エシュロンの契約者
016
前のめりに倒れかかってくる身体に、雪崇は踏み込みながら最後の右肘を合わせた。
インパクト時の威力より、むしろ当てた後の姿勢制御を重視する勁箭の一撃。
小男は意志とは無関係に数歩後ずさり、切り倒された巨木のように倒れていった。
近くに積み上げられていた地雷の山が金属音をあげる。
それはあたかも、勝敗が決したことを示す号砲のように木霊した。
雪崇は残心をゆっくりと解き、大きく息を吐いた。
紙一重の決着だった。自分自身、掴み取ったこの結末にまだ実感を伴えずにいる。
それほど、ナインライヴスの介入は雪崇にとっても唐突なものだった。
唯一確かな何かがあるとすれば、自分の両腕にまだ残っている重たい手応えだけだ。
――どうする。この状況から、どう奴を倒す?
ヴァシリーサがリティーナと姿を消し、雪崇自身、スレイヤーのブレットタイムに捕らわれた時だった。最初、ナインライヴスは雪崇のそんな自問の声として現われた。
否、その時はまだ本当に、自分で思考していただけなのかもしれない。
正確にいつからナインライヴスに自問自答を乗っ取られていたのか、それは分からない。
――どうやる?
焦る自分の声に、雪崇はともかく「プランはない」と返した。そして続けた。
だが、それでも勝つ。やつだけは自分の手で始末をつける。
――術は?
再び自問し、「弾が一発だけ、ある」と答えた。問題はどう当てるかだ。
――銃は?
いらない。もう射出されている。分かってるはずだ。俺は気付いた。だろう?
確かに――と、気付けばその声は、雪崇と口調まで寸分違わず同じものでありながら、もう完全にナインライヴスのそれになっていた。
〝なら、俺はその弾芯を標的に導く、照準装置ってとこだな。〟
最後に聞こえた、もはや自問自答とはなんら関係ない、あの言葉。
それについて〝あれ?〟と思った瞬間、いきなりナインライヴスにまつわる膨大な情報が雪崇の頭に雪崩れ込んできた。そして、種を埋め込もうとスレイヤーの手が伸ばされてくる時、眼前の小男を倒すための算段はもう、固まっていた。
自分の全てを余さずぶち込んでやるその方法を、雪崇は一瞬で得た。
「八年前――ロジオンが現れた時、俺の両親は奴の脅しに屈したわけじゃなかった」
もう聞こえていないであろうスレイヤーに、雪崇は小さく言葉を投げた。
「俺は足手まといでも人質でもなかった。そうじゃなくて、彼らにとって俺は切り札で、隠し弾だった。二人はあの日、無力化された風を装いつつ、それをぶっ放した」
それは雪崇自身、長く知らずにいたことだった。今日まで八年間も、である。
「ナインライヴスは諦めろ。俺のことは放っておけ。帰ったらアレクサンドルに注進してやれ。――でなけりゃ、弾丸は次にお前を狙うだろう。そう、伝えておけ」
それだけ言うと、雪崇は踵を返した。目蓋を閉じてもう一度、深く息を吐く。
心地よい疲労と、何か言葉にしがたい開放感のようなものがあった。あるいは達成感のような……。いずれであれ、それは誇っても良い感覚のはずだった。
「――駄目だろ、相馬クン」
不意に背後から声が聞こえた。
雪崇は戦慄と共に振り返りつつ、頭上を仰ぐ。
なぜそうしたのか自分でも不可解だったが、声は上から降ってくるように聞こえた。
事実、声の主は見上げる位置から現れた。
そして、仰向けに倒れたガリオンスレイヤーの喉もとに、膝から着地を決めた。
クキッという嫌な音が、小さいながらもはっきりと雪崇の耳にまで届く。
「こいつは人の姿をした害虫だ」
涼やか声音で告げ、細見の長躯が立ち上がる。
「被害の拡大を未然に防ぐためにも、きっちり駆除しとかないと、な?」
その姿、口調、どこか斜に構えたような微笑を雪崇は良く知っていた。
親友とすら呼べると思っていた男だ。播谷ケンシを見紛うことなどあり得なかった。
そして記憶が蘇る。
