後日談 幸福
途中でエマ(侍女)視点が入ります
夢を見た。
窮地に追いやられて、それでもどうにか生き延びる夢。
その代わり、ユノ様がいなくなる夢。
まさしく悪夢だ。
布団の中で深呼吸しながら、ギュッと目を瞑る。
高望みなんてしない。彼に寄り添って共に過ごしたいなんて、厚かましい幻想は捨てる。
ユノ様が望む私であり続ける。たとえ何があっても。
ユノ様がこのままで構わないと思うなら、望まないなら、忘れろと言うなら、私は差し出がましい願望など決して口にしない。
彼の意に反することは絶対にしない。
それでいいはずだ。
だって私は今のままで十分すぎるほど幸せだから。
これ以上を求めるなんて、あまりにも贅沢だ。身の程知らず。
かつて、欲はあればあるだけ良いと、かの皇帝は言葉を残したけれど、それは彼が欲に見合う器の持ち主だったからだ。
私は違う。私は既に溢れんばかりに恵まれている。おこがましい真似をしてはならない。
だって、失いたくない。幻滅されたくない。
震えそうになる指をさすり、体を丸める。
思考が錯綜し、気分が落ち込んでいるのは、あんな夢を見たせいだ。
もう一度寝よう。寝て気力を回復しよう。
…でももし、またあの夢を、続きを見てしまったら?
駄目だ、もう考えるな。
覚醒していない頭で、必死に年表を描く。
何度も何度も繰り返して染み付いたそれを呼び起こして冷静さを取り戻そうとする。
でもなかなかうまくいかない。やっぱり寝ぼけているからだ。
私は今平静ではないのだ。
朝目覚めたら普通に戻っているはずだ。
まぶたをきつく閉じる。
一人、ベッドの中で息を殺す。
…ユノ様の望むままになったとして。
彼に私の全権を委ねたとして。
彼がいなくなった時、私はどうするのだろう。
その疑問は脳裏にこびりついて離れなかった。
「奥様、奥様。大丈夫ですか?」
朝食の前、部屋で身支度をしていた私は声をかけられ、ハッと我に返った。
すぐそこに侍女のエマが純朴な顔に心配そうな色を浮かべている。
「体調が悪いんですか?今日は何だかずっとぼーっとしてますよ」
「ああ、ごめんなさい。何でもないんです」
少し寝ていなかっただけで、と小声で呟くと、エマは「寝不足は美肌の天敵ですよ!」と拳を握り、親切に注意してくる。
「また本でも読んでいたんですか?夜更かししちゃ駄目ですよ」
本は、最近は読んでいない。いや、目を通してはいるのだが、もやもやしたものが頭を占めているせいで内容が入ってこず、表面をなぞるだけになっている。だから何度も同じ本を読む羽目になっている。しかも未だに読解し終えていない。
「ただでさえ奥様は没頭すると時間に無頓着なんですから」
旦那様と同じで、と彼女は朗らかに付け加えた。
無意識に呼吸が乱れる。どうにか「そうですね」と笑って誤魔化す。
ん?という表情を彼女がしたので、慌てて支度を済ませて足早にダイニングに向かう。
そこにはいつも通り席についたユノ様がコーヒーを飲みながら私を待っていた。
「遅れてすみません」
「そうか?普段もこれくらいだろう」
それなら良かった、と答えて椅子に座る。
これまでと何も変わらない、見慣れた部屋に、見慣れた顔に、見慣れた食事風景。
それなのに、何故か居心地が悪かった。
…やっぱりあんな夢を見たせいだ。
もくもくと料理を口に運ぶユノ様の顔から、目が離せない。
私の手が止まっていることに気づき、彼はいぶかしげに眉をひそめた。
「食欲がないのか?」
「いいえ、そんなことは…」
けれども結局私は食が進まず、完食するのにいつもよりずっと時間をかけてしまった。
***
「おかしい」
「おかしいわね」
「おかしいわよねえ」
うんうん、と頷きながら顔を突き合わせる。
話題はもちろん、あの若い奥様のことだ。
「最近旦那様がやけにベタベタしてたと思ったら、急に離れちゃって、奥様も元気をなくして」
「一体何が原因でああなったのかしら」
「そんなの旦那様が原因に決まってるじゃない。朴念仁だもの」
シェリーが幼い顔立ちには似合わない毒を吐いた。
冷静なペトラがそれを身振りで肯定しつつ、首を傾げる。
「発端はあれでしょ、旦那様の集中力が切れたから奥様に補充してもらおうっていう作戦」
「そうね、私達が皆で考え出したあの素晴らしい作戦」
色ボケした旦那様を救うべく、旦那様の膝にちょこんと奥様を乗せて研究させてみた結果、旦那様は物凄い集中力を発揮してバリバリ仕事をこなした。
