〝崇〟を刻んだ弾丸
015
円墳の上部は雪崇の記憶にある通り、まばらに芝の生えた広場になっていた。所々露出した地肌は、動物の病的な皮膚のようでもあった。全体的に馬の背を思わせるなだらかな起伏があり、足場は世辞にもよろしくない。片隅に木製のテーブルとベンチがある他は、公園としての体裁すら備えていないように見えた。
「どう、思う……?」雪崇はベンチに浅く腰を落としながら声を投げた。
「裏切りの話ですか?」
ヴァシリーサは訊く前から眉間にしわを寄せていた。
「このチームを編成する際、可能性は考慮しました。オレッド本体なら、スパイを紛れ込ませるくらいは考えるでしょうから。当然、事前調査を徹底し、関係者は信頼のおける人間で固めています」
彼女としては、いまさら味方を疑う気にはなれない、ということだろう。
「まあ、気にし過ぎてもな」曲げた左腕を枕にして、雪崇はベンチに横たわった。
頭上には春の青空が広がっている。まぶしいくらい純白の雲が穏やかに流れていた。
こちらは生き死にをかけて目の色を変えているというのに、世界はなんらそれに頓着していない。必死なこっちが莫迦に思えてくる。
そんな眺めに軽く脱力しつつ、雪崇は起き上がってヴァシリーサの元へと向かった。
いくつかの確認を行いつつ、彼女とスポーツでいう試合場の最終確認を進めていく。
特に今回、このチェックは絶対に必要だった。なぜなら昨夜のうちに、護衛が辺り一帯に無数の地雷を埋め込んだからである。彼らの用意した罠を有効にいかし、かつ自爆という最悪のミスをやらかさないためにも、雪崇は配置を完全に記憶しておく必要があった。
「それから、地雷とは別にもうひとつ。木々の間にはこのように――」と、ヴァシリーサが紙粘土の袋を放り投げた。「ピアノ線のようなワイヤーが張られています」
どさりと重い音を立てて粘土が落ちる。
音が二重に聞こえたのは、ブレード加工されたワイヤーがそれを見事に両断したからだ。
「状況次第では周囲の木立に逃げ込むのも有効な手です。ただし、必ず指定のルートを通って下さい。スレイヤー用に調整していますが、ワイヤーはあなたにとっても危険な存在ですので」
「OK。ギフトで標本状態にされなけりゃ、逃げるふりして誘い込んでみるよ」
直接攻撃がきかないなら、もう罠に嵌って自滅してもらうしかない。
だが、雪崇の返答がどうしても上の空になってしまうのは、それでは解決しきれない大問題が残っているからだった。すなわち、ヴァシリーサの脳に植え込まれた死の種子である。たとえスレイヤーを倒せたところで、それが消えてなくなるわけではない。
結果として、ヴァシリーサは死ぬ。最悪の結末は覆らない。
と、耳元の無線機が微かなノイズを放った。
「A6より各位」幾分固い、かすかな訛りを含んだ日本語が聞こえてくる。「只今、〈HS〉で対象を確認した。繰り返す。〈HS〉下り線にて対象を目視で確認」
連絡を聞きながら、雪崇はヴァシリーサと目を見合わせた。
〈HS〉はJRの最寄り駅を示す符丁だ。つまり、「まずあり得ないだろう」という大方の予想を裏切り、スレイヤーはのん気に電車に乗ってやって来たのである。
「HSからならタクシーを拾えば三分、徒歩で十分ですね」ヴァシリーサがつぶやく。
「読めねえやつだ。こっちが土壇場で車使って逃げ出したら、どう追跡するつもりだ?」
「分かりません。よほど自信があるのか、油断しているのか……」
「やつの雇い主が自分もで動くタイプなら、乗り物を用意して近くに潜んでる可能性もあるな」
「そちらに関しては、予定通りA班が捜索中です」
ふつうなら、雇い主はロシアで結果を待つだろう。だが今回のケースでは来日している可能性の方が高い――。それが日吉一族から聞かされた分析だった。その根拠として、このゲームでは相続人同士の妨害工作や暗殺が認められていることが挙げられる。
相続人たちが雇った猟犬は、同時に彼らを守る番犬でもある。
ルールで雇用できる人員が制限されている以上、離れて独りで隠れるよりは、共に日本へ渡って守られる方が大きく安全、という思想だ。
「頼むぞ」雪崇はほとんど懇願口調で言った。「なんとしても見つけ出してくれ。スレイヤーも結局は雇われの身。雇い主を生け捕りにすれば身動きできなくなる。もう――」
〝それがお前を助けられる唯一の手段かもしれない。〟
喉から出かけたその言葉を、雪崇はすんでの所で押しとどめた。
本人が一番よく理解していることを、改めて指摘することに意味などない。
雪崇はかぶりを振って、一端、思考をリセットした。素芹子に無線のことを報せる暇がなかったことを思い出し、無線機のリモコンを取り出す。彼女がまだポシェットの中身に気付いていないなら、スレイヤー接近の無線連絡を聞いていないかもしれない。
373.0250Mhz。素芹子が弄っていないなら、この周波数で繋がるはずだった。
「素芹子、聞こえるか。緊急連絡だ。素芹子、応答してくれ」
