Yz
014
今夜は絶対に眠れないだろう。延々と考え事をし続けるに違いない。
そう信じ切っていただけに、相馬雪崇は自分が夢を見ていることに驚いた。
夢であると理解した上で見る夢。
なのに現実世界と変わらぬ、生々しいまでの現実感を伴った夢。
明晰夢というらしいが、自分がそれを初体験していることが、二重の驚きだった。
その明晰夢のなかで、雪崇は巨大な渦に飲み込まれていた。
あらゆる生命、街、国、有機無機を問わず、歴史や観念といった無形のものさえ……
一切合財をドロドロに溶かし、地球より直径の大きな洗濯機に放り込んでかき混ぜる。
そうして生じた莫大なエネルギーの奔流、竜巻。雪崇はその一部として森羅万象と絡み、混じり合いながら、一方で個を維持しつつ全体を見渡してもいた。
周りの物をブラックホールのように吸い寄せ肥大していく〈万物の大渦〉は、銀河級の螺旋を描きながら広がり、どこかを目指しているらしい。
もの凄い速度で進んでいることは確かだが、地上で自転速度を感じないのと同じように、雪崇は実感としてそれを掴むことはできない。
もし掴んでいる者がいるとすれば――
〝ナレズゼンタリヤ〟
突然、それが言った。
竜巻の中心で聞く風音さながら、空間そのものが生んだようにも聞こえる轟音だった。
「なに……なんだって?」
自分に向けられた問いであるような気がして、雪崇は口のない口で怒鳴り返す。
「俺に言ってんのか。俺に訊いてんのかよ、それ」
〝アガエニシヱカクトフ/マシハンゼンタラン-ヲタルカ〟
「――ナインライヴス」
ほとんど無意識に、雪崇はそうつぶやいていた。
太陽系を丸ごと呑み込めるスケールを持このつ大渦そのものが、あの化物の本性なのだ。
そう直感で理解する。映像で観た氷漬けの獣は、疑似投影された仮の端末に過ぎない。
目に見えない心や感情を、ピンク色のハートマークで分かりやすく描いたようなものだ。
〝ユゥ>ゼェタ-无ゼン-京マエノ須/タルテフナラシメセ〟
「なんか分かんねえけど、俺のことで知りたいことがあるなら明日、見とけばいい」
氾濫した大河の濁流を逆行するように、雪崇は必死に流れの中を泳いだ。そして叫ぶ。
この世界の主に迫る術があるとするなら、それしかない。それが唯一の道なのだ。
「生きるか死ぬかの極限状態の中で、俺の根っこが全部出るだろうしな」
だから、見てろ。もう、言葉にならない声で絶叫し続けた。なにが知りたいのか分からないが、それで答えになるはずだ。言葉なんかより確実に、すべてが証明されるだろう。
だから見てろ、ナインライヴス。見て、決めろ。
雪崇は声を張り上げ、そして目覚めた。
明晰夢のなかでは、激しい動揺や感情の昂りは御法度だと聞いたことがある。
心を静かにとどめていなければ、波紋がたって夢が途絶えるというのだ。
それでいうと、青筋を立ててながらの絶叫は一発退場のマナー違反だったに違いない。
だが、なんであれ寝覚めは悪くなかった。
ただ、Tシャツは寝汗でぐっしょりと濡れている。
窓がないとはいえ室内はやけに暗い。時計を見るとまだ四時にもなっていなかった。
ようやく眠れそうな気になってきたのが、確か二時前後であったことを思い出す。
とすると、映画一本分の睡眠時間であの夢を見たことになる。
もう眠れそうにないため、雪崇はなんとなくベッドから出た。
手探りでスイッチを探し、無段階式のダウンライトを弱めに点けた。
シャワーで汗を流し、同時に気分もリフレッシュさせたかった。
だが、自室の浴室には何となく近寄りがたい。
バスタブの底でうずくまっていた嫌な記憶が、まだ脳裏に焼き付いていた。
少し考え、地下のシャワー室をもう一度借りることに決めて、雪崇は部屋を出た。
が、一歩、廊下に出たところで、飛び上がるほどに驚かされる。
扉のすぐ脇、壁にもたれかかるようにして、巨大な影の塊がうずくまっていた。
落ち着いて見ると、どうやら丸まった人間らしい。
「リ、……ティーナ?」
