手記 そして死
きっかけは、母と私のちょっとした入院だった。
何か、最近食事がおいしくないな、と思っていたら、母と私はほぼ同時に倒れ、病院へ運ばれた。救急隊員が気をきかせてくれたのか、あるいは受け入れがそこしかなかったのか、それとも父の計らいだったのかは今となっては不明だが、私たちは父の勤務する病院へとかつぎ込まれたのだ。
急激な下痢、嘔吐、悪寒、高熱。母と私は似た症状であった。
通常近親者が主治医となることは稀であるが、私たちの担当医は父となったようである。ようである、というのは、私自身子供だったので当時の様子を細かく覚えていないのと、治療計画などの難しい話は主に父と母の間でなされており、私にはそもそも正確な情報が降りてこなかったという理由による。以後、当時の病名、診断や医療行為について多少の記述をすることがあるかもしれないが、これらは全て現在の私が当時のはかない記憶を頼りに推測を交えて述べているに過ぎない。
多くは推測であり、憶測である。根拠薄弱ではあるけれども、一般論として、具体的な医療行為というものは、そもそも表に出るものではない。なお、このことについては、いずれ後述する。
あの時、どんな治療がなされたか、どんな投薬が実施されたか。これらを確認する方法は、たとえば患者のカルテを見るか、看護日誌やX線フィルムなどのデータ、診療報酬明細書なんかを参考とするか。それくらいのものである。そして。
それらはまず絶対に、表には出ないものであったのだ。絶対に。
「行為」の説明に戻りたい。
私たちはそろって、腎盂腎炎ではないかという診断がくだされた(ようである)。
親子揃って同時期に腎盂腎炎に罹患する、という可能性の問題は一旦おいておく。そして、悪性感冒(インフルエンザ等)などではなく即断で腎臓の疾患を疑われた過程も一旦おいておこう。尿検、血液検査、血管造影検査など、子供心には恐怖ばかりつのる検査が繰り返された。腎盂腎炎は細菌感染症であり、抗生物質が投与される。かつ、重篤な腎臓疾患においては経口摂取が困難となることが多いので、高カロリー輸液も点滴投与されることとなった。子供にとって注射針は鬼門である。血管に針が刺されっぱなしの恐怖は、今でも覚えている。もう二度と経験したくないと思ったものだ。
さて、入院六日目のことである。母も私も小康状態を保っていたが、その日の二回目の点滴交換があった後、母の容態が急変した。昏睡状態に陥り、直ちに集中治療室に移される。その間にも原因究明のための検査が繰り返されたようだが、翌日、母は亡くなった。
そして。この時。
小さな、しかしある意味、私の運命を決定づけるかのような、ちょっとした事件が起こっていたのである。
当日の、件の点滴交換。その時点では、母には意識があった。
そして、私も意識があり、母の様子をベッドの横から見守っていた。
交換に訪れたのは看護婦である。無表情に与えられた業務をこなしている、という印象だった。
バッグに表示されている薬剤名を確認した時、だったか。母の表情が瞬間、歪んだ。
看護婦は母の様子には気づかなかったようである。続いて、看護婦は私の点滴交換を行い、バイタルチェック(体温、心拍数・脈拍、血圧などのチェック)を終え、来たときと同じような足取りで出て行った。
彼女が出て行ったのを確認した直後、のことである。母はいきなり私の左腕に刺されている点滴針をテープごと、ベッドごしにむしり取ってしまった。針が体から離れるのは非常にありがたかったし、その意味で母にありがとうと言いたい気持ちになったが、後で医者に怒られるのではないか、とか、そんなことを考えていた。
母は何かを悟ったように、それから目を閉じ、じっとしていた。やがて母の容態は悪くなり、驚く私を尻目に、誰かの鳴らしたナースコールを聞きつけたのだろう、父ではない初めて見る顔の医者と、看護婦二人が母を連れ出そうとし、ストレッチャーに移してから実際に連れ出した。が。
その時医者が、私の点滴が抜けていることに気がついたのだ。
看護婦に注意するつもりだったのだろう、一瞬反対を向きかけてから、彼もまた、バッグに記された薬品名に一瞬、顔を歪めた。
