日吉の少女、素芹子
005
「警察に目を覚ましたって聞いたから、見舞いに来てあげたのよ」
少女の傍らにある小卓には、自分で持ってきたらしき林檎の皿があった。
既に皮のむかれたそれを、彼女は遠慮なくシャクシャクやりだす。
「どうやって入った――?」雪崇はとりあえずそれから訊ねた。
「どうって、事情を話して案内してもらっただけよ。私は関係者だから顔パス」
「そうか」雪崇はベッドに戻り、靴を履いたまま腰を落とした。「それはともかく、昨日はありがとう。おかげで助かったよ。ナースたちが君の応急処置を絶賛してた」
「フフ、もっと容赦ない感じで賞賛しても構わないのよ」
少女は不敵な笑みと共に胸を張る。
「俺は相馬雪崇だ。瑞城学院の一年。血液型と星座と干支は、もう教えたよな?」
「ABのRhプラス。天秤座でイノシシ年ね」
「その通り」本当に記憶力の良い娘らしい。「で、こっちは義姉のリティーナ。リティーナ、この子は昨日、俺を助けてくれた生命の恩人で――」
「日吉素芹子よ」
「ええと……」リティーナは困惑気味に雪崇と客人の顔を見比べた。が、やがて決心したように少女へと歩み寄っていった。おずおずと右手を差し伸べて、まだ固さの残る微笑を浮かべる。「雪崇君を助けてくれてありがとうございます。あの、日吉さん」
「そちら流に名前で呼んでくれて結構よ、リティーナ」出された手を握り返しつつ、少女は雪崇に意味あり気な視線を向けてくる。「あなたも違う意味でそうした方が良さそうね。物覚えが悪そうだから、苗字で呼んでると珍しい名前はすぐに忘れちゃうでしょ」
「頭にくるが、否定はできない。まあ何にしても、見舞いにまで来てくれてうれしいよ」
「日吉の女は一見冷たそうに見えても、その実、情に厚く義理を重んじるの」
「なるほど。それより、ちょっと気になってたことがあるんだけど」
「なに」
「昨日投げたあの鞄さ、あれって学生鞄?」
「そうよ。私は体格的にランドセルが合わないから、学校の許可を得てあれを使ってるの」
「ランドセル?」雪崇は、意図せず自分の眉がぴくりと震えるのを感じた。
「そう。小学生は普通、ランドセルを使うものよ。少なくともウチの学校では」
「と言うことは、何か? 君は、自分が小学生であると主張したいのか」
「主張も何も、私は小学五年生だけど?」
「いや――」どういう反応を示すべきか分からなかった。「いやいや、それはないだろう。サバにも限界があるだろ、流石に。五年生って言ったらお前、下手したら歳ひと桁だぞ」
「五年生は十歳か十一歳よ。私の場合はまだ十歳」
「じゅっ……」
雪崇はしばらくの間、金魚のように口の開閉を繰り返した。
「素芹子さんって大人っぽいんですね」頼みのメイドは、客人を信頼できる主人の友人と見なしたらしい。打ち解けた雰囲気で賛辞の言葉を浴びせかける。「スタイルも凄いし、私、あなたより綺麗な女の子、見たことないかも」
「ありがとう。あなたも素敵よ」
「そう、それだよ。――ありがとう。あなたも素敵よ――じゃないだろ」
雪崇はわざわざ声色を遣って、素芹子の言葉を再現してみせた。
「小学五年生が……十歳児がだぞ。容姿褒められて、そんなそつのないセリフを返すか?」
「日吉の女は、多くが早熟なのよ」
「熟しすぎだろう。熟女だろ、その反応は。女子じゃなくて、カタカナ表記でオンナだろ」
大体、なぜ女の子が大台に乗っているのか。
女は黙って百四十。これが定説ではないのか。
喉まで出かかった心の叫びを、雪崇はありったけの自制心を動員してこらえた。
認めるわけではないが、相手は小学生。あり得ないが、相手は十歳児。
言い聞かせることで自分を落ち着かせる。
そうしてようやく平静を取り戻しかけた時、ドアをノックする音が室内に響いた。
雪崇がうなずくのを確認し、リティーナが応対に出る。
「失礼します」靴底が床を叩く硬質な音と共に、その声は聞こえた。
