手記 内容の惨
父が犯した罪。一連の流れは、いろいろと複雑な過程をともなっていた。
ただ、結果として父の選んだ方法、手順は、最も安直なものであった、というのが私自身の感想である。私の父は医師であった。看護婦であった母と病院で知り合い、結婚。温厚で人当たりが良い、というのが周囲の評価であり、事実それは家庭内においても発揮されていた。父に殴られた記憶はない。必要以上に叱られたり、といった記憶もない。世間並み以上に、優しい父親であったと思う。
その裏で彼が飼っていた闇など、まだ幼い子供であった私は気づきようもなかった。今思うと、母は時々父を怖がるようなそぶりを見せていた、かもしれない。私の記憶は時に錯綜しているし、混乱している。あるいはだから、母が怯えていたという話もまた、私の妄想が作り上げた産物だという気もするが、今となってはそれもどうでもいいことである。
そう。父の犯罪。繰り返しになるが、それは結論としてははなはだ簡単な方法であったのだ。ただ障壁となるのは、責任問題とか、道義性とか、マスコミとか、噂とか。そういった副次的な内容ばかりであったと言える。
人間はわりと、簡単に死ぬ。医療に携わる人間はこのことを認識する率が他の職業に関わる者より遙かに高い。
致死性の劇薬をも、治療用として取り扱うからなのだが、なに。通常使用する薬品が使い方を誤って致死性の猛毒となる例は多々あるし、我々が毒と認識していないものすら、投与の方法によっては充分殺傷能力を持つことだってあるのだ。
たとえば、レスピレーターの不備でⅡ型呼吸不全に陥り、死亡。これなどは、犯人は二酸化炭素である。呼吸器が故障して、二酸化炭素が体内に蓄積し、酸塩基平衡のバランスがくずれた、ということだ。
たとえば、ジアゼパムの過剰投与で死亡。筋緊張緩和効果のある薬物で使い勝手も良く、古くから使用されている薬だが、一定量を急速静注すると呼吸停止を引き起こして死に至ることもある。
たとえば、麻酔。たとえば、食塩水。たとえば、二種類以上の薬品を併用した際に発生する相互作用。用法と用量を間違えば、ありふれた道具、用具、物質、薬品が凶器となる。だからこそ医師は、医学の知識を総動員して、それら死に至る過失を避けなければならない。
逆に言えば、どんなに全力を持ってことに当たっても、死亡事故は避けられない時がある、ということだ。ましてや、悪意が介在した場合においてをや。
ただし一つだけ。犯罪を犯し裁かれた場合においては、医師免許が剥奪されてしまうという点は注意しなければならないところだろう。犯罪は避けなければならない。――犯罪と、見なされてしまうことだけは。
父の下した結論とは、つまりはそういうことである。
さて。父が殺意を具象化した、具体的手順の説明に入りたいのだが、その前にまず、当日のことを出来るだけ思い出してみよう。
(主 題)
日曜日。せっかくの休日だというのに、刑部は代わり映えのしない過ごし方を選んでいた。単色のチュニック、ジーンズにスニーカーという地味な格好で自転車をこぎ、図書館か書店の二択を信号機前の四つ角で迷い、右折を選んでY駅前の書店近くに駐輪して携帯の時計を見ると、午前十一時少し前。母(伯母)が、昼食は外で食べてね、と置いていった虎の子の千円札二枚が、バッグに突っ込んだ財布に入っていることを、そっと確かめてみる。このシーンでの含み笑いは、小説読みの方には共感して頂けると思う。もちろん、こういうときのお昼はコンビニでおにぎり一個を、家に帰ってからお茶で流し込むのである。十円二十円に泣くことがあるので、購入は本先である。おにぎりが買えなくても死ぬことはないが、本が買えないと死ぬのである。異論のある方。いつでも相手になります。
開いた自動ドアからふわっと紙のにおいが香る。お客は多いが、騒々しい雰囲気はない。入り口付近に数台並んだレジとレジ係は、大書店ならではの光景だ。新刊書の棚とPOPを同時にちらっとチェックする。多くは単行本なので、書名こそが重要なのである。Amazonから来るDMではチェックしきれなかった新刊情報を脳内に蓄積。それほどマニアックな読者でない自分でも知っている人の単行本は、ある程度文庫落ちが確実で、その時こそが買いどきである。
通路をまっすぐ行った先の、銀箱入りレーベル既刊コーナー前で、いつものごとく身動きが取れなくなる。引っ張り出して裏の値段をチェックし、絶望して戻すを繰り返す。全自動値段確かめ機・兼・高速キャッチコピー熟読装置と化してから一時間が過ぎたところで、書棚から体を引きはがすようにして、何とか脱出成功。馴染みの文庫コーナーへ。
――くっ。いつか私が大金持ちになったら、「ここからここまでぜーんぶください!」って言ってやる。見てろ――と、思うだけ。
悲しくなりながら文庫の平積みを眺めていると。レジの向こう、見知った靴が目の端に止まった。普通の人は顔を覚えているものだろう、なんて少し自虐的になりつつ、視線を上げる。
入り口付近に、彼の姿を目に留める。ぱっと嬉しさが込み上げるが、自動ドアが開いた途端になぜか躊躇してしまう。足が動かない。拒否されたらどうしようなんて思ってしまう。自分にいつも声をかけてくれるのは学校だからで、こうしてプライベートで会ったときなんかは知らんふりが基本だろうか。噂とか気にする人かもしれない。どうしよう。
声をかけなきゃ、と思いながら反対側、ノベルスのコーナーへ退避し、本棚をシールドに見立てて様子を窺っている自分。
――何をやってるんだ何を。
そっ、と頭だけ出して入り口の方を見遣ると、ゆっくりした足取りで高幡が文庫コーナーへ歩いていくのが見えた。
二、三度、辺りを見回す仕草をしたので、慌てて自分の頭を引っ込める。三秒待って再び顔を覗かせると、彼は文庫の棚から二冊、選んで抜いたのが確認出来た。そして、まるで悪いことをしているかのように、入ってきたときとうって変わって早足でレジへと向かう。お金を払って、袋を隠すように脇に抱えて。ダッシュで外へ。
何を慌てていたんだろう、と、自分の今まで取っていた小心な態度を棚に上げて刑部は考える。本。そう。
彼は、本を選んでいた。
あの、活字が苦手だと頭を掻いていた、彼が。
何となくどきどきしながら、彼が立っていた棚に、刑部も立ってみる。目の前にある本棚に、真新しいスキマが二冊分、見て取れた。
「お」の棚である。そうか。次の現代文では、確か。
宮崎の声を思い出す。次回は乙一の「ZOO」をやる、と言っていた。
――読んでくれる、つもりなんだ。
まるで自分のことのように嬉しかった。どういう心境の変化なのかは、刑部にも分からない。ただちょっと、気が向いただけなのかもしれない。でも。
彼が活字の世界へと、参加してくれること。
――私、も。
彼が手にしたのは、文庫本。集英社文庫では、ZOOは「1」「2」と分冊されている。
同じような素早さで。
同じ二冊を手にして、レジを通して、店を出る。
春の逸る風と一緒になって、刑部は少し弾んだ気分で自転車に乗った。
*
日曜日。せっかくの休日だというのに、高幡は今までの自分では考えられないような過ごし方を選んでいた。
本屋というのはいつ行ってもなぜか気恥ずかしくなる。自分の日常と関係のないものがずらっと並んでいるのを見ると、どうしても気後れがしてしまうのだ。そう。似たような例を挙げるならば、運動の苦手な人間がスポーツ用品店に入った時のような。または、さえない男が初めて出来た彼女に連れられて、109に入ったときのような。
これが、自分ちの近所のコンビニや、同じ本でもマンガ専門店、そうでなくても、本屋のマンガコーナーなら、こんな気分を味わうことはなかっただろう。
一つには、以前同じ本屋で買い物を試みていた時の姿を、岸本に見られてしまったことがトラウマになっているのかもしれない、と考えてみる。
彼女が残していった、一言。
「あんたがやることは、まず。次の現文でやる『ZOO』を読むこと。そして、あんたなりの感想を持つこと」
はぁ? と、問い返した。説明を待つ。
「いいから」
それに対し、無情にも岸本は、揺るがない表情で高幡を一睨みすると、くるりと自分に背を向け、すたすたと行ってしまった。しっかりしろよばか。そんな一言(捨てぜりふ)を残して。
一人残された高幡は。
「何だよ。意味分かんねぇよ」
同級生の女子に説教じみた台詞を吐かれたことに内心、腹を立てており。
その日は何も買わずに本屋を後にしたのである。そして。
家に帰っても。夜になって、床についても。
岸本の言葉が、気にはなっていた、が。しかし。
「あの」宮崎の授業を、おとなしく聴こうという気にはならない。岸本が、あそこまで現文の授業に――宮崎に肩入れしている理由さえ、判然としない。
そもそも。彼女が刑部の何を知っているというのか?