呼びかけて耳を澄ますが、声は返らなかった。
しかし、無線機自体の電源は入ったままらしい。高性能集音マイクが鞄越しにも環境音を拾っているのが分かる。おそらく、古墳を覆う木立のどこかだ。足場の悪い所を移動していることは間違いない。枯れ枝や草を踏みしめる音が思いのほかクリアに聞こえた。
手っ取り早く一度、携帯電話で呼び出すか――
そう考えはじめた時、素芹子の移動音が止まった。
「大胆なひとね。包囲網の存在を知りつつ、こんなところを平然とうろつくなんて」
無線が拾った彼女の言葉に、雪崇は息を止めた。
まさか……と、スレイヤーに遭遇してしまった可能性を思い浮かべ、すぐにその考えを振り払った。第一、時間的にあり得ない。
あの小男が到着するまで、速くてもあと数分かかるはずだった。
「一応確認するけど、あなた――」と質しかけた素芹子の声が、不自然に途切れた。
遮って相手が自ら名乗りはじめたのか、その後しばくの空白が挟まれる。
ややあって、素芹子が「そう」と短くつぶやいた。
「で、あなたも何かのスレイヤーなの?」
この質問は、一瞬だけ雪崇を安堵させる意味を持っていた。
相手がガリオンスレイヤーなら、こんな質問をすることはあり得ない。
やはり、相手はあの小男ではないということだ。
だが、代わって雪崇を襲ったのは「なら、誰だ?」という疑念だった。
誰だ。素芹子、誰と話してる――? 届かないと知りつつ、つぶやくように問いかける。
「なるほど。それで、ガリオン殺しがあなたを探知できなかったのもうなずける」再び彼女の声が言った。「でもこれ以上は看過しておけないのよ、こちらもね」
「雪崇様」異変を察し、ヴァシリーサが距離を縮めてきた。
「なあ、須芹子の居場所、分かるか」すがりつく思いで訊いた。「誰かと話してる。味方じゃない。普通じゃないんだ。なんか、凄ぇヤバイ感じがすんだよ」
「まさか」アイスブルーの目が大きく開かれる。「ガリオンのスレイヤーと……」
「いや、それとはちょっとちが」
意識して止めたのではなく、喉の筋肉の引きつりが雪崇の言葉を途切れさせた。
気付いたのは、たぶん三人同時だっただろう。
昨日会った時と全く変わらない出で立ちで、スレイヤーが立っていた。
距離にして約十歩。広場のど真ん中、位置的には雪崇たちの真正面に近い。
ここにいた三人の視界と広場を横切る形でしか辿り着けないポイントだ。なのに、誰もがなにも見ていなかった。気付かなかった。突然、無から生じたように彼は出現していた。
「やあ、ちゃんと来たねえ。相馬クン」
タイミング的には間違いなく最悪と言えた。無線越しに、須芹子サイドにも動きがあったことが伝わる。足場の荒れる音と、早くなった彼女の呼吸音。交戦に入ったのだ。
誰か早くフォローに。なんでも良いからあいつを止めてくれ――。
もうその叫びは飲み込むしかない。代わりに雪崇は対峙する相手を睨み付けて、言った。
「要求通りに出向いてやったんだ。まずはこっちの要求を聞いて貰うぞ」
「ふうん」素早く二度瞬きし、小男はにやりとした。「昨日とはすっかり別人じゃない、きみ」
無視して告げた。「まず、ヴァシリーサの頭から種を取れ。できるんだろ」
「んー、どうだろうねえ」
「とぼけるなよ。BC兵器を作るやつは同時に特効薬やワクチンも必ず作る。あんたも同じはずだ。でないと用途や応用範囲が限られるからな」
「でもさあ、考えてみてよ。そのコを助けて、オジさんに何かメリットある?」
「あんたは俺を殺れればいいはず。他のことにメリットもデメリットもないだろう」
「それだけじゃあなあ……」小男は余裕たっぷりに雪崇たちから視線をはずし、景色を眺めた。「まあ確かに、オジさんなら植えた種を取り除けるけどね」
雪崇は左手が稼動するかを密かに確認した。動く。まだギフトにはとらわれていない。
一方で、半径二十メートルという敵の最低射程に入り込んでしまっている事実もある。
「大体、相馬クンさあ、それはちょっとないんじゃないの? 今から殺されるんだよ、きみ。もっとこう、鼻水垂らして額を地ベタにこすりつけてさ。相手の靴べろべろ舐めてでも助かりたいって態度を全面にだしてもらわないと。そういう準備をしてきてって言ったよね?」
「もう、そういうのじゃない」雪崇はゆっくり首を振った。「そういう話じゃないんだ」
「……なにがだい」声音の変調に気付いたか、小男が表情を変える。
「俺のは、ヘラヘラ笑ってるお前みたいなのにくれてやれる物じゃないってことだ」
――思えば、連綿と続いてきた戦いだった。
柾本マリアとその夫。彼ら祖父母にはじまり、万里絵、相馬崇雅。そして雪崇……。三代に渡る一族の歴史は、ロジオンの呪縛とオレッドの壁に挑み続ける戦いの記録だった。
「生まれた瞬間からそうだった。大層な名前つけて、勝手に期待して。みんなして俺を生かすために自己犠牲やらかして。代わりに死んで。……いい加減、重すぎなんだよ」
母と祖母は家族と引き離され、そのまま死んだ。父も不戦という屈辱に身を浸してきた。