そして、私の点滴についてはとがめだてをすることなく、看護婦に続いてすぐ部屋を出て行ったのである。
私の記憶は、ここで途切れている。なんとなく覚えているのは、病院を転院させられ、そこでしばらくあの嫌な検査を繰り返されてから、三日くらいで退院したこと。家に帰って、がらんとした静かな部屋で、呆然としたこと。やがて父が帰ってきて、しばらくそれまでと同じ生活が続いたこと、そして……すぐに父と、離ればなれの生活となったこと。それくらいである。
母が容態急変したことについて。また、母の死因について。あの時、何があったのか、ということについて。私の点滴が抜けていたことについて。全てのことを話す機会は、私には与えられなかった。誰も聞こうとしなかったし、そのことを言おうとすると、誰もがものすごく嫌な顔をしたので、話すことをためらったからである。
たった、これだけのこと。以後、私は記憶を封印し、母の死を追求する手だてもそれを誰かに願うことすら叶わぬまま、成長していった。
以上が、父のとった行為であり、私自身の過去帳に記された記憶の断片である。
そして、今。
私は父の「手順」について、ある程度の推測をたてられるだけの知識を、手にしている。
母の死因すら明らかにされていない状態で、ただ、推測こそが可能なのである。証拠はない。なぜ証拠がないかと言えば――そう。これについても、おいおい語ることがあるだろう。
何が起こったのか。以後、このことについて述べていこうと思う。
(主 題)
「うす」
「おはよ」
休日明けの、朝の学校。無視は、されなかった。高幡はほっと、胸をなでおろした。
なでおろしたが。しかし会話はそれきり続かない。結局事態は後退するばかりでまったく前進していない。少しずつ本を読むことにすら慣れてきたというのに、彼女との距離は逆に少しずつ遠ざかっていくようだ。それに。
父、との会話。一つの確認が取れてしまった。そして。
彼女が。自分が。互いに交わることの出来ない一線を、血も繋がらない一人の男によってはっきりと引かれたことを、自覚したのであった。
自覚に過ぎない。まだ何も決まってない。そう自分を鼓舞してみるが、残念ながらその内からの声は、最下位球団の優勝可能性シミュレートくらい心に響かない。
現代文のない日はほっとする。
本を読まなくていいから。活字に苦しめられなくていいから。そして。
彼女の姿を、脳内に描いては消す痛みに、耐えなくてもいいから。
終わった。終わった。あえてそう繰り返してみる。すると今度は彼女のことを思っていたときに数倍する痛みが、目の奥に襲ってくる。今至近距離に見える刑部の遠さを、寂しさと解する自分にどうしようもない閉塞を感じてしまう。
怖いんだ。
失うのが、怖いんだ。
誰かがテレビでラジオでCDで、きっと歌ったことがある歌詞がリフレインする。哀愁あるメロディだったりすると、言葉と音楽が同時に自分に襲いかかってきたりして。
そんな弱い自分に、苛立ちを覚える。
岸本と、目が合った。
彼女がこちらを睨んでいる。その瞳はこう、語っている。
「逃げるな」と。
ふい、と視線を逸らされたとき、思わずほっとしてしまった。それは自分の頭に、罪悪感というやつがこびりついているからだ。そう思う。
だいたい、なぜ。
自分は彼女のことが、気になってしまったんだろうと考えた。
授業中。雑然とした空気。喋っている奴も、遊んでいる奴も、そして、勉強している奴も。
何かに必死になっている時間である。必死になってない方の時間で、どうにか青春て快楽だねなんてごまかしながら、泣いたり悔しがったり思い通りにならなかったり、夢を見たり、見なかったり。
ムダな気持ちも。ムダな時間も。ムダな勉強も。ムダなゲームも。ムダな音楽も。ムダな夢も。ムダな希望も。ムダな、その他の全てのものも。
あらゆるそれをひっくるめて、若さを燃焼させては頼りなく自分を打ち上げる。
社会における確率論に支配された、ボーダーラインという名の、見えない成層圏を突き破ろうと、躍起になって。
どうか自分だけでも人間になれますように、と、願いながら。
どうか自分だけでも落ちぶれませんように、と、夢見ながら。
