ガリオン殺し
010
ボディガードたちは弾かれたように身を翻した。
三つの銃口が一斉に声の主へと向けられる。
そこに立っていたのは、くたびれた中年の小男だった。
羽織った季節外れのコートは柿色。
生地は紙のように薄く、大きなほつれのあるポケットに深々と両手が突っ込まれている。
頭髪と瞳の色からしても、アジア系であることは確かだろう。ただ、日本人としては若干ながら彫りが深く、肌が浅黒過ぎる。髭は剃ってもなお黒々と自己を主張するほどに濃く、口周りはもちろん、頬の大部分にまで勢力図を展開していた。その風貌にはどこか、かつて〈バルセロナの心臓〉と呼ばれた名フットボーラーを彷彿とさせるところがあった。
「〝ガリオン殺し〟。うまいこと言うねえ、ボク」
男はにやにやしながら、年季のいった日本語で言った。
「動くな!」
向けられた銃口にも動じた様子を見せず、小男は雪崇に向けて問いかけてくる。
「ええと、君はあれだよね。今、うわさになってる何とか君でしょ?」
「そういうあんたは誰なんだよ、おっさん」雪崇は精一杯の虚勢で返した。
「あれ、アタシの話をしてたんじゃなかったの? スレイヤーがお呼ばれしたと思って、オジさん、張り切って出てきたんだけどねえ」
雪崇は無意識に半歩あとずさった。この段に至ってようやく、目の前のくたびれた中年に悪寒のようなものを感じはじめていた。
「あんたは……じゃあ、あんたが第二陣の最後の一組なのか」
「そうだねえ。そこの傭兵さんが脱落したなら、アタシが最後ってことになるのかねえ」
じゃあ、挨拶のひとつでもしとかないとね。独りごつように言うと、男は左手をコートへごしごしと押し付けだした。そうして拭いた手を差し伸べつつ、再び歩きはじめる。
だが、それはボディガードたちの許容範囲を明らかに逸脱する行為だった。
二度目は無警告。三つの銃口から連続して火花が散った。発砲音は雪崇の耳で確認できた限りでも六発。実際には二桁に及んだかもしれない。
それにも関わらず、小男は何事もなかったように歩き続けた。邪魔な護衛のひとりを迂回し、雪崇に寄ると、左腕を取って強引に握手を完成させる。
その間も護衛たちは撃ち続けた。弾切れしてなおトリガーを絞らずにはいられないのだろう。誰かの銃が、カチカチと空撃つ虚しい音をあげている。
「オジさんねえ、ただ殺すのって良くないと思うのよ」
朝霧のように漂い残る硝煙のなか、男は穏やかに言った。
「だってそういうの、尊い命に失礼でしょ? やっぱり、生命というものの重みって言うのかね。そういうのをお互いキチンと胸に刻んだ上でね。その上でやりとりしたいじゃない」
男は握ったままにした雪崇の左手を、開いた方の右手で二度、軽くたたいた。
「だからオジさん、キミに会いに来たんだよ」やさしく囁く。
「彼から手を離せ!」
雪崇の左肩ごしにヴァシリーサが銃を構える。そして躊躇なく引き金は絞られた。薬莢が雪崇へ飛ばないよう少し傾けられた銃は、マガジンが空に鳴るまで弾丸を吐き続けた。
実に十数センチという超至近距離から直接叩き込まれた被甲鋼弾は、頭蓋を穿って内部に侵入。神経を引きちぎり、落とした豆腐のようになるまで脳を荒らしまわる。
――はずだった。
「ああ、もう。邪魔しないでちょうだいよ」
小男が鬱陶しそうに目の前を片手で払った。鼻の周りに散らばっていた無数の黒点がはたき落され、桜の根の上でぱらぱらと乾いた音を立てた。
それでも雪崇はしばらく、ホクロのように見えたその黒点がなんであったのか、分からずにいた。慄くようなヴァシリーサの息づかいを聞くに至ってやっと、それがまだ熱も冷めやまぬ弾丸であることに気づかされる。