彼女は俗にいう「体育座り」に近い格好で、腕の間に顔を埋めていた。
もうどれくらいの間そうしていたのか。呼びかけられてようやく、その顔を上げる。
「なんでこんなとこに。え? いつから居たんだ」
「雪崇君……」
「なんだ、なにがあった?」手をさしのべ、顔を蒼白にさせた彼女を立ち上がらせた。
「私、怖くて。雪崇君に会いたかったけど、夜中だから……起こしちゃうのは駄目だから」
「リティーナは俺になにをしても良いんだって言ってるだろ。なにが怖かったんだ?」
「あの、私ね、夢を見て、それで」
言いよどむリティーナの様子を見て、雪崇ははっとした。
「怖い夢を見たんだな。内容は? どんなのだった」
「ナインライヴスの夢。彼は〈バーギョ〉よりも大きくて強くて……私と話をしたの」
バーギョ。bagyoと綴る、彼女の母国で言うところの嵐。台風だ。雪崇の見た渦巻く純エネルギーの奔流とも言うべきあれを、リティーナなりに表現したのだろう。
さらに詳しく聞き出したところ、やはり彼女も雪崇と同じ夢を見たらしかった。
ただし、問答は英語混じりのタガログ語で行われたという。
「それで、彼――ナインライヴスはずっと、お前は〈ワイズ〉かって私に訊くの」
「わいず?」
自分の見た夢との差異を見出し、雪崇は首をひねる。
そのとき、背中側からドアの開く音が聞こえた。
ほぼ同時、廊下の対面側からヴァシリーサを含めたロシア人が二名、小走りに現れた。
「こんな時間になんの騒ぎなの?」
振り向くと、開けたドアの隙間から素芹子が顔をのぞかせていた。
「何事です」と、ヴァシリーサからも駆けつけざま、同様の問いが投げかけられる。
「すまん。ちょっと気になることがあってね」
片手を拝むように立てながら、雪崇は集まってきた三人に事情を説明した。
「夢の話だし、騒ぐほどの話じゃないんだろうけどな。たぶん、偶然の一致だよ」
ただ、リティーナはこの手の怪奇現象だけは駄目なのだ、と擁護的に付け加えた。
「いえ、偶然とは思えません」ヴァシリーサが真顔で言った。「その夢なら私も見ましたので」
「えっ――?」
信じがたい思いで見やると、彼女はぷいと顔をそらし、その状態でうなずいた。
「なるほど。そういうことなら、ちょっと状況を整理しておいた方が良いかもね」
素芹子はつぶやき、全員でラウンジへ移動することを提案した。
氷漬けの九尾を記録したヴィデオは、極めつけの衝撃映像である。
あれを見た人間がその夜、ナインライヴスの夢を見たところでなんら不思議はない。
だが、内容が共通している点は検証の必要があるのではないか。
それが彼女の主張であり、同時に全員の一致した見解ともなった。
「なによりね、私も見たのよ。その夢」
先導するように歩いていた素芹子は、ラウンジに着くとソファに身を据えながら言った。
本人を除く全員が凍り付く。そして、驚愕の表情を互いに見合わせた。
「まあ、まったく同じではないけどね。私は、あなたたちより少し長く彼と対話ができたみたい。ガリオンとの関連性とか、〈ギフト〉の原理とか、いろいろ聞き出せたから」
「お前――」彼女の対面に回り、雪崇は身を乗り出した。「そりゃどういうことだよ」
「深度っていうの? 同じ夢をどれだけ突っ込んだところまで見られるかは、個々の資質によるみたいね。精神力というか、器というか……」
それから素芹子は、夢を見た人間が全部で五人であることを明かした。
夢見の浅い順にヴァシリーサ、雪崇、リティーナ。この三人に大差はなく、かなり間が空いて素芹子がくる。これもナインライヴスに確認をとった事実のひとつであるらしい。
「いま、四人分しか名前が挙がりませんでしたが」ヴァシリーサが冷静に指摘した。
「五人目はもちろん、現在進行形で夢を見続けている泪姐さんよ。彼女を含めた五人が、ナインライヴスに絞り込まれた、今回のモニター候補になる」
「モニター候補?」ヴァシリーサが追求を続ける。