はじめてガリオンスレイヤーと会い、その衝撃から不覚にも気を失った時のことだ。
意識を手放す間際、見知った誰かが遠くに立っているのを雪崇は確かに見た。
あり得ない。なにかの間違いだろう。そう信じ、あえて忘却を選んだことを思い出す。
だが、あれは本当に間違いだったのか。眼前に突如現れ、ひと一人を殺害しながら何事もなかったかのように微笑んでいる彼の姿が、あの時垣間見た幻の光景と重なる。
「ケンシ……なんでお前、こんなとこに」
「先に言っとくけどな、お前、何かある度に連絡くれたろ。俺がこの場所を知ってるのは、そのおかげだよ。お前が教えてくれたからだ。ギフトは関係ない」
「なに言って――」
笑顔を作ろうとするが上手くいかない。
「なんでお前の口からギフトとか」
不意に、雪崇は日吉泪から受け取っていた忠告を思い出した。
〝裏切り者に気をつけろ〟。
あれはヴァシリーサの身内の話だとばかり考えていた。
「なあ、ケンシ。お前、俺の知り合いの裏山に……いなかった、よな?」
ケンシは無音の口笛でも吹くように、軽く唇を尖らせた。彼がよくやるおどけの仕草だ。
「このおっさんには気付かれなかったんだけどな」
この、という部分で、ケンシは自ら骸に変えた小男を一瞥する。
「ケンシ、頼むよ。ワケが……分からない。説明してくれ」
「勿論。そのために来たんだしな」彼は静かに言った。「まず訊かれたことから答えようか。――あの、陶芸家の裏山な。確かに俺はあそこにいたよ。と言うより、例のアメリカ人傭兵にお前の情報を流したのは俺だ。あの場は俺がセッティングしたとさえ言える」
雪崇はなにか言おうとした。が、言葉が見つからない以前に声帯がうまく機能しない。
「隠し事って点では、学校にオレッドの黒服が現われた時のあれもそうだな」ケンシが続ける「俺は何も知らないフリをしたが、ありゃ演技だ。俺は状況を全て把握していた。9Lsの存在も、お前とロシアとの繋がりも、入学前から知っていたことだ」
これをパニックと言うのか――
言葉は入ってくるが、中身を全然整理できない。
知らない外国語で話をされているようだった。それでいて、雪崇のなかの最も冷静な一部分は、いち早く大筋を理解しようともしている。
そう言えば、不思議に思ってたんだ……。
その冷静な部分が心の中でつぶやいた。
エロスやイノノウエと三人でつるみはじめた時、ケンシは自分からその輪に加わってきた。クラスの連中も首を捻ってたじゃないか。
なぜ三馬鹿に、あれだけレヴェルの高い男が接近したのか、と。
「お前の考えていること、当てようか相馬」
内なるその声を聞きつけたかのように、ケンシが言った。
「俺は高校入学に合わせて神奈川から越してきたよそ者って位置づけだった。だから同じ中学だったって知り合いもいない。いくらでも嘘はつける。現に今、隠し事の事実が判明した。なら、自分へ接近にも何らかの裏があったんじゃないか――?」
雪崇は息を止めて唾を飲み込んだ。指摘通り、それに近いことをまさに考えかけていた。
「なあ、相馬。9Lsの出土は、その業界じゃとっくに知れ渡ったビッグニュースだ。軍事利用だってできる力だぞ? 色んな人間が興味を示す。なら当然、契約者として選ばれそうな奴は真っ先にチェック対象になるってもんだ。9Lsが縁者型だった場合、選定され得るのは誰か? そんなの、誰もが真っ先に調べるさ」
「そん、な……」
「もうこの話は、オレッドとお前の内輪モメって図式じゃ収まらない。エンクィスト財団。ティーアクライス。聞いたこともないだろうが、こういう業界屈指の大手も動き出してる。それと、欧州を拠点にしてる〈スリングウェシル〉。これもその大手のひとつでね。――俺はまあ、そこの現地協力員みたいなことをやってる人間なんだよ」
「この間まで中学生だった子供が、か? 漫画の読み過ぎだろ」