情熱だけが頼りだ。正解は知らされない。人生。
――彼女のことを、想うようになったのは。
それはやっぱり、きっかけは、あの父親となった人物だった。そのことに疑いはない。
理不尽ばかりに傷ついて、何でこの世で自分だけがこんなむかつく運命に晒されなければならないのかと、恨んだ。父親が死ぬなんてバッドエンディングが、確率的にどれくらいのものだというのか。その壮絶な外れクジを、よりによって何で自分が引かなければならなかったのかと、吠えた。
驚いたことに。
吠えても泣いても、嘆いても。
現実は、変わらないのだ。
不運は世間に等価だと言わんばかりに、そんな見飽きたくじ運の悪さなど、眉をひそめて、お悔やみの言葉を言って、終わり。みごとな社会じゃないか。
バブルに奢った時代と、不況に苦しんだ時代と、若者が荒廃したと言われた時代と。
どの時代がどれだけ幸せだったんでしょうか。その実どこかで、等価に不運が降り注がれていたんでしょうか。
そんな愚痴を腹に溜めて。時に吐き出して。みっともなく時々誰かに八つ当たりして。
そうやって過ごしてきた、中学時代。
それが急に、変わったのは。
――何とか高校に受かって、配属されたクラスで。
自己紹介でその名前を、彼女が口にしたから。
静かに、もの思いにふけっていて、いつも空気みたいに、笑っているのか嫌悪しているのか分からないような小さな表情で、ひっそりと十代後期の、一番輝いているはずの空気を、吸っていたから。
人格とか性格とかじゃない。顔とかスタイルとかでもない。ただ。
自分とは違う生き方をしてきていそうで。そしてそれがとても。
自分には真似の出来そうにない、やり方だったからだ。
*
どうしたって、学校生活は続く。
刑部は、沢井の恫喝ともつかないような激励に引きずられるようにして、クラスの中に溶け込んでいた。
一年の時から同じクラスだった彼と、目が合うたびに逸らしてしまう。見つめられるのが、怖い。
それは、一つには。
彼の責任ではない、別の理由があるのだろう。
彼の、今の父親。
それはかつての、自分の父親だったらしいと、知らされて。
ならばきっと、彼のことは諦めなければならないんだろうなと、漠然と決意を迫られてしまったからに、他ならない。
――父のことは。
未だに心の中で、整理が着いていない。
どうしたって、今後一生ついて回るだろう。そのことはもう、覚悟している。父の影は、一生私の腕を掴んでは、時に引き寄せて、その恐ろしい顔をこちらに近づけて、笑うんだろう。
その時、自分は。
どうすればいい?
――家族を、超克すべし。
血縁から、離脱すべし。
そんな強さを自分の中に探してみても、見つからないのは分かっている。空白。
ここの中身は、空っぽなのである。強さも弱さも、持ち得ない。
だからこそ、さまざまな事象を文字に込めた物語なんかに逃避しているのかもしれない。決定的な怒りも。決定的な憎しみも。決定的な愛情も、全部、うっちゃって。
そんな不誠実な生き方をしていて、どうして恋愛など出来ようか。愛されなどしようか。
何度も自覚してきたことじゃないか。自分という人間は、あの時――父に殺されそうになった時から、ずっと。
ある決定的な負の成分。汚れた成分を、この血に刻まれてしまったのだ、と。
――私は、愛されない。
私は、だから、愛さない。
私の愛した人は、愛した瞬間から、私の血の中にある汚れた成分に冒されてしまう。それは実に、不幸である。
そう繰り返して、生きてきたのじゃなかったか?
なぜ、今になって。
こんなにも、恋い焦がれる?
少女には向かない。
高校生となった自分を少女と呼ぶほど、ふてぶてしくしているつもりもないが、あえて言うならば。
――この私には、あらゆるものが向かない。
「少女には向かない職業」、登場人物。
血の繋がらない父を殺し、憎しみと決別した少女。
血の繋がらない兄を殺し、悲しみに落ち込んだ少女。
――では、私は私の何を殺し、どんな世界に生きていくべきなのだろうか?
嫌だよ。
寂しいよ。
助けて、欲しいよ。
声には出さない。出すことなんて出来ない。
もう誰にも、迷惑をかけてはいけないから。
「――ちゃん」
誰かを、呼ぶ声?