「あのね。近くで鉄砲バンバンやられると、声、聞こえなくなるでしょ」
粗相をしでかした小学生をたしなめる口調で、男は言った。
「まだ大事な話してるところなんだから。関係ない人はちょっと離れててくれないかねえ」
直後だった。
息を飲むかすかな音を残し、雪崇の背後からヴァシリーサの気配が消え去った。
まさかと思いつつ振り返った雪崇が見たのは、こちらを向いたまま後ろ向きに遠ざかっていくヴァシリーサの姿であった。本人は一歩も動いていない。地割れで空間ごと切り離されるように、ただ距離だけが不自然に、しかし急速に開いていく。ふたりの男性ボディガードも同様だった。踏ん張る彼らの爪先が土壌を抉り、長い溝を刻んでいくのが見えた。
「これでもう、彼らは近づいてこれない。ようやく落ち着いて話ができるねえ」
その声を間近で聞いて、雪崇は総毛立った。己の立場、真に危険なのが誰なのかを悟る。
逃げなければ。ヴァシリーサたちを追わなくては。
そうでなければ……死ぬ。殺される。
この小男はそれを本当に、冗談抜きでやる。
ようやくそのことに考え至った時にはもう、遅きに失していた。
走り出そうとした脚が動かない。怪我の影響か、それとも恐怖のせいなのか――
背筋に冷たいものを感じながら、しかし、そのどちらでもないことを雪崇は直感的に悟った。
鈍いだとか重いどころではなく、まったく動かない。唯一その被害をまぬがれている首から上を除き、右手のギプスが全身に広がってしまったかのごとく微動だにできないのだ。
「なんだ……なんだよ、これ。てめえ、俺らになにしやがった!」
雪崇は、ほとんど半狂乱になりながら叫びをあげた。そうすることで抵抗の意図があることを証明し続けていなければ、自分を支える何かが折れてしまいそうな気がした。
「なにってほどのことはしてないよ。むしろ、この件に関してはオジさん、被害者だから」
「なにを――」
「いやいや、ふざけてるんじゃなくてね。ホラ、日本でも猫を殺すと祟るっていうじゃない。そこいくと、オジさんが殺っちゃったの、なにせ〈ガリオン〉だから」
男は意図的に言葉尻を濁し、「分かるでしょ」とでも言うように肩を竦めて見せた。
「みんなは〈ギフト〉だとか言ってありがたがってるけど、アタシに言わせりゃ、これ祟りだから。呪いなんだよね、言っちゃえば。たとえばオジさん、こう見えてテニスとか好きじゃない? ところが、これがあるとボールが近づいてくれないのよ」男は軽くスイングの真似をしてみせた。「プレイに集中して、うっかり範囲広げちゃったりするとね。勝手に弾かれちゃうの、ボールが。まったく、これにはもうほんと大弱りでねえ」
その言葉が、雪崇の頭で何かを「カチリ」といわせた。
全体像も分からないまま、端から地道に組み立てていたジグソーパズル。それがようやく、ひとつの絵として見えはじめたような感覚だった。
「じゃあ、こんなに〈ナインライヴス〉が騒がれてるのは……」
「うん? なんだ、キミ知らなかったの? まあ、そうだと思うよ。オジさんは迷惑してるけど、みなさんは〈ナインライヴス〉を殺して呪われてみたいんだろうねえ。なにせ、鉄砲も爆弾も、都合の悪いものは弾きかえしちゃえるから。お金持ちとか悪いひととか、敵が多い上流階級は重宝するみたいなのよ、これ。それ以外も色々できるしねえ」
「だからって、俺を殺したって意味ねえだろ。力が欲しいならそのバケモンを殺せよ!」
「いや、アタシは君のことを依頼されただけだから」男はそこまで言うと、はっとしたような顔を見せた。「――そう、そうだよ。そうだった。はいはい、こんな話はもうお終いにしなきゃ。すっかり脱線しちゃったじゃない」