岸本。刑部。二人の間には、それほどの繋がりはないはずだった。というより刑部はむしろ、冷徹というか、怜悧というか、そういう雰囲気を身にまとっている岸本を、怖がっていたのではなかったか。
二人。共通の友人と言えば。
「沢井、か」
――なっちゃんとはね。ずっとずっと、友達だったんだよ。
刑部が、いつになく真剣な表情で、そう言ったことがある。
女同士の友情。そこにどんな感慨があるものか、無粋な自分には判然としないが。
きっと、柔らかくて温かな、彼女らしい優しさでパッケージングされた、きらきらしたもんがその中心にあるんだろう。高幡はそう想像して、そのメルヘンチックな情動と自分自身の持つキャラクターとのギャップに、悄然となる。――おいおい。
ため息が出て来た。これがあれか。萌えとかいうやつか。よく分からんが。
そうやって笑い話に変えようとするが、うまくいかない。
結局。
自分はどうしても、気になるんだ。
覚悟を決めて、高幡は結論づけた。
だから、こうして。
日曜日だというのに彼は、慣れない本屋の文庫コーナーで、固まってしまっているのだ。
予習は万全だ。集英社文庫。ZOOの、1、2が既刊である。それだけに狙いをつけて、本屋の前で自転車を降り、自動ドアをくぐり、周りに岸本がいないことを今度はきちんと確認してから、ここ駅前書店の文庫コーナーまでやってきていた。
しかし、それからがいけない。
「作者、は……」
初心者にありがちなミスだ。小説というものは、大抵の書店では新刊を除き、作者名の順に陳列されているものだ。文庫などは、特に。
赤川次郎、綾辻行人、泡坂妻夫、と、「あ」から順繰りに探していく。記憶の底で、なんとなく「あ」行に近い名前だったような手がかりがある。
このように、まったく万全ではなかった予習が徒となって、期せずして本棚の前で固まるはめになってしまった。が、ようやく「お」の段に目指す作品を見つけることが出来た。やれやれ、と思う。
文庫を二冊、わしづかみにしてとっとと支払いを済ませる。罰ゲームのようだと思う。
走るように本屋を出て。
家に向かう。が、自分の部屋は居心地が悪い。近所のファミレスに避難した。ドリンクバーで延々と粘りながら、読みやすい文章で書かれた短編集を少しずつ、めくっていく。
二話目、だった。
彼が、本を読んで衝撃を受けた、これが初めての経験となった。
(授業風景 その三)
今日は乙一作、ZOO、です。もう昔読んだよ、って人もいたんじゃないかな。
全部読んできてくれた人、いるだろうけど。ごめん。実は今回やるのはその中の一編だけなんだ。いや、面白い話だから全編目を通して欲しかったんで、あえて言わなかったんだけど。でも、「無駄な労力を払った! カネかえせ」なんて言う人はいないよね。 それだけの価値はある作品でしょ? 実のところ。
二編目。”SEVEN ROOMS” です。セヴェン ルゥゥムズ。ああすまん教養が邪魔してついネイティヴな発音を。うるさいって? はいごめんなさい。謝ります。もうしません。
ストーリィは明快だよね。姉弟が二人してどこかの建物のどこかの一角、閂をかった一部屋に閉じこめられる。トイレとして使用しろということなのか、部屋の中央に小さな溝が掘られ、水が流れている。小さな弟がその上下流に移動して見聞したところ、同じような部屋が七部屋ある。一部屋は無人。髪の毛。ということは、閉じこめられた人間は一日一人ずつ……という設定だね。
結末はある程度みんな予測しながら読んだと思うけど、そのラストに「うわっ」てなった人、多いんじゃないかな。そして、その衝撃の意味を自分なりに探った人もまた、いるだろうと思う。
さぁ。これもまた、形を変えた家族の話なんだ。といっても、今度は姉と弟。いわゆる「きょうだい」とは、ってことに繋がるんだよね。
前回でも家族についてはちょっと触れたけど、その中で「親と子の関係は宿命的だ」って話をしたと思う。そしてこの、きょうだい、という関係もまた、多分に宿命的だよね。おいおいそれは夫婦のさじかげん一つだろ! なんていう憂鬱になるようなツッコミはなしね。子供にとっては、きょうだい、という関係はやはり宿命なんだよ。自分の恣意でどうにでもなるわけではないってこと含め、でね。
「きょうだい」は、家族の中でも特殊な関係性だと思う。いとことか、おじさん、おばさんとか、ある程度関係が離れている人たちというのは、子供の目線からしても、少しは落ち着いて見られるもんだ。それはすなわち、普通の人たちは親戚と一緒には住んでない、ということが一つ、あるんじゃないかと思う。きょうだいというものは、必ず一定期間は一つ屋根の下に同居せねばならない。この制約を含んでいる一点で、ある種この間柄は深刻だ。それでいて、きょうだいという関係性は、不思議と曖昧でもある。
同じ親から生まれた「血を分けた」子供、という意識。でも、親子の宿命論は子供側からは簡単に享受出来る類のものなんだけど、どうしてもこのきょうだいという奴は、そうはいかない。ある意味、「一番近しい他人」と評価してもいいかもしれない、別の存在。そんなことを考えたことのある人は、少なくないんじゃないかな、と思ってる。
ちょっと一旦家族の問題から離れて、一般論を言うよ。人というものは通常、ある一定期間を共に過ごすと親密になるという特性がある。親密に仲良くなるか、親密に喧嘩三昧になるか、その違いはあるにしてもね。考えてみると、近しい者順に己の関係を並べたとき、一定期間を共に過ごしたかどうか、というのは、意外と軽視出来ないファクターになるよね。遠くの親類より近くの他人とはよく言ったもので、自分から近しい遠いの序列に、「共同生活した」という要素は実は、重要なんだ。
そこで、と、きょうだいを持ったことのない奴なんかは考えるんだよ。きょうだいってのはこの、一定期間を共に過ごした親密さだけで、家族という血の繋がりを共同幻想しているに過ぎないんじゃないか、って。
どうだろうか。その可能性はあるのかもしれない。家族という関係性がどうあっても着脱可能だと思い切った――超克した――後とあっては、そういう突き放した理論も喋ってみたくはなる。
そこで、この物語なんだ。
姉が弟を助けた理由を考えてみる。すると、大まかに二つの答えにしぼられてくる。
一つ。
弟が、「きょうだい」だから(血が繋がっているから)、助けた。
二つ。
弟が、「小さいから」(助けることが可能だったから)、助けた。
さぁ、どっちだと思う?
