被疑者確保時の警官さながらだ。

「ロシア人だとばかり思ってたけど、どうも違うみたいだな」

 雪崇の感想に、ヴァシリーがうなずいて答えた。


 身分証の類が出てきたかを問うと、これには「財布と現金だけ」という声が返る。

 その話し声がきっかけになったのかは分からない。不意に、捕虜の睫毛が痙攣するように震えだした。やがて、まぶたの向こうから濃い青色の瞳がのぞきじめる。

 腐ってもプロといったところだろう。男は目だけ動かし、素早く現状を把握したようだった。無理と判断したか逃げ出す素振りも見せない。


 だが、さりげなく自分の身体の稼働箇所を確認しはじめたところで、車のバックファイアのような轟音が木霊した。

 弾丸で左腿を撃ち抜かれた傭兵が、呻き声をあげてのたうち回る。

「おい! 女子(おんなこ)どもの前だぞ」

 詰め寄ろうとする雪崇を無視して、ボディガードの片割れが動いた。悶絶する捕虜へ寄ると胸ぐらを掴み上げる。お前には呼吸と質問に答えることしか許されない。


 冷たい英語で護衛が言った。許可がなければ指一本動かすことは許されない。逆らえば今のようにペナルティが課せられる。分かったら身元を答えろ。そう一方的に命じた。

 これ以上は、リティーナに見聞きさせたくなかった。限界が近い彼女を素芹子に任せ、雪崇はふたりが充分遠ざかっていくのを確認した。それから、アメリカ人に意識をもどす。


 待っていると、荒い呼吸の合間を縫って捕虜は自分がアメリカ国籍の人間であることを告げた。撃つな。こちらにもう争う意思はない。お互いプロだ。無駄なことはよそう。

「じゃあ、俺の質問にも素直に答えて貰えるってことだな」

 雪崇はシングリシュ訛りを極力消しつつ、海外で覚えた英語で話しかけた。


「お前はオレッドの回し者で、狙いは俺――ソウマ・ユキタカだな?」

 その声に反応し、猟犬が角張った顎を持ち上げた。

 ブルーアイズで無感動に雪崇を観察したあと、血塗れの唇を動かす。

「そうだ。俺はオレッドに雇われた。が、雇用主《クライアント》の個人名は勘弁してくれ」


 熊男の片割れが、猟犬に銃口を向けたまま親指で撃鉄(ハンマー)を起こした。

 無言の脅迫に、猟犬は少し慌てた様子を見せる。「頼む。どうせ、俺が失敗した時点でクライアントは脱落なんだ。名前や身元に情報的価値なんてない」

「情報の価値は我々が決める」ヴァシリーサが、雪崇もはじめて聞くイングリッシュで冷たく告げた。「他に知っていることを全部話しなさい」


「……分かった」それでも収められない銃口に神経質な視線を投げ、男は観念したように嘆息した。「それで、何から話せばいい?」

 これには雪崇が返した。「俺は二日前に銃撃された」右肩を示しながら続ける。「昨日は家に爆弾をしかけられもした。この二件はお前の仕事か?」


 今度もシングリッシュはきちんと通じたようで、男は「NO」と返してきた。

「なら誰が……他に仲間はいるのか? お前の雇用者は他に何人の猟犬を雇ってる」

「仲間はいない。そういうルールなんだ」

「ルール?」男の言葉に、ヴァシリーサが眉根を寄せた。


 そうだ、とうなずき、猟犬は詳しく話を続けた。つまり、こういうことらしい。

 ――相続候補者が何十人という規模で存在する以上、無軌道に兵隊を雇って暴れさせるわけにはいかない。テロが多発するロシアでならまだしも、日本国内で起こした事件の後始末はオレッドにも限界があるためだ。


 それに、本命であるシビル・ケイヴシステムの探索は既にはじまっている。日本の研究者から奪った資料を元に、〈ナインライヴス〉への到達もそう遠くない日に叶うだろう。

 もう〝相馬雪崇狩り〟はついでの余興に過ぎない。あくまで余興、あくまでゲームとして、余計なコストやリスクを負わずに行う必要がある。


 そこで、財閥の新当主アレクサンドル・ブリューハノフは、相続候補者たちに幾つかの制約を設けた。まず、一度に日本へ入国する者を三組ずつに限定。武装にも制限を出し、雇える人間の数や持ち時間などを定めたのである。

