第三十三話 ヴァレンタイン姉弟——優しい嘘
——〈奈落〉第二層。
そこは、冷たい岩肌が剥き出しの閉鎖的な洞窟だった。人の背の三倍ほどの高さにゴツゴツとした岩の牙を垂らしている。
周囲の岩壁には見たこともない奇怪な光苔がびっしりと密集し、仄かに不気味な青緑色の光を放っている。そのおかげで辛うじて視界は保たれているものの、縦穴を落ちる前に感じたあの「すえた異臭」が、息が詰まるほどに澱み溜まっている。
(ヒュー、ヒュー)ひどく掠れた音が耳の奥で反響している。
それが自身の喉から漏れ出ている音だと気がつくまで、フラウは少しの時間を要した。
全身が煮湯に沈められたかのようで、酷く熱い。
加えて、暗闇に包まれ自分の手足がどこにあるのかさえ判らない。いや、違う。苦痛で重い両瞼を開くことができないのだと、次第に明瞭になっていく意識の中でフラウは悟った。
そして、その気付きは、それまで熱に誤魔化された決定的なものをフラウへ突きつけた。
「……ッ、ぁ、あああッ!」
右脚の脛から走る、脳髄を杭で打たれるような激痛——フラウは悲鳴とは程遠い殺された声で悶え、堪らずその場でのたうち回ろうとした。
「フラウ! フラウ、気がついたのね! 動かないで!」
傍らから、ブリジットの震える声が降ってきた。
だが、その声は分厚い水底から聞こえてくるように遠く、くぐもり掠れている。激痛の波が押し寄せるたび、フラウの意識は再び暗い水底へと引っ張られそうになる。
それでも、フラウは必死に痛みの出処を探ろうとした。
何度も意識を揺り起こしては、発狂の間際で遠のき、再びそうした。
脛が燃えるように痛い。その感覚はある。しかし——なぜか、先にあるはずの右の爪先の感覚が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。そこに爪先があることを知っているが故に、その抜け落ちた感覚が不安を煽った。
「……あし……くつ……脱が、せて……」
フラウは痺れる手を伸ばし、自分の長靴を脱ごうとした。
だが、指先は虚空を掻くばかりで、鉛のように重い体は云うことを聞かない。
見かねたブリジットが「私がやるわ」とフラウの右脚にそっと触れ、長靴の縁へ手をかけた。
——ズズッ。肌触りの悪い音が聞こえた。
鈍く嫌な音を立て、長靴が引き抜かれた瞬間——むせ返るような、酷く甘ったるい腐臭がブリジットの鼻を突いた。鼻腔の奥を刺激する、重たく胃をひっくり返すような臭い。
「……え?」ブリジットの小さな声が、岩肌の洞窟の静寂へ波紋を呼んだ。
それに、半眼を開けたフラウの視界の端で、仄かな光苔に照らされた爪先がぼんやりと浮かび上がった。
それは、すでに人の肌の色ではなかった。赤紫と不気味な青銅色が混ざり合い、皮膚はどろりと崩れかけている——悪夢のような光景だった。
「いや……ああッ!」ブリジットの悲鳴が静寂を斬り裂き、そしてフラウは自身が置かれた状況を理解した。
そうだ——パレアスを庇ったフラウは、岩場へ叩きつけられると、パレアスの体重、装備重量その全てを一身で受けとめ、そして右脚の脛を折ったのだ。そして、そこから腐り始めている。幸いにも縦穴は途中から緩やかに傾斜を描き、落下の勢いは削がれた。それが唯一の救いであった。あのまま、真っ直ぐ落下をすれば、パレアスもただでは済まなかっただろう。
※ ※ ※
静寂を斬り裂いた悲鳴。
それに弾かれるよう、駆け寄ったマーナガルムの目に飛び込んだのは、変色し、崩れ落ちようとするフラウの右足。それは背筋が凍るほど悍ましく、絶望的な光景だった。
事態はそれでは終わらなかった。
「……ッ、ゴホッ! ゲホッ、ガハッ……!」
背後から、湿った咳き込む音がした。パレアスだ。
振り返ると、パレアスは岩場に膝をつき、黄色く濁った体液と血が混ざった粘り気のある痰を吐き出し、激しく体を上下させている。
——あの異臭か。
マーナガルムは、すぐさま思いを巡らせた。
落ちてきて、直ぐに澱み溜まった異臭には気が付いていた。それは、縦穴の上よりも濃く、そして重さを増している。きっとこれは無色の猛毒の類か——迷信じみた考えに怖気が走るが——呪いの類。とにかく、肺に多く入れたらいけない。それだけは確かだろう。「三人とも、すぐに分厚い布で鼻と口を覆え!」
しかし、それは気休めにもならなかった。