「え……あっ、駄目」
リティーナが阻止しようとしたものの、その前に見せた一瞬の硬直を相手は見逃さなかった。流れるような身のこなしでメイドの壁をすり抜け、室内へ足を踏み入れてくる。
「どうか、そのままでお聞き下さい」
思わず腰を浮かしかけた雪崇を制する形で、現れた人物は言った。
身のこなしから想像がつくように、若い。骨太の大柄な身体によく合う、黒いパンツスーツ姿の女だった。
アスリートのように短く刈り込んだ頭髪は、ボーイッシュショートのアレンジ型といったところか。左側に流された前髪が広い額を斜めによぎっている。ぽってりとした厚い唇と、その右脇でさり気なく自己を主張するホクロが妙に艶めかしい。
惜しむらくはその容姿が、雪崇の今、一番見たくない外見的特徴を備えてしまっていることだった。すなわち天然のプラチナブロンドと白い肌、そしてアイスブルーの瞳だ。
それら全てが、ロシア系――オレッドの関係者であることを物語る要素だからだ。
「昨日の件で、男じゃ実力行使されると分かったら、今度は女を送り込む小細工か」
押し殺した声で雪崇は言った。「ふざけるなよ」
相手が女性なら、胸ぐら捻り上げて有無を言わさず放り出すこともできない。
明らかに、こちらの性格を見越した上での戦略だった。
「その辺にしていただけませんか」女が鋭く目を細めた。冷ややかな声が凛として続ける。「こちらも仕事で来ているんです。すき好んであなたに付きまとっているわけではないことを、いい加減に理解してほしいですね」
「なに――」
「私が選出された理由は、確かにお察しの通りです。それを卑怯と言われるのでしたら否定はしません。しかし、それもこれもあなたが逃げ回るからです。その結果、ここの世話になるような事態にまで状況が悪化したことをお忘れなく」
「てめえ、女だからっていつまでも好きに言わせとくと思うなよ。ひとの身体に鉛弾ぶち込んどいてその言い草か」
「ちょっと待って。今、オレッドって言ったのよね?」意外にも、仲裁に入ったのは素芹子だった。「それって、ロシア新興財閥のオレッド・エレメント?」
「お前……知ってるのか」憤懣を鎮めつつ、雪崇は訊き返した。
まさかオレッドが、日本の小学生にまで認知されているとは思いもしない。
「そりゃ、中学の教科書にも出てるアルミ産業最大の企業だし。気の利いた私立を受験しようって子なら、小学生でも知ってるのはいるんじゃない?」
そう言うと、素芹子は自分の言葉に何度もうなずき、何か思いついたように唇の端を持ち上げた。「じゃあ、なに? タイミングといい、雪崇の反応といい、これは今回の件、オレッド財閥が関係してるって考えて良いの?」
雪崇は答えなかった。オレッドの女も、第三者がいる前で迂闊に口を開くつもりはないらしい。だが、結果として生じたその沈黙こそが事実を雄弁に物語ることになる。
素芹子はまたも満足そうにひとつうなずき、自ら言葉をついだ。
「私がここに来たのは見舞いもそうだけど、もうひとつ、あの発砲事件について詳しいことを知るためっていうのもあるの。犯人の顔見ちゃった以上、思いっきり巻き込まれちゃってもいるし、事情をちゃんと把握しておきたくてね」
雪崇は血の上った頭で、血が上ったなりに考えた。
用いられた拳銃は二十二口径。可能なら犯人は、雪崇の内臓に複数の弾丸を撃ち込みたかったのではないか。一部メディアがそのように報じていることは知っていた。
つまり日吉素芹子の介入がなければ、幾つもの穴が肩でなく胸や頭にあいていた可能性が高いということだ。
「だからもし、そのロシアからのお客さんが――」と、素芹子はオレッドを目で示して続けた。「私の知りたいことを話してくれるというのなら、私はそれを聞いてみたい。さっさと追い出したがってる人もいるみたいだけどね」
雪崇は深呼吸し、ついでに目も閉じた。