しかし恥ずかしがった奥様に二度目を拒否され、旦那様は、ならばと他の方法を提案し、くっついて回っていたようだが、何故かここ数日二人の間には妙に距離が空いてしまった。
「奥様、今朝眠れなかったんだって」
「…ひょっとして旦那様見限られた?奥様がまた本一筋に…?」
「いえ、そういうわけでもなさそうだったけど」
今朝の奥様の様子を思い出す。
元々白い肌を更に白くして、落ち着きのないように視線を彷徨わせていた。
声をかけると、大袈裟に驚いてそれから取り繕おうとした。
旦那様絡みで何かあったに違いないと確信するには申し分ない状態だ。
「何にせよ、私達の出番かしら」
「そうね、マリエッタさんに報告しましょう」
ペトラとシェリーの意見に私も賛成し、私達はおしゃべりで停滞していた軒先の掃除を終わらせるとすぐにメイド長の元へ向かった。
彼女もまたこの事態を悟り、解決法を策謀していたらしく、「手を打たないといけないわね」と重々しく告げた。
「今夜使用人会議を開くわよ。伝言してちょうだい」
使用人会議。奥様が来る前は月一で行っていたものだが、旦那様が結婚という節目を迎えてからは週一で開催されている。
私達はメイド長と別れ、出会う使用人片っ端の耳元に「今夜。東の小部屋。重要任務。集合」とそれっぽく囁いていった。
屋敷を歩き回る途中、
「今のうちに作戦でも考えておく?」
「旦那様と奥様を部屋に閉じ込めて二人だけにして、仲直りするまで出さないっていうのは?」
「ペトラ天才!?」
「でも喧嘩しているわけじゃないんでしょう?ただ奥様が何かぎこちないってだけで…」
「そうね」
「旦那様の押しが弱いからいけないのよ。恋敵がいないからって、油断してるんだわ。もっと奥様にガツンと、“もう二度とお前を離さない”くらい言ってもらわないと」
シェリーがそうこぼすと、ペトラは細いキリッとした眉を上げて反論する。
「旦那様のタイプからして、肉食系よりダメ男系の方が合っているわ。“君がいないと僕は生きていけない”って訴える方向で」
「そんなの女々しくて心に響かないわ!もっと男らしく強さをアピールしないと」
「それはシェリーの好みでしょう!」
「そっちだってただの趣味じゃない!」
「まあまあまあまあ」
熱くなる二人の間に割って入る。
ペトラはクールそうに見えて意外にこだわりが強いし、シェリーはふわふわしてそうに見えて押しが強いから、私がいないと衝突して喧嘩になることがしょっちゅうある。まあ喧嘩しても次の日になったら二人ともケロリとしているんだけど。
「エマはどうなの?」
「旦那様に言わせるとしたら?」
「えー…」
矛先がこっちに向いた。旦那様の無愛想な顔を思い浮かべ、多少悩みながらも答えを出す。
「“一緒に幸せになろう”、とか…?」
「…シンプルね」
「悪くないわね」
ペトラとシェリーは真面目くさった様子で判定し、姦しいやり取りを遠く眺めていた先輩達は和やかに微笑みながら立ち去っていく。
二人の親友は妙に満足そうだったが、私が得たのは恥ずかしさだけだった。
***
その日は朝から何かおかしかった。
見る人見る人が皆そわそわとしていて、かつて私が研究と称されてユノ様の膝上に乗せられた時のことを思い出させる。
またあの時のように何かあるのだろうか。
彼らには手助けされてばかりいる。
ユノ様の状態もおかしかった。
目の前に置かれたコーヒーをじっと睨みつけ、鬼の形相で、中に毒でも入っているかのように手を出さず、部屋の隅で働いている使用人をいちいち目視してからようやくカップを手に取った。
恐る恐る口をつけ、何も含まれていないと分かったのか安心して飲み始めた。
「ユノ様…大丈夫ですか?」
「ああ。ただ、あいつらが通知してきてな…」
「何を?」
「詳細は隠されたままだ。だが、ろくなことではないだろう」
苦々しい顔で返される。
私もつられて緊張しながら、朝食をユノ様のスピードに合わせて、いつかのように時間をかけて済ませ、彼と同じタイミングで席を立つ。
ダイニングを出て、彼は研究部屋に、私は読書用の部屋に、と別れかけたところで、
「奥様、ごめんなさい!」
「さあ旦那様、お覚悟を!」
どこにそんなに潜んでいたのか、わらわらと使用人達に囲まれた。
腕を優しく掴まれ、痛くはない程度の力で引っ張られる。
対して瞬時に状況を理解し逃走しようとしたユノ様は胴を担ぎ上げられていた。
「お前ら!離せ、この!今度は何をする気だ!」
「これも全ては旦那様のため!お節介だろうと何だろうと、私らはやめませんよ!」
