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灰の中  作者: 茜坂 健
二〇一〇年八月二十四日 火曜日 〜 二十五日 水曜日
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30/31

 後部座席では佐久間と前嶋刑事が寝息を立てている。

 四人体制なので二人ずつ仮眠を取れる。昨日朝からずっと帰宅せずに捜査を続けている彼らは、ごく僅かな睡眠時間を貪るように費消している。

「……警部、宮田整形外科医院の診療時間が終わるのは五時半です。患者が多てちょっと遅なったとしても、六時くらいには終わるでしょうから、そろそろ神経を集中させといた方が良いですね」

 江口が自分の腕時計を掲げるようにして示す。蛍光塗料付きのか細い針は、五時半ちょうどを指していた。

「心配せんでええ。実は宮田医院の駐車場に捜査員を送ってる。診療が終わったら連絡が来る手筈になっとるんや」

「なんや、そうやったら早よ言うてくださいよ」

 はにかんだ風に歯を見せる。

 緊張感を隠しているようにも見えた。少なくとも、睡眠中の二人よりも、この青年の方が繊細な心境にあるだろう。

 灰皿の中に増えるラークの燃え跡は、自身の胸裏を表しているようだった。

 ――それから少し経ってから、連絡が来た。時刻は六時十分前だった。

 佐久間と前嶋もこの頃には起き出し、歯磨きも出来ない彼らはチューイングガムで口内の清潔を辛うじて保っていた。重松は煤けた舌に構わず、フロントガラスの先で寸分も動かない篠崎の住居を見据えている。

「すぐにこっちに向うたら、もうすぐにでも現れる筈ですが……」

「そんなすぐには来おへんかもなぁ。俺らが気抜くのを待っとるかもしれん」

「ところで、その捜査員に宮田を尾行してもらいますか? こっちだけやなくて向こうにも監視をつけた方がええでしょ?」

 江口が訊く。

「ああ。今日、明日は宮田にもつけてもらお。あんまり派手に動けんようになるやろ」

 有刺鉄線の鉄状網が、一人の医師を締め上げていく。少なくともここに陣取る四人は、宮田の動きを封じつつあると間違いなくそう感じていた。

「……長期戦になりますかね」

 前嶋の語り口には、不安の影が潜んでいる。

「宮田が動くか、その前に証拠を集めて令状を取るか。どっちが先か、やな」

「多分後者でしょう。我々がこんだけ目を光らせとったら、動けませんで。実際今日この後、宮田は医院から帰宅する時も尾行付き。家に帰ってからもずっと監視されるわけでしょう? 奴の自宅にからくり屋敷みたいな隠し通路でもあって、見えへん所から抜け出せるんやったら話は別ですけど」