頭に血が上りやすいのは自他共に認める欠点だ。より冷静で聡明な人間が別の意見を持っているなら、そちらを参考にすべきケースは多い。
目を開けた雪崇は三人の女性たちを順に見つめ、最後に大きく嘆息した。そして決める。
「分かったよ」オレッドの女を睨みつけながら言った。「素芹子の希望に沿う内容に限定するという条件付きで、あんたの話を聞いてやる」
「結構」女は素っ気なくうなずくと、このガキの気が変わらないうちにとでもいうように、さっさと口火を切った。「ではまず、私の身元について――これは先ほども申し上げました通り、私はマーリヤ・ロジオノヴナ・ブリューハノヴァ様の使いで参りました。オレッドに所属するものではありますが、今回はマーリヤ様個人の命令によって動いています」
「そのマーリヤってのは誰なの?」
素芹子の問いに、オレッドの女は雪崇に視線を固定したまま答えた。
「〈オレッド・エレメント〉の創立者、ロジオン・ブリューハノフ様の御息女です」
「それはプロフィールとして完璧じゃない」雪崇は女の語尾にかぶせて言った。「今の長ったらしい名前は結婚前ので、今は柾本マリアが本名のはずだ」
「――はい。確かに、雪崇様のおっしゃるような解釈も可能です」
「そうとしか解釈できねえよ」
「つまり、世界的な大富豪のご令嬢ってわけね」素芹子が仲裁するようにまとめた。
「雪崇君は、そのマリアさんってひとのこと知ってるの?」
まだ繋がりが見いだせないのだろう。リティーナが首を傾げるようにして訊いてくる。
「会ったことはない。写真で何枚か見たことがあるだけだよ」
「マーリヤ様は――」オレッドの女が自分の語りを再開した。「若かりし頃、モスクワの日本料理店に勤めていた男性と出会われました。ふたりは結婚を望むようになりましたが、相手が東洋人ということもあり、マーリヤ様は両親の同意を得られなかったそうです」
とはいっても、財閥令嬢として自由恋愛が許されていなかったから、というわけではないらしい。要は、国際結婚に否定的な保守派の家庭だったのだろう。
そもそも、オレッドはここ十年でのし上がった新興財閥だ。当時はまだアルミ業界における中堅どころの一企業でしかなく、政略結婚のような話とも縁遠かったという。
「ロジオン様の許しを得られなかったおふたりは、熟考の末、ロシアでの結婚は不可能と判断し、日本へ渡りました」
「駆け落ち?」リティーナが瞳を輝かせる。
間違いなく、最近夢中になっている昼のドラマから得た語彙だ。
「そういう言い方もあるようですね」女はうなずき、続けた。
その後、日本に逃げたふたりは結婚。
マーリヤは帰化して、雪崇の知る日本名「柾本マリア」を名乗るようになった。
「やがてマーリヤ様は、夫と各地を転々と移り住むうちに身ごもり、一九七一年に女児を出産されています。生まれた子は、万里恵と名づけられました」
その名が出た瞬間、リティーナは弾かれたように顔をあげた。
「雪崇君の、お母さん……」
「そうです」オレッドの女がうなずいた。「マーリヤ様の御息女、柾本万里恵様は日本で生まれ、日本で育ち、大学を卒業すると、在学中に知り合った相馬崇雅氏と結婚。翌年、二十三歳で第一子をご出産されました。それが、そちらにおられる雪崇様です」
「その七年後、今からいうと八年前かな」
雪崇はあとを奪い取るように続けた。
様付きで呼ばれても、この女の口から出るとなにかの蔑称にしか聞こえない。
オレッドの人間に自分の家族を語られるのもたまらなく不快だった。
「買収による事業拡大に成功し、世界有数の資源メジャーに成り上がった〈オレッド・〝クソったれ〟・エレメント〉の総帥ロジオン・〝ゲス野郎〟・ブリューハノフは、手にした巨万の富を使って、むかし出て行った娘と娘の子どもを日本でようやく見つけ出したんだ。で、ふたりを強引にロシアへ連れ戻し、自分の元で半幽閉生活を送らせた」