「旦那様が奥様に素直になって、そりゃもう仲睦まじく見てて胸焼けするくらいになるまではね!」
ユノ様が喚きながら自分を抱える人々を何度も叩くが、彼らの肉体はびくともしない。
やがて私達はとある一室に押し込まれた。
一室というか、書庫だった。
私が利用し始めたので掃除も頻繁に行われるようになったそうだが、埃っぽい空気は健在だ。
「そこでゆっくり愛を語らってくださいな!」
「昼食も差し入れに来ますし、夕食までには開放します!」
「だからそれまで仲良くね!」
ガチャン、と音がした。
言わずもがな、鍵をかけられたのだ。
「ふざけるな!お前ら、ただで済むと思うなよ!くっ…窓が小さい。抜けられないよう考えたなあいつら」
部屋を見渡してユノ様が悪態をつく。次いで私を見て、眉を寄せた。
「…君は何をにやけているんだ」
「えっ?」
ああ、しまった。書庫に閉じ込められるなんて苦行でも何でもないから思わず。
読みかけの本は読書部屋に置いてあるからここにあるのは読了済みか、初見の本ばかりになるが、それでも構わない。
ユノ様もいるし、何だったら彼にも読んでもらいたい。
あの本とかこの本とかおすすめのものはたくさんある。
だが、使用人達は「愛を語らえ」と言った。
案の定、私の不調を察していたエマを筆頭に気をつかってくれたのだろう。ここで私が本に手を出せば、彼らの厚意を無駄にすることになる。
思えば、ユノ様と二人きりになるのはあの日以来だ。彼が望まないならと邪魔にならぬよう身を引いていたが、今のこれは不可抗力。せっかく彼と一緒に、書庫に閉じ込められたのだから、是非彼に何か読んでほしいという思いはあるが…。
「…読んでいいぞ」
「えっ」
「君の顔を見れば分かる」
「ですが…」
「僕らはこれまであいつらに乗せられてきた。たまには反抗してもいいだろう」
「そ、そうですか?それなら…」
許しが出た。
すぐさま私は本棚を往復してなるべく初心者用の、易しい書物を選び、彼が立ち尽くしている扉の周辺に並べる。
「…ちょっと待て。何だこれ」
「お好きなのをどうぞ!」
「あ、ああ、そういう…」
じゃあこれ、と彼が指差したのは、なんとリオニス三世の考察書だった。
この書庫にはリオニス三世に関する文書が比較的多い。以前見つけた手記もそうだが、読むごとに彼の人物像が更新され、変化する。
その感動を彼も味わいたいというのか。
「お目が高いですね。最初に選ぶのが彼とは」
「…そんなにすごい奴なのか?」
「それはもう!」
世界的に有名な残虐皇帝、リオニス三世。
彼を語るにはまず彼の祖父であるリオニス一世の話から入らなければならない。
何といっても、三世は一世の伝説を超えるため、志半ばで一世の威光に心折られた二世の跡を継ぐように、躍進を開始したのだ。
とはいえ三世は一世を、二世ほど過剰に意識していたわけではない。彼はあくまで自分の理想に従って…
「待て、待て。分かった。すごい人なんだな。分かったから落ち着いてくれ」
吸って吐くんだ、とユノ様が頼むからその通りにする。
深呼吸。
ふう。
「冷静になったか?」
「はい。それで、三世はですね…」
「待て!それ以上はいい、ほら…自分で読むから、ほら」
「あ…そうですね。すみません、楽しみを奪うような真似をしてしまって」
伝聞も良いが、やはり実際に自らの目を通して知った時の喜びはひとしおだ。
危ないところだった。
ほっと息を吐くと、難しい顔のユノ様は腕を組み、指でトントン、と叩きながら尋ねてきた。
「君はそいつを…格別に気に入っているのか?」
「とにかく規格外の人なので印象は強いですが、好みで言えば一世の方が好きですね。三世が人を惹きつける暴君、二世が苦悩にまみれた中継ぎ皇帝なら、一世は本物の英雄ですから」
一世の英雄譚は今なお世界中で語り継がれている。
またこの国では三世の文献よりも、一世の文献の方が多く残されているのだ。もっとも三世はこの国を支配し属領とした張本人なので、国にとって忌まわしい過去として認識されているから、仕方のないことではあるのだが。
「ふうん…」
ユノ様は腕組みをしたまま、そんな声を漏らしグレーの目を細めてチラッと私を見た。
何だろう。何か気に触ることを言っただろうか。
そういえば、ここに来てから最近の鬱屈とした気持ちが嘘のように晴れている。改めて実感する。私は歴史が好きだ。今まで私と共にあり続け、心の支えになっていたそれは、私にとって…
「…ユノ様」
「何だ」
「抱きしめてもらってもいいですか?」
「はあ!?」
