第8話「触れてしまったもの」
ほんの少しの距離。ただ、それだけのはずだった。
でも、その“わずかなズレ”が、確かに何かを変えてしまった。
「あぁ、そういうことね」
朝の光の中、ティアは二人を見て、小さく呟いた。
誰に向けたわけでもない声だった。
レインはパンをかじりながら、顔を上げる。
「何が?」
ティアは肩をすくめる。
「別に」
それ以上は言わなかった。
エイルは何も気にしていない様子で、スープを口に運ぶ。
「……おいしい」
レインは頷いた。
「普通だろ」
その“普通”に、ティアは一瞬だけ目を細めた。
(……私はあなたと違って大人で18だし)
口には出さない。
朝食は静かに終わった。
洗濯物を外に運ぶ。
シーツと、濡れてしまった布団。
「重いな」
レインがぼそりと呟く。
エイルは隣で、端を持っている。
「でも、乾いたら使える」
「まぁな」
庭に広げる。
風が吹いて、布が大きく揺れた。
エイルが少しだけ笑う。
それを見て、レインは一瞬だけ視線を逸らした。
(……楽しそうだな)
言葉にはしない。
昼は、掃除をした。
ティアは棚の上を拭きながら言う。
「無駄に汚れてる」
「無駄って何だよ」
レインが返す。
「必要以上ってこと」
「つまり、誰かが雑」
「お前だろ」
「違うわ」
「私こう見えて綺麗好きだもん」
軽いやり取り。
エイルはその横で、床を拭いている。
少しずつ、部屋が整っていく。
夕方。
取り込んだシーツは、ちゃんと乾いていた。
「よし」「綺麗になった」
レインは軽く叩く。
「使えるな」
エイルが頷く。
「うん」
ティアは別の部屋に行って、話し込んでいた。
俺が来る前から、よく話す子がいたみたいで、時々話に行っている。
レインが部屋に戻ると、灯りは落ちていた。
エイルがいた。
ベッドの上に座っている。
手には、ぬいぐるみ。
それを、指先で撫でていた。
レインはティアの空の瓶に躓いた。
「あっ」
「ごめん」
エイルに覆いかぶさり、急いで離れた。
深呼吸して、エイルを見た。
大切そうにぬいぐるみを抱えている。
「そんなに気に入った?」
少しだけ、目を細めた。
ぬいぐるみを軽く持ち上げてから、抱きしめた。
「うん」
そのまま、抱き寄せた。
ようやく、気づく。
「……あ」
小さな声。
エイルは、ぬいぐるみを抱いたまま止まった。
少しだけ、遅れている。
レインは視線を外さない。
「もっと上手く作ればよかったな」
エイルは、ほんのわずかに間を置いて、頷く。
「……ううん」
「これがいいの」
それだけ。
沈黙が落ちる。
エイルは、ぬいぐるみを胸に抱いたまま、少しだけ近づいた。
理由はない。
一拍。
レインは、何も言わない。
ただ、視線だけが動かない。
(……なんだこれ)
ただ、距離が縮まる。
レインは動かない。
(……近い)
視線が合う。
何も言わない。
そのまま――
エイルが、そっと額を寄せた。
呼吸が触れる距離。
レインは、動かない。
唇が。
触れる。
やわらかく。
離れない。
一瞬だけ、時間が止まる。
レインの視界が揺れた。
知らない景色。
断片的な感情。
声にならない何か。
すぐに、消える。
エイルが離れる。
レインは動かない。
「えっ」
(……今の、なんだ)
エイルを見ている。
無意識に、手が伸びた。
(確かめるように)
「……っ
まって」
指で唇に触れる。
やわらかい。
少しだけ、熱があった。
ほんの一瞬。
エイルの息が、わずかに揺れる。
「……っ」
レインは思わず唾を飲み込んだ。
エイルの吐息が、肌に熱い足跡を残したまま、白く消えていく。
だが、すぐに手を引いた。
(……違う)
言葉にならない。
その時。
扉が開く音。
ティアが戻ってきた。
一拍。
三人の間に、わずかな空気のズレが生まれる。
ティアは二人を見る。
少しだけ、目を細めた。
「気づいてないの、あんただけだよ」
それだけ言う。
レインは視線を逸らさないまま、答えた。
「え、何が?」
ティアは小さく息を吐いた。
「……まぁいいや」
少しだけ間を置く。
「私、今日は別の所で寝るから」
そう言って、出ていった。
夜は、そのまま過ぎていった。
(眠れなかった)
(……理由は、わかってる)
気づいていないのは、本人だけ。けれど、その違和感はもう消えない。
触れたものは、戻らない。それが何だったのかを知るのは、もう少し先の話。
次回も読んで頂けると嬉しいです。




