第31章 翌朝
試験の翌朝、結はスープの蓋を開けられなかった。左手で容器を押さえると、開ける手がない。私が取る前に、彼女は膝で挟もうとした。
「熱い」
「知ってる」
「開けていい?」
結は容器を渡した。
「うん」
私は蓋を剥がし、少しこぼした。結ならこぼさない角度を知っていた。布巾を取った。彼女はその間、黙って待った。
律は向かいの席にいた。肩の包帯が制服の下で膨らんでいる。順平先輩の腰では、鍵が鳴らなかった。
「今日、どうする?」
先輩が訊いた。
誰も予定表を出さなかった。結は左手でスプーンを使い、私の方へ顔を寄せた。
「夜、戻る?」
「どこに」
「部屋」
「私の部屋でもあるけど」
「知ってる。聞きたかった」
私は頷いた。結はまたスープを見る。耳の後ろだけが、少し赤かった。再生した血が通る場所だった。
十八時、律は小講堂へ行った。私は外の廊下にいた。ついていっていいかは聞かなかった。律が来てほしいと言うかもしれない場所までは、行っていたかった。
扉は開いたままだった。椅子が一つ動く音がして、私は入口から中を見た。
律は内ポケットから席札を出した。つぶれた角を開く。椅子に置く。舞台を見る。
誰も二行目を間違えなかった。
十分ほどして、律が戻ってきた。席札は手に持っていた。
「帰る?」
私が訊く。
律は頷いた。隣へ来たけれど、腕が触れるほどには近づかなかった。私は、その幅を残して歩いた。
第32章
次の人
認定から二十年後、環から精算の控えが届いた。支払済。本人の印税と給与と私有資産。基金の金は使っていなかった。
添付の短い文。
《来月の公演、空席が二つある。来る?》
私は返事を後にした。
会議室で、若い職員が私の資料へ赤線を引いていた。
「ここの三択、一つだけ追加料金がありません」
「そうね」
「境野部長の研修では、退出経路を残せばいいと」
私はその先を待った。
「残っているだけで、選べるとは限らないと思います」
彼は赤ペンを机へ置かなかった。消すよう言われると思っている持ち方だった。
「代案は?」
「先に本人へ、払えない選択肢があるか確認します」
「それで全部解決する?」
「しません」
「じゃあ、そこから」
彼がもう一本、線を引いた。私の名前の下だった。
夕方、結が迎えに来た。右手は再生した手ではなく、契約更新を重ねた代替肢だった。細かい留め具は今も苦手で、私の襟には左手を使う。
「曲がってる」
「自分で直す」
「どうぞ」
直した。結が笑う。直っていなかったらしい。
私から少し屈んだ。左の指が襟を整える。
「環から誘い」
「来た」
「行く?」
「綴は?」
私は窓の外を見た。学校へ向かう搬送車が通る。保全中の緑と、部材回収の灰色。同じ車に、別の扉がついていた。
「まだ決めてない」
結は予定表を開かなかった。
駅で律と会った。順平先輩は少し遅れる。仕事ではなく、電車を一本間違えたからだった。
律の鞄から古い紙が覗いていた。折り目を補強した、小さな席札。私は見えなかったふりをした。
「先に座る?」
結が聞く。
律はベンチを見た。四人分には少し狭い。
「待ちます」
私たちも立っていた。
やがて先輩が、片手を上げて改札から出てきた。手には何もなかった。誰のための荷物も、忘れ物も、仕事も。
結が半歩、場所を空けた。先輩はそこへ来た。