素っ頓狂な反応をして、彼は怯えたように後退し扉に背をぶつけた。
「何だ急に、今僕の知らないところで何か起きたのか!?」
「いいえ。確かめたいんです」
「な、何を」
「私とユノ様は、似たもの同士なのか」
「は、はあ…」
それとこれと何の関係が、と言いたげに視線をうろつかせたが、やがて彼は私の真剣さに負けたのか「分かったよ」と腕を差し出した。頷き、一度背を向けて本棚から未読の一冊を手に取り戻る。
私は本を抱えたまま、そこに飛び込む。
「ちょ、え?」
腕の中で表紙を開く。
文字列を目で追う。
「えっ…?」
「……」
どれほど時間が経っただろうか。
一章を読み終えた私は、ページから目を離し、彼の顔を見上げた。
彼は私が見ると同時に顔を背けた。しかし耳が赤らんでいる。
「…思った通りでした」
「…説明してもらおうか」
簡単な話だ。
彼が数字に夢中だった時、私は彼に抱えられながら、恥ずかしくて仕方なかった。
私が歴史に夢中だった時、彼は私を抱えながら、多分恥ずかしい思いをしていた。
「私が飛びついてから読み終わるまで、どれくらいでした?」
「…十五分と十七秒」
この一章は五十ページ以上ある。私史上一番早い記録だ。
私は彼の体温を直に感じながら読むことで、私に触れて研究をぐんぐん進めていた彼と同じく、集中力を加速させていたのだ。理解力、思考力も増している気がする。軍師ヒカが旧友グーイに反乱を知らせなかったのはきっと妻のためだった。
「…なるほどな。ああ、分かったよ。君あの時こんな気持ちだったのか。確かに…これは拒否するな」
「共感してもらえて嬉しいです」
絶対に目を合わせずいたたまれなさそうな彼に反して、私は不思議とすっきりしていた。
彼は、突然の要求に戸惑いつつも幻滅することはなく、私をこうして抱きしめてくれた。
私が自分を偽っても、望みを押し殺しても、結局彼にはバレてしまうだろう。
自分は普通の人と比べて異常かもしれない、でも彼と同じなのだ。本当に似ているのだ、私達は。
私が自分を蔑めば、それは彼を蔑むのにも繋がる。
それは駄目だな、とすんなり結論が出た。
「あー…離すか?」
「ユノ様のお好きなようにしてください」
「君何か逞しくなってないか…?」
整理がついたのだ。
私はユノ様を慕っている。
ユノ様も、私をずっとここに置いてくれるという。
私が多少過ぎた望みを口にしても、彼は受け入れてくれる。逆もまた然り。
私達は結婚しているから、それで当然というものもいるかもしれない。
でも、私にとっては最良の幸福だ。
それと同時に、私は歴史を愛している。
ユノ様は数字を、数学を愛している。
何を悩むこともない。
私は今、最大の幸福を享受している。
彼がいて、歴史に触れられれば、それほどの人生はないのだ。
そう説明すると、彼は私の背中に添えた手に無言で力を込め、自分の方へ押さえ付けた。
彼の心臓の音が大きく伝わってくる。
「ソフィア」
「はい、何でしょうユノ様」
「……僕もだよ」
何が、とは聞けなかった。
聞く必要もなかった。
「…いなくならないでくださいね、どこにも」
「何だそれは。僕がここを出るわけないだろう。むしろ君だ」
「ええ、私は…どこにも行きません」
前にも決意したけれど、実際に口に出すと、そうしなければならないと、強く心に刻まれた。
「…あー…」
「何ですか?」
「僕は駄目な男だ…」
「そんなことないですよ」
「あるんだよ。ついこの間決心したばかりなのに…」
「何をですか?」
「君に無闇に触れないようにすること」
「何故?」
「君がもう少し成長して立派な大人になってからじゃないと、外面が…」
「誰に見られるんですか?ここには私と、使用人の皆さんしかいないのに」
「…そういえばそうだな」
目から鱗、という面持ちでユノ様は納得した。
気が楽になったのか、先ほどまで騒いでいた鼓動がなだらかに落ち着きを取り戻している。
しかし、私は十六歳だから別に何の問題もないはずだが、彼はどうして悩んでいたのだろうか。
「…じゃあ疑問も解消したところで、そろそろ…」
「あ、そうですね。これをどうぞ」
「お、ああ…そうだな」
体を離して、近くに置いておいたリオニス三世の考察書を彼に渡す。
使用人がここを開ける期限の夕食時どころか、昼食までまだいささか時間が残っている。彼も読破してしまうだろう。
ユノ様は扉に背を預けたまま、ペラペラと本をめくり出した。
私も手に持っていた本を再び続きから開く。
しばらくの間、書庫には二つのページを送る音だけが響いていた。