「しーちゃん!」
はっとして振り向く。沢井が、いた。
「なにぼーっとしてんの? 帰るよ」
見れば、彼女の隣に、心配そうな顔でたたずんでいる奥谷もいた。そうか。
もう、放課後になったのか。
急いで教科書をかばんに入れて、席を立つ。
帰り道、時々二人の話に相槌をうちながら、半分は上の空で歩いている。
校門を通り過ぎるとき。振り返ろうかどうしようか、迷った。
眺めることすら罪に思えて、躊躇する。でも。
このまま振り返らず行ってしまうと、耐えられないくらいの痛みが走りそうで、思わず足を止めてしまった。
振り返る。――と。
「あ、高幡君だ」
いち早く奥谷が、「彼」を見つけた。
そして、刑部も、彼を見た。
遠くから。
こっちに、軽く手を挙げてくれた。それは一瞬のことだったけど。
「ほら、あんたも」
沢井に小突かれて、おずおずと刑部も、手を振った。
胸のところで、小さくだったけれど。
彼に見えているといいな、と思った。
明日は、現代文がある。いよいよ自分が提出した、「少女には向かない職業」をやることになる。
ある意味、心の奥底にある、黒い恥部をさらけ出す日でもある。
彼が、自分の全てを知った時。
それでも彼は、自分のことを見ていてくれるのだろうか……。
(授業風景 その四)
桜庭一樹、「少女には向かない職業」です。大沢茜、宮乃下静香、二人の主人公が、人を二人殺す話です。
最初にやった授業で、俺はミステリィの定義について語りました。それは、「生と死を扱った中でも特に、犯罪にまつわる何らかの謎解きについて語った小説」という内容のことを言ったと思う。
では、本編はどうか? 二人の少女は殺人を画策し、行動し、時に失敗し、偶然に成功する。その途中途中で、殺害方法はストーリィに沿って解説され、いわばそこに謎はない。あるのは原因と、過程と、結果のみ。ある意味ミステリィとは言い難い。
でも実は、そんなことはどうでもいい。
登場人物は、少女は語る。こわくて、どうしたらいいかわからなくて、いまにもからだが勝手に生命活動を停止してしまいそう、と。
恐怖、と言い換えてもいいかもしれないし、あるいは「良心の呵責」と言い換えてもいいかもしれない。彼女たちの魂にはそれがあり、だからこそ殺人が少女に向かない、と語る。
本編における「ミステリィ」は、この恐怖・良心が、なぜ殺人を行う以前に彼女たちをセーブせず、そのくせ殺人を行った直後から彼女らを苛み、心を壊し泣かせてしまったか、という部分にある、と思う。
そして、小説内には、この解答は載ってない。ただただ殺人に至る過程が書かれているだけだ。つまり――俺たち読者が考えるしかない、ということだ。
考えてみよう。じゃぁ。
この小説には、二種類の人間が登場する。子供と、大人だ。ただ、必ずしも子供は子供らしいとは限らないし、大人が大人らしくない振る舞いをすることもある。
世間が、ずれている。人間として欠けたまま生きる人間が大人であれば、その下に庇護されている子供は、正当な庇護を受けることが出来ない。ゆえに、役割分担もずれていく。考えなくていいことまで子供が考えさせられ、背負わなくていい荷物まで子供が背負って歩かなければならない。
酒乱の義父、という人間が登場する。大沢茜の義理の父親だ。
だいたいの物語に置いて、酒乱はろくでなしの代名詞だ。血の繋がらないろくでなしが暴力を振るってしまえば、大抵の人間は義憤を抱く。そうだ。ここで。我々は。
そんな奴は、死んでしまってもいい、と考える。
そしてもう一人。財産を狙う義理の兄、という人間が登場する。宮乃下静香の兄だ。
だいたいの物語に置いて、遺産争いは醜さの代名詞だ。血の繋がらない冷血漢が遺産欲しさに殺意を抱けば、大抵の人間はやっぱり、義憤を感じる。
そんな奴は、死んでしまってもいい、と考える。
――本当だろうか?
そんな奴らが生きているから、その下で庇護を受けるべき人間が、逆に虐げられている。その人間がいることで。存在することで。ただそれだけで苦しむ人間がいる。それは確かに、理不尽だ。
だからいなくなればいいと感じる。それが本当に、死んでいい、という感情に結びついてしまっていいのだろうか?
