第二章(2):天才魔導士の執着
そして、カスパール君。
彼は、ルシアン様がいなくなったことが、どうしても信じられなかった。
ルシアン様は、彼にとって尊敬すべき存在、いつか必ず越えるべき壁であり、そして、絶対的な目標だった。
天才肌のカスパール君が、心から認め、その背中を追いかけ続けた、唯一の存在。
そのルシアン様が、自分の目の前で消えてしまったのだ。
「ルシアン様…あんた…一体…どこへ行っちまったんだよ…?」
カスパール君は、ルシアン様が遺した研究室に閉じこもった。
そこには、ルシアン様が最後まで研究していた、異界や空間に関する膨大な資料、そして宝珠についての詳細な記録が残されている。
彼は、ルシアン様がなぜあの魔法を使ったのか、異界とは一体何なのか、そして、どうすればそこへ行けるのかを知りたい一心で、それらの資料に没頭した。
寝る間も惜しみ、食事も忘れるほどに。
手に残った紫色の宝珠のピアスが、ルシアン様との唯一の繋がりであるかのように感じられた。
この宝珠は、ルシアン様が異界について研究していた成果の一部でもある。
これさえあれば、いつかルシアン様に会えるかもしれない。
ルシアン様を見つけ出す。
あるいは、ルシアン様が到達した異界の領域へ自分も行く。
その思いだけが、ルシアン様を失ったカスパール君の心を支えていた。
それは、ルシアン様への深い尊敬と、彼がいなくなったことへのやり場のない悲しみが混ざり合った、執着に近い感情だったのかもしれない。
ルシアン様…あんたがいないなんて…信じられるかよ…!
***
(カスパールの回想)
俺がルシアン様の研究に没頭し、異界に深く踏み込んでいく中で、時折、研究室の扉がノックされることがあった。
「カスパール君、また徹夜してるの? はい、温かいスープ持ってきたわよ」
扉の向こうにいたのは、いつもローゼリアだった。
彼女は頻繁に俺の様子を見に来てくれた。
食事もろくに摂らない俺を心配し、手作りの料理を差し入れてくれた。
その優しさは、荒んでいく俺の心に、微かな温かさを灯してくれた。
「別に。あんたには関係ねぇだろ」
俺は素っ気なく答えたが、彼女は何も言わず、ただ傍に座って俺の研究を見守っていた。
俺が資料を読みふけり、頭を抱えていると、彼女はそっと俺の肩を撫でた。
研究に行き詰まり、焦燥に駆られている俺の心を、彼女は言葉ではなく、その存在で支えようとしてくれていた。
「カスパール君…無理はしないでね。ルシアン様だって、きっと…」
ローゼリアはそれ以上言わなかった。
俺がルシアン様を探すことに執着しているのを、彼女は理解していたからだ。
それでも、彼女の瞳には、俺の身を案じる深い心配の色が浮かんでいた。
ある日、俺はローゼリアに告げた。
「俺は…この森の奥深くに、禁じられた場所があると聞いた。そこに行けば、もっとルシアン様のことに近づけるかもしれねぇ」
それは、禁忌に触れる場所だった。
「カスパール君!? それは…ダメよ! そんな危険な場所、行っちゃいけないわ!」
ローゼリアは、珍しく声を荒げて俺を止めようとした。
彼女の瞳は、はっきりと恐怖に染まっていた。だが、俺の耳には届かない。
ルシアン様への執着が、俺の全てを支配していたからだ。
「俺は行く。誰にも邪魔させねぇ」
俺は、彼女を振り切って立ち去ろうとした。
その時、ローゼリアが、俺の腕を掴んだ。
彼女は、自分のペンダントのチェーンと同じデザインのネックレスを、俺の手に握らせた。
精霊の泉で清めたと聞かされた。
「せめて…これを持って行って。私の祈りが込められているから…」
彼女の震える手から伝わる温かさが、俺の心をわずかに揺さぶった。
俺は何も言わず、そのチェーンネックレスをポケットにしまい、森の奥へと足を踏み入れた。
それが、ローゼリアと交わした、最後の言葉だった。
(カスパールの回想終わり)
***
カスパール君は、ただただルシアン様を探すという、彼の心を支える唯一の光を胸に、研究を続けていた。
しかし、この頃から、カスパール家の商売がうまくいかなくなったり、だんだんと資金繰りがうまくいかなくなった。
研究に必要な魔導具や高価な資料は、もはや手に入らなくなった。
資金は底を突き、彼は日々の生活にも困窮し始めた。
飢えと疲労、そしてルシアン様に会えない焦燥が、彼の心を少しずつ蝕んでいく。
追い詰められたカスパール君の瞳は、次第に狂気を帯び始めた。
「くそっ…! こんなところで…止まれるか…! ルシアン様…あんたがどこへ行ったのか…必ず見つけ出すんだ…!」
彼は、禁じられた書庫の奥深くに隠された、古くからの書物、『禁忌の魔導書』へと手を伸ばした。
そこには、命の対価を支払い、強大な力を得る術や、魂の摂理を歪める方法が記されているという。
禁忌の研究。
魔導士としては決して触れてはならない知識。
しかし、もはや彼の心に、迷いはなかった。
「命だろうと…魂だろうと…構うものか…! 俺は…俺はルシアン様の行方を知りたいだけなんだ…!」
彼は、その魔導書の頁を開いた。
そこに描かれた異様な紋様、記された呪文は、通常の魔導知識では理解不能な、恐ろしい力を秘めているように見えた。
カスパール君は、自らの血と魔力を代償に、その禁忌の術を発動させた。
彼の体に激痛が走り、魔力が制御不能に暴走する。
しかし、その先に、ルシアン様へと続く道があるのなら、彼はどんな代償も厭わなかった。
彼の意識は、激しい光と痛みに包まれ、やがて途絶えた。