004
どすこい熊五郎という名の眼鏡の妖精を演じる俺から、眼鏡っ娘をからかっていた男の子は逃げ出さなかった。大木に背中を預けながら二人で話し込む。少年は最初の一歩を踏み出したのだから、あとは人生の先輩である俺の腕次第だろう。
「今のままじゃ眼鏡っ娘と仲良くなんてなれないぞ」
「わかってるよ! わかってるけど……つい心にもないことを口走っちゃうんだ」
「おそらく心のどこかに眼鏡っ娘は垢抜けてないというような偏見があるんだろうな。ともあれ自覚があるなら改善はそれほど難しくない」
「そうなのか?」
「本当に馬鹿な奴ほど自分自身のことを馬鹿と認識していない原理と一緒さ。自覚がある奴は自覚がない奴に比べて理解も早いからな」
疑問符を浮かべる少年に俺は三つの眼鏡を差し出した。
「なんだよこれ?」
「これから三日間、この眼鏡たちと寝食をともにするんだ。眼鏡を好きになれば必然的に眼鏡っ娘に対して感謝の言葉を紡げるようになるからな」
「そんなことで本当に変われるのかよ?」
「もちろんだ。その三種類の眼鏡を使いこなしたとき君は生まれ変わる」
男の子は受け取った三つの眼鏡を見つめる。
一つは通常時に使用する眼鏡、一つは風呂専用の眼鏡、もう一つは部屋用の眼鏡だった。最後の眼鏡にはPCモニターから発生するブルーライトと呼ばれる青色成分の多い光を約五十五パーセントカットする機能が搭載されている。つまり視力矯正じゃなく保護を目的として設計されているわけだ。
「ちなみに可視光線の中でも波長の短いブルーライトは、角膜や水晶体でも吸収されず網膜まで到達するため、長時間モニターを眺めていると『目がチカチカする』んだ。あの現象もその眼鏡をかけていれば軽減することができる。付属の保水装置を用いればドライアイ対策にもなるし、花粉対策用に加工された眼鏡だってあるんだぞ? そもそも鼻と口を守るマスクは認知されているのに、瞳を守る眼鏡が放置されていることがおかしいだよ。三つの眼鏡それぞれの使い方は理解できたか?」
「どすこい熊五郎……相撲以外にも詳しいんだな」
「だから俺はどすこい熊五郎という名の眼鏡の妖精だからな」
それから眼鏡の保存方法や手入れについて説明する。
少年が初心者にありがちな質問を投げかけてきた。
「汚れたときは拭けばいいの?」
「眼鏡を拭くという概念は捨てろ。眼鏡の皮脂は洗わなければ除去できない」
「洗う?」
「うむ。眼鏡の汚れを完全に除去できるのは超音波洗浄機と専用シャンプーだけだ。とりあえず忘れないうちに『眼鏡の汚れを完全に除去できるのは超音波洗浄機と専用シャンプーだけ!』と復唱しておくといい」
「…………」
「恥ずかしいのか? そんな中途半端な気持ちでは眼鏡を極められないぞ」
「…………」
「眼鏡っ娘と仲良くなれなくてもいいのか?」
「えっと……眼鏡の汚れを完全に除去できるのは超音波洗浄機と専用シャンプーだけ」
「声が小さい! まったく気持ちが籠もってない!」
「眼鏡の汚れを完全に除去できるのは超音波洗浄機と専用シャンプーだけ!」
「その心意気を忘れるな。三日後、息を吐くように眼鏡っ娘を褒められるぞ」
「…………」
ふと少年は視線を伏せた。
俺は場に相応しい静かな声で確かめる。
「俺の言葉を信じられないのか?」
「うーん……よくわからない」
「とりあえず眼鏡をかけてみたらどうだ?」
「…………」
「ちなみに手渡した三つの眼鏡を無許可で破棄したら、俺は君の個人情報を調べ上げてWEBに晒し上げる」
「ええっ! ちょっと怖過ぎるよ、どすこい熊五郎!」
「だからそうならないことを祈っている。ところで眼鏡をかけたらどうだ?」
「わわわわわかったよ。かけるから顔と発言のギャップやめてくれよ!」
「ふむ……似合ってるじゃないか? あとは眼鏡っ娘と仲良くなるだけだな」
「うん。ありがとう……どすこい熊五郎」
「礼を言うのは早いぞ。その言葉は眼鏡っ娘の笑顔を見るまで取っておけ」
それから三日間、俺は毎日のように少年と会った。
眼鏡の歴史から有用性まで熱心に叩き込む。最初は戸惑いと気恥ずかしさに満ちた少年の表情も、丸一日を経過した頃から瞳の奥に優しさを宿していた。風呂専用眼鏡の素晴らしさを語り出したときは、危うく涙を零してしまいそうなくらい感動した。
