第一話 復習
「昔、昔。何もない場所に一匹の龍が居ました。龍は一匹で寂しかったので、世界を作りました。地面、空、動物や植物。それから、人間」
オレンジ色の光が天井から降ってくる寝室。俺と母ちゃんは、ベッドの上で隣り合って座り、一冊の本に意識を集中させていた。
「ある時、神となった龍は人と恋に落ち、二人の子供を授かりました。二人は兄と妹の兄妹でした。しかし、長い時を経て、龍神が眠りに落ち、地面に溶けた頃、兄妹はそれぞれ剣神と魔王と呼ばれるようになりました」
母ちゃんは言い淀むこともなく、話し続ける。その本を書いたのは母ちゃん自身だから、読むまでもないのかもしれない。その物語を知っているのは日本で、いや、地球上にも俺と母ちゃんしか居ない。
「魔王は怪物を勝手に生み出してしまう力を持っていました。だから、人は彼女を怖がって誰も友達にはなりません。一方で剣神は魔王を国から追い出すように人間に頼まれました。剣神は、言葉巧みに魔王を騙し、龍が眠る大地から彼女を追い出してしまいました。彼女は激怒し、魔王が生み出した怪物。魔族が人間達を襲うようになりました。戦いは千年にも渡って続きましたが、ある日、突然に異界からやって来た一人の剣士が魔王を倒してしまいました」
「その剣士って言うのが、俺の父ちゃんなの?」
「うん、そう。本間 和大って言う人なのよ」
俺は日本に生まれ、そして異界に渡ったという父親の顔を想像してみた。母ちゃんが言うには、俺は父ちゃん似らしい。鏡で見る自分の顔に、アニメで見た海賊船の船長が生やしていた顎鬚だけを借りて、重ね合わせてみる。
「ねえねえ、俺って本当に父ちゃん似なの?」
「ええ。とってもね」
「そっか」
俺は少しがっかりして、膝の上に置いた両手を見下ろす。
「……どうかした? また、友達に何か言われたの?」
「うん。この前の授業参観で母ちゃんを見た友達が、俺と母ちゃんは全然似てないって」
俺は母ちゃんの顔を見上げた。紫色の髪に、一房だけ金髪が混じっている。目も宝石の様に光沢を持った紫色。何より目に付くのは俺のとは違う、尖った耳だ。母ちゃんはエルフ族? という種族で、だから耳が尖っているらしい。でも、日本にはエルフ族なんていう種族は居ないから、人前では頭巾を被って耳を隠して暮らしている。
「確かに、私と雄大は似てないかもしれない。でも、私達は家族なんだから、心で繋がっているんだよ。そうだ、良いものを見せてあげる」
「良いもの?」
母ちゃんはおもむろに立ち上がると、寝室の作り付けのクローゼットに上半身を突っ込んでガサゴソと漁った。
「うーんと、あ! あったあった」
母ちゃんはベッドの上にボフっと座り直して、膝の上に置いた小箱を開けた。
「ほら、見てごらん」
小箱の中には干からびた黒い紐みたいな物が入っていた。
「何これ?」
「これはヘソの緒っていうの。昔、雄大が私のお腹の中にいた時、この紐で繋がっていたんだよ」
俺は「へえ」とか言いながら、黒い物体を突いてみた。ザラザラして硬くて、カピカピだった。
「ねえ、母ちゃんも昔は異界にいたんだよね? 異界ってどんな所だったの?」
「そうねえ。ここよりはずっと文化が遅れてて、不便だったかな? でも、自然に溢れていて地力に満ちていて、とても心が落ち着くそんな所だったよ」
「ふうん、ねえねえ、そっちの世界の人達は魔術とか使えたんでしょ? 俺にもいい加減教えてよ」
「うーん。今はまだダメ」
母ちゃんは口元に人差し指を添えて素気無く言った。「えー!」と俺は抗議の声をあげる。母ちゃんは楽しそうにコロコロと笑い、「でも」と先を続けた。