「これで結構、人生経験豊富なんだぜ? 俺は。高校入学も今度が三度目になる」
ケンシはにやりとして続けた。
「相馬。契約者の実年齢を見た目で判断できるとは考えない方が良い。ブレットタイムを器用に使える奴の中には、俺を含め、肉体年齢の操作に手を出してる輩も多いんだ。そりゃ若い方が色々と有利だし、便利だしな」
「うそ、だろ……おい」こんな時にありながら、雪崇は笑いそうになった。「うそだろ?」
もうそうしないと精神がついてこない。そんな、防衛本能から出てくる笑みだ。
「じゃあお前も、ナインライヴスみたいな……お前にも、そんなのがいるのか。やつらは一体、なんなんだ?」
「やつらは、浜辺の波みたいに寄せては返し、返しては寄せ……歴史に干渉しつつ、経験値を積み上げている。そうして徐々に時を遡り――開闢点を目差すバケモノだ」
「かいびゃくてん……?」
「時間や空間が生まれた地点だよ。宇宙誕生の瞬間と言い換えてもいい。この世のスタート点。やつらはそこに到達し、誰が一番にそれを突破できるか競ってる。あのバケモノたちは、それぞれが独自のアプローチで、始まりの向こう側を目指してるのさ」
「突破してどうなる?」
「それを確かめるプロジェクトなんだろうな。俺もバケモノどもから聞き出した情報の断片を総合して、自分なりに推理しただけだ。詳しくは分からない。だがまあ、時空連続体が開闢する前の世界。そこに到達し、干渉できるっていうなら、それはもう神の領域だ」
「神の座をかけた時間逆行レースってことか」
「そう。でもまあ、それは俺たちが考えても仕方ない。関係ないことだしな。話を戻して、お前の最初の質問に答えよう。俺にもバケモノが憑いてるのか? だったな。察しの通り、それに対する答えは、イエスだ」
もう驚きはなかった。単に感覚が麻痺しているだけかもしれない。だが、素芹子を倒した時、彼がギフトを使ったのだろう、ということは確信できた。
「業界的には〈階梯〉と呼ばれてる。俺はエシュロンの契約者だ。今度の騒動は、9Lsやガリオンが関わる案件だからな。契約者でなけりゃ関われないさ。俺は、ちょうど日本で学生としての偽装経歴を作ってたところだった。お前の監視役としては色々と好都合だったんだよ」
「お前のことを……」雪崇はなんとか言った。「お前のこと、他とは余裕が違うとか、大人っぽいとか、そんな風に感じて惚れてた女子も多かったんだ」
「それが実際、大人でしたってか」ケンシはにやりとする。「酷い詐欺だな」
それからケンシはその笑みをすぐに引っ込め、少しうつむき加減になった。
「女なんざどうでもいい。それより、黒須あきらの件だ」短い沈黙の後、ぽつりと言う。「あのことについては、本当にすまなかったと思ってる。その気になれぱ、俺は奴を助けてやれたかもしれない。可能性はあった。だが仕事のために、その可能性に背を向けた」
「……えっ?」唾を飲み、雪崇は改めてケンシを見つめ返す。
「俺は一刻も早く9Lsの所有者を確定させる必要があった。こんなゲームもはじまったしな。この調子で争奪戦の規模をデカくするより、安全牌であるお前を契約者にする方が、情勢的には安定する。それがウチの判断であり、俺の個人的見解でもあった」
雪崇はぽかんと口を開けた。――だが、確かにそれで色んなことに説明はつく。
特に、裏山での襲撃の件だ。
あれは、尾行を完璧に警戒した上で裏をかかれた失態だった。
護衛たちも自分たちのどこに落ち度があったのか首を捻っていたほどである。
だが、ケンシが裏で情報を操作していたのなら認識は変わる。猟犬やスレイヤーをけしかけ状況を活性化させつつ、しかし雪崇を殺すまでは至らせない――。
「なら、あの時、ガリオンスレイヤーがやけにあっさり退いたのも……」
「俺との密約があったからだよ。奴に与えたのはお前ではなく、お前という餌に釣られてまんまと姿を現した、アメリカ人傭兵だった」