前者は精神的な要因。後者は物理的な要因だ。そして多くの人が前者を答えとして挙げるだろう。後者を選ぶ人は、よっぽどひねくれてる、と考える。
でも、血に絶望した人なんかは、時に、後者を選んでしまいがちになるかもね。そうせざるを得ない状況で、必然的にそう行動しただけだ、と。事実、作中の姉弟は、普段はそんなに仲良くなかった雰囲気が見て取れるだけに。
で、結論なんだよ。
これは実は、やっぱり前者が正解であると言わざるを得ないんだ。驚いた人、いるかな? 読書に正解なんてあり得ない。人間の感想なんて自由だ。そう叫びたい人もいるだろうが、ちょっと待ってくれ。これには、説明が必要なんだ。
俺は意図的に、ある条件説を挙げずに、回答を迫った。この条件抜きにして、この物語は語れない、というくらい重要な要素。じゃそれって何よ。早く言えよと思うかもしれない。分かりました。
――それでは何故、姉は弟と行動を共にする選択を採らなかったのか?
一人って、寂しいじゃない。何で自分だけ、って思うじゃない。
この姉弟にとっては、まずいきなり二人一緒に死ね、って宿命が突きつけられた。そして姉は、その宿命と対決することを選んだ。その対決の結果として、失ったものは。
……この物語の壮絶さは、ここにあると思う。いわば姉は、それこそこの選択の時点で、「超克」したわけだ。
この壮絶な超克がある以上、選択の根拠となった要因が、物理的であってはならないんだよ。物理的な結論はこの場合、精神論に負けてしまう。人間は超人じゃあないんだ。生死のキワに追いつめられた時、どうか自分だけは助けて下さい、ってつい願っちゃうのが人間。これはどうしようもない。それをひっくり返す以上、物理的要因は排除しなければならない。でないと人間は、たとえば動物を助けるために餓死すべき、っていうような一種カルト宗教的な話になっちまう。そこまでの強さ、強靱さを、おそらくこの作者は人間に望んじゃぁいない。
さぁ。このように物理的精神的要素の問題に一応の解答が出たことで、俺たちはようやく、次のステップに移るわけだ。
――じゃぁ。たとえばきょうだいという存在は。血の繋がりのある他人は。己を犠牲にしてまで守らなければならない関係を孕んでいるのか?
そう。この結論こそ出ていない。そしてこの先きっと出ることもない、解決不能の二者択一なんだよ。きょうだいという関係が着脱可能だろうと、宿命だろうと、相手のために自分が犠牲になるということがあっていいのか。あるいは、そうしなければならないのか? 実にそんなこと、誰も分からないし、誰も言い切ることなんて出来ないもんなんだ。
ただ。本作の姉は、出来た。他の誰かが普遍的にそうあるべき、という常識良識の問題でもなく、たまたま本作登場人物の一人に限ってのみ、それが出来た、というだけなんだ。
選択は自由だ。誰も強制なんてしない。あるように生き、自分の思うとおり生きていい。ただ。
人間は時に、――ある種の人間は時に、と言い換えようか。時に、その人の日常からは考えられないような、あり得ないような崇高な選択をすることがある。それは究極まで追いつめられて仕方なく取った選択だったり、行動だったりなのかもしれない。でも、だからってその崇高さそのものが貶められたわけじゃない。
家族という存在は、その認識において着脱可能なものになり得るかもしれない。だけど、その家族のために自分が犠牲になることはありえない、というわけでもない。いざ、って時に何を選択するかは、誰に決められてるわけでもないが、その選択をするときの根拠を、家族の血の繋がりに求めていけない、というわけでもない。
そういうことなんだ。
勇気なんて、無理に押しつけたくはない。選択が可能だ、ってことが言いたいだけなんだ。
そして、それが価値あるものだったりしたら。
それはかなり、美しいことだと思うんだよね。
(主 題)
部活の始まる、放課後。
刑部はいつもの自分から決別することを選んだ。
誰かが、何かが、自分の背中を後押ししてくれたような。そんな気がする。それが誰か、と言えば。
いつも眺めていたグラウンド。走る野球部。眩しい一人。象徴としての、統一感あるユニフォーム。その白。
それらをじっと見ることが出来ていれば、それでいいと。それで満足だと思っていた。
選択が可能だ、というその一言だけが、ひっかかっていた。刑部は一人っ子だったので、きょうだいの話自体はぴんとくるものではなかったものの、それでも、関係を築いたはずの人間がいなくなるかも知れないときに自己犠牲を貫いた、あの登場人物であるところの「姉」は、自分の理想とするところに近いように感じていた。
――私たちは、やはり。
誰かのことを考えるために、生きている。
ぼんやりとそんな思いを頭の中で転がしながら、刑部は校門の前に立ち、誰かを待っていた。
部室の前で待ち伏せるほどの勇気はない。彼はそこで着替えをしてから、直接学校を出る毎日。だから、他の場所で待っていても、会えない。
話が、したい。
目の前を通り過ぎていく同級生や上級生、下級生。いぶかしげな目でこちらを覗き込んでくる者もいる。顔を伏せ、潜水してやりすごしながら、刑部は一人、そこにいた。
あたりが、夕方の朱に彩られて来た頃。一年で最も長い太陽がその命尽きかけんとするまさにそのタイミングで、彼が通りかかった。
「え、何やってんのお前。こんな時間まで」
「……待ってた」
驚くほど正直な答えを返していた。疲れのせいだろうか。防御本能は驚くほどその機能を鈍らせている。いや。むしろ、いい傾向だ。
「待ってた、って、俺を?」
「ん」
驚いたような声だ。笑って頷く。用具一式を入れたバッグを肩から提げた彼が、やがて肩の力を抜いて、へぇ、というのが聞こえた。汗のにおい。土のにおい。それが嫌じゃない。
「悪い。汗くさいかも。今まで練習だったから」
「いいから」
どうでもいいことを気にしている彼に、帰ろ? と促してみる。笑顔で応じてくれた。ほっ、と息をつく。
一緒に歩く。とろい自分に、俊敏な足が歩調を合わせてくれている。それがとても自然なことのように、彼は不平どころか、渋い顔一つするでもなかった。気を遣われる、そのことがなんか、甘ったるい。楽しい。
「お前の、友達ってさ」
彼が、話しかけてくる。うん、と返す。
「ひょっとしたら、いろいろとフクザツなこと、考えてんのかもな」
彼が言うところの意味が、刑部には何となく分かる。今日まで、自分はそんなことにも気づかなかったのだ。でも、今は違う。
「そうだと思う。ねぇ」
口が勝手に、説明を始めていた。
「綾香ちゃん、いるじゃない?」
「奥谷?」
「そう。あの人ね。弟がいるらしい」
「弟? 聞いたことないけど」
「半分しか、血が繋がってないらしいの。で、今は離ればなれなんだって。以前、そんな話を聞いたことがあったんだ」
「へぇ。知らなかったなぁ」
言葉通りの意外そうな表情で、彼が何度も頷いている。友人の秘密を勝手に喋っていることにちくりと罪悪感が痛んだが、ここを説明しないと、何のことか意味不明になるから、やむをえない。
「綾香ちゃんはね。その人のことが、好きなの」
「え」
絶句された。言い過ぎたかな、と思うが、もう止まらない。
「つまり、恋愛感情、ってこと? それってどうなの。常識的に」
「いろいろあるんだよ。人には」
そう言って、ちょっとだけ空を見上げる。暮れかけた灰色が、雲の輪郭を浮かべている。
「だからこそ、あのお話が染みたんだと思う。大げさかもしれないけど、多分綾香ちゃんは、その人のためだったら、何だってやっちゃうんじゃないかな。実際に綾香ちゃんとの間にどんな関係があって、どんなストーリィがあって、どんな困難があったかなんて、私は知らないけど」