「ナインライヴスが縁を感じた関係者ってこと。――あのね、そもそもナインライヴスは、人間を避けてあんな洞窟にいたんじゃないのよ。人類の文明がある一定のレヴェルに到達した時、初めて発見されるように調整してただけ。発見されること自体は織り込み済みでね」
そうして自分を発見した者を縁者として認定。契約を持ちかける。
それが彼の決まったやり方だった。
「ところが、発掘チームの中心メンバーは殺害され、あの土地にもっとも強い影響力を持っていた柾本マリアもいまや故人。巡り巡って、現状で発見者にもっとも近しい人間となると……」
「それが、雪崇君?」リティーナが先回りする。
素芹子はうなずき、「プラス、その周辺人物。つまり私たちね」と結んだ。
「じゃあ、さっきの夢はそのモニター候補がどうとかいう、契約関係の話だったのか?」
呆然と聞いていた雪崇は、気を取り直すと再び素芹子に詰め寄った。
「俺には意味不明な念仏みたいに聞こえたぞ。日本語っぽいことしか分からなかった」
「うん」と、リティーナが同調する。「古いタガログ語が混じってて、私も難しかった」
「でも、言語によらず内容は共通だったはずよ。雪崇の言うように契約関係のね」
そう言って、素芹子は俳句でも詠むように暗唱しはじめた。
「――我が縁者に訊ねる。お前は五十音にして〝ん〟の前にくる存在か。以呂波四十七音における最終音〝ず〟のひとつ前であるところの〝せ〟に位置しようとする人間か。だとするなら証明せよ。――日本語版をかみ砕くと、大体こんな感じ」
「そう、なのか?」まるで古文の授業だった。
だが――ンゼン、スゼン。確かにそんな響きの言葉を聞いたような気がしないでもない。
「確認したから間違いない。リティーナの聞いた〝わいず〟も意味は同じ。人の進歩が、AにはじまりZを目指すものならば、最終到達点であるZの手前、つまりYの座にあり続けようとする者。ZよりYを重んじる者。それをナインライヴスは、Yzと表現しただけ」
「なぜ、zよりYを大きく書いてまで、到達点のひとつ前にこだわるのです」
怪訝そうな表情を見せるヴァシリーサに、素芹子は即答する。
「zに着いたら次のzを探して進むからよ。だから、永遠に到達点の手前。つまりYってわけね」
「分からねえなあ」雪崇はソファへ背を投げた。「ンゼンだかワイズだか知らねえけど、いきなり証明って言われても、俺らにどうしろってんだ? 証明したらどうなんのよ」
「残念ながら、それは言えない」言葉とは裏腹に素芹子は爽やかな笑みを浮かべた。「答えを貰う条件として、あなたたちには教えないことを約束しちゃったから」
「では、ガリオンなどとの関連は? それも守秘を課せられているのですか」
ヴァシリーサが落ち着いた口調で、しかし的確な追求の手を継ぐ。
「いいえ、それは教えられる。これは私なりの解釈だけど、ナインライヴスとガリオンは、言ってみれば〈HD-DVD〉と〈BD〉みたいな関係なんだと思う。古くは〈ベータ〉と〈VHS〉ね。要するに、次世代の正式規格の座を巡って争う、競合製品同士なのよ」
無言の聴衆を見て、追加説明の必要を感じたのだろう。素芹子は自ら言葉を続けた。
「つまりね、彼らは市場に出回る前の新型製品と同じなの。品質の向上を目的として、適当なモニターを探しながら自己開発の旅をしてる」
「モニターって、あの、お化粧の新作サンプルを企業から貰って、感想を言ったりする?」
リティーナが首をごくわずかに傾げた。前髪がさらりと揺れたことでそれが分かる。
「そう」素芹子は満足そうにうなずいた。「モニターを選び、異能を試用させ、データを回収・反映する。ナインライヴスは既に気が遠くなるくらいその行程を繰り返し、進化し続けてきた。ガリオンもまた然り。彼の場合はナインライヴスと違って、モニターの採用方式に〈スレイヤー制〉を導入してるみたいだけど」
雪崇は充分な時間をかけて、素芹子の言葉を吟味した。
それから目を閉じ、ゆっくりと肺のなかの空気を吐き出す。