 そう述べる佐久間の頭の中には、鉄条網がくっきりと鮮明に映し出されている。幾分か剽軽ぶった口振りに彼らの緊張感が緩和される。

「からくり屋敷かぁ……あるかもしれませんよ」

 江口が薄ら笑いを浮かべる。

「そないなけったいな仕掛け造れるんやったら、医者やるより大工でもやった方がええわ」

「普通の大工でもそんな物造れませんよ。伊賀か甲賀の辺りで忍者屋敷でも造っとるのが天職でしょう」

 その後暫く四人による軽口の叩き合いが繰り広げられたが、動きは生まれなかった。岩のようにずっと停まっている彼らの車の方が、不審車両として通報されそうであった。

 夜の八時頃には、最年少の江口が近くのコンビニに夕食を買いに行き、冷ややかなサンドイッチと缶コーヒーで腹を満たした。

 篠崎宅の勝手口のすりガラスからは夏の夜には不似合いな、暖気に満ちたオレンジ色の灯りが漏れている。恐らく台所で、手料理が作られているだろう。

「今時のコンビニのサンドイッチは、なかなか旨いですね」

「捜査中は口に出来たら何でも旨ぁ感じるもんや」

「もう、警部。そういうこと言うたら味気なくなりますやん」

 ある者は味に満足しつつ、またある者にとっては味気ない食事を終えると、話し合って重松と江口の二人が仮眠を取ることにした。

 少し倒した後部座席のシートに背中を押し付けて、窓から空を仰ぐと、妙に血色の悪い肌のような、くすんだ月が寂しげに浮かんでいた。



「警部、そろそろ起きて下さいよ」

 佐久間の声で目覚めると視界に捉えられたのは、グレーの天井だったた。

「今何時頃や?」

 自分の腕にも巻き付いている時計には頼らず、佐久間に対して問いかける。

「十時半です。篠崎はコンビニに煙草を買いに行っただけです。ちょっと前に帰って来ました」

「そうか。無職やっちゅうのに、こんな一軒家で煙飲んで、なかなかええ身分やな」

 侮蔑したような声を出す。実際妻のパートだけでこの家を保持していることが、不思議だった。

 篠崎宅の玄関先には、何の変化も起きていない。今日はもう宮田は動かないのではないか……

 重松を始め、他の面々にもそのような安堵感が生まれつつあった。

「やっぱりそんなすぐには動かんのですかね」

「動かんだら動かんで構わん。民間人が危険に晒されるのを期待するっちゅうのもようないしな」

 とにかくこれ以上の被害者を出すことは、大阪府警の面目を潰すことになる。重松の口から漏れたのは、紛れもない本音だった。

「まだ動きはないし、次は佐久間君と前嶋君が仮眠取るか?」

「僕はまだ大丈夫ですよ」

 目の下の墨を垂らしたような黒ずみからすれば、前嶋を動かしているのはただの強がりかもしれない。

「ほんなら僕は寝かせてもらいますわ」

 佐久間が軽く手を挙げて見せる。愛用のスポーツ新聞をアイマスクさながら顔に覆い被せて、シートに身を埋める。

 この一台のセダンは、すっかり職場兼食堂兼仮眠室となってしまった。いつまでこれが続くのか、誰にも分からなかった。



 しかしそれから十分ばかり経った頃、篠崎宅の前に一台の宅配便のトラックが停まった。

 見ればすぐにそれと分かる大手の宅配会社のトラックだった。五月の高原のような、鮮やかな緑を基調とした荷台には、宅配会社の名前と電話番号が白抜きで書かれている。それに加えてCMにも起用されている男性アイドルが黄緑色の制服を着て、小包を脇に抱えて微笑んでいる写真が荷台を彩っている。

 帽子の縁から見え隠れする艶やかに整えられた髪、涼しげな笑顔、白い歯、スレンダーな身体つきに長い脚。黄緑色に白のストライプの制服に真っ白なスニーカーを着こなしている。

 そのようなトラックが玄関の門扉の前に停車したため視界が遮られ、重松らから玄関先の様子が伺えなくなった。

 佐久間を除く三人が起きていたが、誰もそのことを不審に思わず、声を出した者すらいなかった。玄関先には見張りの警官も立っている上に、今日はもう宮田は動かないだろうと、心のどこかに隙が出来ていたのだ。

 実際帰宅時間が不規則な刑事達にとっては、このような遅い時間に再配達を依頼することはよくある出来事であったため、夜十一時近くに宅配便のトラックが来た光景は、凡庸な風景だった。

「あの宅配便のCM、最近テレビでようやってますよねぇ」

 ようやく口を開いたのは江口だった。荷台で微笑んでいるアイドルとも好勝負を演じられそうな顔立ちである。

「ほんまや。まぁこのヤマが片付くまでは、テレビ見る余裕もあらへんけどな」

 二人はトラックの方に視線を送っていたとはいえ、ただぼんやりと眺めているに過ぎなかった。

 エンジンが停まったのが、離れている所からでも分かった。すると、荷台の写真と同じ制服を着た運転手が運転席から降り、荷台の後方へ回る。

 後部の扉を開けると、荷台の中に乗り込み、すぐに大きな段ボール箱を抱えて出て来た。

「随分大きい荷物ですね。何が入っとるんでしょう?」

 重松は明確な返事をせず、ぼんやりとしていた。ただの宅配便だと思い完全に油断していたのだ。

 帽子を目深に被り、大荷物をたどたどしく玄関の方へ運んで行く。トラックの裏側に回りこんだところで、姿を視認出来なくなった。ちょうどトラックの車体が目隠しになっている。

 恐らく向こうでは、運転手が呼び鈴を鳴らし、篠崎なり妻なりが荷物を受け取るために玄関に出て来るだろう……

 重松の脳裏に不快な予感がよぎった。そしてそれは江口も同じようだった。

「警部……」

「ああ、でもまさか、あの運転手が宮田やなんちゅうことあらへんやろ?」

 自分に言い聞かせるように問いかける。だが江口は首を縦には降らなかった。

「どうでしょう? まさかとは思いますけど、どっかで本物の運転手を拉致して制服を奪い……」

 前嶋もただならぬ危機感を察知したようだ。喉を鳴らして後部座席から身を乗り出している。

 運転手の姿が消えてから暫く経つ。そう考えれば、玄関先を隠すようにトラックを停めたことも、目深に被った帽子も怪しく見えてきた。

「うむ……どうやろう。とりあえず様子を見に行こか」

 重松が助手席のドアを開けると、その音と勢いに佐久間が眠りを乱された。皺のついたスポーツ新聞がだらしなくずり落ちる。

 だが、足を地に着けようかという時、運転手が再び小走りで現れた。荷物は無くなっている。

 重松は一旦身体を車内にねじ込み、ドアを閉めた。江口も倣って慌てながら車内に戻る。

 入念に運転手を観察した。顔が見えれば良いのだが、いかんせん遠く帽子のせいもあって、はっきりと分からなかった。

 制服はまさに荷台の写真と同じ、CMでも街中でも見慣れた物だった。だが、何か違和感があった。

「……なんや、何かおかしいぞ」

 目を凝らして見つめる重松は、意識せずとも鬼の形相になっていた。通行人が見れば、明らかに不審者扱いされただろう。

「そうや! 靴や!」

 まだ寝ぼけていた佐久間が何事かと無理矢理に目を開く。江口と前嶋も揃って目を丸くしていた。

「靴?」

「あの荷台の写真を見てみい。白いスニーカーやろ?」

「あっ!」

「あの運転手の靴、黒色や」

「ほんならあれは、偽物?」

 佐久間を除く三人が車を飛び出して駆けていた。

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