「はぁぁ……」
ふうと息をついてから、彼はその重そうなバッグを反対の肩にかけ直す。
「いいこととは思わないけどな。そういうのは」
首を振りながら、彼がそう呟く。
「いいことでも、悪いことでも」
刑部の声が、それにかぶさる。
「それが綾香ちゃんの、決意表明なんだと思う。『私はこうやって生きていく』っていう。綾香ちゃんは、私と小説の話をするとき、いつもあの作品を挙げるんだよ。そして、必ずこう言うの。『こういう風に生きることが出来たら、私は人生に悔いはない』って」
「人生ときたか」
ははは、と軽い笑い声を発してから、彼はそれでもすぐにぎゅっと口を閉じた。そんな彼の真剣な表情に、少しだけ刑部は見とれていた。
「授業でやる本に選ぶのにも、だから勇気がいったはずなんだよ。自分の一番大事な、重い部分の内面を人に見せるわけでしょ? しかも、全クラスの人間に向けて。でも、それを綾香ちゃんはやってくれた。そのことが私は、嬉しい」
「なるほどなぁ」
「物語なんて、所詮は絵空事なんだ。悲しいけど。そうなったらいいなっていう、希望だけ。現実には、そんな生き方なんて私たちには到底出来ない。私はずっと、そう思ってた」
彼の瞳から目を逸らし、うつむいて、刑部は考えをまとめながら、喋っている。
「でも、そういう風に生きたいって言えるのは、やっぱりその人の強さだと思う。理想が本の上に語られて。それを標榜して生きる。そういうの、私にとっては、かっこいいことのように感じるんだ」
「そう、そういえば」
思い出したように、彼が言う。
「岸本のことなんだけど」
えっ、と相手の目を見据える。「あの人と何かあったの?」と、思わずちょっとした剣幕で尋ね返してしまった。いや違う違う、と笑って手を振る彼に、ほっと胸をなで下ろす。我ながら少し焦りすぎだ、と反省した。
「本、買いに行ったんだよ」
彼の言葉に、期せずしてあの、乙一を買っていったときの姿を思い返した。ただ、よく聞けば、どうやらあのシーンのことではないようだ。
「俺、何となく最初、宮崎の授業、嫌でさ。すっげぇ思わせぶりで、家族とか勝手に語ってるのが腹立って。で、その……お前、真剣に聴いてたじゃん? 現文の時間」
「ああ」刑部は頷く。「確かにね。いろいろ考えることあって」
「もともと刑部って、本読むじゃん。で、なんつーか……宮崎の言ってたような話じゃなくて、もっと明るくて、常識的な話の方が、お前にはいいんじゃないか、って思ったんだ」
「それはどうも」
「はは……。で、本を探してたら、岸本と偶然会って。で、言われたんだ。『まず、ZOOを読め。そして、あんたなりの感想を持て』って」
「へぇー」
驚いた。岸本。彼女がそんなことを言ってくれるなんて。
「むかついたけど、読んだよ。わざわざ文庫二冊買ってさ。宮崎の奴、結局一コしかやりやがらねぇ。俺だけは言ってやりたいよ。カネかえせ! ってさ」
「あはは」
「……うそ」
突如、彼はそう白状した。
「面白かった。んで、……初めて本に、感動した。聞いてくれよ! 俺、本読んで泣いてんの。自分にひくわー。まじで」
「……っ」
思わず吹き出しそうになって、慌てて顔を背ける。そんな相手を傷つけるような態度を取ってはいけない、と自分に言い聞かせる。
横で、彼が赤い顔をしていた。勇気を必要とする告白だったらしい。耳まで赤くなっている。
「二話目?」
訊いてみる。
「二話目」
端的な、返答。
しばしの、沈黙。
「じ、実はさ」
急におろおろとした声になって、つっかえながら話す彼。その言葉に耳を傾ける。
「俺、今日お前に電話するつもりだったんだ。この話しようと思って」
「えぇぇっ! 高幡君、が? な」
なんだぁ。と言いそうになった。だったら待つんじゃなかった、とも。彼から電話を貰えるなんて栄誉にあずかれるんなら、その方が断然よかった。もったいない!
「じゃ、今聞かせて。電話の内容」
悔し紛れに、そんなことを言ってみる。うーん、と、あれこれ思案顔で彼が困っているのが分かった。じっと待ってみる。
「実は」
苦しそうに息をしている。でも、その表情から、どうやら自分が望んでいるような内容の台詞ではないことを察知して、刑部の顔は徐々に、曇っていった。
「ダメだ。説明出来ねぇ。あのな。俺、お前にいろいろ、隠してることがある。でも、どれから言っていいか分かんないし、どれをお前に伝えていいかも分かんないんだ」
「何? 悪いこと? じゃぁいいよ。聞きたくないそんなの」
腹立ち紛れにそんなことを言ってみる。相手の顔も一緒になって曇ってしまったが、愛の告白を待っていたこっちの身にもなって欲しいと思う。
「言わなきゃいけないんだよ。で、……うまく言えないけど、あの話、『ZOO』と、宮崎の今日の授業、聴いてさ。あれは、俺にそれを言えっていう暗示なんじゃないかって思えてしょうがないんだよ」
夢中で言葉を選ぶ彼の口を、刑部は黙って見ていた。感情を押し殺して。
「誰かが苦しんでる。それを助けたいと思う。関係が近ければ近いほど、どんなわだかまりがあろうと、それが結局自然な気持ちだってことだろ? あの話って。……ああもう。ダメだ。これから言わないといけないのか。もう。順番無茶苦茶だ」
一人でてんぱってるその姿が、だんだんおかしく思えて、刑部は少し笑うことが出来た。
「いいよ。少しずつ話してくれれば」
そんなことを言う余裕も、生まれてきていたのだ。
「ん。あのさ。じゃぁもう、これから言う。刑部さ。実はその、俺、ずっと前から、お前のこと、好きだ」
――っ!
余裕が、一瞬にしてなくなった。
一回がっかりさせられてからの逆転劇は、刑部には刺激が強すぎる。思わず、
「あ、あの……私も!」
勢い余って、そう返していた。言ってから、もっと効果的に愛をこめて伝えればよかったと後悔したが、もう遅い。
お互い、呆けた顔で、目を見合わせている。
「で、でも」
刑部の方が先に気を取り直した。勢い込んで問いただす。
「嘘でしょ? 何で私なんか? どっこもいいとこなんてないよ? つまんないオンナですよ。暗い顔して人が死ぬ本を読んでるだけのしーちゃんですよ」
「そういう、ネガティブな発言など聞きたくない」
彼。高幡は、強くそう言った。
「俺は、お前によく思われたい。そんなことばっかり考えてた。強くなればいいのか。頭が良くなればいいのか。何でも相談出来るいい奴になればいいのか、全然分からなかったけど」
「高幡君は、充分かっこいいよ。いつも上を見てるところがなんか、好感持てるというか」
「お世辞はいいよ。自分で自分のランクくらい分かってるから」
「そんな言い方って」
自虐の言葉は、自分の好きな人からは聞きたくないものだ。さっき自分でネガティブ発言を切って捨てた人間が、自分のこととなると前言を翻す様も、やはり見ているこっちにとっては痛々しく感じてしまう。彼が、目の前の男の子が、どれだけ輝いてて、どれだけすごいか。今ここで十分でも一時間でも語っていたい気分になる。
ただ、高幡はもちろん、そんなことをさせてはくれなかった。
彼の言葉が続く。
「俺がこんなこっ恥ずかしい告白までしたのは、俺がなぜお前を気になりだしたか、ってことを説明したかったからなんだ」
ちょっと、首を傾げる。何やら、さらに何か重要な用件が控えているらしいと知る。
「それには、俺の親父のことを語らなきゃいけない。俺は……俺はほんとなら、こんなこと言いたくない。ばっさりお前を傷つけるかも、知れないし」
――傷つく?