仰け反って髪をかきむしった。
「あぁ――もう、頭がおかしくなりそうだ」
対照的に、ヴァシリーサはあくまで平静を保っていた。
「彼らの目指す規格とはなんです? まさか、BDに続く光ディスクでもないでしょう」
「それは、答えられない」素芹子も事務的に応じる。「口止めされた部分に抵触する」
「口止め結構。今はそんなこと、どうだっていいんだよ」雪崇は眉間を揉みながら、少し乱暴に割り込んだ。「それより最優先で考えるべきは〈ギフト〉の攻略方法だろ」
身体の自由を完全に奪われる。至近距離からの弾丸すら無効化される。
あの異能能力を破らない限り、こちらは文字通り手も脚も出ない。
しかも、タイムリミットは今日の十五時だ。
ヴァシリーサが脳を喰い破られて死ぬまで、もう半日もないのである。
「……そうね」素芹子は静かに首肯し、表情を引き締めた。
「素芹子。お前、ギフトについて色々と聞き出したんだろ。まず、それを教えてくれよ」
「分かった。じゃ、単刀直入に」素芹子は全員を見回し、一息に続けた。「ナインライヴスから得た情報を総合した結果、ギフトを破る方法は存在しない。これが結論よ。このまま私たちが〈ガリオン殺し〉に勝負を挑んだ場合、生還できる可能性はゼロね」
「姉御前を戦力に加えた上での計算か?」
「戦力という言葉の解釈にもよるけど、最終的にはそう理解してもらって結構よ」
「そりゃまた……」雪崇は乾いた笑みを浮かべる。「たいした心境の変化だな?」
「現状では、そう結論せざるを得ないわけだしね。しかたない。あとはあなた次第よ」
「どういうことだ?」
「それは話せない。もしその時が来れば、雪崇にも全部伝わるとは思うけど」
そこから先は、もう実のある議論にはならなかった。素芹子は貴重な情報を山のように抱えているようだったが、その大半に守秘の制約を課せられていたからだ。
一応、〈ギフト〉の基本原理については語ってくれたものの、それすら難解すぎて理解不能なのだから手に負えない。
スーパーポジション、スキューズスー、チョーゲン、リレイティヴステイト……
これら意味不明な言葉の羅列は、雪崇にとって日本語かどうかすら怪しく響いた。
「でもまあ、理解できないってのは、理解するなっていう天のお告げなのかもしれないしな」
分からないなりに区切りの良いところまで付き合った雪崇は、席を立ちながら言った。
話についてこれたか、という素芹子の問いに返した言葉だ。
「部屋へお戻りに?」ヴァシリーサが雪崇を見上げて問う。
「ああ。これ以上は聞けることも少なそうだし、聞いたところで理解は難しそうだしな」
手をさしのべてリティーナを立たせると、雪崇は彼女を連れて出口に向かった。
「続きは朝にしようや。メシの時に策を持ち寄って、現実的なプランを練ろう。それまではもう一回寝る努力をするのも手かもよ。運が良ければ、夢の続きを見れるかもしれない」
「もし見られたら、ナインライヴスによろしく言っといて」
素芹子の声に笑みだけ返し、雪崇は自室に帰った。
自覚になかったが、ラウンジにいる間は常に緊張状態にあったらしい。背後でドアが閉まる音を聞いた時、なぜだかほっとした気分になったのがその証拠だった。
連れてきたリティーナの方も似たより寄ったりの様子だった。言葉少なく、その硬い表情からはショックから抜け出せていないことが一目で分かる。雪崇がベッドを譲ると、彼女は四つん這いで中央まで進み、そこで分かりやすく膝を抱えて座りこんだ。
以前、映画〈エクソシスト〉を観せた時も似たようなことになった。
だが、今回は少し事情が複雑なのかもしれない。
鋼の忍耐力を持つリティーナはしかし、打てば傷つく生身の人間でもある。
恐怖の連続で疲弊がなかったはずがない。夢の件は、彼女の堤防に亀裂を入れたのだ。
「ごめんね、雪崇君。私、もう少ししたらちゃんとするから」
「いいよ。今日はもう、ゆっくりしてればいい。――なんか飲む?」