「来月はユーダイの誕生日があるね。誕生日プレゼントを我慢できるんだったら、魔術を教えてあげよう、かな?」
「うんうん! 俺、我慢する! だから教えて!」
俺は首がもげそうな勢いで頷いた。アニメで見た魔術が自分にも使えるのなら、使ってみたい。来月で十年生きたことになる俺の人生の中でも、それは何より重大な願いだった。
「よーし、じゃあ明日も小学校だし。さっさと寝ちゃいな」
そう言って母ちゃんはベッドに俺を横たわらせて布団を掛けた。そして、「チュッ」と俺の額にキスをする。
「おやすみ、母ちゃん」
「おやすみ、雄大」
俺は自分の金眼を隠すために着けているカラーコンタクトを取り外して、目を閉じる。自分が魔術を使っているところを妄想しているうちに俺の意識は深く沈んでいた。
そんなやり取りから、あっという間に一ヶ月が経った。
小学校で友達とボール遊びをしていても、魔術を教えてもらえるという事実ばかりが俺の脳内を埋め尽くしていた。
「おーい。雄大アウトだぞ! 外野に行けよ!」
俺は友達の声でハッとして、足元のボールをぼんやりと見た。
「あ、ごめんごめん」
俺は愛想笑いで応じながら白線の外に出る。明日はいよいよ誕生日。しかも土曜日だ。一日中、魔術の練習が出来るはず。
日が暮れて、俺は友達と校庭で別れると学校の裏山を登って行った。母ちゃんは十五歳の頃、俺を産んで退院して、すぐにこの山に住み始めたと言っていた。最初は適当な洞穴で雨風を凌いでいたけど、図書館で建築の本を借りて魔術を使って最低限住める小屋を作ったそうだ。
俺は、少し不格好で、重たいドアを開けて家の中に入った。
それから、俺は母ちゃんの作った夕ご飯を食べてすぐにベッドに入った。
「母ちゃん、明日だからね。忘れないでよ」
「はいはい」
母ちゃんは頷くと寝室を出ていった。俺は早く明日になって欲しくて力一杯に瞼を閉じた。けど、まんじりとも出来ず、高鳴る鼓動を聞いている内に、空は金曜の夜から土曜の朝へと移り変わる。
それでも、睡魔は尻尾すら出さなかった。俺は布団をガバッと払いのけてベッドを飛び降りダイニングに飛び込んだ。
「母ちゃん!」
「分かってるって、まずは朝ごはん食べて。お腹が空いてたら力も魔力も湧いてこないよ」
俺は、少し焦げ気味のトーストをココアで流し込み、やたらと美味しいサラダを口いっぱいに詰め込んだ。
「はい! 食べ切ったよ、ほら」
俺は空っぽになった口を目一杯に開けて、母ちゃんに見せた。
「もう、お行儀悪いから一々見せなくていいよ。さ、じゃあお外に出ようか」
母ちゃんはエプロンを脱ぐと、コート掛けからローブをとってバサっと羽織る。母ちゃんは俺を振り返りニヤッと笑って「どう? 似合う?」と聞いた。俺は「似合う、似合う」と返しながら母ちゃんを外に押し出した。
「もう、ちょっと興奮しすぎだよ。そうだ! 深呼吸しよう。スー、ハー、スー、ハー」
「スー、ハー、スー、ハー」
「さてと、じゃあ早速実演と行こうか。雄大、私の背中に隠れて」
俺は言われた通り母ちゃんの背中に隠れ、ローブの裾から目だけを覗かせた。十メートルくらい先の方に、樫の木が密集している。
「魔術を使うには、三つの要素が必要なの。一つは自然そのものに流れる地力。一つは術者自身の魔力。一つは術の方向性を表す詠唱。地力に魔力を流して自然の営みを操り、狙った現象を引き起こす。それが魔術。じゃあ、やってみるね。”天蓋の影・来新を追い・尖槍に倣え”」
母ちゃんがある木に向かって指差し、呪文を唱える。すると風が集まって、ヒュンッという高い音が耳を掠めた。その直後、バキという鈍い音がして、呻くような音を立てながら樫の木が倒れる。