黒須あきらに至っては、望まぬ身代わりになって殺された。
犠牲の上に自分という存在が成り立っている事実。その意味。
今まで死ぬほど考えてきた。
「俺の命には他人の人生が乗ってんだ!」雪崇は拳を奮わせながら怒号を発した。「もう俺だけのものじゃない。てめえなんぞに軽々しくやれねえんだ」
「いいねえ。そういう立場のある子って好きだよ。それが叩きのめされて、悔しくて震え泣いてさ。それで畜生って絞るように言ってるところをブチッと潰す。これがもう最高なんだよ」
愉悦に浸るその男を見て、思った。
祖母も母も命を使って戦い、しかし帰らなかった。だが、俺はそうはいかない。
いつか彼女たちの強さと勇気に追いつきたいと願っていたが、現実は時間をくれなかったということだ。俺は命を使ってスレイヤーと戦い、かつ帰る必要がある。
先人たちにもできなかったことを……
今この瞬間、この場所で。あの偉大な人たちを超えなくてはならない。
「じゃあ、相馬クン。もうお喋りの時間は終わり。交渉は決裂ってことで良いのかな?」
「てめえが大人しくヴァシリーサ助ける気がないってんならな」
「オジさん、大人げない大人だから。子どもの頃の瞳の輝きをまだ心に持ってる派だから。残念だけど助ける気はないよ。君がアタシに力尽くで強制できたら、話は別だけどね」
「そうかい」
状況はなにも変わらず、勝算などなにもない。それでも不思議と、もう恐怖はなかった。
「この身、この腕。俺は……」
確かめるように唱えながら、雪崇は一歩踏み出した。
「その娘の種が発芽するまで、あと十二分だ。がんばってオジさんのことやっつけてね」
答えるかわりに雪崇は間合いを一気に詰めた。
周囲は巧妙にカムフラージュされた地雷原。
相手の一歩手前に危険箇所があるため、加速をそのままに飛び越える。
不自然な跳躍は、そのまま跳び蹴りに移行することで必然に変えた。
「契約者のことを少し教えてあげよう」
捕らえたと思った瞬間、相手の声がいきなり背後から聞こえた。
直後、死角から重たい衝撃を受けて雪崇は地に叩きつけられた。
左の腎臓あたり、おそらく拳を打ち込まれたか。咳き込みながら芝の上を転がる。
「ひとつ。すべての契約者に共通するギフト。これは、前にも見せたでしょ? 最近は〈ブレットタイム〉なんて洒落た呼び方が業界の流行らしいんだけどね」
知ってるよ。
口内に入り込んだ砂利を唾と一緒に吐き出しながら、雪崇は声にせず言った。
ブリーフィングのあと、素芹子に改めてレクチャーしてもらったことのひとつだ。
「ちょっと難しい原理らしくてさ。ほら、〈マトリックス〉って映画があったでしょ。相馬クン、知ってるかな? あれでさ、拳銃の弾を主人公が仰け反ってかわすシーンがあったじゃない。あの撮影技法をね、その畑じゃ〈ブレットタイム〉って言うらしいのよ」
まあ確かに、似てはいるんだよね。スレイヤーは軽い口ぶりで続けた。
「オジさんたちは、確かに世界をああいう風に認識することができる。なぜって基本的に、ブレットタイムの内部では時間がカタツムリくらいの速度で常に逆行してるからね。ガリオンやナインライヴス自体が、常に過去へ向かって遠ざかる存在だしさ。彼らの力を借りれば、進めたり止めたり遅らせたり……結構自由なんだよ。音速程度の鉄砲玉なんて、何の脅威にもならない」
「パラメータの仮想化とやらだろ。話には聞いてるよ」
「あれ、相馬クン、知ってたの? なんだぁ、先に言ってよ。手間が省けたのに」
現実世界が縦・横・高さ三つの軸を持つ三次元世界であることは、雪崇も知っていた。
だがKK理論だとか超弦理論とやらに代表される物理学の分野では、五次元どころか十プラス一次元などという、想像も付かないような世界の存在が予測されているらしい。
素芹子曰く、ガリオンやナインライヴスといった化物たちは、世界に対してそういう高次的なスケールから実際的な干渉ができる。
その成果のひとつが、物理現象のエミュレートだ。
すなわち、現実と完全な互換性を持つパラメータや反応の生成。
彼らの仮想環境で得られた事象は、〝量子の重ね合わせ〟にも似た状態を経て、現実世界に持ち込むことができるのだという。
この技術の前では、時間や因果律、存在確率ですら気軽に操作できる些末な存在でしかない。終息したはずの波動関数は再び開かれ、干渉を経て任意の結末へ誘導される。
『雪崇にも分かりやすく表現すると、TVゲームの改造セーブデータってとこね』
実際、素芹子の説明で、唯一理解できたのがその部分だった。
「PCで不正改造したデータを、元のゲーム機に読込ませるようなもんらしいな、それは。スタート直後から限界まで育ったキャラクターでプレイできたり、元はなかった機能をフル活用して、楽に進めた状態からゲームを再開できる。……要するにインチキなんだろ?」
雪崇の問いに、スレイヤーは皮肉な笑みと両肩をすくめるジェスチャーで応えた。