答えるかわりに、リティーナはすぐ「自分がやる」と言い出した。
それを制してから、雪崇は備え付けの電気ケトルでお湯を沸かした。
同じく備え付けのティバッグで紅茶を淹れる。
素芹子たちにはもう一度眠ると宣言したものの、実際のところ、床に就く気にはとてもなれなかった。もう今夜は熟睡できないだろう、という予感めいたものある。
「そういえば、ここんところふたりでゆっくりする時間、とれてなかったよな」
カップを持って、彼女の隣に向かいながら言った。
「雪崇君、病院に出たり入ったりしてたから……」少し疲れたような笑みが浮かべられる。
その言葉で、雪崇はご無沙汰になっていたもう一つのことを思い出した。
急いで鏡台に向かい、ニヴェアを取ってベッドに戻った。夜、仕事を終えたメイドの手にスキンケアクリームを塗り、その働きを労う。雪崇が意識して作った習慣だ。
「だめ、雪崇君。右手、撃たれてるのに。そんなことしてもらえないよ」
「まあ、そう言うなって。ホラ、カップ置いて。手出して」
雪崇は両のふとももでチューブを固定し、フタを開けてクリームをひねり出した。
「今日もお疲れ」やや強引に彼女の手を取り、笑いかける。「色々あったし、疲れたろ」
リティーナは無言だった。
雪崇は構わず、左手一本で明るい小麦色の肌にクリームを馴染ませていく。
いつになく丁寧に作業を進めた。こうしてやれるのも、今夜で最後になるかもしれないから――。そんな思いが脳裏を過ぎったが、もちろん口には出せることではなかった。
「ごたごたが片付いたらさ、ちょっと歩いて、商店街まで買い物に行こうか」
作業を終えた雪崇は、後片付けをしながら切り出した。
リティーナが怪訝そうな顔をする。
「でさ、飯の材料を一緒に買うんだ。ふたりでメニュー考えて、協力して作ろう。料理のこと、教えてくれ。そのうち親父が帰ってくるから、その時、合作を振る舞おう」
しばらく呆然とした後、リティーナは隠すように顔を伏せた。
うなずき、そして少し泣いた。
雪崇は彼女の隣で、小刻みに震えるその背を撫でた。
かすかな嗚咽がやんで静けさが戻っても、ずっとそうし続けた。
どれくらいそうしていたか。雪崇はリティーナの静かな寝息に気付いた。軽く頬に触れてみたが起きる気配はない。泣き疲れ、そのまま寝入ってしまった子どもと同じだった。
雪崇は座ったままのリティーナを横たえ、自分はベッドから降りた。その穏やかな寝顔を見る限り、もう望まない夢を見る心配もないだろう。安心してその場を離れ、ハシゴを使ってロフトにあがった。さっき偶然気付いたのだが、ここにはガラスの大皿をはめ込んだような丸天窓がついている。月明かりが差し込む、この部屋唯一の空間だ。
雪崇は置いてあった二人がけのソファに身を投げ、なんとなく窓を見上げた。
ものの数時間で夜は明ける。生還の算段は未だにつかない。
もし、この隠れ家に来てから何かしら事態の好転があったとすれば、恐慌状態を脱し、精神バランスが回復したことだけだ。
「でも、ギフトを破らない限り、メンタルの回復に意味はない。――どうすればいい?」
つぶやいた声は、暗がりへ染みこむように拡散していく。答えは返らない。
心が落ち着いたといっても、半分は感覚が麻痺して鈍感になっているに過ぎなかった。格好つけて口にしてきた気構えや覚悟も、言葉だけが上滑りしていることが自分で分かる。
考えるのをやめ、雪崇は天窓をぼんやり眺めた。
射し込む光が朝日に変わるのを静かに待つ。
その時間を苦痛に感じることはなかった。これで見納めかと思えば、ガラス越しの月明かりさえ、なにか貴重なもののように見えた。見飽きることなど決してなかった。
そんな静謐が破られたのは午前七時。
食堂からかかってきた、朝食の準備が整ったことを報せる内線がきっかけだった。
結構な音がしたが、それでもリティーナは目を覚まさなかった。
胎児のように丸まった彼女を残し、雪崇はひとりで部屋を出た。
†
