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最終章:不滅の証明、そして魂の転進

昭和18年11月末。あの凄まじいP-38ライトニングの機銃掃射と、巌伍長の凄まじい生理現象の大パニックから数日が経過した、ある早朝のことだった。

フォン半島の熱帯雨林には、夜露を含んだ冷たく重い朝靄(あさもや)がじっとりと立ち込めていた。混成陣地の周囲を警戒していた陸軍の歩哨が、息を切らせて泥壕へと滑り込み、大槻海軍大尉の元へ血相を変えて報告に走った。

「報告ッ! 陣地前方約500! 敵オーストラリア軍の重戦車、および数人の敵歩兵が、我が方を捜索しつつじりじりと接近中!」

「……いよいよ、来たか」

第三種軍装の襟元を泥に汚した大槻海軍大尉は、腰の海軍刀の柄をグッと握り締め、静かに腹を括(くく)った。彼は、巌の驚異的な肉体を視診した鈴木海軍軍医少佐の元へ歩み寄ると、前線の泥臭い風のなかで低く告げた。

「軍医殿……。もはやこれまで。我が混成部隊、玉砕覚悟の総攻撃(バンザイ突撃)の時期かと思われます」

鈴木軍医少佐は、眼鏡の奥の目を静かに伏せ、覚悟を決めたように深く頷いた。

大槻大尉は壕の丸太を叩き、全軍へ向けて鋭い声を張り上げた。

「全員配置に付けッ! 重機関銃、前へ!」

混成陣地に、一瞬にして張り詰めた鉄の緊迫感が突き抜けた。

ジャングルの奥からは、オーストラリア軍のマチルダII歩兵戦車が搭載する、4気筒×2基の重厚な九気筒ディーゼルエンジンの地鳴りのような轟音が、熱帯の空気を激しく震わせて響き渡っていた。

「大休止か……?」と錯覚するほど、敵兵たちは油断なく、英語で無線機に向かってガガガとけたたましい怒鳴り声を上げ、周囲のシダの葉を刈り取りながら迫ってくる。

じりじりと、呼吸すら許されない緊迫の時間が過ぎていく。熱帯のまとわりつくような凶悪な湿気と熱気の中、佐藤上等兵をはじめ、泥壕に潜む兵士たちの身体を、恐怖と決意の重い汗がびっしょりと包み込んでいた。

「全員、絶対に物音を立てるな。引きつけるんだ」

大槻大尉が蚊の鳴くような声で制する。

だが、その混成部隊の緊迫の防衛線の中心で、全身を新しい包帯でガチガチに巻かれた黒金巌伍長は、ある「異変」に一人、静かに気づいていた。

(……なんてこった……)

包帯の奥で、巌は苦渋の形相を浮かべた。

原住民の禁忌の秘薬と呪術によって、これまで一切の「痛み」を感じなかったはずの不滅の肉体の奥底から、ジリジリと、焼火箸を突き立てられるような、凄まじい「皮膚と声帯の激痛」が、潮が満ちるように少しずつ、だが確実に湧き上がってきていることに気づいたのだ。炭化した皮膚が擦れ、肉が悲鳴を上げている。


その、巌の肉体のリミットが崩壊しかけた、まさにその時だった。

「――敵機ッッ!!! 艦載機の編隊だ!!!」

見張りの絶叫。全員が、泥壕の隙間からフォン半島の濁った空を、憎しみを込めて睨みつけた。

大槻大尉は、泥に汚れた九三式双眼鏡を大急ぎで目に当て、上空の朝靄を鋭く見据えた。

「……逆ガル翼……。米海軍の、F4Uコルセアの編隊だッ!!」

プロペラの凄まじい金属音を響かせ、獲物を狙う猛禽類のようにジャングルの真上を旋回する、米軍の最新鋭艦載機コルセア。

「前方には敵の重戦車、上空からは艦載機の爆撃……。挟み撃ちか……!」

大槻大尉の額から、大粒の汗がボタボタと泥の上へ滴り落ちた。陸海の残存兵たちが、完全に死の絶望に囚われかけた、その刹那。

完全軍装のミイラ男――黒金巌伍長が、九五式軍刀を杖代わりにのそりと立ち上がり、焼き潰れた喉から、痛みを堪えた掠れた言葉を驚くほど静かに響かせた。

「……大尉殿。自分が『囮(おとり)』になります。……自分が敵の注意を引きつけるので、その隙に、全員で後方へ退避してください……」

「な……何だとッ!?」

大槻大尉も、円匙を握っていた佐藤上等兵も、全員がその包帯男のあまりにも唐突で、あまりにも勇敢な言葉に、ポカンと口を開けて呆然とした。

巌はゆっくりと振り返り、毛布の傍らで怯えていた遠藤看護婦の顔を、包帯の隙間の冷たい、だけど下町育ちの優しい眼光で見つめた。

「……遠藤さん。原住民の……呪いが、いよいよ解けた様だ。全身が、めちゃくちゃ激痛がする……」

「伍長殿……! あなた、そんな身体で……!」

遠藤看護婦の目から、大粒の涙が堰(せき)を切ったように溢れ出し、泥に汚れた看護衣の胸元を濡らした。痛みを感じない「怪異」だったからこそ、おっぱい失言を放ち、生のネズミを食い、フリちんで爆走して右フックを喰らっていた、あの愛すべきドジな巌伍長。だが、その呪いの鎧が剥がれ落ちた今、彼はただの「全身大火傷を負った傷だらけの日本兵」に戻ろうとしていた。