そして言う。「あと九分だ」
雪崇は思わずヴァシリーサを見た。彼女は大口径の拳銃を持ち、いつでも援護に入れるよう戦況をうかがっている。だがその顔色は心なしか青ざめて見えた。
「クッ……」奥歯を噛みしめ、雪崇は再びスレイヤーに向かった。
すぐには仕掛けず、軽い牽制をおり混ぜて相手を崩しにかかる。
小男は自然体でこれに対応してくるが、そのさり気ない所作からも分かることがあった。
この男の高い近接格闘技能だ。その気ならギフト抜きでも、最初の跳び蹴りの時に関節を破壊され、転がったところを滅多打ちにできただろう。
「もうすぐ残り五分を切るよ。慎重だね、相馬クン。それともなにかを待ってるのかな?」
返答の代わりに前蹴りを繰り出すが、あっさりといなされる。
ここまで、まだ有効打は一撃も打てていない。ただ残り時間と体力だけが削られていく。
「あ、もしかして相馬クンさ」スレイヤーが悪戯を思いついた悪童のような笑みを浮かべた。「オジさんに地雷踏ませようと思って、がんばってたりするの?」
言葉と同時、周囲の土壌に変化が現れた。
あちこちで土が独りでに隆起し、ボコリと小山を形成する。地中に潜んでいたモグラが一斉に顔を覗かせようとしているようだった。やがて盛り上がった山々は表面の芝を破り、噴火のように人工物の塊を吐き出しはじめた。
「物騒だよねえ。こんな公共の場に地雷なんてさ。しかも粗悪品が混じってるね、これ」
埋められていた地雷が一斉に宙に浮き、スレイヤーの胸の高さで制止した。
小男のずんぐりとした指が、手近なひとつを軽く弾いて弄ぶ。
「ガリオンのユニークギフトは、有機物への支配的な干渉。この干渉ってのは、なにも誰かの身体にメスなしで手を突っ込めるだけじゃない。情報を引き出したりもできるんだよ。命を持っているなら、もう、それこそどんな物からもね」
その口ぶりから、雪崇はほとんど直感的に理解した。
小男の言う有機物が細菌などの微生物を含めるなら、それは大気中はもちろん、海に地中にと、地球上のどんな場所にも存在することになる。
「その顔、オジさんな言いたいこと分かったみたいだね」スレイヤーがしたり顔で続けた。「キミの考えてる通りだよ。目に見えなくても、世は無数の有機物で満たされてる。彼らはみんなオジさんの味方でね。微細すぎるせいで扱える情報量も知れたものだけどさ。でも、地面に変な物が埋まってたら教えるくらいのことは、まあ、してくれるんだよねえ」
「どこにいようと俺の居場所が分かるってのも、ハッタリじゃなかったってことか」
「そう。君も呼吸はするでしょ? 一緒に細菌も吸ったり吐いたりしてる。それを辿れば」
あとは言わなくても分かるよね、とばかりにスレイヤーは続きを笑みで代弁した。
「どうしたの、相馬クン。どうも顔色が優れないみたいだけど。あと三分しかないよ?」
「……ッくしょう」
最後の手段として両脚の枷を外そうと体勢を変えた時、静かな声が雪崇をとどめた。
「――雪崇様」
命をやりあう場に似つかわしくない響きに、誰もが一瞬そちらへ意識をとらわれる。
「ありがとうございます」
ゆっくりと頭を下げたヴァシリーサは、いかなる表情も浮かべていなかった。
ただ、全てを受け入れた者の超然としたたたずまいで雪崇を見つめていた。
「お力添えを賜り、私自身も手を尽くしましたが、どうやら間に合わなかったようです」
敵を前にしてあり得ないことながら、雪崇は構えていた腕をだらりと垂らした。
自分の腹で燃えるように盛っていた熱気が、急速に萎んでいくのが分った。
「この場に留まって、お見苦しい姿をさらしたくはありません。当事者として勝手な申し出ですが、せめてお目に触れない所まで場所を移させていただき、その時を迎えたいと思います」
「えー? オジさん、相馬クンに眼の前で見て欲しかったんだけどなあ」
そうは言いつつも、スレイヤーの声に断固とした否定の意志は感じられない。
受け入れた時と拒否した時、どちらがより楽しめるか決めかねているのだろう。
「スレイヤー、あなたはヒッチコックに学ぶべきだ。全て見せるだけが恐怖ではない」
「見せないことで想像をかき立てる演出もあると?」小男の唇が歪む。「フム。ま、口車にしては良い方かな。じゃあ、いいよ。確かに、たまにはそういうのも面白い」
――では。そう言って、ヴァシリーサはさっさと身体の向きを変えた。
だが歩き出した直後、大きく体勢を崩す。既に脳付近で発芽がはじまり、神経を冒しはじめているのかもしれない。近くにいたリティーナが慌てた様子で支えに入った。
最初こそ助けを拒むような仕草を見せたヴァシリーサだったが、選択の余地がないことは誰の目にも明らかだった。
やがて現実を受け入れた彼女は、メイドの肩を借りて歩きはじめる。
寄り添うふたりの後ろ姿はゆっくりと雑木林へ向かい、そして消えていった。
残り時間は二分弱。
足取りを見る限り、もう本当に身を隠す程度のことしかできないだろう。