小説内で静香が、ドストエフスキーの「罪と罰」に言及するシーンがある。罪と罰は、「むかつく金持ちのおばあさんを殺す本」だと、彼女は言う。正確には、金貸しの老婆を義憤から殺す青年が、ある娼婦の生き方を目の当たりにして次第に罪悪感に苛まれていく、という話だ。この話と本編には、共通項が一つある。
――死んでしまってもいいはずの人間が死んだことで、犯人が罪悪感を感じる、というところだ。
義憤と、罪悪感。殺意と、良心。殺人者が死刑を宣告され、処刑される瞬間を思ったならば、ちょうどこんな感慨がセットで起こることがある。怒りを感じるその当人に対して、怒りと同等の悲しみを感じた時、その正体に近づける。
――いっそここで「義憤」の方をとっぱらって、解答を言ってしまおうと思う。
解答は単純だ。つまり。
この世には、死んでいい人間なんて、いないんだ。
反感を買うのは覚悟の上です。先進国が豊かさをむさぼるせいで、一体何人の人間が飢餓で死ぬか。国同士のエゴで、一体何人の人間が戦って死ぬか。あるいは、人間のためにエサとなって死ぬ家畜は? 野菜は? 魚は? 人間は自らのエゴのために命を次々すり潰していく生き物ではないのか? 生きながらにして原罪を背負う罪深い生き物が、どの面下げて正義面するか? と。
さぁ。そういう指摘が合ってるか間違ってるか、俺は分からない。だが、そんなことを議論する以前に考えるべき、大前提の考えとして、これからの話を聞いて欲しい。
ある人間が生まれる。その人間が右や左や上や下の、さまざまな経験を通し、最終的にその人なりの哲学を形成する。嫌なこともいいことも含め、経験が人間を作る。性格を作る。
裏切られ続ければ、人を信用出来なくなる。優しくされれば優しくなれる。優しくされて裏切られれば、人を憎む。憎んだ相手から優しくされれば、悲しみに似た一層の優しさを感じるだろう。そうして出来た一個の人格は、彼・彼女のそんなバックボーンも含めて加味されるべきものだ。
が。
通常、そのバックボーンを、我々が知ることはない。断片的に聞くことは出来るかもしれないが、全てを繋げてその人の全部を理解することは不可能だ。
だから俺たちは、その人の一部を切り取って、評価する。小説の話に戻るが、大西茜の義父なら、酒乱だ、ということ。義理の娘のお金を取ること。殴ること。これらが評価の材料となる。評価は「不可」。死んでもかまわない人間、となる。
だが、本編をよく読むと、茜の父親には、酒乱となった原因がある。漁で足を怪我し働けなくなってから酒を飲むようになった、と。
理由がそこに存在し、ただの悪人から、人間たる部分が立ちのぼってくる。
静香の義兄については、人格をかいま見る別の一面が書かれている。殺意を秘めて尋ねてきた茜に、優しい言葉をかけ、ホットカルピスを勧めるシーンだ。事実、茜は彼、浩一郎の内面を見失い、殺意を鈍らせている。
話の最後。浩一郎が静香に対し本物の殺意をたぎらせたところを読んで俺たちは、ああよかった、奴はちゃんと悪役だったんだ、とほっとして彼が死ぬのを待ち望んだら、この話はそこで終わり。「それは本当に本物の殺意だったのか?」と考えたとき、ようやく我々は、さっきから何回も繰り返している解答に近づける。
そんな奴は、死んでしまってもいいと感じる――本当だろうか?
――死んでいい人間なんて、いないんだ。
さぁ。問いに答えを重ねてみよう。首肯出来るか。それとも否定したくなるか?
義憤の正体を、探っていこうと思う。
義憤の正体とは、すなわち、正義感だ。実は正義感というものは危険な因子を孕んでいる。即ち、「誰にとっての正義感か」を、我々はしばしば、見失いがちだということ。これに尽きる。
この世では我々一人一人が主人公だ、なんてよく言われる。実際その通りで、全ての事象は、我々の目から入り、脳で咀嚼されて、理解される。広い世間がたった一人の個人に評価される図式が、ここで出来上がっている。
俺たちは常に、世間の人間達を評価して生きている。言ってみれば、我々が主人公であるということは、世間の事象は全て主人公目線で理解され、語られるということだ。
小説の、テレビの、映画の、あらゆる勧善懲悪は、それらの主人公にとっての勧善懲悪だ。俺たちはあくまでも主人公に感情移入してヒーローの悪を倒す様を見て、喜ぶ。世間のありようがいつでもそうなればいいのに、とすら思う。
だが、視点を逆転させてみよう。主人公の勧善懲悪は、主人公の語る正義は、本当に正しいのか?
その正義は、主人公の目線で切り取られた事象から評価された正義だ。つまり正義として、歪んでいると言わざるを得ない。
我々がつい語ってしまう正義は、我々が世間を切り取ったその範囲でひねり出した正義だ。つまり。
正義とは単に、その個人が見えてる範囲の正義に過ぎない、ということだ。我々はこの正義感を敷衍して、誰しもが感じる普遍的な正義であると、しばしば誤解して生きている。
さて。ちょっとここで、これまで語った中で必ず生じるであろう、誤解を解いておくとするか。
こんなことを思う人がいるかもしれない。無差別殺人。「ついかっとなってやった」「相手は誰でもよかった」「反省はしていない」ってやつ。あんな悪事を犯した犯人すら、殺してはいけないってことか? 死刑反対論でもおっぱじめたつもりか? と。
そうじゃない。ずれている。別に、人間が本来的に感じるべき怒りを抑えてまで、まるで牧師のごとく人を許せ、と言ってるんじゃない。たとえば先の例ならば、無差別殺人を犯した人間は、死んでいい人間なんて誰もいない、という禁を破ったということで、他人から憎まれてもしょうがない人間に成り下がった、ということに過ぎない。人を殺すなの禁を破った罪は、時に死で償わなければならないこともある。そして、それでも。
彼もまた「死んでいい人間」ではない、ということだ。死をもって償うべき人間、と、死んでいい人間、はイコールではない。考えてみれば、そもそも死をもって償うべき人間が死んでいい人間だとしたら、その被告は己の死によって何を償えるというのか?