雪崇は思わず身構えた。正確にはそうしようとした。
だが、やはり動かない。首から下が石化したかのように命令を受けつけない。
「まあ、そう怖い顔しなさんな。別にキミを今すぐどうこうする気はないんだよ。ただちょっとね。最近の子は妙に楽観的でしょ。想像力に欠けてる部分があるっていうかさあ」
そこで言葉を切ると、男は雪崇から目をそらして歩きはじめた。向かう先には花弁の散った染井吉野が見える。その根元に、アメリカ人傭兵が脂汗を流してもたれかかっていた。
もはや忘却の彼方であったが、彼もまた雪崇同様に取り残されていたのだ。
「敵には時間制限があるから、それまで逃げ切れば助かるだろう、とかね。もしかしたら相馬クン、そんなこと考えてたりしない?」
「……ッ」
「ホラね、やっぱり。そういう中途半端な甘い考えがあるとさあ、人間、きちんとした準備ってできないもんなのよ。だから、キミにはちゃんと分かってもらわないといけない。あした自分が確実に死ぬこと。そして絶対に逃げられないこと。特にこの二点ね。もう、これだけは絶対分かって欲しい。末期ガンで余命告知された患者みたいにね、残された時間がもうわずかしかないってことと向きあって、その余命の中で精一杯もがいてあがいて……オジさん、キミみたいな若い子には、その上で死んでほしいと思うんだなァ」
そのために――と、男は猟犬の前でしゃがみこんだ。
一度、雪崇を振り返って意味ありげな目線を寄こし、再び正面に顔をもどす。
それからゆっくりと、猟犬の方へ右手を伸ばしていった。
その人差し指と親指は、珈琲豆のような茶色っぽい何かの塊を摘んでいる。
何をする気だ? 雪崇の疑問を、猟犬がそっくりそのまま母国語で叫んだ。
小男は無視して、指先を青ざめた傭兵の額に触れさせる。
「ちゃんと死ぬ準備をしてもらえるように、オジさん色々と演出を用意してきてるからさ」
「タス、ケテ」
他の言語では通じないと考えたのだろう。猟犬が片言の日本語で懇願した。唇の端から垂れ出した泡ともよだれともつかないものが、震える下顎を伝って滴るのが見えた。
「タス、ケ……タスケテクダ、サイ! タスケ……」
だが小男は動作を止めなかった。これも〈ギフト〉と呼ばれるもののなせるわざなのか。
そのずんぐりとした指先が、脂汗に光る猟犬の額にずぶりと沈んでいく。
そして摘まんでいた何かを植え込むと、何事もなかったかのように身を離した。
「なにを、したんだ」引きつった顔筋をなんとか動かし、雪崇は言葉を絞り出した。
狂ったように荒い呼吸だけを繰り返す猟犬を見やる。ちょっとした外科手術を受けたにも等しい彼だったが、奇妙なことに傷や出血の類は一切見られなかった。
一方で今の出来事が夢でなかった証拠に、その額には薄茶色の塊がしっかりと埋めこまれていた。見える範囲の最大径は一円玉程度。歪ながらも菱形に近いフォルムだ。
「これはね、オジさんの爪から作った、まあ、種みたいなものかな。ガリオンスレイヤーにだけ与えられた固有ギフトでね。人間に植え込むと、皮膚の内側に根が張り出していって、脳まで届くってシロモノなんだよ。あまり数も用意してないし、ようく見といてねえ」
瞬間、傭兵が弾かれたようにその巨躯をのけ反らせた。
太い喉から悲鳴になりそこねた声が割れた怪音となって漏れ出し、辺りに響き渡る。
手から全身に伝播していった震えは、もはや痙攣で済むレヴェルにない。ほとんど故障した自家用発電機の異常振動だった。太い筋肉の束がやたらめったらに伸縮を繰り返し、主を狂ったように踊らせる。工業用品のように緩んだボルトを弾き飛ばすかわり、彼はガクガクと震えながら大量の唾液を周囲にまき散らしていた。