「――心配しなくても大丈夫だよ、相馬クン。今は僅かな可能性にすがっていればいい」
スレイヤーが愉しそうに言った。雪崇はその顔を惚けたように見つめる。
「結果はあとでキチンと教えてあげるから。髪を掴んで引きずってくれば分かることだよ。あれだけ綺麗な女の子でも、死体になればそう美しいもんじゃないってさ」
気を緩めたら、胃の中身が逆流して口から飛び出そうだった。胸の内側で荒れ狂っている、この冷たく巨大な感情の塊はなんなのか。それをなんと表現すべきか雪崇は知らない。
そして輪をかけるように、耳にはめ込んだ無線機はもうひとつの破局を伝えてくる。
荒立たしい足運びが生むノイズと、肺から強制的に空気の抜ける音。
それは今まで続いていた素芹子と何者かによる戦闘の、まさに決着を告げるものだった。
重い何かが地に崩れ落ちる響きと同時、少女の声にならない苦痛の呻きが耳朶を打つ。
やがて、静まった世界に荒い呼吸だけが取り残された。
だがそれも徐々に力を失っていき、ある瞬間、ふと途切れた。静寂が訪れる。
ロウソクの火が最後の揺らめきと共にかき消え、暗闇が訪れるような――
なにかが永遠に失われたことを示す、無常の沈黙だった。
「どうしたの、顔色悪いじゃない。相馬クン」
にたにた顔が弾む足取りで近づいてきた。その背景で、宙に浮いていた全ての地雷が糸を切られた操り人形のように、次々と落下しはじめた。
「キミの彼女も、そろそろ派手な噴水に変わる頃だ。こっちもフィナーレといこうか」
小男の笑みが一層深まる。呼応するように、雪崇は場の空気が変調していくのを感じた。
敵が遂に〝伝家の宝刀〟を抜いたのだと気付いたのは、その直後だった。
首から下、指先ひとつ動かすことのできない完璧な緊縛が、いつの間にか完成している。
見えざる〈ギフト〉の手に絡み取られ、全身から一切の自由が奪われたのだ。
「どう? これね、タネをばらしちゃうと、キミを包み込む空間の時間を止めてるだけなんだよ。時間が凍結した空間はいかなる干渉も受け付けない。まあ、顔の周りだけは自由にしてあるけどね。じゃないと相馬クン、呼吸もできずにすぐ死んじゃうからさ」
その通りだった。こいつは百通りのやり方で、手も触れず人を殺せる。
「そう、種なんて本当は必要ないんだよ。でも、オジさんは敢えて種や道具を使うんだねえ。なぜって、そっちの方が楽しいじゃない。相馬クンにも是非、味わって欲しいなあ」
と、木立の方から大きな葉音が聞こえ、スレイヤーがそちらを見た。
雪崇も顔だけ動かし、同じ方へ視線を投げる。
鮮血に塗れたリティーナがそこにいた。蒼ざめ、涙の筋が頬にくっきりと刻まれている。
その夥しい返り血の量と虚ろな瞳が、何を見てきたのかを雄弁に語っていた。
「雪崇、くん……」
夢遊病のような足取りで、彼女はふらふらと歩いてくる。
「あんなの……ひどいよ。あんな、あんなに……」
「リティーナ」名を呼び、雪崇は奥歯を噛みしめた。
逃げろ、とは言えなかった。そう叫んだとしても、届かないことは歴然としている。
救いがあるとすれば、スレイヤーが傍観の構えを決め込んでいることだけだった。
「ヴァシリーサさんが……ヴァシ……」声が喉に詰まり、リティーナの眦でまた新しい涙の粒が膨れはじめた。「ひどすぎるよ。あんなに……」
彼女は辿り着いた雪崇のシャツにすがりつき、それでもずるずると膝から崩れ落ちていった。
「雪崇君、この人、を、やっつけて」
へたりこんだ彼女が、震えながらスレイヤーに視線を突き刺した。
「この人は、悪い、人だよ。ヴァシ、リーサ、さんは、構わないって、言った、けど……雪崇君、命がけで、守ろうとしてくれたから……それで、もう、充分だから、雪崇君……に、逃げるように、伝えてって、言ってたけど。満足って、言ってたけど。でも、あんな、酷い……」
ばかな奴だと思った。自分の価値をなにも理解していない。
街を歩けば誰もが彼女を振り返っただろう。
隠された優しさに触れた多くの男は、命も惜しまないほど惹きつけられただろう。
だがそれだけの魅力に、本人が誰より無理解だった。
「それを、この人は嗤っ……て。やっつけ、ないと。また……また、次の人が、ひどい、ひどいこと……ヴァシリーサさん、みたいに……また……」
嗚咽混じりに懇願の言葉が投げかけられる。雪崇は黙ってそれを聞いた。
「お願い……」
「リテイーナ、自分の言葉を思い出せ」雪崇は静かに言った。「正しいと信じることを貫けるタイプなんだろ、俺は」
潤んだ大きな瞳が雪崇を見詰める。そして、彼女はこくりとうなずいた。
「なら、黙って見てろ。言われなくてもこいつは始末する。今、ここでだ」
「ほほう」嘲笑いながら男はあごを撫でる。「そりゃあ、なんとも興味深い話じゃない。そんなことが本当にできるなら、差し支えない範囲でプランを聞かせてほしいな」
「害獣を撃ち殺すのにプランがいるか? 狙いをつけてぶっ放す。それだけだ」
