第1話 封印された竜と、妙に落ち着いた料理人
「……なんだ、ここ」
目を開けた李龍飛は、最初に天井を見た。いや、天井ではない。頭上に広がっていたのは、崩れかけた石造りのドームだった。壁には見たこともない文字が刻まれ、床には青白い光を放つ紋様が浮かび上がっている。そして、目の前には――。
「……石像?」
巨大な赤い竜が、鎖に縛られていた。全長は十メートルどころではない。真紅の鱗は傷だらけで、黄金色の瞳は閉じられている。胸元には、鱗の上から焼きつけたような黒い紋様があった。どう見ても、普通の石像ではない。
「いやいやいや。待て。俺、さっきまで山道を歩いてたよな?」
レオンは額を押さえた。二十五歳。日本で中華料理人をしていた男である。休日に山道を歩いていたところ、突然足元が崩れた。そこまでは覚えている。問題は、その後だ。崖から落ちたはずなのに、骨は折れていない。スマホは圏外。そして、なぜか古代遺跡のような場所にいる。
「……夢なら、もっとマシな夢を見せてくれ」
そうつぶやき、立ち上がった。そのとき、背中のバッグがずり落ちる。中身を確認すると、財布、スマホ、調味料を入れた小袋、そして愛用の中華包丁が入っていた。
「よし。包丁は無事」
確認する順番がおかしい気もするが、料理人にとって包丁は相棒だ。相棒が無事なら、ひとまずよし。……食材も店もないけれど。
レオンは遺跡の出口を探して歩き出した。すると。
『人間』
低い声が響いた。レオンは足を止めた。
『そこの人間。何をしている』
声は、背後から聞こえた。ゆっくり振り返る。赤い竜の黄金色の瞳が、開いていた。
「…………」
『聞こえぬのか』
「……聞こえてる」
『ならば答えよ』
「いや、答える前に聞きたいんだけど」
レオンは竜を見上げた。
「ここ、どこ?」
沈黙。竜の眉間に、深いしわが寄った。
『……貴様、自分がどこにいるかも分からぬのか』
「分かってたら聞かないだろ」
『人間とは、これほど愚かな生き物なのか』
「初対面でずいぶんな言い草だな、おい」
竜の瞳が細くなる。
『口の利き方に気をつけろ。我は偉大なる竜――』
「はいはい。偉大なる竜様ね」
『最後まで聞け!』
遺跡に竜の怒声が響き渡った。レオンは耳を押さえた。
「声がでかい! 厨房でもそんな声出したら怒られるぞ!」
『厨房とは何だ!?』
「料理を作る場所!」
『……料理?』
竜の目が、わずかに動いた。レオンはその反応を見逃さなかった。
「なんだ。料理に興味あるのか?」
『ない!』
「即答かよ」
『我は何百年も封印されているのだぞ! 料理などというものに興味を持つ暇があると思うか!』
「何百年?」
レオンは竜を見た。鎖。床の紋様。胸元の黒い紋章。冗談を言っているようには見えない。
「……封印されてるってことか?」
『そうだ。愚かな人間どもによってな』
「ふうん」
『ふうん、ではない! 哀れだと思わぬのか!』
「いや、思うけど。今のところ、俺もかなり哀れな状況だからな」
『貴様の事情など知らぬ!』
「こっちだって竜の事情なんか知らないよ!」
二人の視線がぶつかった。しばらくして、レオンは大きく息を吐いた。
「……で、出口はどこ?」
『知らぬ』
「お前、ここに何百年もいるんだろ?」
『封印されていると言っただろう! 自由に動けるわけがない!』
「なるほど。役に立たないな」
『貴様ァ!』
竜が身をよじった。その瞬間、床の紋様が強く光った。バチッ! 黒い紋様が胸元で脈打つ。竜の身体が大きく震えた。
『ぐっ……!』
鎖が軋み、石床に亀裂が走る。レオンの表情が変わった。
「おい、大丈夫か?」
『見るな……!』
「いや、見えるだろ。目の前なんだから」
『黙れ!』
竜は歯を食いしばった。黒い紋様から、細い黒煙のようなものが立ち上る。レオンは近づきかけ、足を止めた。医者でもなければ、呪術師でもない。下手に触って悪化させるのは避けたい。
「……その胸の黒い模様、封印と関係あるのか?」
『関係ない』
「今、めちゃくちゃ苦しそうだったけど」
『貴様には関係ないと言っている!』
「はいはい。分かったよ」
レオンは両手を上げて、距離を取った。
「無理に聞くつもりはない。だけど、助けが必要なら言えよ」
竜は黙った。黄金色の瞳が、じっとレオンを見つめる。やがて、低い声が落ちた。
『……人間が、我を助けるだと?』
「できることならな。できないことは、できないって言うけど」
『ふん。身の程を知っているようだな』
「料理以外は、だいたいな」
『料理だけはできるということか』
「……なんか腹立つな、お前」
そのときだった。
ゴゴゴゴゴ……。
遺跡全体が揺れた。壁の一部が崩れ、石片が落ちてくる。天井に大きな亀裂が走った。
「うわっ! 今度は何だ!?」
床の紋様が、次々と消えていく。竜を縛る鎖が一本、音を立てて砕けた。
『馬鹿な……!』
竜の瞳に初めて動揺が浮かんだ。
『封印が崩れている……!』
「それ、いいことなのか?」
『よいわけがあるか!』
「だよな!」
次の瞬間、天井から巨大な石塊が落ちてきた。レオンの頭上へ。普通なら、逃げるしかない。だが、レオンは慌てなかった。落下する石の軌道を見極め、半歩だけ横へずれる。
ドォンッ!