「これは聞いた話だが」と前置きした猟犬は続けた。


「エントリーした相続人たちは、クジか何かで無作為に順番を決められたらしい。最初に選ばれた三組が入国して、そのうちの誰かが標的を仕留めたらその時点でゲームは終了。失敗したら、次の三組にターンが移動する」

 この場合、当然ながら回ってくる順番が早いほど有利になる。


 そのためのハンデとして、アレクサンドルは後発であればあるほど武器や雇える人間などの数、持ち時間をプラスしていく、という救済策を設けた。

「俺のクライアントは、幸運にも第二陣《セカンドグループ》に入れた。だから、持ち時間は四十八時間と少ない。武器もひとつ。雇えたのもひとり。俺だけだ」


「待て。お前が第二陣ってことは、第一陣は三ペアすべてが失敗したってことになるのか」

「そうだ。やつらには三十時間しか与えられていなかった。だから、焦って通り魔的な銃撃や爆殺に走った。だが元々、そんなやり方は得策じゃない。誰が殺したのか、あとで証明しにくいからだ。結局、それも失敗して、やつらは時間切れになった。脱落だ」


「でも、お前を除けば襲われたのは二度だけだぞ――?」

「俺たちは、互いに対する妨害行為が認められている」

 男は唇を皮肉っぽく歪めた。脂汗の滲みはじめた頬に小さな笑くぼが生まれた。

「この勝負は、他人に先を越されたらすべてが終りだ。だから、同組の邪魔なライバルを先に片付けて、ゆっくりあんたを始末しようと考えるやつもいるだろう」


「一度に三組ずつと言ったな」オレッドの男が凄みをきかせながら言った。「第二陣の他の二組について、また第三陣以降について、知る限りのことを話してもらおう」

「あんたたちが知っておくべきことは、俺たち第二陣のなかにスター級が一組紛れてるってことだ。下馬評から最右翼の一角と目されていたやつだ。そいつは来日早々、俺じゃない方のペアを消したらしい。だとしたら――」


 男は唾を飲み込み、尖った喉仏を大きく上下させた。

「次が誰の番かは明白だろう? だから、俺はこうして動かざるを得なかったんだ。やつと正面きってやり合うくらいなら、多少強引にでもあんたらに特攻かけた方が確率は高い」

「そのスター級というのは?」護衛が訊く。


「〈スレイヤー〉だ。そいつは、ガリオン・スレイヤーズのひとりだと騒がれていた」

 説明はそれだけで充分とでもいうように口を噤み、男は結んだ唇の端を吊り上げた。

 実際、その一言がもたらした効果は絶大だった。

 少なくとも、ボディガード三人の表情を同時に凍らせるだけの効力を持っていた。


「なんだ? その〈スレイヤー〉ってのは。人名じゃないよな?」

 誰にともなく発された雪崇の問いに、だが事情を知る者たちは誰も口を開こうとしない。

「おい、なんだってんだよ」

 再度の呼びかけで、ようやくヴァシリーサが鈍く反応を示した。


「雪崇様。〈ナインライヴス〉と同種の発見には前例がある、という話はしましたね」

「ああ、なんかそんなこと言ってたな」

「そのひとつ〈ガリオン〉と仮称されるものが、二〇〇四年、アリゾナ北西部のコロラド高原で見つかりました。……見つかったと、噂されています」


 ガリオン。確か猟犬も先ほどその言葉を口にしていた。雪崇は無言で話の先をうながす。

「その時も、形は違え今回のような争奪戦が起きたそうです。その勝利者となり〈ガリオン〉を手中に収めた者たちを、我々は〈スレイヤーズ〉と呼んでいます」

 スレイ。もし〝slay〟と綴るなら、それは「殺害」や「破壊」を意味する単語だ。


「ガリオン・スレイヤーズ」雪崇はひとつつぶやいた。ようやくある結論に達すると、正面からヴァシリーサを見据えた。「〝ガリオン殺し〟。――ってことは、そいつらはそのガリオンって化物を殺したってことのか?」

「その通り」

 ヨア・コレクト。オーストラリア風の訛りを含むクイズ番組の司会者然とした声が、誰もいないはずの方向から不意に聞こえてきた。

挿絵(By みてみん)

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