「確かに銃は誰でも撃てる。でも、キミは肝心の銃を持っていないし――相馬クン、どんな弾もおじさんには当たらない。キミが一番良く知ってることだよね?」
「残念ながら弾が普通じゃなくてね。絶対貫通弾なんだよ。お前じゃ防げない」
「いいねえ!」スレイヤーが笑顔を張り付かせたまま、眼に凶暴な光をぎらつかせた。
叫びと同時、右腕を真横に振る。無意味に虚空を凪ぐだけの動作――。
そう思った瞬間、リティーナが見えない四tトラックに跳ねられた。
……そうとしか思えない現象だった。悲鳴をあげる間もない。少女の華奢な体躯がいきなり吹っ飛び、川面を跳ねる水切り石のように地面すれすれを豪速で滑っていく。
「さあ、邪魔なギャラリーは退場したよ。キミも好きに暴れられる。できるならね」
身体は依然としてピクリともしない。だが雪崇は、皮膚の内側で全身の筋繊維が荒れ狂っているのを感じた。血流の加速に至っては、もう暴走に近いものがある。
「期待してるんだよ、相馬クン。頑張ってよ」
言いながら、スレイヤーは懐から安っぽいプラケースを取り出した。例の〝種〟を収めた容器だ。ずんぐりとした指が、中から二つの茶色い塊を摘み上げる。
「これはランダムタイプの種でね。五分以内に必ず発芽するけど、いつかは分からない」
種子を持ったスレイヤーの手がゆっくりと伸びてくる。雪崇は額、左腕と、順に異物が体内侵入してくる感触を生々しく感じた。生理的な嫌悪感に吐き気が催してくる。
「よし、と」作業を終えた小男が二歩下がって言った。「それは体温に触れ続けることで活性化して、目を覚ます。あとはいつ発芽しておかしくない。今、この瞬間でもね。言ったように、もっても五分だ。それまでにがんばって、オジさんのことやっつけてみてよ」
スレイヤーはパチンとプラケースを閉じ、雪崇の顔を間近に覗き込んだ。
「いやあ、楽しみだなあ。相馬クンがどんな手でくるのか、オジさん年甲斐もなくドキドキしてきちゃったよ。ほらほら、ブレットタイムは解除してあげるからさあ」
言葉と同時、本当に全身を圧迫していた見えざる戒めが消え去った。
雪崇はゆっくりと右手を開閉して、思いがけず戻った自由の感触を確かめる。
「しかし、あと五分で終わるかと思うと……これは相馬クンも自分で言ってたことだけどさあ、キミの人生って、本当になんだったんだろうねえ?」スレイヤーが感慨深げに目を細めた。「祖母や両親――まあ、この辺は分かるとして、最近じゃついに無関係のお友達まで身代わりにしちゃったんでしょ? まったく、業の深い話じゃない。しかもそれだけやっておきながら、相馬クン自身はここであっけなくジ・エンドときてる」
浮かばれないよねえ。小男は芝居がかった仕草で首を左右する。
「特にキミのお母さん。あれは悲惨だった。――相馬クン、知ってたっけね? 彼女がロシアに連れ去られた後、どこに入れられようとしたか」
「さあな」雪崇は感情を込めずに言った。「お前には関係のない話だ」
「ははあ」
スレイヤーは意味深めいた声をあげると、愉悦の表情をより深めていく。
「その様子だと、やっぱり知ってるみたいだね。まあ、今さら蒸し返されたくもないか」
雪崇は黙ってシークレットシューズを分離した。
無言の、そして最後の警告。
実に何年ぶりのこととなるだろうか。自らの足で大地を直接踏みしめる。
「あらら、ずいぶん縮んだね、相馬クン」スレイヤーが茶化すような声をあげた。「でもまさか――それが奥の手なんて言われたら、オジさんがっかりだな」
「確かめたいなら話を続けたらどうだ。もっと煽れよ」
「煽るなんて心外だなあ。オジさんの言ってることは単に事実でしかない。でしょ?」
はなから返事など期待していなかったのか、スレイヤーはすぐに言葉を継いだ。
「まあ、英雄色を好むって言うし? ロジオン卿がその手のタイプだったことは知ってるけどさ。それにしても凄い話じゃない。ねえ? 歪な愛情というか、妄執というかさ。まさか、自分のハーレムに実の娘を入れようなんてね。いやはや、オジさんみたいな凡夫にはとてもとても。想像すらできないよ」
確かに想像すらできない話だった。だが、事実でもある。
雪崇がそれを知ったのは、ある日届いた匿名の手紙によってだった。
おそらくはロジオンあたりの嫌がらせだったのだろう。その報せには、母が死んだことを含め、幾つかの出来事が簡潔に綴られていた。ロジオンが連れ帰った娘を縛るため愛人たちの群れに投げ込もうとした狂気についても、軽くだが触れられていたのを覚えている。
だからこそ、雪崇には疑わずにはいられないことがあった。
〝今わ際、俺のこと誇りに思ったって、ほんとか――?〟
ヴァシリーサに保証された今でも、その疑念を完全には消しきれずにいた。
なぜなら母と祖母が奪われようとした時、自分という人質さえなければ全員が徹底抗戦を決め込めたはずだからだ。崇雅は戦い、女たちも最後までロジオンに抗えた。
――俺がいなければ。俺がいたせいで……皆、そのせいで大切なものを諦めたんだろう?
