潔斎
智良は水場で身を清めていた。今日から五日間、例大祭。智良を跡継ぎとして正式に指名する日。今は肉体と同時に心も清めなければならないのに、昨日の母の言葉がずっと頭の中を這いまわってまったく集中できない。
――人の上に立つには、多少の犠牲がつきものです。
健司と恵香を雨島から遠ざけるために、ただそれだけのために、母は鈴奈を殺したのだ。
――雨島と金明では、宮司の責任は天地の差です。
綺麗事を並べてもしかたがないことだってある。智良だってわかっている。
――金明は筆頭巫者を失うわけではありません。
健司か恵香がその任に就くことになるだろう。金明山にとってはむしろ鈴奈よりもいいのかもしれない。
――すべて雨島のためなのです。
なにもかも、智良のためだ。智良をどうしても跡継ぎにしたい母自身のためだ。母が恐ろしいことをしようとしているのを見て見ぬフリをした智良自身のためだ。
――あなたは他の人と違うのだから。
智良は水に潜った。冷たさが肌を全方位から突き刺す。それでも母への恨みは消えない。自分への憎しみは消えない。
同時に祖父への怒りが湧いて止まらない。
なぜ健司たちに目をかけた。争いの種になるとわかりきっていたじゃないか。
祖父は祖父で、雨島のためだ、実力主義だと言って健司と恵香を囲いこもうとした。要は伊藤清子と香奈子伯母への体のいい償い。償いの体をとったただの囲いこみ。その軽率さが鈴奈を殺したのだ。
跡継ぎなんて辞めたくなる。
鈴奈はどう思うだろう。真実を知ってなお、智良が跡継ぎの座に安穏と座っていたら。きっと、軽蔑するに違いない。
真相をぶちまけるか?
母は逮捕され、風濱家は殺人犯の一族と罵られる。それとも祖父がもみ消すか。智良は廃嫡になり親戚の誰かがほくそ笑む。
黙っておく?
智良はいずれ祖父の地位を継ぎ、風濱家は安泰。鈴奈の死は闇に葬り去られる。
息がもたない。
「ぶはっ…はあ、はあ」
どちらをとっても、すぐに窒息死しそうだ。
「どうすればいい…」
――どーするんだよ?
集中力の限界だ。高崎までしゃしゃり出た。
――ヨッシーは、どーしたいんだ?
どうしたいって? このムカツく状況をなんとかしたいんだ。母には必ず償わせる。智良も必ず償う。
真相を看破したところで母は悪びれなかった。このままじゃ鈴奈に顔向けできない。鈴奈が浮かばれない。あんなにがんばっていたのに。課された責任を果たそうと、誰よりも誰よりも努力していたのに。智良と同じに「できてあたりまえ」と言われながら身を削る思いで勉強してきたのに。神社と氏子を背負って立つ人間になるために。親の、祖父母の、妹の、友達の、使用人たちの、すべての人々の期待に応えるために。
年に数回、少ない言葉を交わすだけだったけど、誰よりも智良の苦しさをわかってくれた。なのに。
遠くとも会えなくとも、共にがんばってきたのに。
――好きだったんだ、鈴奈ちゃんのこと。
「――」
喉の奥から頬の内側をせりあがってきた塊が、熱い滴となって目から溢れた。冷えた皮膚を伝って水面に波を立てた。
涙は止めどなく溢れて頬を焦がした。
棺に納められた鈴奈。鮮明に思い出せるのは、もうそれだけ。いつもと違う、真っ白な左前。穏やかな顔で静かに横たわっていた。身に着けていたのは振袖。髪はべっこうの櫛や花かんざしで時代劇みたいに古めかしく結い上げていた。せめてもの親心かもしれない。絶対に訪れることのない輝かしい未来の姿。
鈴奈の時間は止まった。いずれ鈴奈を知る者は死に絶え、思い出すら消滅する。
智良は顔を上げた。
これからどうすべきか。答えはまだ出ない。後でいい。今は役目を全うするだけ。
智良は手早く衣装を身に着け、拝殿へと向かった。
理不尽に課された役目は、それでも全うしなければならない。
辞めてはいけない。諦めてはならない。
責任も罪も放り出してはならない。
誰よりも学び続けろ。進み続けるんだ。
鈴奈がずっとそうしていたように。
「――約束する」
居並ぶ神職と観衆の真ん中へ、智良は歩を進めた。




