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大太鼓の打音の余韻のように、低く唸り続けるエアコンのお陰で、車内は快適な涼しさを維持している。
しかし重松はその恩恵を受けていない。無慈悲に放り出したわけでもなく、自ら車外に身を置いているのだ。
重松は車内から見ても不健康そうなチェーンスモーキングをし続けている。もう何本煙草を灰にしたのか、数え切れない。――と言っても、真剣に本数を数えていたわけでもあるまいが。
美由希は運転席でハンドルに体重を預けて、思考を巡らせていた。
柴崎から話を聞いた後、重松と共にまだ喫茶店の駐車場に居座り続けている。
彼の話から分かったことは、矢沢が堺市の風俗店にかつて通っていたという事実だった。必ずその風俗店が被害者達の共通点であると確信を抱いた。携帯越しに江口に指示をした時も、自分の声が上ずっていたことを自覚していたくらいだ。
――だが、ぬか喜びに過ぎなかったと突きつけられたのが、吐いた溜息がまだ皮膚にまとわりついてくるほどのつい先程だった。
江口からの報告によれば、件の風俗店に矢沢以外の被害者が来店した形跡は無かったという。
予約者の名簿を見せてもらい、受付をしている従業員や、在籍している風俗嬢に写真を見せ、極めつけは、待合室に設置されているカメラの映像を動員した捜査員総出でチェックしたが、他の被害者の来店は全く確認出来なかった。
江口らはさぞ肩を落として、一件目の被害者の割り出し作業に戻ったのだろうが、こちらは未だに次の手を模索している。
重松が一人で煙草をふかしているのは、何かを深く思慮している時だと、美由希は経験則から把握している。尤も、額に汗しながら肌に刺さるような陽射しを浴びてまで煙を希求する感情は、例え重松の脳細胞を解剖したとしても、自分には理解出来ないだろうと美由希は内心で揶揄していた。
窓の外の重松はこちらに背中を向け、シャツの肩から脇にかけてだらしなく汗が滲みていた。密度の低い頭頂部では、原野に散らばった宝石のように、毛髪を掻き分けて汗粒が輝きを放っている。
重松はまだ何を思案しているかを話してくれていないが、美由希の中にも、一つの推測が形づくられつつあった。
――矢沢が堺市で病院に行ったことがあるという話だ。
恐らく柴崎は、女の肉体に夢中で腰を酷使したせいで、腰を痛めて病院に駆け込んだ矢沢のエピソードを小噺程度の感覚で話したのだろう。しかし、それは角度を変えてみれば、大きな意味を持っている。
病院もまた、風俗店と同じく皮膚を晒すことが多い場所である。小児であろうが大人であろうが、診察を受ける時に服を捲り上げることなど、誰しもが経験したことがある筈だ。
ましてや矢沢は腰を痛めたのだから、整形外科でその旨伝えれば、必ず腰の皮膚を晒すことになるだろう。
医師・看護師・レントゲン技師……刻まれた入れ墨を目にしたに違いない。
しかも、病院なら来院者の証として交付され、財布にしまう人も多い診察券という代物が存在する。犯人が財布を抜いた理由を説明することも可能だ。
被害者の財布から同じ病院の診察券が見つかれば、必ず警察は共通点として目をつけただろう。犯人が病院関係者なら、隠滅しようとするのは当然だ。
美由希はこの推理の答え合わせを、すぐにでも重松と交わしたかった。重松も同様の推測を立てているに違いない。柴崎から堺市の病院の話を聞かされた時、重松の目の色が変わったのを見逃さなかったのだ。
ちょうどそう思っていた頃合で、助手席のドアが開かれた。冷気がするりと逃げ出していく。
「勝野君、とりあえず府警本部に帰ろ。色んなことを調べたいからなぁ」
「色んなこと……ですか?」
「多分勝野君も気ぃ付いたと思うけど、矢沢が訪れたっちゅう病院が大きな鍵や」
美由希は大きくかぶりを振った。お互いの考えが一致していることが認識された。
「病院は堺市内。恐らく、整形外科や。ただ堺市内となったら、大きな総合病院から個人病院まで……まぁ千件はあるやろ」
「整形外科が入ってる所だけでもそれなりの数になりそうですねぇ」
重松は正面を向きながら、ハンカチで汗を拭っている。頭頂部は軽くハンカチを添えるだけだ。
「確かにそれなりの数や。片っ端から当たってもええけど、それは効率が悪い。でもちょっと頭を捻ったら数は絞れるんや」
「どういうことですか?」
「よう考えてみ? 犯人は被害者の自宅とか自宅付近で拉致を繰り返してるんやで? ちゅうことは、犯人は被害者の住所を知っとったことになる。犯人が病院関係者やとしたら、どうやって住所を知ったと思う?」
重松は試すような薄ら笑いを浮かべている。
「病院で住所って言うたら、まず思いつくのは保険証ですね。受付をやってる看護師とかなら、住所は見れます。でも、受付をやってたなら全ての診察に立ち会うことは出来ませんから、全員の入れ墨を確認出来たのかは疑問です」
「せやな。他には?」
予め決められた台本を読むように淀みなく問い直す。
「後は……初診の時に書いたりしますよね? 場合によっては問診票とかに住所書く欄が付いてたり……」
「そうや。どんな病院でも大抵一回は住所を書かされるやろう。その住所は患者のカルテと一緒に残されるんちゃうか?」
もちろん美由希も重松も病院で働いたことなどないが、基本的に患者の診察内容と関係ない住所のような個人情報は、カルテにまとめてあるか、そうでなければパソコンなどで管理されているか……