何を、彼は言おうとしているんだろう?
不穏な闇は二人の歩く先を、徐々に濃く、染めていって。
*
高幡が、隣で歩いている彼女に、ついに告白をしてしまった時。
彼女は、とても喜んでくれた。
そんなつもりじゃなかった! とか。気持ち悪い! とか。それぐらいの冷たい反応を返されるんじゃないかとびくびくしていたのが、馬鹿みたいなくらい、それは優しくてあたたかな対応で。
だけど。
高幡の話が、自身の家族――父親に及ぶに至り、彼女の顔からは、笑みが消えた。
神妙な足取りが、まるで幽霊のようだ。浮遊しているのか、歩行しているのか分からない。
親父の話は、彼女を傷つける、と高幡は言った。
――欺瞞だ。それはただ単に、正解ばかりを手にしたい自分が用意した、自分自身が傷つかないための方便だ。
本当は。自分が、自分の家族が薄汚いということを、彼女に、刑部に、知られたくないだけではないか。
「俺のほんとの父親は、俺がまだ小さかった頃に死んだ。親父がくれたものは、貴明って名前と、遺伝子だけ。臆病だけど負けず嫌いな性格は、親父譲りだって、母さんによく言われた」
おし黙ったまま、刑部が相槌を打つように一つ、頷いた。
「母さんは……母親は、なんつーか、一人じゃダメなたちらしい。気がつくと、新しいオトコがうちに出入りするようになった。そいつはうちに住むようになって、俺のことを名前で呼ぶようになって、同じ釜のメシを食うようになって、俺の生き方に口出しさえするようになった。そして気がつくと、そいつは俺の父親になっていた。籍を入れたとき、俺は十一歳になったばっかりだった。正味一年。一年で出来上がった、即席ラーメンみたいな、家族だ」
母親のことはもっと悪く言うつもりだった。クソみたいな淫乱オンナ。子宮でものを考える人間のクズ。実際そうだったし、その評価に間違いなどないと思っている。でも、口に出そうとするとどういうわけかそんなことを思った自分の方が傷ついていく。マザーファッカーとはこういう気持ちか、と、わけの分からないことを思う。
「父親……あいつは、なぜか母さんの方の籍に入りやがった。母さんは、書き上がった婚姻届を、戯れに俺に見せたんだよ。で」
刑部の顔色が、すでに変わっている。ひょっとしたら、高幡がこれから言おうとしていることに、気づいているのか。
「そこにあった、名前、は」
「言わないで」
ずっとおし黙っていた刑部が、急に口を開く。彼女の目を覗き込むと、ふい、と目を逸らされた。でも、一瞬だけど、よく分かった。多分、その瞳は赤く、充血していることだろう。
「あの」
「一致、し過ぎてる」
刑部の声は、震えていた。
「私のお父さんが私の前から消えたのは、私が小学四年のとき。私のお母さんが死んだのも同じ。伯父さんと伯母さんは、お父さんのことなんて話さないけど、噂ぐらい聞こえてくる。この辺にまだ住んでるらしい。でも」
声が詰まりながらも、最後まで言い切ろうとしていた。
「でもそんなこと、どうでもいい。知らない」
「……」
何も、言えなくなる。
彼女の目がもう一度、ぎらりとこちらを見据えてくる。震えながら。
「そういうこと、なの?」
「……何が」
「同情なの? 可哀想になったから? どんな哀れな奴か見てみようって思ったの? それがこんな、人が死ぬ話ばっかり夢中になって読んでる暗い女に近づいてきた、理由なの?」
「そういうこと、言うなよ」
否定するほど、肯定に響いてしまうのが不思議だ。違う違う! そんなことないよ! 純粋な気持ちだって! と、言葉にして表現するのがこんなに難しいとは。
言ってみれば、もう高幡の心は死に体であった。芝居をする気力も起きない。
「そうよね。哀れまれてるくらいがお似合いだよね。ごめんなさい。一瞬でも本気にしちゃって。私のような人間が、健全な男子におモテになるなんて、ほんの少しでも思い上がってて。いいです。もう。そんなのいらない。ほっといて」
「おい」
「一人にして。ごめん。今は無理。感情的になるの、慣れてないの。怒鳴ったりとか、したくないから」
「そんな」
浮遊していた足が。
止まった。
彼女だけが、先へ行く。こっちを見てくれ。行かないで。
もう少し、だけ。
「じゃぁね……」
それは、どう聞いても、泣き声だった。
待って欲しい、と、心の中で繰り返す。口には出せない。
可能不可能の問題ではない。
人間性の、問題だ。
真に優しい男なら、追いかけていって、正当性を主張し、釈明をするんだろう。ちゃんとした男なら、自分がどんなに強く相手を想っているか、口角泡を飛ばすくらいの熱弁を展開するんだろう。
無理だ。
高幡の足は動かない。立ちつくしたまま、ぼーっと相手の背中がだんだん小さくなるのを見てる。闇に溶けるのを、見てる。
その背中が寂しく泣いているのを、ただ、ただ、見つめているだけだった。
何のことはない。
――人間のクズは、この俺だ。
高幡はいつぞやのグラブにしたように、肩から提げた大きな黒いスポーツバッグを、アスファルトに叩きつけた。
ぐも、と、鈍く嫌な音が、暗闇に吸い込まれていった。
ここにはもう、誰も、いない。
*
幕 間 (挿 話)
*
「しっかりしろよ」
型通り激励してみたつもりだったが、沢井加奈のその言葉は、ただただ目前にいる人間の横を素通りしただけだった。
昨日夜。話を聞いて欲しいよう、という暗い声が、受話器ごしに沢井の耳をこすった折、嫌な予感はしていたが。
休日。ファーストフード店の雑多な騒音を気にせぬようにして、重い口を無理に開かせる。ふさぎ込んでいる親友を前に、沢井は問答を繰り返し。全貌を把握したのが、三分前のことだった。当人はというと、泣きたい衝動は出し切ってしまった後らしく、燃え尽きたように陰気な雰囲気だけを漂わせている。声も、いつもにも増して小さい。場所選びを間違えたようだ、と沢井は考える。
「私、もう学校行きたくない」
友人刑部は、さっきからそればかり言っている。冗談じゃない。そんな甘えは許さない。言葉を尽くし叱咤するが、彼女の体内にあるブラックホール、その重力場は相当がんこに光を飲み込んでいく。
「ダメだよ。このまま話し合いもせずに逃げるなんて、許さない」
「許すとか許さないとかじゃなくてぇ」
だらっ、とした口調で刑部がため息を漏らす。沢井のカンにさわる態度を、親友はいちいち心得ている。
「もういいよう。高幡君の顔も見たくない。話もしたくない。嫌い」
「嫌いなら話は早いじゃないか。諦めたければ勝手にしろ。でもあんた、私を呼び出しただろう? 未練があるんだろう? 正直になってみろよ」
「やだ。嫌い」
このやろう。と、テーブルの下で沢井は拳を握りしめる。
――うじうじしている人間は、虫酸が走る。
沢井は、自身のことを、竹を割ったような性格だと思っている。竹を叩き割るような性格ではない。あくまでも竹を割ったような性格である。お間違えなきよう。
そして、そんな性格は実は、生来のものではない。
幼い頃にある事故で父を亡くし、母を亡くし、親戚夫婦の家に妹とともに引き取られた過去は、刑部の境遇と酷似している。おそらくは似たもの同士の二人であったことだろう。しかし沢井の方はと言えば、彼女を取り巻く諸々の環境によって、徐々にあるべき姿へと変貌することを余儀なくされ、期待通りに自分を打ち直し、鍛え直してここまで来たのだ。