そしてある瞬間、双眸から溢れ出す大量の涙がどろりとした鮮血にいきなりとって変わった。
それをきっかけに、顔面と頸部を中心としてありとあらゆる血管が異様な膨張を見せはじめる。さながら、皮下で暴れ回る幾千というミミズの大群だった。それらは激しく蠢動を繰り返し、やがて耐圧限界を超える。あちこちで破裂した血管から、噴水のように血液を噴き出しはじめた。否、決壊部分だけではない。目、鼻孔、耳、歯茎。あらゆる場所から、ドロドロと信じ難い量の血が流れだしていた。
そうして猟犬は、最後にゆっくりと自らの血溜まりのなかに崩れ落ちていった。
「キミもね、明日、こうやって死ぬんだよ」小男が、雪崇の耳元でやさしく言った。
雪崇はその声をどこか遠く聞きいていた。
血の海のなか、陸にあげられた魚のように跳ねる猟犬の死体を、ただ呆然と眺めていた。
やがてその痙攣も収まり、魂の抜け殻が完全に動きを止める。
辺りに静けさが戻り、ただ自分の奥歯が鳴るカチカチという音だけが残った。
「じゃあ、次。今使ったあれね、あの種は即効性のやつなの。でも、時間をかけて徐々に根を伸ばしていくタイプの種も作れたりするんだよね。オジさん、こう見えて器用だから」
男は言うと、手招きに近い動作で右手を動かしはじめた。見ようによっては、透明な糸を手繰っているようにも、猫の喉をくすぐってやっているようでもある。
それから起こったことは、丸きりさっきのシーンの逆再生だった。見えざる力に遠ざけられたヴァシリーサが、今度は同種の力によって領域の内側へに引きずり込まれてくる。ベクトル的には今回の方がバランスを取りづらいのだろう。彼女は力に抵抗するというより、転倒を避けるために膝を折り、左手を地につけて必死に踏ん張ろうとしていた。
「いやいや、改めて見るとなかなか美人な彼女じゃない。あのブロンド、天然でしょ?」
手を伸ばせば届く位置にまで寄せると、男はにわかにヴァシリーサを停止させた。
眩しいものでも見るように、目を細めて彼女を眺める。
「すごいねえ。いいねえ。オジさんも、若い頃こんな娘と青春とかしてみたかったなあ。そしたらちょっとは人生違ってたかもなあ」
「――ッ」
まなじりを釣り上げたヴァシリーサが、しゃがみこんだ体勢のまま銃口を上げた。
だが、照準を合わせるより早く、彼女の白い手が不自然に動きを止める。
壁に阻まれたようなそれは、言うまでもなくスレイヤーの力によるものだ。
「じゃ、ちょっと種植えとくから、動かないでちょうだいねェ」
小男は軽い口調で告げ、コートのポケットから半透明のプラケースを取り出した。
ワンタッチで蓋を開き、傭兵に使ったのと同じアーモンド型の粒を摘まみ上げる。
小男は何の躊躇も見せなかった。前髪を払うと、そのずんぐりとした指をヴァシリーサの艶やかな額にずぶずぶと沈み込ませていく。阻止する術も、抵抗の手段もありはしない。
そうして皮膚の内側に死の種子を残した小男は、血の一滴すら流さず一気に指を引き抜いた。
「はあい、できた。ね、痛くなかったでしょ? これに関しては、数いるガリオンスレイヤーのなかでも、オジさん随一だからさ」
男は景気づけるように手を何度も払い合わせ、派手な音を立てる。それから名刺らしき紙片を取り出し、動けない雪崇の背後に回ってジーンズの後部ポケット差し込んだ。
「お姉ちゃんに植えた今の種は、まる一日経つと活性化しだす。もちろん、精密機械じゃあないし十分、二十分の誤差はあるかもしれないけどね。でも、だいたいその頃なのは間違いない」
今からだと、ちょうど明日の十五時くらいかね。そうつぶやき、小男は続けた。