「す、す、スゲーッ!! 本当にアニメみたいだ!」
実は母ちゃんが魔術を使うところを見るのは俺も初めてだった。尖った耳をしている人は他に見たことがなかったし、母ちゃんが嘘をついてるなんて思ってはなかったけど、実際に目にするとやっぱり興奮は抑えられなかった。
「雄大もやってみる?」
母ちゃんが含み笑いを浮かべながら、俺の手を取り木に向けさせた。
「で、でも、どうやって?」
「私が唱えた通りに、呪文を言ってみて」
「えっと、”てんがいのかげ・らいしんを追い・せんそう……」
「に倣え」
「にならえ”」
俺は母ちゃんに手伝ってもらいながら、辛うじて呪文を唱える。けれど、母ちゃんがした時のように木が倒れる事はないし、風が集まる気配すら無い。
俺は胸に絶望と困惑が込み上げて、涙声で「なんで」と呟く。
「あ、あわわ、ごめん、ごめんね。呪文を唱えるだけじゃ術は使えないの……あんまり楽しみにしてるから、ちょっとからかいたくなっちゃって」
母ちゃんは慌てて両手を合わせて俺に謝った。当惑が過ぎ去ると、それを追うように怒りが込み上げてきて俺はそっぽを向いた。
「……どうしてそういう事するの?」
「はい。すみませんでした」
俺が心底呆れたように尋ねると、母ちゃんはがっくりと項垂れた。心なし長い耳も垂れ下がっている。時々、母ちゃんは致命的に空気が読めない。
サスペンス特番の真犯人みたいになってる母ちゃんから視線を切り、空を見上げる。さっきまであんなに魔術に興奮していたのに、気持ちが完全に冷え切ってる。
「それで、どうすれば魔術を使えるの?」
「はい。ご教授させていただきます……そうだ、ピクニックしよう!」
突拍子もなく、母ちゃんは手を叩いてニッコリと微笑んだ。
「ピクニックってどこに?」
「ここより更に山奥よ。小さな川があるから、そこへ行きましょう」
「でも、お弁当なんてないよ」
「ええ、道すがら木の実でも取っていきましょ。ついでに術についても教えるよ」
俺は胡乱気に母ちゃんを睨んだが、母ちゃんはそれを意にも介さずに俺に手を差し出した。
川へと続く道は、通行する人間の疎さを物語り、荒れている。
「ねえねえ、さっきどうして魔術が使えなかったの?」
木の実を取ろうとして、梢を手で支える母ちゃんに俺は聞いた。
「さっきも言ったけど、魔術っていうのは自然の営みを操るっていう事なの。その為には、自分の魔力と、自然の地力を同調させないといけないんだ」
「同調?」
「そう。当然、それをするには地力を知覚しないといけないわけだけど、五感の内、どこで地力を知覚できるかは術者によってバラバラなんだ。私は視覚、つまり地力が目に見えるけど雄大はどう?」
俺は鬱蒼として薄暗い林道に目を凝らしてみた。空中にたむろしてる蚊柱が少し鮮明に見えたけど、それだけだった。俺は力無く首を横に振った。
「じゃあ、音は? それか匂い」
「ううん。分かんないけど、変わったことはないと思うよ」
「そっか、この分だと触覚もなさそうね。とすれば雄大は味覚で地力を感じる術者ってことだ」
味覚、と聞いて。俺は歯の裏を舌でなぞってみた。
「さて、と。そろそろ川に着くわね」
母ちゃんがそう言うと確かに川のせせらぎが聞こえてきた。林道を抜けると、日光でキラキラ輝く水面に目を灼かれる。
「ほら、川の水を飲んでみて。地力を感じられる筈」
「ええ〜? でも、今まで水を飲んでもなんともなかったよ?」
「それは水道水だからよ。人の手が加えられると地力は消えてしまうから。まあ、嫌なら土を食べるって言うのでもいいけど?」