身も心も綺麗になった風呂上りに人はなぜ皮脂汚れに侵された眼鏡をかけなくてはならないのか? この歴史的難問の解決に一役買ったのが超音波洗浄機や眼鏡専用シャンプーであり、湯煙に負けず心身と一緒に眼鏡も洗うことに一役買ったのが風呂専用眼鏡なのである。つまり眼鏡愛好家にとって伝説の装備と称しても過言ではないだろう。
「そろそろ次の段階へ進むときかもしれないな」
「どういうことだよ眼鏡の妖精?」
「眼鏡っ娘に風呂専用眼鏡を渡すんだ」
「そんなこと……僕にはできないよ」
「いや、今の君ならできる。なにも迷うことはない。ただ眼鏡の力を信じろ」
「眼鏡の妖精……僕……やってみるよ」
距離を考えれば今日の夕刻には待ち合わせ場所に向かわなければならない。
だからこそ勇気を奮い立たせてくれた少年に感謝しよう。
今の君なら素直な気持ちを眼鏡っ娘に伝えられるはずだ。
「あのさ」
眼鏡っ娘を呼び止めた少年は、予定通りに言葉を紡いでいく。
最初は台本を読むようなぎこちなさだったが、しばらくすると言葉に感情が乗り始めていた。眼鏡の素晴らしさから眼鏡の似合う素晴らしさへと繋がっていく。まるで世界で最も売れている聖書から引用したような無駄のない運びだった。
すべてを伝え終えた少年は眼鏡っ娘に風呂専用眼鏡を差し伸べた。
成功してほしいと願う反面、その成長に寂しさを覚える。
俺の心境は子供を見守る親の気持ちだった。
眼鏡っ娘は差し伸べられた風呂専用眼鏡から顔を上げる。
「裕くん……気持ち悪い」
「…………」
ぱくぱくと金魚のように口を動かしながら少年はこちらを振り仰いだ。
少年の賞賛は完璧で隙なんてまるでなかった。しかし現実は頑張っている人々に厳しい試練を与える。どすこい熊五郎という名の眼鏡の妖精として、俺が少年にしてやれることは一つしかなかった。
「ぐえっへっへ、可愛い眼鏡っ娘がいるじゃないか?」
「眼鏡の妖精?」
「どすこい熊五郎という名の眼鏡の妖精は仮の姿――俺の正体は可愛い女子の眼鏡を隅々まで舐め回すペロリストだ。眼鏡っ娘を守りたければ俺を倒すしかないぞ」
「そんな――眼鏡の妖精がペロリストなんて信じられないよ!」
「戦う気がないなら眼鏡っ娘がぺろぺろされているところを黙って見ていろ」
俺は悪役よろしく大袈裟な動きで眼鏡っ娘に歩み寄る。どすこい熊五郎という愛らしい見た目にも関わらず、女の子はペロリストを名乗る俺に怯え切っていた。
「やめろ! 美加ちゃんは僕が守る」
「……裕くん……」
脅しにも屈せず少年は決闘を挑んでくる。
手早く承認した俺は飛びかかってくる少年を軽く往なした。
勢い任せに突っ込んできていた男の子は派手に転倒する。
しかし勇ましく立ち上がった少年は口を拭いながら眼鏡っ娘に命じた。
「悔しいけど僕一人じゃこのペロリストは倒せない。時間を稼いでるうちに美加ちゃんは逃げるんだ! こんな変態野郎に美加ちゃんの眼鏡を舐めさせるわけにはいかない」
「裕くん……ありがとう。すごく格好いいよ」
「さっさと行くんだ!」
眼鏡っ娘を逃がした少年は瞳一杯に涙を浮かべる。
おそらく俺の本心が伝わっていたのだろう。
そう――これは俺が咄嗟に思い付いた作戦ではない。
泣いた赤鬼という話を知っているだろうか?
人間と友達になりたい赤鬼のために青鬼が憎まれ役を買う。それで一件落着すればよかったのだが、独りぼっちになった青鬼は、人知れずどこかへ旅立ってしまうのだ。それを悲しんだ赤鬼はわんわん泣いてしまうという物語である。
「このままじゃ……眼鏡の妖精が悪者になっちゃうよ」
「君が眼鏡っ娘と仲良くなれればそれでいいさ」
「でも……そんなの……あんまりだよ」
「君が俺のために涙で眼鏡を濡らしてくれたことを忘れない。だから君もどすこい熊五郎という名の眼鏡の妖精がいたことを忘れないでほしい」
「わかった。絶対に忘れないよ。ありがとう……眼鏡の妖精」
「気にするな。短い期間だったが楽しかったぞ」
物語はここで綺麗に完結するはずだった。
しかし現実は頑張っている人々に厳しい試練を与える。
「あいつか子供の眼鏡を舐め回そうとしている変態野郎は!」
「ペロリストだかなんだか知らないがぶっ飛ばしてやる!」
眼鏡っ娘は大人を連れて戻ってきたのである。
俺はどすこい熊五郎の格好をしたまま駆け出した。
「これには深い事情があるんだ!」
「眼鏡を舐め回そうとする事情なんて知るか!」
「そんな格好で子供を油断させて近寄るなんて許せん!」
この日、どすこい熊五郎という名の眼鏡の妖精は死んだ。
しかし泣いた少年の心の中では永遠に行き続けることだろう。