「活性化したら、さっき見てもらったみたいなことになるから。それが嫌なら、手遅れになる前にオジさんに会いに来て頂戴ね。時間と場所は、名刺の裏に書いておいたからさ。そしたら、この娘は助けてあげても良いよ。――あ、もちろん相馬クン、キミには死んでもらうけど」
「そんな……」
「もし来なかった場合だけど、その時はオジさん、追いかけて君を殺す。彼女にもそのまま死んでもらうから、そのつもりでね。ガリオンからもらったギフトを使えば、どこに隠れててもキミを見つけるのは簡単なんだ。現に今日だって、こうしてちゃんと会いに来たでしょ? これね、別に尾行してたとか、発信機つけてたとかじゃなくてね。違う方法で探したんだよ」
眼がちかちかした。
ヒューヒューと空気の抜けるような自分の呼吸音が、やけにうるさく聞こえる。
「逃げるのは自由だけど、君は逃げ切れない。こればっかりはオジさん、仕事だから。お金をもらって働くっていうのは、そういう厳しいものだから。キミを殺す。キミは死ぬしかない」
絶対に、どうあってもね――
念を押す言葉が、頭蓋に直接響くようにして残った。
同時に二度、やさしく肩が叩かれ、そしてまた静けさが訪れた。
動けない雪崇は次の変化を待った。相手は視野の外にいる。
それは頭に布袋を被せられ、不定期に殴られる拷問と同じだった。
視覚を封じられ、次にいつ、どんな痛みが与えられるのか分からない。
背中を針でチクリとやられるのか。それとも側頭部をバットで振り抜かれるのか。
ただ、必ず来ることだけは分かっている責め苦を待つほかない。こちらに攻撃のターンが回ってくることは絶対にあり得ない。終わりの見えない絶望のディフェンス。
相手が満足するまで、永遠に続けられる恐怖だけの時間だ。
悪寒と吐き気で気が狂いそうだった。
なにを、あとどのくらい凌ぎ切れば助かるのだろう。この悪夢から抜け出せるのだろう。
ただひたすららにそれだけを考えた。解放の時を切望した。
そんな時がいかほど過ぎたか。
ふと、木立の間をひときわ強い風が吹き抜け、頭上の木葉をざわめかせた。
薄い膜を作るほどに溜まった大量の背汗が、気化熱で急激に冷やされる。
戦慄とは違う純粋な寒気が、全身を一度、ぶるりと大きくわななかさせた。
それがきっかけで雪崇の肉体に自由が戻った。
否、気づかなかっただけで、実際にはもっと早くから解放されていたのかもしれない。
どちらにせよ、雪崇はその場に膝から崩れ落ちた。戒めは限界を越えた肉体の支えにもなっていたらしい。それが失われた瞬間、脱力した身体が耐え切れなくなったのだ。
ガリオン殺しの小男は、いつの間にか姿を消していた。
胃液に似た酸味がかった何かを吐きながら、雪崇はそのことを我が眼で確認した。
視覚から得られた確かな情報はそれが最後だった。
嘔吐に伴う生理的な涙で、雪崇の視界は急速に滲んでいった。
そこに歪みが加わり、遂には世界から輪郭と色彩が失われはじめる。
とどめに、重たいシャッターのような勢いで黒い幕が意識に落とされた。
生涯初となるブラックアウト。だがその間際、最後も最後の瞬間に、雪崇の視界はほんの一時だけ本来の能力を取りもどした。滲みも大部分晴れ、歪みもさほど酷くはない。
だから、見ることができた。
それは遠く木立の狭間に立ち、こちらを見ている何者かの姿だった。
見知った人物であることはすぐに分かった。
だが脳が判別と特定を終える前に、「ありえない」という結論が先に来た。
ここにあいつがいるはずがない。どんな偶然があろうと、その可能性は考えられない。
だから――
そこまで考えたところで、雪崇は今度こそ本当に意識のコントロールを手放した。
斜めになった地面が側面から飛んできて、そして真の闇が訪れた。