だったら、彼らはやはり思ったのではないか。
ふと考えてしまうこともあったのではないか。
「この子さえいなければ……」と。
両親は慌てて、その考えを振り払ったかもしれない。
しかし、一度なりとも頭を過ぎることがなかったとは考えにくい。
赤ん坊の夜泣きに疲れた、どこにでもいる平凡な若い母親ですら、同じことを考えることがあるというのだから。
俺はいて良かったのか。自分は親にとって、どんな時も必要な存在たり得たのか。
ずっと、本当にずっと、心のどこかで解けることなくその疑念は燻り続けていた。
だが、それももう、この瞬間までになるだろう。
今、ふと……だが確固としてそう思う。
「――ちょっとちょっと、相馬クン」とがめるような声が言った。「そんな、黙り込まれちゃ困るよ。むしろ発憤材料としてオジさん、この話持ち出したのに。まさか五分の制限、忘れてないよね? のんびり落ち込んでるとキミ、死んじゃうんだよ」
黙り込んでいるのではない。そして、何も忘れてはいなかった。
ただ、今は溜め込む時であるだけだ。
あとひとつでも些細な切っ掛けがあれば――
たとえばこの男があと一言でも口をきけば、もう二ミリ唇の端を吊り上げでもすれば、たちまち精神の箍が弾け飛ぶだろう。そして、止められなくなる。
考えられなくなる。この害悪をこの世から消し去ること以外、あらゆることをだ。
「まあ、仕方ないかな。キミにとっては実の母親。それを自分の存在が、間接的にではあれ自殺に追いやったわけだしね。そりゃ、トラウマだよね。キツイよねえ」
そして、ガリオンのスレイヤーは最後の切っ掛けを雪崇に与えた。
「まあ、そこはロジオン卿もえげつなかったとオジさんも思うよ。だって、仮に解放されたところで、もう帰れないもん。戻れないでしょ。夫を持つ身でありながら、父親と関係なんかしちゃった日には。そりゃまあ、死にたくもなるってもんさ。ねえ、相馬ク――」
雪崇はもう何年も、シークレットブーツの中で爪先立ちの真似事を続けてきた。
その状態でなんら不自然に思われない日常を送り、競技すら人並にこなしてきた。
そうして培った脚力が全制約から解放された今――
無拍子の掛かり初動は他の追随を許さぬ、まさに雲耀の踏み込みと化す。
一瞬で間合いを詰められたスレイヤーは反応すらできず、刹那、無防備をさらした。
一秒にも満たない、ほんの僅かな防御の隙。だが、それが勝負を決定づけた。
表を「雪崇の勝利」、裏を「スレイヤーの勝利」とする運命コインがあるとしたとき、それは幾度かの回転を経て、決着のテーブルに落ちた。
停止したコインが示すのは表。すなわち雪崇の勝利が確定した瞬間である。
――そのはずだった。
全てを覆す、ガリオンの介入さえなければ。
一度は運動エネルギィを失ったはずのコインが、不意に決着の卓上から再び大きく跳ね上がった。まるでコイン自身が、結末を不服としたようにも見えるその動きは――
しかしその実、今この瞬間も過去へ逆行し続ける化物が、見えざる手を伸ばしたことによるものであった。
収縮した波動関数が、時の逆行により再度拡散。重ね合わせの状態に戻る。
そしてガリオンの指先に捕われたコインは、裏向きにされて決着のテーブルに固定された。因果、運命、確率。それらを自在に操る手には、何人も抗えない。
そうして不条理は確定する。
「聞こえてないだろうけど」スレイヤーが凍った時の中で嗤う。「オジさんの勝ちだ。残念ながら」
「――聞こえてるよ。残念ながら」
返るはずのないレスポンスに、小男の身体がびくりと震える。
「あんたのコート、防弾加工はしてあるかい?」
スレイヤーの、そしてその背後に潜むガリオンにとっての最大の誤算。
それこそが、運命のコインに干渉可能な手を持つ、もう一体の化物である。
凍結された時空間の中、雪崇は直進することでその実在を証明した。
小男が驚愕の表情を浮かべるのを目に焼き付け、全体重を乗せた左腕を振り抜く。
拳に確かな手応えが伝わった。
側頭部に直撃を受けたスレイヤーは、唾液の飛沫をまき散らしながら体勢を大きく崩す。
本能的に立て直そうとするが、ダメージは一瞬で脚にまで及んだ。
震える膝が体勢制御を許さない。
男の短躯はそのまま五、六歩横に流れ、すとんと崩れ落ちた。
「ハ……ァ」
スレイヤーの口から苦痛の呻きが漏れる。強い脳震盪で視線が定まっていない。
しばらくは立ち上がることすらできないだろう。
立ったとして、もう戦える力はない。
真に、決着の瞬間である。
「まあ、顔面に食らえば」雪崇は言った。「コートの防弾性もクソもないな」
一方でもちろん、残心は怠らない。呼吸を整えながら、ゆっくりと脱力していく。
無防備に見えても、不意の反撃に即時対応できる無形の構えだ。
「化物がもう一匹いることを軽視しすぎたんだ、お前たちは。海を隔てていようが、氷漬けになっていようが、一瞬たりともアレの警戒を怠るきじゃなかった」
スレイヤーが声を頼りに、焦点の合わない目を雪崇に向ける。
「ナイ……ヴス……」
「そう。あんたは知らないだろうけどな。やつは明晰夢の形で俺たちと接触を図ってたんだよ。昨夜の時点で、契約は既に半分完成してすらいた」
それは雪崇自身、今この場で気付き、教えられたことだった。
つまり、あの夢は仮契約の場でもあったのだ。
「明日の俺を見ていろ」。そう叫び返した雪崇の選択は、はからずも、差し出された仮契約書に署名するに等しい意味を持っていたのである。
「俺たちはここに来る前から、ギフトの――言ってみれば引換券を入手していた状態だった。あとは正式譲渡に相応しい場を整えるだけで良かった。そしてその条件を満たす場は、他ならぬあんたが整えてくれたわけだ。そうとは知らずにな」
ンゼンに坐すなら、ワイズたる者であるなら、証を示せ。