「雪崇君は、どうして連れていかれなかったの?」
「母さんはハーフだから、見た目もかなりロシア人に近かった。でも、俺はこの通りどっから見ても日本男児だろ。ロジオンからすりゃ、汚らわしい東洋の黄色い猿だったんだよ」
それにあの男は、雪崇にもっと別の使い道を見つけたのだった。すなわち人質である。
お前たちが黙ってロシアに帰るなら、赤ん坊は殺さずにおいてやる――。
その脅しに、マリアと万里絵は事実上、選択の余地を奪われることになった。
「驚いた」素芹子がすっと目を細めた。「雪崇。あなた、オレッド総帥のひ孫だったのね」
「いや、母さんが死んだことで、俺はもう相続権を失ったことになってるらしい。優秀な弁護士でもつけて、とっくの昔に法的にも辻褄を合わせてるだろうさ」
「でも、そのオレッドが今、またこうして現れた……と」
素芹子は見舞いに持ってきたはずの林檎を誰にも勧めようとせず、ひとりでシャクシャクやりながら続けた。
「確か、ロシアの新興財閥は二〇〇八年の世界金融危機で巨額の損失を出して、どこもかなり弱体化したのよね? オレッドも今は半国営化されてるはず。ここ一、二年の富豪救済策でまた持ち直してきたって話も聞くけど――そのゴタゴタの中で、なにか事情が変わったの?」
もちろん、これに答えられるのは当のオレッドをおいて他にない。
「私たちが雪崇様の元に参りましたのは、マーリヤ様からそのような命令を受けていたからです」女が言った。「有事の際はお側に付いて護衛させていただくのが、私たちの仕事です」
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、きのう俺の学校に来たやつらも、俺の護衛なのか?」
「そう。それをあなたは脊髄反射的に突っぱねたんです」
「では、あなたたちは昨日のような襲撃が起こり得ると予測していたのね?」
素芹子の質問に、オレッドの女はあっさりとうなずいた。
「雪崇様の身が早晩、危険にさらされるであろうことは予期しておりました」
「それはつまり、誰が何の意図で相馬雪崇を狙っているのか知っている、ということ?」
「はい。大体の筋は把握していると思っています」
「待った、待った。マリア婆さんに言われてオレッドの人間が俺を守りに来って言うなら、俺を狙ってるやつってのは誰なのよ?」
「もちろん、お望みであるならお話致します。しかし、この先はお互いにとってデリケートな話題になるでしょう。ここでこれ以上のことは――」
「話したくないってか」
「私たちは独自の警備および医療体制を整え、あなたをお迎えできます。最初の機会を逸した以上、相手もより高度に戦術を変えてくるでしょう。ここは既に安全ではありません」
「環境を提供するから、今すぐ退院して移動しろってことか」
これには考えさせられる部分があった。
無論、この女の話をすべて信じたわけではない。だが、新聞配達を装って、通りすがりに銃弾をぶち込もうという連中が相手だ。警官が詰めているとはいえ、この病院が必ずしも安全ではないという主張にはうなずけるものがある。
「分かったよ」雪崇は舌打ちして言った。「じゃあ、この場での話はここまでだ」
宣言し、唯一あと戻りの可能な人物に視線を投げかける。
「おい、素芹子。お前も帰った方が良くないか。家族も心配してると思うぞ」
「あなたが帰れと言うなら、この部屋からは出ていくけど」
でも――と、彼女はろくでもない種類の笑みを浮かべた。
「その後は自己の責任下において、私なりに独自の調査をさせてもらうことになるかもね」
雪崇は疲労感をそのまま吐き出すように、大きく嘆息した。
「まあ、そんな感じのことを言うとは思ってたけどな」
だが、これで当座の方針は決まったことになる。
雪崇はベッドから腰をあげ、左手だけで伸びをした。
「じゃあ、リティーナ。悪いけど、荷物まとめるの手伝ってくれ」