いささか詭弁に聞こえるかもしれないが、彼が死んでいい人間ではないからこそ、彼が死ぬことで罪の償いに値するんだ。法律と裁判の世界では加害者の人権ばかりが尊重され、被害者の人権は無視されている、という論をよく聞くが、そんな思考は、正義感によって俯瞰すべき要素の一部が曇っているだけだと言えるだろう。被害者も加害者も、両者の人権をも尊重することで初めて、罰が罰として贖罪の機能を果たすんだ。
「死んでいい人間はいない」――これは、人がこの社会で生きていくための前提要件みたいなもんだ。いわば数学でいえば定義に当たる部分。この前提要件から派生して、あらゆる社会を形成するルール。いわば法律が出来ているんだと思えばいい。人を死んでいいと思うということは、いわば曇った正義感によって、数学における一たす一は二であるという四則演算の根本定義を疑う、ということに似ている。疑うのは勝手だが、その人間は一たす一は二である前提にたった数学的思考の全てを捨てなければならない。死んでいい人間を作るということは、死んでいい人間はいないという前提要件を元にした全ての社会規範に裏切られても、文句が言えない、ということだ。
正義、の話に戻ろう。
無差別殺人の例のように、我々はどんなに覚悟しても、時にぶっきらぼうに「死んでいい」人間を作ってしまうことがある。
こちらの正義感から生まれた、「悪」の汚名をまとったその人間は、しかしこちらの観察通りの悪ではないかもしれない。彼には彼の生きる存在理由があり、理念があり、その理念に従って行動しているからだ。いわば彼にも「正義感」がある。
だが、俺たちは自分以外の人間が心に持っている理念も、正義感も見えない。それゆえに何らかの悪が行われたとき、俺たちは自分の正義感に従って、悪の実施者を悪そのものと決めつける。この場合の悪とはだから、彼が起こした事件なり行動なりから推測して、相手の持ってるこの見えない正義感を、遡及して無視する行為であると言える。
「死んでいい」という意識は、悪が存在する事象――たとえば、さっきの無差別殺人という犯行――を見、切り取った事実を元に、自分の側から犯人を「評価」したに過ぎない、ってことだ。
大胆な言い方をすれば。
人間を語る上で、正義感という奴は、場合によっては非常に邪魔な存在になる、ってことなのかもしれない。
さぁ。延々と語ってきたけれども。
当初の問題提起についての解答に、迫ってみたいと思う。
本編において、主人公二人の恐怖と良心が、なぜ殺人を行う以前に彼女たちをセーブせず、そのくせ殺人を行った直後から彼女らを苛み。ついに二人は心を壊して泣き出してしまったか。
つまり。
己の正義感に従って起こした、義憤からなる殺人という行為は。
その殺人を終え、義憤の根本が絶ち消えたとたん、「死んでいい人間などいない」という、人間の根幹に関わる定義。その定義に反する行為を行った自分たちに対し、良心の呵責という形で跳ね返ってきた、ということだ。
――では。どうすればよかったというのか。
親の暴力に耐え。兄の殺意に耐え、ただただ頭を垂れ、身を伏せて、潰されるままに生きてればよかったというのか?
分からない。
むしろ、この問題こそ重要かもしれない。誰にも分からない問題だ。そして。今。
全国の学校が、全国の大人が、全世界の民が、実は同じ問題で頭を悩ませている。
――このままでは殺される。殺される前に殺してはならないのか?
――苦しい。相手を殺して苦しみから逃れてはならないのか?