俺は半信半疑で手を杓子にして川の水を掬い取った。水面に映り込んだ自分を見て、そういえば今朝はカラーコンタクトを着け忘れたと不意に思い出す。
「お腹壊しちゃうから、口に入れたら飲み込まずに吐き出してね」
俺は振り向かずに頷いて、水を口に含んだ。その瞬間、口の中に様々な味が広がる。水本来の味、微かな泥臭さ、それから今朝食べたサラダに似た味。
「どう? 雄大」
「……母ちゃんのサラダの味がする」
「そっか、私の野菜は全部、自給自足だから地力が少し残っていたのね。私の目にはよく見えなかったけど」
俺は口の中の水を吐き出して、口元を袖で拭う。
「よし、それじゃあ次は自分の魔力を食べているところをイメージしてみて、そして、その魔力は今感じた水の味と同じなの。難しいことは考えずに、自分の魔力と地力が同じ味だってことだけを考える」
「うーん。そう言われても、魔力がどんな形してるか分かんないし」
「なら自分で姿を与えてみて、雄大にとって魔力ってどんなもの?」
俺は頭を捻ってみた。魔力と言えば、体の中とか、外を巡ってる気みたいなものだと思ってた。でも、それを食べるって言ったってどうすれば……。
「ねえ、魔力って体の中を流れてるの? だとしたら血みたいなものなのかなあ?」
「そうかもしれない。雄大が想像しやすい物なら何でもいいんだよ」
俺は再び川を見下ろした。そしてせせらぎに耳を傾ける。ここに流れてるのは、俺の血。俺の魔力だ。舐めてみるとさっきみたいな味がする。
川岸で横になり、ゴツゴツした岩の感触を背中で感じた。俺の様子を見て安心したのか母ちゃんの足音が遠ざかっていく。
俺の体に大きな穴が空き、そこから流れ出る血が川に注いで、俺の耳にせせらぎの音を届けている。或いはその逆、川の流れが俺の体に血を注ぎ込んでいる。
どちらでもいいし、どちらでもある。やがて体の感触がふわりと軽くなり、自然と俺の肉体を隔てる感覚が曖昧になる。
最初からこうだった。世界は俺で、俺は世界だったんだ。
「雄大、雄大。そろそろ冷えてきたから帰ろうか」
「うん? 母ちゃん?」
「ほら、空を見て。もう日が暮れてきた」
母ちゃんは柔らかい表情で俺を見下ろし、口の中に木の実を入れて来た。俺は柔らかい実を噛み潰す。すると口の中で甘い汁が弾けた。
「母ちゃん、俺……」
「うん?」
「俺、ここにいるよね?」
「ふふ、うまく行ったみたいだね。明日になったら早速魔術を試してみようか」
母ちゃんは嬉しそうに俺に話しかけたみたいだったけど、まだ目の前はぼんやりしていた。
翌日。昨日のぼんやりした感覚が消えて、本当に少し術が使えるか不安だったけど母ちゃんは自信満々に俺を外に連れ出した。
「ほら、昨日唱えた呪文は覚えてるでしょ? やってみてご覧」
「うん。”てんがいのかげ・らいしんを追い・せんそうにならえ”」
俺は控えめに指を指して一つの木に狙いを定めた。最初に覚えたのは空気の流れが掻き乱されるような違和感。俺を中心として風が吹き荒ぶ。指先に集まった風が狙い通りに直進し木の幹を貫いた。
昨日、母ちゃんがやって見せたように、支えを失った木は鈍い呻きと共に倒れた。
「……で、出来た」
「やった、やったね! 雄大!」
母ちゃんが俺を抱きしめるが、俺はそれどころでは無かった。ずっと使ってみたかった魔術。もしそれを使うことができたら、俺は何度も何度も術を乱射したいと思ってた。
けど、いざ使ってみると本当にこれが現実なのか疑わしい気持ちと、胸に染み渡るような感動に満たされる。
ポロポロと目尻から水滴が溢れた。
「よかったね雄大……!」
顔を覗き込んでくる母ちゃんに、俺は屈託なく笑いかけて頷いた。