だからこそ。
同病相憐れむような可哀想がりや傷の舐めあいなどごめんこうむる。それだけははっきりと決意している。
刑部の家に、遊びに行ったことがある。おばさんと刑部二人、細かいことにまで気を遣い合っている雰囲気が嫌ではなかった。本来の家族、なんてものを夢想する気はないが、互いがエゴを剥き出しにして罵り合うような家庭よりは、よほど健全だと思ったものだ。
自分の家でも。似たような雰囲気が支配している。でもそれは、決まりきった約束ごとと同じで、境遇から派生する自然発生的な風景なのである。ホンモノを選り好みしていると、エゴの魔道に堕ちる。自分を守り、相手を守ることで、関係とは保たれていくものだ。
昔、刑部の身に起こった出来ごとを聞いたことがある。
本物の傷について、人に語る、ということは。
勇気をともなうものだ。でも。
自分にとって重要な相手ほど。自分のことを知って欲しいと思っている相手ほど。
喋りたくなっている。
聞いて欲しくて、話す。話して欲しくて、聞く。
沢井は自分の父母との別れを刑部に話し、刑部は父の「それ」と、母を亡くしたいきさつを話した。
相手のために泣いた、と言えば。やっぱりこれは傷の舐めあいなんじゃないかという気もするけれど。
そうじゃないと信じたい。私たちは私たちだけの絆を作るために、いわば秘密を共有したのだ。と。
今ではそう、信じている。
「分かったよ」
譲歩のそれではない。さらに深く相手の懐に潜り込むための一言である。諦める気持ちなど、沢井にはさらさらない。
「お情けで自分に声をかけてきた相手が許せないってことだな?」
「……」
刑部は無言のまま目の前のレモンティーを見つめている。ガムシロを入れたものかどうしようか迷っているのだろうか。手でずっといじくりながら。
「でもさ、それって、そんなに悲しがることか?」
「え、だって」
刑部、ようやく反論に転じようとする。好機だ。反論出来る元気があるなら、復活は目の前だ。確信する。
「私のことを見てくれたわけじゃないじゃん。単に特殊な環境に同情してるだけなんでしょ。寂しいよそんなの」
「ほう。あんたには高幡をうならせるだけの人間的長所があるけれども、それを見てくれないのが寂しい、と」
「ち、違う違う」
慌てて手を振って彼女が否定する。
「私なんて、暗いしいじいじしてるし、人が死ぬ話ばっかり読んでるしオタクっぽいし人と上手に話せないし」
「長所は」語気強く沢井が聞き返す
「あるわけないでしょそんなの」なぜかそこは胸を張って、刑部が答える。
「長所のない人間を、同情以外で好きになれ、と?」
「あ、それってちょっとひどくない?」
「あんたの言ってることはそういうことだ」
少しぶすくれた刑部に、容赦ない沢井のたたみかけ。
「うう」
しばらく考えていたが、冷たい紅茶を飲んで一息ついたのか、思いついたように言葉を継ぐ。
「な、なんというかさ。普通のところから、下々を見下ろされてるような様子が、許せないというか」
「高幡の家庭環境、聞いただろ?」
目の前の女子が、ぐっと詰まる。
「あいつだけ苦しんでないと思うか?」
「……思いません」
観念したのか、相手はそうつぶやいた。沢井の言葉が、その上に突き刺さっていく。
「だいたい話を聞けば、重要なことを伝えようとしてる相手をぶった切って逃げ帰ってるじゃないか。同情だろうと何だろうと、気に掛けてくれた相手にわがままぶつけたまんまってどうよ」
「そうなんだよねぇ!」
がく、と刑部がテーブルに突っ伏す。何のことはない。
「どうしようどうしようどうしよう。絶対嫌われた。なんであんなこと言ったんだろう。あーどーうーしーてー」
「こんな場所で歌うな。せめてタイトルがばれないうちにやめておけ」
沢井が的確な指摘をする。刑部は、机に突っ伏したまま、ぶつぶつと何か言っている。
「せっかく告白してもらったのに。あんなこと言ってしまった。嫌われた。生きていけない。死にたい。やっぱり学校行きたくない」
――分かる。
沢井は真剣な目で、彼女の伏せられた頭を見つめている。
親友よ。多分あんたは、自分の取った態度について後悔しているんだろう。なのに、あんたは謝ることが出来ない。それは。
――父親の、ことだ。
刑部の急所である。高幡はそこを突き、遠慮がちな刑部の淡い恋に、いわば自分でとどめを刺したんだ。
だが。――だが!
認めない。沢井は自分のことのように悔しさがこみ上げてきた。そんな――そんな諦め方は。
許さない。
「――ふざけるな」
堂々めぐりにはピリオド。
そんな強い命令形を、刑部に向かって吐いた後。
沢井は包み込むような笑顔を見せて、冗談交じりに彼女の肩をちょっと、押した。
「こんな話は早く解決したまえ。いつまでもうじうじやってると、じき卒業だぞ。ハッピーエンドとその後のいちゃいちゃうふふあはは、は、長い方がいいだろう?」
「ぷ」
そんな沢井の態度に、ちょっとだけ笑ってから。
「そんな日が、来るかなぁ」
夢想するような目で、友人が懇願の目を潤ませる。
「来るさ」
安請け合いして、自分の分のアイスティーを飲み干した。
いつの間にかクラッシュドアイスが溶けきって、成層圏くらいの薄さになっていた。
成就の手前。いわば恋愛ごとで一番酸素の少ない状態、とでも言うか。そんな地点で足踏みをしていては、失敗した衛星のようにそこで燃え尽きる運命となる。
友人が燃え尽きるのを見るのは、心が痛い。
*
「お久しぶりです、久世さん」
とあるレストラン。フレンチのコース料理や和懐石がこれでもかと並ぶような店ではなく、メニューに冷やし中華が載っているような気さくな洋食店である。洋食店かそれは。
気さくを通り越してくだけ散っているようにも思うが、そんなことを気にするような高校生二人組ではない。
奥谷綾香が隣の岸本優と二人、一緒になって頭を下げた先には、やさ男という表現がぴったりの、なよっとした男性がいた。その隣には、奥谷たちの学級担任、宮崎の姿も。
久世と呼ばれた彼は、あーねー、なんていう意味のない単語を口にしながら、ぼやーっとした顔で頭を掻いている。しまりはないが、刑事である。有り体に言えば、世も末である。
久世響。奥谷にとっても岸本にとっても、恩人の一人だ。彼とは去年顔なじみとなった。一年来の知己である。ちなみに彼。宮崎とは同じ高校の同級生だったらしい。同期の桜ですねと奥谷が笑うと、そんな歳じゃないとふくれた中年男性二人から指摘が飛んだ。
ふくれた中年男性。これほどおぞましい語感をともなう語句が他にあろうか。あるまい。
そんな中年男性二人の前に不釣り合いなぴっちぴちの(!)女子高生が二人、というこの配置は、他人から見ればあらぬ想像力をかきたてられるかもしれない。けれど二人とも、そんな他人の妄想など意に介さずといった風情で、談笑を続けている。
時候の挨拶や昔話などをメインディッシュに添えながら料理を片付けていき、すっかりめいめいの皿は空になって、デザートなどを待っている。そんな時間に話題に上ったのは、最近の学校生活について、であった。
とある自分の友人に関して、宮崎先生が頑張ってくれてます、と奥谷が笑顔で語る。