実に、片手落ちなことに。
この解答は、世界のどこにも用意されてない。
――ただ。
俺が用意した、当座の答え、というものはある。
それは、一言、こうだ。
「逃げろ」
殺される前に。苦しむ前に。
誰かに、助けてもらえ。
どこかにある安息の地へ、逃避しろ。
それしか生き延びる道がないのなら。
人を殺す前に、そこから逃げろ。
拙い言葉で申し訳ないが、これが今のところ、俺が用意出来るたった一つの、答えだ。
(主 題)
「え、――野球は?」
放課後、刑部が校門のところで振り返ったとき、グラウンドに彼を発見することが出来なかった。驚いて視線を泳がせていると、傍らに立つ等身大の彼に、目が留まる。
「今日はいい」
「え、ダメだよ。さぼっちゃ」
「今日は気分が悪い。そういうことにした。それに」
高幡はちょっと頭を掻いてから、つけ加えた。
「一度、待ってもらってるから」
もう、と、責めるような一言を口にしつつも。
じわりとこみ上げる感情の方が、自分の正直な気持ちなんだと知る。それ以上何も言わず、二人、一緒に歩き始めた。
しばらくは無言が支配する。険悪な空気ではない。二人とも、何を話していいのかつかめないでいるのだろう。
「高幡君って」刑部の方が先に、口を開く。
「自転車通学?」
「そうだけど」高幡の声。
「じゃ、そこまでだね……私、電車だから」
残念そうに、刑部が言うが。
「いいよ。一緒に電車乗ろう」
高幡がそんな優しい言葉をかけてくれたことで、ふっと気持ちが軽くなる。
またしばらく二人、歩いて。坂の下にある自転車駐輪場を通り過ぎる。どうやら高幡は本当に、一緒に電車で帰ってくれるらしい。
「刑部、さ」
「え?」
「苦しい?」
突然、高幡がそんな風に訊いてきた。
「それは」
その言葉の、意味は分かる。だけど。
今、自分の気持ちの中心が果たしてどこにあるか。どこで袋小路にはまっているのかが――。
「分かんなく、なった」
視界がぼやけてくる。ぐっとこらえる。
「高幡君は、どこまで知ってるの? 私のこと」
「言えない」
そこだけは断固とした口調で、高幡は答える。どうして? と問うと、端的な答えが返ってきた。
「余計なことまで、言いそうだから」
「……そう」
納得はしないけれど、説得はされた。回答を訊くのは諦めよう。
「私はね」
考えながら、続ける。
「今まで、悔しくて、悲しいんだと思ってた。小学四年の時。お母さんが死んだ。病院で」
「……」
「入院してたんだ。私と、お母さん。お父さんの勤めてる病院に。ベッドに寝たまま、二人でいろんなお話をした。だから入院は、病院のにおいが怖くて、嫌だったけど、楽しかったんだ」
高幡は黙って聞いている。彼の担いでいるバッグが揺れていた。
「ある日の点滴を境に、お母さんものすごく容態が悪くなって――その直前に、ベッドごしに、私の点滴を外したの。ちゃんとテープで貼りつけてあるとこを無理矢理、びりっ、て。そんなことしていいのか分かんなかったけど、点滴嫌だったから、そのままにしちゃった」
「その、薬品が?」
高幡が決定的なことを問う。刑部はぶんぶんと首を横に振って、否定した。……いや。否定しようとした。
「分からない。信じたくないけど、そう思えば思うほど深みにはまる。伯父さんも、伯母さんも、誰も教えてくれないし、私からも訊けない。誰か他の人がやったんだ、とか、単なるミスだったんだ、とか。いろいろごまかして、わざと考えないようにして、今まで」
高幡が、静かに頷く。分かった、ということだろう。
「高幡君」
唐突に、刑部が彼の名を呼ぶ。呼ばれた方はびくっとしながらも、それに答えるかのように刑部の顔を直視した。
「教えて欲しい。……お父さんは、本当にお母さんを殺したの? 私を、殺そうとしたの?」
無理な質問をした、と思っている。高幡の顔に、しわが寄る。
「この前、親父と話した」
沈痛な面持ちで、言葉を絞り出してくる彼が、痛々しく見える。
「あいつは……お前を、『覚えてない』」
「そうかぁ」
言えるギリギリの線を、彼なりに考えたのか。高幡の返答は返答になっていなかったが、その台詞で刑部には全てが通じた。
「うっ……」
ダメだ。泣くな自分。こんなところで。こんなタイミングで涙を流すくらいなら、今までに泣く場面は山ほどあったはずだ。ここで泣いたら。
彼の誠実な言葉のせいで、私が傷つけられたことになってしまう。