食堂につくと、驚いたことに皿を運んできたのはヴァシリーサだった。
彼女は黙々と、手際よく給仕をこなしていく。最後に焼きたてのスクランブルド・エッグズを置いたヴァシリーサは、「どうぞ」とぶっきらぼうに告げた。それから椅子に座ったが、数ある空席の中から、なぜか雪崇の真隣を選んでくる。自身は既に食事を済ませたのか、その手元にはコーヒーのカップしか置かれていなかった。
「なあ、なんか椅子の間隔、俺らだけやけに狭くない?」
「防犯上の理由です」密着に近しい右隣から、ヴァシリーサが言った。
「あ、そう。……じゃあ、この朝食は? なんかこれ、明らかに盛り過ぎだよな」
雪崇は口元を引きつらせつつ指摘した。
軽い朝食のはずが、ほとんど満漢全席を見るような光景が広がっている。
俵型に積まれた半ダースの巨大ウインナーだけでも胸焼けしそうだった。
「日本人には分からないでしょうが、これが欧米標準です」
「欧米でも流石にこれはねえよ」
「それより、あなたは早く食べて感想を述べるべきです」
そう言い放つヴァシリーサは、座った瞬間から猛禽類のような眼で雪崇の動きを監視していた。それも横目でチラチラ――というレヴェルではない。ほとんど凝視だった。
「いや、あの」
雪崇は必死に違う話題を探した。「あ、素芹子。皆の素芹子タンはどうした?」
「彼女は客人を見送りに空港まで行っています。間もなく戻るかと」
「客人……って姐御所か? え、なに。あのひと帰ることになったの?」
付き合いこそ短いが、日吉一族が怖じ気づいて逃げることなどあり得ない。
なんらかの事情なり思惑があってのことだろうが、意外な展開であるのも事実だった。
「雪崇様、あなたも朝食を済ませ次第、空港に向かって下さい」
「――あん? なんでよ。見送りは流石に間に合わねえだろ」
「今日いっぱいスレイヤーから逃げ切れば、あなたの勝ちです」
ヴァシリーサの表情と口調が微妙に変化した。
「そこで、我々は小型の飛行機を手配しました。時間切れになるまであなたは空の上にいてください。それで少なくともスレイヤーを含めた第二陣はしのげます」
「無理だな。やつも小型機借りて、カミカゼよろしく特攻しかけてくるさ。俺は確実に死ぬが、ギフトの加護を受けたやつは機体が爆発しようが、墜落しようが無傷で生還できる。空はダメだ。あんたらプロだろ。なんか他に、もっと使えそうなプランはないのか?」
「プランはこれひとつだけです」
「なわけねえだろ。俺が逃げればお前は確実に死ぬんだぞ。プランBは必須だろうに」
言った途端、ヴァシリーサは間違いなく反論のためであろう口を開きかけた。
「俺は空港にはいかねえよ」機先を制し、雪崇はきっぱりと言った。「あんたは俺と一緒にスレイヤー指定の場所に行くんだ。やつが来たら交渉して、頭の種爆弾を摘出させる。それからは逃げるか、倒すか……。どちらにせよ、これがプランBだ」
「なかなか面白そうな話じゃない」
戸口の方から声がした。
不適な笑みで近づいてくるのは、空港から戻ったらしい素芹子だ。
「お前――」雪崇は振り返ってその姿を確認する。「姐御前、帰ったんだって?」
「今朝、いきなりそう言い出してね。自分がいたらパワーバランスが崩壊するからって」
素芹子はおどけるように肩をすくめてみせた。
それから雪崇の左の椅子を引き、当然のように食卓に並んだ料理へ手を伸ばしはじめる。
最初の獲物は、バスケットに満載されたクロワッサンだった。
「で、戻ってきたってことはお前、今日も俺らについてくるつもりか」
「まあね。でも、基本へきにべつほうどうになるとほもう」モフモフやりながら言う。
「別行動?」雪崇は真意をうかがうべく素芹子の横顔の覗き込んだ。
「ちょっとあってね。最終的には合流できると思うけど」
さらに追求しようとした時、今度はリティーナの明るい声が響き渡った。
「あ、雪崇君、いた」
厨房へとつながる通用口から現れた彼女は、カウンターを迂回して食卓へ近づいてくる。