「お、なになに? どんなこと?」と、興味をひかれた久世がビール片手に訊いてくる。その横では、余計な話をふりやがって、というような顔で宮崎があらぬ方向を向いていた。
今度は奥谷に代わって岸本が、最近の現代文の授業内容について話す。次いで、自分や友人達がどのような目的を持っているか、を簡単に説明した。
ふうん、と笑いながら聞いていた久世は、横でむすっとしている旧友に対し、相変わらずだなぁと声をかける。
「小説で人の心を動かす、か。夢物語に聞こえるねどうしても」
「夢物語だよそんなのは」
それまで黙って聞いていた宮崎が、そう断言する。
「ものを読んでいきなり、動かなかった感情が動くわけじゃない。もともと動いていた心だけが、さらに動くようになるだけだ」
「ほう」
大教授の講義を拝聴する門下生のような顔をしている久世が、そう返す。
「だいたい、言葉で人の考えを変えられると思ったら大間違いだ。そんなことが出来るんなら政府や支配層が、いちいち起こる民衆の反抗、反乱に頭を痛める理由がなくなる」
「ごもっとも。だが、国語教師らしからぬ台詞だなぁ」
久世がそう言うと、私もそう思います、と、岸本がにべもない口調で断じる。
普段はあまり「自分の意見」を言わない宮崎が、妙に演説口調で話すのを、奥谷は珍しいと思う。やはり友人同士の気安さ、という奴なのだろうか。
「言葉で人が動くのは、発した側と受け手側が同じ方向を向いているからだ。いわば言葉は共通観念の橋渡し役に過ぎない。専門用語が専門家同士では簡単に通じるのに、門外漢には珍紛漢なのと同じ理屈だ。逆に言えば、言葉で動く感動を欲するなら、あらかじめ共通観念の土壌が必要だってことなんだよ。土壌なくして作物は育たないし、撒かない種の芽が生えることはない。どんなに美しい言葉だって、言葉そのものは人を、人の考え方を『変える』ことはない。あくまでも確認し合うことが出来るだけなんだ」
「へいへい」
説教はごめんだとばかりに、久世は肩をすくめている。
「教師らしからぬ、と言えば」
空になったジョッキを、すいませんおかわり、と振り回しながら久世が話を続ける。
「今回、お前の授業じゃ、随分手前勝手なことをしてるみたいじゃないか」
「あん?」
「個人の問題ごとは個人で解決すべき、がお前さんの口癖だろう? こともあろうに、個人のために授業時間を延々と使って、しかも教材まで勝手に決めて授業やっていいのか?」
「よくない。悪い。バレたら教委にぶっ叩かれるだろうね。ま、その前に学年主任に絞め殺されるだろうけど」
平然とした口調で宮崎は返す。え、そうなんですか? と奥谷が心配そうな顔をする横で岸本が、確かに絞め殺されますね、と冷たい台詞を述べる。「うちの学年主任は、凶暴ですから」
「まったく。こいつは毎年こうだ。何かしらの無茶をやってる」
久世はそう言ってから、
「じゃぁなんでそんなことを?」と尋ねる。
「一人二人のために学級三十数人巻き添えだろ? 受験にも関わってくる教科だぜ。お前のやり方は、他の三十何人がすっかりないがしろになっている。俺はそこが気に入らない」
「そうだな」
深刻な久世の問いに、宮崎はこともなげに頷く。
「ないがしろにしてる。どうせ現代文なんて誰でも分かる授業、本気で聴いてないだろうし、授業内容だってすぐに忘れるだろお前ら。とも思うけど、それはまぁ、言いわけだな。教師の方から口にしていい言葉じゃない」
「分かってるんじゃないか」
久世がはぁ、と息をつく。
「分かってるんだよ」
宮崎が悪びれた様子もなく、そう言い放った。
沈黙。
「――ないがしろにしても、いいんじゃないかな」
急に、そんなことをぽつりと、つぶやく。
「なんだって?」
ちょっとした剣幕で、久世が宮崎を見る。
「人が誰かの手を借りて生きなきゃならないのは、当たり前のことだ。その手がもしもなかったとしたら? 普通は誰かが持ってやらなきゃいけない。たとえば輪になって、隣同士が嫌だからって、その手を握らないなんてことがあると、輪は切れる」
「だから授業時間を使って、その輪を繋げる、と? それは単に、『何々君はおともだちがいないから、先生と手をつなぎましょうね』じゃないのか? 個人の問題と集団の問題を取り違えてるだろう」
「荷物が重すぎるんだよ」
妙なことを宮崎が言い出した。
「一人一人配られてる荷物の中に、明らかに異質の重さをうんうん言いながら担いでる奴がいたとして。そいつに周りの人間と同じ動きを求めるのは酷というものだ」
「だから、お前が持ってやるんだ、と? 君子気取りだな。だいたい話は心の問題じゃないのか? 専門家がいるだろう。最近じゃ公立校にもカウンセラーなんかが派遣されてるんだろ? その人たちの仕事じゃないのか? お前さんが首つっこんでるのは」
「『心の問題』なんて曖昧な言葉を、安易に使わないでくれ」
宮崎は直情的な脊髄反射に出た。奥谷の覚えている限りでは、宮崎が人の言葉の揚げ足取りで議論する姿を、これまで見たことがなかったので、ちょっとおろおろする。と言っても、黙って議論の行く末を見守るしか、なくなってはいるけれど。それとは対照的に、横の岸本は平然とした顔でコーヒーなどすすっている。これはこれで彼女らしい。
「カウンセリングってのは、単に集団の問題を個人に換言し還元する一手段にすぎない。便利ではあるだけに、多用は危険なんだ。何かに怒りを覚えたとして、その怒りが全てそれを発した個人に還元されたらどうなると思う? 親が悪い、社会が悪い、国家が悪い。その実際に悪い奴らが、こぞってその悪さを『お前が愚かだからそう思うだけだ』って指を突きつけるありようが正常だと思うか? 本当に、親が、社会が、国家が悪かったら? 個人は潰され損じゃないか。それは言い過ぎだとしても、個人はそういった大きなものに対して文句を言う権利もないってのか? それはあまりにも、個人という存在を小馬鹿にしてる。心の問題って言葉は便利なんだ。目では見つからないだけに、心は簡単に犯人にされる。犯人にされた心の方こそ、いい迷惑だ」
「よく喋るな今日は」笑いながらも真剣な眼光で、久世が応じる。時々こうなるんだよこいつは、なんて、奥谷と岸本に言いながら。
「お前が饒舌になってる、ってことは」
徐々に、久世の笑いが消えていく。おかわりのビールには、まだ口をつけられていない。
「俺の出番がある、ってことか?」
「近々」
簡単に宮崎が言う。奥谷の顔面がひきつってしまった。さすがに岸本の眼光も、いつもにも増して鋭くなっている。今度は、久世はフォローしない。もはや誰も笑ってない。緊張した空気。
そこへようやくデザートのアイスシャーベット三点盛りが四人分、やってきた。めいめいスプーンを取り、少しずつ削りながら、再び談笑風景へと空気が溶ける。
二十分後。会食を終え、奥谷と岸本は宮崎の車で送られることになる。酒を飲んだ久世は、タクシーを呼んでもらっていた。
最後、別れる時分になって、そっと久世が宮崎に耳打ちしている言葉を、奥谷は聞いた。
「犠牲者は出すなよ」久世の口は、そう動いた。
「分かってる」微かに、宮崎が頷く。
――そうか。
奥谷と岸本は、お互い目で会話し合った。