いずれにしても訪れたことのある患者の住所は病院の手中に収められているだろう。
「ほんなら犯人は、そういう情報から住所を控えたんですね」
「そこでや、そう考えると被害者らが行った病院がどんな病院か、ある程度の想像がつくんや。まず犯人は病院関係者の中でも、医師やと思う」
「その心は?」
「さっきも言うてたけど、受付なら住所は見放題やけど診察に立ち会えたかが微妙なところや。第一、受付はただのパートの場合も多いし。その点医師やったら、まず診察の時に入れ墨を見て、目を付けた患者の住所を突き止めたらええ。そうなると大きな総合病院やと厳しいやろなぁ……」
重松は腕を組んで顎を胸元に埋めた。
「確かに大きな病院やと、医師が住所とかの個人情報を抜き取るのは難しいでしょうね。それに比べれば小さな個人病院なら簡単かも」
「しかもや、もう一つの観点があるんや。被害者の中には高峰みたいに、最初から身元が割れてたのも何人かいたやろ? そんな感じで被害者の身元が割れた時、看護師なんかが『あの人うちの病院の患者や』と気ぃ付いてしもたらどうや? 一人だけやったらたまたまで済ませられるやろうけど、複数の被害者がいずれも自分の病院の患者やと気付かれたら……」
「それは犯人にとっては困りますね」
「個人病院やったら看護師とかを定期的にクビにしたりして、共通点に気付かせへんように出来るやろ?」
美由希の頭の中で、バラバラにほつれた糸が一本に紡がれていく。堺市内の個人病院で、恐らく整形外科……
その条件でふるいにかければ、かなり少数に絞られそうだ。
「でも、何で犯人はそこまでして遺体を燃やすことに執着するんでしょう? 入れ墨がある人間に何かの恨みがあるんでしょうけど、山奥に埋めてしもたら見つかる危険も低いのに……」
美由希が口にした疑問は捜査員皆の疑問であった。無論重松にとってもだ。
「高峰の免許証の入った小銭入れを落としたり、とにかく犯行とか被害者の身元を隠すことについては無頓着な犯人や。多分、入れ墨を灰に帰すことが犯人にとって意味があるんやろなぁ……。そら土に埋めても時間をかけて土に還るけど、自分の手で火を点けて消し去るっちゅうのが犯人にとって大事なんや。よほどの恨みがあるんやろう……」
ごく短い沈黙が生まれる。犯人の心に巣食う、姿の見えぬ憎悪の重みが肩にのしかかったようだった。
「そ、それで帰ってから堺市の個人病院を調べるんですね?」
「そうや。犯人は橋本市に土地鑑がある可能性が高い。堺市の開業医で、何か橋本市と縁のある人間が浮かび上がったら最重要人物や」
美由希はルームミラーの角度を軽く弄ってから、サイドブレーキを引き、車を発進させる。
すぐにでもその作業に取りかかりたかった。時間が経ってしまうと、せっかく掴んだ糸口が指の間をすり抜けてどこかに霧散してしまう気がしたのだ。
府警本部に戻ると、早速薄っぺらい一台のノートパソコンを頼りに堺市の病院を検索してみる。
すると、ざっと千件以上見つかった。もちろんこの中には大きな総合病院や、産婦人科などの矢沢の腰の怪我とは無関係の病院も多数含まれている。
「腰を痛めたんやったら、整形外科以外やと……」
重松が宙空を眺めつつ呟く。
「そうですねぇ……強いて言うたら内科かなぁ。でも、普通は整形外科でしょうね」
異論はなかった。基本的には整形外科に行くだろう。
重松は試しに整形外科に絞って検索してみた。すると百四十件程度まで絞り切れた。
「百四十件ちょっとか……。個人病院に限定しても百二十から百三十くらいはあるな」
「その百三十くらいある病院の医師の中で、橋本市に所縁のありそうな医師を炙り出したらええんですね」
「勝野君。簡単に言うけどなかなか大変な作業やで……。そもそも、橋本市との繋がりがどういう物かも分からんのやから。昔住んどったとか、勤めてたことがあるとか……」
美由希は小さく頬を膨らませと、その顔のまま、重松の横顔を覗き込む。
「ほんならどうやって突き止めるんですか? 手当たり次第に会いに行きます?」
「まぁまぁそんな怒らんといてぇや」
重松は軽々しい笑顔を作った。
「医師の方から辿るんやのうて、橋本市の方から辿るんや。橋本市の大きな病院を調べてみることからやな。個人で開業医やっとる医者も大抵は大きな総合病院で勤めて経験を積んでから、独立するもんや」
「なるほど。まず一つの可能性として、橋本市で勤務医をしてたってパターンを探るんですね」
美由希の言葉を軽く聞きつつも、重松は甲に血管の浮いた右手でマウスをクリックする。
指先を数ミリ動かすだけで、得たい情報が眼前に提供される。科学技術が発展して捜査も随分と楽になったものだと、重松は感じていた。尤も、そんなことに瞠目していては自分も年寄りだと認めることになるので、口には出さない。
「橋本市内の大病院は数が限られてるな。これやったら順番に当たるのも簡単やろ」
「五、六件くらいですね。早速行きますか? 『昔ここで働いてて、今は堺市で整形外科やってる開業医を知りませんかって』」
「せやなぁ。また府外に出張やけど、頑張るか」
重松は両腕を天井に向けて目一杯伸ばす。背もたれに体重を預けると、疲れからかあくびが漏れた。
パソコンをデスクトップの画面に戻そうと、画面上に浮舟のように漂う矢印型のアイコンをブラウザの戻るボタンに合わせて、一度クリックする。すると検索結果を示す画面に戻る。当たり前の現象だが、重松はそこでピタリと手を止めた。
「――これは……」
「警部、どうかしたんですか?」
重松はゆっくりとした動作で再びマウスを動かし始めた。