奇妙なのは、雪崇と正面から向き合いつつ、そこから身体の向きを変えようとしないことだ。真横に移動する時は、カニのような横歩きすら見せる。
「おはよう、リティーナ。よく寝てたから起こさなかったんだ。悪かったな」
「ううん。私こそごめんなさい」
それより見て、とリティーナは後ろ手に隠していたものを露わにした。
なにかと思えば、大きめの高級そうなフライパンが両手で握られている。
「これ、コックさんにもらったんだよ」
にこにこしながらリティーナが説明する。「羽みたいに軽いのに丈夫なの。見て。底に金属のプレートがついてて、これなら鉄砲玉も防げるって」
「鉄砲玉?」
雪崇の怪訝な表情に気付いた風もない。
リティーナは相手サーブに備えるテニスプレイヤーのような構えで中腰になった。
手のフライパンはさながら金属製のラケットといったところか。
彼女は見えない弾丸をフライパンの底で受け、唇を尖らせながら「しゅっ」とスイングを決める。最後の一振りは、敵に一撃食らわせるリターンエースだったのだろう。
「ね、これでリティーナは無敵だよ。雪崇君も守ってあげるからね」
得意げに言って、またしゅっしゅとデモンストレーションをはじめる。本気の目だった。
「気持ちは嬉しいけど、まあ、それはプランCとして温存しておこう」雪崇は笑いながら言った。「今はとりあえず、プランBから煮詰めていくべきだ」
「本当に、それでよろしいのですか――?」ヴァシリーサが沈んだ声で問う。
「ああ。昨夜、スタッフが現地の下見に行ったんだろ? 彼ら呼んで、具体的な策を練ろう」
スレイヤーの場所指定はURLによるものだった、という報告は既に受けていた。それ自体は単なる英数字の羅列に過ぎないが、インターネット上のアドレスとして入力すると、目的地の周辺地図が表示されたという。その座標は、隣市の古墳公園を示していたらしい。
「では、ブリーフィングの準備をしてまいります」ヴァシリーサが席を立ちながら言った。「朝食がお済みになりましたら、会議用の部屋がありますので、そちらにお越し下さい」
「ああ、頼むよ」
「じゃ、私も別行動に必要な準備に入ろうかな」素芹子がパンを抱えながら席を立つ。「ブリーフィングには参加しない。あとで要旨と結論だけ教えて」
「そっちも別行動でなにやらかす気なのか、あとでさわりだけでも教えてくれよ」
「たぶんね」
†
ブリーフィングと昼食を終えた十三時半。雪崇がセーフハウスを出るワンボックス車に乗り込んだ。目的地までは自動車で三十分ほどかかる。その間、車内の誰もが無口に振る舞った。これから起こることの結果次第で、自分のそれを含めた多くの人生が決まる。そう自覚する者たちは、自然と寡黙になるということだろう。
目的地までの時間は永遠のようにも、刹那に過ぎ去ってしまったようにも感じられた。
指定された古墳公園は、住宅地のなかにある小規模な円墳だった。端からは開発に取り残された小山のようも見え、全体を鬱蒼と茂る常緑樹が体毛のように覆っていた。
「こんなところで――」
車から降りたヴァシリーサが、ドーム状に盛り上がった緑の小山を見上げる。
麓には小さな薬師如来の祠があり、そこから角度の急な石造りの階段が上に伸びている。
その石段というのが、真昼でも木々の落とす影で薄暗く、人ひとりがようやく通れるほどの幅しかない。金属製の手すりがあっても、足下に不安がつきまとうようなものだった。
「ここ、前に遠足で来たとこかも。階段登れば、上はちょっとした広場になってたはずだ」
「有名な所なの?」フライパン入りの袋をひっさげ、リティーナが雪崇の隣に並び立つ。
「周辺市町村に住んでる人間なら、名前くらいは知ってるんじゃないかな。神秘的を通り越してちょっと薄気味悪いとこあるから、寄りつくやつは滅多にいないだろうけど」
現に平日の昼下がり、周囲に全く人気はない。
深夜の路地裏もかくやという静けさだった。