絶え間なく吐血を繰り返すパレアスが、なんとか巻いた布は血と吐瀉物で湿ると呼吸を塞いでしまう。同じく、吐血を始めたフラウもそうだった。
次々と連鎖する惨状。
それを前に気丈に振る舞ったブリジットの瞳から急速に光が失われ、心が折れかけているのが判った。
「これは、不味いな……」思わずマーナガルムは、弱音を吐いた。
※ ※ ※
息をするたび、喉の奥で血の塊がゴロゴロする。
生臭さに鉄の臭いを感じる味が口に広がる。それを排すよう咳払いをするが、肺が押し付けられ、激痛と共に再び喉元へ血の塊が駆け上ってくる。意識を保つことすら厳しい。
意識が遠のこうとする中、フラウは肩掛け鞄へ忍ばせた護符の存在を思い出していた。いざという時のための備えだ。
「ブリジット……鞄の、底……見て……」フラウは途切れ途切れに、それを知らせるために頼んだ。「鞄のどこを? そこってどこを……。そこ。底ね」ブリジットは震える手で鞄を探った。
やがて取り出したのは、一枚の古びた護符だ。それはトレアシアでは見かけない、ラントレッド特有の複雑な意匠で記された〈全癒の護符〉だった。
ラントレッド金貨にして、どれほどだろうか。近隣諸国通貨の中でもとりわけ強いラントレッド金貨。それを十枚差し出しても、おそらくその護符を手にすることはできない。
フラウは、幸運にもそれを旧都探索で捜しあて、そして強運に恵まれ、鑑定時に護符は極ありふれた回復の護符だとされた。価値の低い〈魔女の遺物〉は、そのまま〈探索者〉の物となる。
フラウが、それを全癒だと知ったのは、それから数ヶ月後のことだった。
「それ……パレアスに、使って……」その言葉に、ブリジットはどうすれば良いのか判らなく、傍のマーナガルムへ顔を向けた。
護符を手に取ったマーナガルムは目を丸くした。
護符の価値と効力を即座に悟った。帝国騎士団では、使うことはままならなくとも、座学としての〈魔法音素〉と〈魔女の遺物〉については学んでいる。「フラウ。これをあと何枚持っているんだ?」
マーナガルムの問いに、フラウは痛みに歪む口元へ無理やり微笑みを浮かべた。「あと……一枚、あるから。先にパレアスを」
その嘘に気づいたのか、ブリジットが大きく目を見開き、ガタガタと体を震わせた。
「すまない……。この護符の対価は、地上に戻ったら私が必ず支払うと約束しよう」マーナガルムの重々しい声がそう云った。
「えへへ……お金をもらったら、美味しいもの、いっぱい食べるんだ……」フラウは虚ろな目で答えた。
フラウの答えを聞いた瞬間、ブリジットはついに耐えきれず、顔を覆って号泣し始めた。マーナガルムは苦渋の表情を浮かべ、もう一度念を押すようにフラウへ尋ねた。「本当に……もう一枚あるのだな?」
※ ※ ※
——もう一枚は存在しないだろう。
パレアスの胸元に護符をあてがいながら、マーナガルムは顔を歪めた。
向こうでフラウの小さな体を抱きしめ、子供のように声を上げて泣きじゃくるブリジットの姿。あれは、とても「もう一枚の護符」が残されていることを拒絶している。
緑色の光がパレアスを包み込み、呼吸が落ち着くのを見届けると、マーナガルムは再び彼に布を当てがい、岩場へ寝かせた。そして、重い足取りで二人の元へと戻った。
「ブリジット。フラウの治療をする。もう一枚の護符を出してくれ」
「……先生……」
泣き止まないブリジットは、首を横に振り、絞り出すように言った。
「王子様の命の方が大事……。そうでしょ? それに、折れた骨は、あの護符じゃ治らないもの」
フラウが弱々しい声でそう誤魔化した。それが明らかな嘘であることをマーナガルムは直感したが、あえて口にはしなかった。「私がフラウの容態を見る。ブリジット、君はパレアスのそばにいてやってくれ」
ブリジットは、それに頷き涙を拭いながら、ふらふらとパレアスのもとへ歩いていった。
※ ※ ※
パレアスの穏やかな寝顔へ目を向けることを忘れず、ブリジットは少し離れた岩陰で言葉を交わすマーナガルムとフラウの姿をぼんやりと見つめていた。
随分と体を寄せ、言葉を交わしているようにも見える。
だが、仄かな光苔のせいなのか、フラウのか細い手がマーナガルムの首を狙い、宙を泳いでいるようにも見える。それにブリジットは不安を掻き立てられていた。