そう思って、涙を止める。無駄だった。感情は理性でコントロール出来ないと、何かで読んだ。残念ながら、その通りだ。
しゃくり上げながら、歩く。きっと自分の周りを歩く人がこちらを見たら、何ごとか男女のトラブルが起こったのかと早合点することだろう。勝手にしろ。こっちは。こっちはほんとに、それどころじゃない。
息を吸って、吐く。また吸って、吐く。繰り返すほどに苦しくなるのは横隔膜が痙攣しているせいだ。呼吸だ。呼吸をするんだ。
酸素を吸え。痛みを吐き出せ。悲しみと苦しみを、黒く汚い嘔吐物として、いっそ全部体の外に一緒に、吐き出せ。
無理な、相談だった。
残酷だ。悲しみを抱えている、この自分こそが、等身大で。
そいつは体の中心に居座って、てこでも動こうとしない。
手を。
その時彼が、彼女の手を取った。
「刑部」
その声が怖いほど、優しく響く。
「家族と、俺と、どっちを取る?」
「え?」
「頼むから、二度言わせないでくれ。俺だって――怖いんだ」
手を繋いだまま。
考えること、一分。ダメだ。ダメなんだ。
「選べない――選べないよそんなの。だって」
選んでしまったら。
「もし私が高幡君を選んだら、どうする気? どんな形だって、高幡君にとっては、今の家族なんだよ? そんなのは」
「もしも、俺を思い遣ってくれてその発言なら」
手を繋いだまま、彼の言葉が響く。
「今は止めてくれ。俺の決心が、鈍る」
「ダメ!」
叫んだ。それだけは。しちゃいけない。
「私の命はあの時、消えたの! 後はもう、誰にも迷惑をかけずに生きていきたい。静かに、ひっそりと。孤独で、寂しいけど、我慢して……生きて……」
「生きたいだろ?」
高幡が、ぽつりと言う。
「ひたすら酸素の少ないところで、息苦しい毎日をあがくつもりか? 俺も。お前も。決定的にブースターが足りてない。このままばらばらじゃ、失速して燃え尽きるぞ」
「なんのたとえ話?」
「流れ星で」
刑部の問いには答えず、高幡は語る。
「時々、長い時間光ってるやつがあるだろう? あれって、人工衛星なんだって」
「ああ。知ってる。成層圏を通る時の摩擦で、燃えるんだよね」
「大気の層を突っ切れない奴は、そのまま落ちてがらくたになる。打ち上げ成功して、グルグル回って、役目を終えた奴は、最後に光って、星になる」
「クサいこというじゃん」
ついちゃかしてしまった。そんな場合ではなかった、と思い直す。
「この社会で、人間になれる奴は、一部だけだ」
「え?」
「誰かに潰されても、自分で腐っても、親や親類に裏切りかまされても即、終わる。何とか全部をやり過ごして、進んで、あがいて、とにかく最後まで生きた奴だけが、人間としての一生を全う出来た、ってことだと思う。途中でへこんだ奴は、例外なくガラクタだ。人間にすらなれない。死んだら終わりだ。投げたら終わりだ。誰も助けちゃくれない。誰も死んだ奴のことなんて、覚えていちゃくれない。それが嫌なら生きなきゃいけない。役目を与えられないといけない。そして俺たちは、最初の環境が悪かった分、余計に早く、人間にならないといけないんだ。だから」
ことさらにこちらを見据えて、高幡がぐっと、握った手に力を込める。
「選んでくれ」
指が、離れる。
「家族か。俺か。もしも俺を選んでくれたら――俺はもっと、力を出せる。踏みとどまってみせるから」
彼が離した、指を。
それを聞いて刑部は再び、つかんだ。
決意しろ。過去を、振り切れ。ともに進め。
離したらそこで、落っこちる。ならば。
「ひとつだけ、約束して?」
「何?」
「死んでいい人間なんて、いないんだよ。今日先生も言ってた。私の――あなたの――お父さんがどんな人でも、私のお母さんの命を奪ったとしても、『死んでしまえばいい』なんて結論だけは、止めてよね」
「あいつは、こうも言ってたぜ?」
高幡が、反論する。
「『――このままでは殺される。殺される前に殺してはならないのか?』この答えこそ、出ていない、って」
「それでも」
断固として、刑部は言いつのる。
「それでも、死んでいい命なんて、ないんだよ」
「ん」
「それさえ、守ってくれるなら」
彼の目を、一心に見つめて。赤く充血した目で。こんな汚い娘が、一生でたった一度の攻撃を、決める。
「私は、あなたを――選びます」
緩まない表情のまま。
高幡はただ、そうか、と一つ、頷いてから。
じゃぁどこへ逃げるかな? と、笑って見せた。