集結したスタッフたちはその静謐を破ることなく、各々の所定位置へきびきびと散っていった。昨夜からの泊まり組に雪崇と車で駆けつけた者たちが加わり、彼らは総勢十二名の所帯となっている。
なんとなく見ていると、そのうちのひとりが大股で雪崇に接近してきた。
「雪崇様、申し訳ありません。これをヒヨシ嬢に渡していただけますか」
彼の掌に転がされているのは、雪崇たちにも支給されている超小型無線だった。
ワイヤレス式のイヤホンにも見えるそれは、高性能集音マイクを内蔵したロシア製だ。
「素芹子に渡してなかったのか」
「お渡ししていたものに不具合があったため、これが交換品になるのですが――」
話題の主たる素芹子は、予告通りさっそく別行動に入っている。ここへは少し遅れて来るとのことで、荷物の一部だけ雪崇に預けてセーフハウスに独りで居残ったのだ。
「そういうことなら、合流し次第、渡しておくよ。もうそろそろ来ても良い頃だしな」
無線の受け渡しが完了すると、スーツは黙礼して持ち場へと向かっていった。
雪崇は忘れないうちにとワンボックスに戻り、受け取った無線機を素芹子のポシェットに放り込む。荷物の番は、車内待機の連絡要員に託した。
「スレイヤーはまだ来てないんだろ」
腕時計でまだ十四時前であることを確認し、ヴァシリーサに問う。
「それらしき姿は確認されていません。さあ、私たちも今のうちに上へ移動しましょう」
彼女に促され、雪崇は石段へと向かった。
リティーナが心細そうにしていたため、手を握ってやる。
足場は悪いが、所詮は小規模の円墳に過ぎない。登頂には五分もかからなかった。
リティーナの体温を左手に感じながら、雪崇はむしろ彼女の方が汗ばんでいることを不思議に思った。自分でも意外なほど落ち着いている。それどころか、心のどこかには「もしかしたらどうにかなるんじゃないか」という根拠のない楽観すらあった。
もはや神経の麻痺を通り越して、どこか自棄に近い状態にあるのかもしれない。
だからだろうか。突然、背後に気配を感じても、雪崇はさして驚かなかった。
「背中が隙だらけよ、あなたたち」
振り返ると、いつの間に到着したのか素芹子の姿があった。ワンボックスに寄って回収してきたらしく、雪崇が無線機を入れたポシェットを既に肩から提げている。
「私、これからちょっと姿消すつもりだから。そうそうフォローはしてあげられないのよ。油断しないようにね」
「どこ行く気だよ。まさか、単独でスレイヤーに特攻しかける気じゃないだろうな」
「スレイヤーは雪崇の敵だし、雪崇の問題でしょ。あなたが解決しなさい。私は私がやるべき仕事を見つけたから、そっちに取りかかるだけ」
「だから、その仕事ってのはなにかって話だよ」
直接は答えず、にやりと意味あり気な笑みで応じ、素芹子は踵を返した。
「あなたが生きて帰ってきたら、成果でそれを教えてあげる」
慌てて「おい」と呼びかけると、彼女は一歩踏み出した状態で足を止めた。
「そうそう。泪姐さんが特別に助言をくれてたんだった。雪崇、あなたに伝言よ。スレイヤーだけでなく裏切りにも充分に気をつけろ、ですって」
それだけ言うと、彼女はさっさと今登ってきた石段を下りはじめた。今度は呼び止める暇すら与えてくれない。仮に与えられたしても、今の雪崇に言葉を発する余裕はなかった。
素芹子の姿は相変わらず生気と躍動感に満ち、眩しくさえ見える。エネルギィの塊。小さな太陽。艶やかで健康的は瑞々しい肌は、陽光ばかりでなく兇弾さえも跳ね返しそうだ。
なのにこの時なぜか、雪崇は胸を締め付けられるような不安を覚えた。もう会えないような、素芹子自身の放つ輝きが、彼女を陽炎のように消してしまいそうな――
そんな正体不明の焦燥感に、胸を掻きむしりたくなる。呼び止めたくなる。
「確定じゃないけど、可能性は高って感じの言い方だった」
最後に、声だけが階下から響いた。
「今みたいに背中がお留守だと、いきなりブスリとやられるかもよ。気をつけてね」