巌は、激痛に襲われる身体をカチカチの陸軍の執念で直立不動に保ち、佐藤と大槻を見つめた。

「佐藤上等兵。……大槻大尉殿。……遠藤看護婦を、よろしく頼みます……」

「兄やん……! 嫌だ、兄やんを置いていけるか!!」佐藤が涙まみれで叫ぶ。

だが、豪軍のマチルダ戦車の無限軌道(キャタピラ)の地鳴りは、もう陣地の目と鼻の先、わずか100メートルの距離までじわじわと向かってきていた。これ以上躊躇(ちゅうちょ)すれば、F4Uコルセアの爆撃と共に、陣地は一瞬で肉片へと変わる。

「……では。……行ってきます。……遠藤さん、これまで不器用な俺に付き合ってくれて、本当に……ありがとう」

巌はそう言うと、大槻大尉が陣地の最奥に設置していた、海軍の対戦車兵器の元へと歩み寄った。

「……大尉殿。これ……頂きますよ……」

巌は、手のひらの皮膚が柄に融解して焼き付いた九五式軍刀を一度地面に突き刺すと、泥の中に置かれていた、直径30センチ・重量約10キロに及ぶ円盤型の鋼鉄の塊――「九三式戦車地雷(きゅうさんしきせんしゃじらい)」をおもむろに両手で掴んだ。そして、呪いが解けかける肉体の奥底に残された、最後の「不滅の馬鹿力」を振り絞り、その重い鉄塊をフンッと胸元へ抱え上げたのだ。

「黒金伍長……貴様……っ」

大槻大尉の男涙が、ついに第三種軍装の頬を伝って流れ落ちた。

エリートのプライドも、陸海の確執も、この名もなき陸軍伍長の凄まじい「一選抜上等兵の意地(武士道)」の前に、完全に崩れ去っていた。

大槻大尉は、泥まみれの白手袋を額に当て、ミイラ男に向けて人生で最も魂の込めた「挙手の礼」をピシッと放った。佐藤上等兵をはじめとする陸軍の兵士たちも、涙をボロボロと流しながら、愛銃の三八式歩兵銃を胸の前に突き出し、最大級の敬意を表す「捧げ銃(ささげつつ)」の姿勢を捧げた。

全身包帯の、不滅の包帯歩兵。黒金巌伍長の最後の任務――それは、敵の鋼鉄の怪物への、生身の「肉通肉薄攻撃」であった。

大槻大尉は、溢れる涙を拭おうともせず、喉が張り裂けんばかりの声で全軍へ叫んだ!

「……全軍、退避ッッ!!! 伍長の意思を無駄にするな!! 走れェェェェエエエーーーッ!!!」

「伍長殿ォォォォーーーーッッ!!!」

佐藤上等兵に引きずられるようにして、遠藤看護婦たちは泥壕の裏手、深いジャングルの奥へと命がけの撤退(転進)を開始した。

背後からは、九三式戦車地雷を抱えた巌が、激痛に身を焼き尽くされながらも、一歩も歩度を崩さぬカチカチの陸軍式の突撃歩法で、マチルダ戦車の鉄の巨体へと無音で突き進んでいく影が、朝靄の中に小さく消えていった。


◇

数分後。

ドォォォォォォォォォォォンカラーーーーーンッッッッ!!!!!!!

フィンシュハーフェンの山岳地帯を激しく揺るがす、九三式戦車地雷とマチルダの燃料タンクが引き起こした、凄まじい大爆発の轟音がジャングル一帯に轟き渡った。敵戦車の進撃を完全に叩き潰す、不滅の歩兵の、最後のド根性の一撃。

道なき密林を這うように歩きながら、遠藤看護婦はただただ、声を上げて涙を流し続けた。その横では、佐藤上等兵も、大槻大尉も、黙頭したまま拳を血が出るほどきつく握り締めていた。

振り返った彼らの視線の先。

熱帯の鬱蒼とした緑の天蓋の向こう、フィンシュハーフェンの果てしない空には、一人の不器用で、おっちょこちょいで、だけど誰よりも勇敢だった帝国陸軍兵士の魂のごとき「ドス黒い黒煙」が、いつまでも、いつまでも静かに漂い続けていた。


(『火炎放射器で焼かれた陸軍伍長、原住民の呪いでミイラ男(ドジ)になって最前線を生還する』―― 第一部・完)

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