ふと、転げ落ちてきた縦穴の方から、カラン、という小さな音がした。
見れば、仄かに輝く奇妙な石が転がってきたのだ。
「綺麗な石……」
無意識に手を伸ばし、それを拾い上げた瞬間——石はパッと強い光を放った。「きゃっ!」
驚いて石を放り出したと同時だった。
立ち上がったマーナガルムの前へ、フラウがふらりと立ち上がったのだ。
「フラウ! 立てるようになったの!?」
ブリジットは、その光景に一抹の希望を抱き、投げ捨てた輝く石のことをすっかり忘れた。
奇跡が起きたのだと歓喜したのだ。
フラウとこの先も地獄を巡り、そして地上へ帰還する。帰ったら、館へ迎えよう。そんなことが頭の中を駆け巡った。そう。大袈裟に、そう考えたのだ。不穏を掻き消し、心の隅で膝を抱えた希望へ光を浴びせよう。それだけを強く念じたのだ。
そして、ブリジットが名前を呼ぼうとした、次の瞬間。
マーナガルムの冷たい刃が、音もなくフラウの胸に深く突き立てられた。
「いやあああッ!」
ブリジットの絶叫が響き渡った。
マーナガルムは、それに表情を変えることもなく、迷いもなく、剣を引き抜き「ここを離れるぞ!」とパレアスを背負い上げた。
「なんで! なんで!? なんでフラウを!?」
狂乱して責め立てるブリジットに、マーナガルムは唇を噛むだけで何も答えなかったが、強張った横顔をわずかに歪めると、はたと足を止めた。そして、少し離れた岩陰にパレアスを下ろすと、フラウの元へ戻り、亡骸に素早く石を積み上げた。それは、ささやかであったが、これ以上もない埋葬であった。
ブリジットはマーナガルムの悲痛な影に体を震わせ、何度も剣の柄へ手をかけた。見捨てたのだろうか。もしそうであるならば。だが、嗚咽を耳にしたように思うと、それを止めた。
束の間で戻ってきたマーナガルムは、静かに、そして重々しく告げた。「亡者化が始まっていた。フラウは、完全に人間でなくなる前に殺してくれと」
その言葉に、ブリジットの頭の中が真っ白になった。
護符の嘘も、死の瞬間の願いも、すべてはフラウが自分たちを護り、重い罪悪感を背負わせないための優しさだったのだ。
その可能性は感じていた。だが、それでも。フラウの優しい嘘に身を任せ、あまつさえ歓喜の声を上げようとした己の愚かさに、ブリジットは再び激しく咽び泣いた。
「泣いている暇はない。あの光る石は、追跡の石だ。フラウが最期に教えてくれた。ここに、あの魔導師がやってくる」
マーナガルムは、手で顔を覆い嗚咽を漏らすブリジットを一瞥すると、今では煌々と輝く石へ目を移した。
※ ※ ※
マーナガルムの背に揺られながら、パレアスは朦朧とした意識を取り戻した。
洞窟の奥深くへと走り続け、ようやく見つけた短い小休憩の場。渡された水袋の水を口にしたパレアスは、凄惨なフラウの結末のすべてを聞かされた。
愕然とした。
目の前が真っ暗になった。
意地と自尊心に塗れ、フラウを蔑んだ。
それにも関わらず、あの孤児の探索者はパレアスの命を救った。
自らの命と引き換えに。
そしてマーナガルムは、その一切の泥を自分で引き受けた。
パレアスはマーナガルムにすら蔑みの言葉を浴びせていたというのにだ。
あまりにも滑稽ではないか。
醜い——自身の在り方が、ほとほと醜い。
そう思うと、パレアスは声にならない絶叫を噛み殺し、自分自身の両脚を何度も、何度も憎悪を込めて叩きつけた。
「……こんなところで、死んでる場合じゃない」
血の滲むような声で、パレアスは顔を上げた。
その瞳には、これまでの傲慢な少年の面影はなく、暗い炎のような覚悟が宿っていた。
「生きて帰る。必ず生きて帰って……帝国を正す。こんな馬鹿げたことが二度と起きないよう、出来る全てを、やってのける」
パレアスのその痛切な決意に、涙で顔を濡らしたブリジットも力強く頷いた。
フラウの命。それはあまりにも重すぎる対価。それを意図せず支払わせた姉弟は初めて本当の意味で「世界を変える」覚悟を決めたのだ。
それでフラウに報いることは叶わないだろうことも判っていた。そうなのだ。これは欺瞞であり、未だ傲慢な決意だ。
だが、それでも、決意し足を踏み出し成し遂げなければ、フラウが支払った対価は無駄となる。
姉弟とマーナガルムは肩を並べ目を閉じた。
どこか遠くから、唄が聞こえたような気がした。
「さあ、目覚めの刻だ、この寝坊助め」