石塊が床を砕いた。風圧が服を揺らす。レオンは何事もなかったように石塊を見た。
「……危なかった」
竜が目を見開いていた。
『今の……』
「ん?」
『なぜ、避けられた?』
「落ちてくる場所が分かったから」
『それだけで避けられるものか!』
「いや、避けられるだろ。落ちてくるんだから」
『意味が分からぬ!』
「俺にも、お前が何に怒ってるのか分からないよ!」
さらに鎖が砕けた。竜の巨大な前脚が、ついに自由になる。その衝撃で、床が大きく揺れた。そして竜は、レオンへと顔を向けた。黄金色の瞳が、鋭く光る。
『人間。そこを動くな』
「……今度は何?」
『貴様が、この遺跡の封印を壊したのか?』
「はあ!? 俺は何もしてないぞ!」
『ならば、なぜ封印が崩れる!』
「俺が知るか!」
竜が低くうなった。
『嘘をつけば、食らうぞ』
レオンは目を細めた。
「……なるほど。助けが必要なら言えって言ったけど、俺を食うなら話は別だ」
『何?』
レオンは肩からバッグを下ろした。中華包丁を取り出す。刃に光が走った。竜は鼻で笑った。
『その小さな刃で、我と戦うつもりか?』
「戦いたくはないね」
『ならば跪け』
「断る」
『……何だと?』
「俺は料理人だ。腹が減ってる相手には飯を作る。話が通じない相手には、まず落ち着いてもらう」
『貴様、我を誰だと思っている!』
「さっきから偉大なる竜って言ってるだろ。自己紹介はもう十分だよ」
竜の口が開いた。その奥に、赤い光が集まり始める。炎だ。レオンは包丁を構えたまま、静かに息を吸った。腰を落とす。肩の力を抜く。余計な力を捨て、相手の動きを待つ。その姿勢は、厨房で食材に向き合うときとは違う。だが、長年身体に染み込んだ動きだった。
竜の瞳が、わずかに揺れる。
『……その構え』
「ん?」
『いや……何でもない』
炎が膨れ上がる。しかし、竜は撃たなかった。代わりに、低く問いかけた。
『人間。名は何という』
「レオン。李龍飛だ」
『レオン……』
竜はその名を口の中で転がすように繰り返した。そして、ようやく告げた。
『我はイグニス。偉大なる竜である』
「はいはい。で、イグニス。ひとつ提案がある」
『何だ』
レオンは中華包丁をしまった。
「まず、ここから出よう。話はそれからだ」
『……貴様が我を解放するというのか?』
「このままじゃ天井に潰される。俺もお前も困るだろ」
『我が困ることなどない!』
ゴゴォンッ!
頭上で、また石が崩れた。巨大な石塊がイグニスの鼻先に落ちる。イグニスは黙った。レオンも黙った。
「……困るよな?」
『……少しだけな』
「よし。交渉成立」
『まだ成立しておらぬ!』
「じゃあ、ここで天井と心中するか?」
『貴様、本当に人間か!?』
「今日、それ聞かれるの三回目なんだけど!」
レオンは笑った。その笑顔を見たイグニスは、なぜか一瞬だけ言葉を失った。何百年もの間、ここに閉じ込められていた。人間たちは恐れ、憎み、彼を封じた。誰も、対等に話しかけてはこなかった。ましてや――。
「腹が減ってるなら、出たあとで何か作ってやるよ」
そんなことを言う人間は、初めてだった。
イグニスは胸元の黒い紋様を押さえた。紋様が、ごくわずかに明滅する。それは、封印の崩壊とは違う光だった。だが、その変化に気づいた者はまだいない。
「よし、行くぞ。イグニス!」
『待て。命令するな、人間!』
「じゃあ、偉大なる竜様。出口まで案内してください」
『……出口が分からぬと言っただろう!』
「お前、本当に何百年もここにいたのか!?」
崩れゆく遺跡に、二人の声が響いた。こうして、異世界に放り出された料理人と、封印から解き放たれかけた竜の奇妙な縁が始まった。
このときレオンは、まだ知らない。自分の拳法が、この世界の強者たちを驚かせることも。イグニスの呪いが、世界の歴史に深く関わっていることも。そして何より――。
この誇り高い竜が、いずれ自分の料理を食べるために、冒険者ギルドで仕事を探す羽目になることも。