どうやら二人、引き返せないところまで来てしまったようだ。と。
*
足音を忍ばせながら高幡は台所に行く。昼日中、まるで泥棒のようにそっと電気釜を開け、冷えた飯をよそい、冷えたカレーをかけて、電子レンジへ。仕上がりのアラームがなる前に停止ボタンで回転を止める。
まだぬるい。かまわずかっこむ。食べ終わって流しに皿を置くとき、手が滑って存外大きな音が立った。すかさず「うるさいよー!」と母の声がする。かちんと来て「寝てろよクソババァ!」と怒鳴る。怒鳴ってから自己嫌悪が少しずつ頭に巣食い、先日の刑部に関する失態と相まって、ちくちくちくちくと自分の脳みそを刺してくる。
気を遣ってすら、こうだ。悔しさに似た感情が、同じく忍び足で二階へと登る間に苛立ちに変わる。
今日は対外試合の日だったが、体調が悪い、と休んでしまった。これでまたレギュラーの座は遠くなる。自分のいない間に活躍する同学年の顔を思い浮かべて焦るけれど、今出来ることなど何もない。
せめて気晴らしにでもなるか、と、買ってきた文庫本を手に取ってみた。ベッドに寝ころんで活字を追っているとたちどころに眠くなる。絵を追えばいいマンガと比べても、字の本は疲れ方が違う。本好きな刑部のことを考えてまた、ちくりと何かが刺してくる。構わず読み進める。
次回はこの、桜庭一樹「少女には向かない職業」をやるらしい。刑部が持ってきていた本だ。登場人物である田中颯太に、かなり自分と近い匂いを嗅ぎ取っていた。自然、颯太の友人である女子中学生、大西葵が刑部になってしまうのだが、これが彼女に似ず活発な女の子で少し似つかわしくない。むしろ不思議少女であり読書人間である、宮乃下静香の方が刑部らしく読めてくる。ただこいつ、「用意する者はすりこぎと菜種油です」とか、「用意する者は冷凍マグロと噂好きのおばさんです」とか、わけの分からないことばかり言いつのる変態くさい女子で。やはり刑部ではないな、と切って捨てる。
刑部。刑部。刑部のことばっかり考えてる、と気づく。
尿意を感じて起き上がると、階下で玄関の戸を開ける音がした。あいつが帰ってきたのだと気づく。鉢合わせするのはなんとなく気後れして、尿意を我慢しようとするが、自分が苦痛を感じてまで人を避けている感覚は弱い人間のそれのように感じて、無理に足をベッドから下ろし、階段を下りていく。
一階廊下に降り立ったのと、「あいつ」が向こうからやってくるのが丁度ぴったりのタイミングとなった。「ああ」「おお」と、同級生みたいなやり取りをする。
「今終わり?」気を利かせて高幡の方から話を振ってみる。「今終わりです」と、人を食ったような返答。
「メシ、カレーだよ」と、どうでもいいことを言う。
「メシ、カレーか」と、どうでもいい声が返る。
「なめてんの?」
「なめてるよ」
相手は笑って、台所へと向かう。ちっ、と舌打ちをしてトイレのドアをけっ飛ばす。また「うるさい!」と母親の声が飛ぶかと思いきや、そんな様子はない。都合のいい耳だなと思う。
トイレから出たところで、意を決して自分も台所へと向かう。気持ち悪いくらいの量を盛った皿をテーブルに置いて、父親がスプーンを使っていた。
「二回とかに分けりゃいいのに」
「何で」
めんどくさそうに父親が答える。話をする気をなくす態度だが、我慢することにした。話が進まなくなる。
「あのさ」
手近な椅子に座って、高幡が話を切り出す。珍しいこともあるもんだというように、医者のくせに貧乏食を一心不乱にかっこんでいた目の前の父親は、奇妙な顔をした。
「親父の名前って、雪人、だよね」
「多分な」
「元の苗字って、刑部、だよね?」
「あ?」
そこでようやく、父親の表情が険しく濁った。
「それがどうした」
本気の声がする。皿は空いているが、立ち上がる気配はない。こっちの話題に食いついてきたらしい。
「刑部八重、って子の名前に、心当たりない?」
「ない」
一言だった。焦っているのは分かる。しかし焦っているなら、もっと激高したり必死になったりしてもいいのに、と感じる。
「どんな子だった? 昔」
「知らない」
無表情の間から、苛立ちが垣間見える。
「何で、俺の母さんと一緒になる気になったの? あんな飲み屋のアル中女に」
「アレがよかったんだよ」
こともなげに言いやがった。おぞましさと気持ち悪さに、思わず高幡は顔を歪めてしまう。
「そんな顔をするなよ。お前も通ってきた道だろう」
「それってシモネタ? きもいからマジやめて」
「もっと言ってやろうか?」
悪ノリにすぎる言葉だ。逃げ帰りたくなるが、ぐっと堪える。
「医者ってさ、もっと結婚する相手とか、選ぶもんじゃないの? 結婚相談所なんかに行けば、それこそ選び放題でしょ。わざわざバツイチの子持ちなんか相手にしないでさ。どうなの」
「どうでもよかったんだよ。それだけだ」
投げやりにグラスに注いだ麦茶を飲みながら、父親雪人は答えた。
ダメだ。話にならない。高幡は会話を断念した。何よりも、母親のことを悪く言う自分も、その母親のことを人間として見てないかのような父親のもの言いも、何もかもが辟易する。ここにいると、人間の根本が腐っていくような感覚に陥る。
立ち上がろうとする、高幡に。
「女ってさ」と、雪人が話しかけた。
構わず行こうとするが、体が動かない。硬直したまま続きを聞くはめになる。
「必死だろ? 結婚とか、子供とか、家庭とか、いろいろとさ」
「よく、分かんないけど」
正直な気持ちを答える。高校生にそんな話をされても、受け止めきれない。
「大切なものを、ぎゅっと抱えてるんだよ。そういうところにいる奴含め、女は、みんなさ」
「ああそう」
「結婚したらこうしたい。こういう家に住みたい。こういう家庭を築きたい。こういう子育てをしたい。子供の将来はこうなって欲しい。そうやって、ぎゅっと抱えたものをさも大事そうに突きつけて、ぎゅうぎゅう縛ってくる」
「いいことなんじゃないの。夢があって」
そう、どうでもいい返答をしたとき。
「――うんざり、なんだよねぇ」
ぽつり、と、そんな台詞が返ってきた。
「もういい!」
腹が立つ、というより気持ち悪くなって、高幡は立ち上がる。ようやく動くようになった体に鞭打って、父親雪人に背を向けた。そのとき。
「刑部、八重、だっけ? お前がさっき訊いてた奴って」
その名前が、父親の、口から。
「ああ」
背中で返事をする。
「――本当に、忘れちゃったんだよ。よく覚えてなくて」
……ぞわり、と鳥肌が立って。
高幡は二階へと駆け上がる。
再びベッドに潜り込んで。
がたがたと震えてくる自分の体を、高幡は持て余してしまう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
なぜだか、頭の中ではその言葉だけがこだまして。
こういう時は眠ればいいんだ、と、無理に布団をかぶって、目をつぶる。
まぶたの裏が赤い。光が眩しくて眠れそうにないが、カーテンを引く気力も起きない。
何とか。
何とか眠ってくれ。俺の体。
いっそ泣きそうになって、そんな自分がうっとうしくて。
震える体を自分で抱えて、高幡は、睡眠薬の有用性について考えていた。さっきまで、本を読むだけであんなに眠くなっていた、というのに。