つまり、傭兵に情報を流し、おびき寄せる。
これによってスレイヤーには労せずライバルを始末する機会を与えるが、条件として雪崇には軽くちょっかいを出す程度に留めさせた。
結果、雪崇は状況的に追い詰められ――それは最終的に、モニター選定を急がせるべくナインライヴスへのプレッシャーとして機能した……。
実際その日の夜だ。ナインライヴスが夢に現われたのは。
「俺らは」雪崇は乾いた唇を舐めつつ、言葉を継いだ。「掌の上だったってことか? 全部、お前のお膳立てで……」
ケンシは否定しなかった。ただ言った。
「ナインライヴスという存在は、戦争すら呼びかねない火種だった。ボヤで済ますには、これしかなかったんだよ」
「俺が死ぬのは困る。けど、のんびり日常生活されても困る。だから適度に追い詰めるために状況を利用したってのか。それで黒須あきらは死んだと。俺と――お前のツレがだ!」
「9Lsの争奪戦が拡大して、もっと多くの死傷者が出るのを、俺は防ぐ必要があった」
気色ばむ雪崇を、意志を秘めたケンシの双眸が真っ直ぐ見つめ返す。
「相馬、あいつらを助けられなかったことは重ねて謝る。でも俺は、同じ局面がくればまた同じ選択をするよ。それに関して議論するつもりはない。今日ここに来たのはそうじゃなくて、ただお前に――できれば、今後について助言できればと思ったからだ」
「助言だ……?」その声は、我がものながら尖って聞こえた。
「俺は同じ契約者として、これからお前がどうなるか多少なりとも想像がつく。大規模な争奪戦こそ収まるが、それでも今後、お前には色んな影やしがらみがつきまとうだろう。だから、新しくできたロシアの友人は大切にしろ。彼らに、知らざれる社会の側面を学べ。ブレットタイムは強力だが、完全無欠の盾じゃない。お前は相変わらず食わなきゃ死ぬし、呼吸も必要だ。精神のダメージ、疲労、情報操作は防げない。敵の立場になって穴を探せ。それを塞げ。常に、だ」
雪崇は答えず、黙ってケンシを見つめ返した。
真意を図るように、長いことそうしていた。
「――なあ、お前、結局どっちなんだよ」
どれくらいしてか、静かに問うた。
「色々偽ってたか思えば、今度はアドバイスときた。結局、なにがしてえんだよ」
「今のは友達として最後にできる忠言だ。他意はない。確かに、俺は仕事でお前に近づいたよ。でも、仕事とは別の部分で、お前らといるのを楽しむことができた。信じてくれとは、もう言えないが」
「分からねえよ。そんなこと……」
髪をかきむしるうち、その声は徐々に叫びへと変わっていった。
「急すぎんだよ、何もかも。なんで、今になってこんな」
「すまん」もう一度言って、ケンシは数歩ゆっくりと後ずさった。「ただ、こうして姿をさらすことは、仕事に徹するならなんら必要の無かったことだ。真実を話す必要も、な」
「イノノウエに――こんなこと、どう話せっていうんだよ。俺、なんて言うんだ」
「でも、お前にしか頼めない。……悪いな、相馬」
後ろ向きに歩き出しながら、ケンシは片手を立てながら片目を閉じて見せた。
学食の自動販売機で頼まれた缶コーヒーを買って渡した時、頼まれていたCDを持参した時、それは彼が決まって見せた仕草だった。
雪崇の良く知る――間違いなく、播谷ケンシの仕草だった。
不意に頭上で強い風が吹き、辺りの木々がざわめきだした。
古墳を覆っていたブリットタイムが解かれ、周囲との時間同期が戻ったのだ。
雪崇がそのことに気付いた時、ケンシの姿はもうそこになかった。
彼が運び去ったのか、転がっていたスレイヤーの遺体も忽然と消えている。
残されたのはただ、役目を終え空しく転がる地雷の残骸だけだった。
黄昏時が迫り、風が冷たくなりはじめている。
斜陽の赤味を帯びた光が、その地雷の小山を鈍く輝かせていた。