ここまでくれば、その意味不明な文句の言わんとすることも分かる。
あれは〝ギフトを得るに相応しい人間として資格を見せろ〟という要求であったのだ。
そしてナインライヴスが求めたのは、命の行使に他ならなかった。
すなわち生命と引替えの何かに挑むこと。
結果は問われない。ただ、雪崇と素芹子がそうしたように命懸けで事に向かえば良かった。時としてヴァシリーサのごとく死の淵を超えても構わなかった。
「まさ、か……」全てを理解した小男が顔じゅうに脂汗を滲ませる。
「あんたが得々と自分の異能を講釈してくれてる間、俺たちは同時にナインライヴスの声を聞いていた。あんたは教えちゃくれなかったが、共通ギフトってのは互いに相殺し合えるものらしいな? ガリオンのブレットタイムは、ナインライヴスのブレットタイムで打ち消せる。そうなんだろ?」
ガリオンスレイヤーが押し黙る。その沈黙が答えだった。
「だろうな。でなけりゃ、あんたはさっさと時間を巻き戻してダメージを消してるはずだ」
「大した……演技だ」しばらくして揺れる声が言った。「私のブレットタイムに捕らわれたフリをして、その実、キミは自由に動けた……ってことかい」
雪崇は無言で唇を斜めにした。
実際のところは少し違う。途中までは本当に、ガリオンのギフトで動けなかったのだ。
自由を得たのは、リティーナが見えざる手で吹っ飛ばされた後のことだった。
その時点で雪崇はナインライヴスから再接触を受け、契約を完了させた。
一方でそれ敢えて隠し、自分に植え込まれる死の種も黙って受け入れた。
この部分については、スレイヤーの指摘通りである。
「あんたに渾身の一撃を叩き込むためには、それが一番確実だったんでね」
「しかし、その代償として、キミの中には、種が……残った」
まだどこか朦朧とした様子で、しかしスレイヤーは強引に笑みを作ろうとした。
「あんた、ナインライヴスにも固有ギフトがあることを忘れてないか?」
雪崇は静かに指摘した。
「ナインライヴスはこう言ってる。自分に固有のスキルは三つ。そのうちの一つに、対ギフト用ワクチンとも言うべきものがある、と」
それは同時に、自分も固有ギフトをも打ち消してしまうため諸刃の刃となるが――
そんなことまで馬鹿正直に説明してやる必要はなかった。
「まあ、それであんたの種も中和できるっていうんでな。もちろん、俺は真っ先にそれを試した。結果は……あんたのいう五分は、もう過ぎてるだろう?」
スレイヤーの顔から表情が消えた。
「分かったら早く逃げな。あんたは銀の弾丸に撃たれて負ける。最初に言っといたはずだ」
雪崇はゆっくりと相手へ歩み寄りつつ声を投げた。
言われたからというわけでもないだろう。
スレイヤーは立てた膝に手をつき、なんとか体勢を立て直そうとしている。
「さっきので終わったわけじゃねえぞ。弾はとっくに発射されて、まだあんたを狙ってる」
「なにを――」
「弾丸の時っていうなら、ここからは俺の時間だってことだ」
人狼を殺したという伝承のシルヴァーブレット。英語で綴れば、その古事から「難局を打開する特効策」という意味を持つ。silver bullet。化物殺しの弾丸。
「止めたきゃ殺すしかない。でも、お前には無理だな」
ここに来て、この場所に立って、ようやく理解できたことがある。
もはや顔向けできないほど遅きに失してしまったが。
俺なんだ。スレイヤ―、お前には分からないだろう。
この身、この腕。俺がそうだったんだよ。
かつて相馬の女たちは、新しく授かった子の人生が平穏たらんことを強く望んだ。
自分たちの半生に暗い影を落としたオレッドから、せめてこの子は自由であれ。
そう願った。
一方で、オレッドの呪縛がそう容易く逃れられるものでないことも、よく知っていた。
だからこそ、彼女たちは生まれてきた子に〝崇〟の字を与えたのではないか。
「相手が分厚い壁でも戦車でも、鉄砲玉は曲がって逃げたり、諦めて飛ぶのやめたりしないから。だから、雪崇も、そんな風だったらかっこいい」。
かつて母がくれたその言葉は、決してその場しのぎの慰めなどではなかったのではあるまいか。
ならば、最後まで貫くもの――〝崇〟を冠する人間として、突き抜くべき対象とは。
超えるべき壁とは。
それこそが逃れ難きロジオンの呪縛であり、オレッドの影ではなかったのか。
一族の誰もが達し得なかった、その向こう側へと到るために。
最後まで飛びきれと。貫けますようにと。
そんな切なる祈りと共に、彼女たちはこの名を授けてくれたのではないのか。
今、指輪にあった文字を、自分の名を、そんな風に受け取っても良いのではないか。
だとするならば、もう導き出されるべき解はひとつしかあり得ない。
――俺は〝崇〟の字を背負うに相応しい人間か。
――俺の生き方は名前負けしちゃいないか。
そんな問いを常に己へ投げかけながら往く人生。
自分と先達に、生き方で証明していく道。
Yzのzに〝崇〟の字を代入して、終わらない旅をする。
それこそ自分が生涯をかけて歩むべき道なのだと、今、ようやく分った。
今日この日、それを知るまで、きっと俺の人生は半分にすぎなかった。
†
立ち上がりかけたスレイヤーとの間合いを、雪崇は無拍子で瞬間踏破する。
遮るものは何もない。だから撃ち込んだ。十万億土まであまねく轟き渡れと。
咆哮をあげて撃った。左拳を、右拳を、撃った。ひたすら己に唱えながら撃ち続けた。
――分かるか、スレイヤー。
曲がらない。飛ぶのを諦めない。鉄砲玉みたいに真っ直ぐだったらかっこいい。
そう願われ、生み落とされた。穿ち貫けと放たれた。俺自身がそうなんだよ。
この身この腕、俺がそのもの。俺こそが弾丸。
お前じゃ決して止められない。万難摧破の。
〝崇〟を刻んだYの弾丸。




