プロローグ(前章)
昭和18年11月。東部ニューギニア・フォン半島の東端、フィンシュハーフェン。
熱帯の鬱蒼とした密林は、オーストラリア軍第9師団が投入したマチルダII歩兵戦車の無限軌道に蹂躙され、泥濘と硝煙が吹き荒れる地獄と化していた。
「速射砲が効かねえッ! 弾かれるぞ!」
前線兵士の絶決が響く。日本軍の九四式三十七粍砲が放った徹甲弾は、マチルダの55ミリにも及ぶ強固な前面装甲に火花を散らして弾かれ、その巨体はヤシの木のトーチカを紙細工のように粉砕しながら突き進んでくる。
その地獄の最前線で、陸軍第20師団・歩兵第80連隊所属の黒金巌伍長は、愛銃の三八式歩兵銃を抱えて泥の中に身を潜めていた。
巌は現役兵だ。軍紀にはカチカチに厳格で、服装の乱れも許さない模範的な帝国陸軍兵士――のはずだったが、彼は生まれつき手先が酷く不器用だった。教練で遊底を動かしては指を挟み、行軍中には何もない平地で派手に足をもつれさせる。
だが、そんな彼には、もう一つ異色な一面があった。兵の命を省みない理不尽な上官の命令は大嫌いだったが、前線で出会う現地の原住民(パプア人)たちとは、不器用ながらも飯盒の中の乾燥味噌や日用品を差し出して、実にこまめに「物々交換」の交易を行っていたのだ。
「伍長殿! また原住民と勝手な真似をしたら、上官に大目玉を喰らいますよ!」
そう言って、いつも巌の不器用な後始末をしながら支えていたのが、同郷・東京の下町出身の相棒である佐藤上等兵だった。二人は軍隊の上下関係を越え、軽妙な掛け合いで、この過酷なフォン半島を支え合ってきた。
しかし、戦況の崩壊は一瞬だった。
マチルダ戦車の後方から、米兵のM2火炎放射器のノズルが不気味に突き出される。シュルシュルという加圧された混合燃料の不気味な音が響く。
「引けっ! 退避しろ!」
巌は慌てて、一人用の即席陣地である「蛸壺」へと滑り込んだ。だが、ここでも彼の不器用さが仇となる。焦るあまり、背嚢の装具の金属製尾錠が蛸壺の縁の木の根に深く引っかかり、身体が完全に身動きの取れない状態で固定されてしまったのだ。
「あ、あれ……? 抜けない、佐藤、俺の背嚢が――」
もがく巌の頭上へ、迫ってきた米兵が冷酷に火炎放射器の銃口を突っ込んだ。
ドォォォォォォォンッ!!!!!
引き金が引かれた瞬間、密閉された蛸壺の空間へと、ゲル化油の赤い業火と数千度の熱風が容赦なく噴射された。逃げ場のない密閉された地獄。巌の衣服と皮膚は一瞬で炭化し、その肉を、そして叫び声を上げようとしたその声帯を、一瞬にして無残に焼き尽くした。
◇
数日後。後方に遺棄された、泥を掘っただけの臨時野戦病院。
衣服も階級章も焼失し、手に入る限りの粗末な包帯を全身にグルグルと巻き付けられた、物言わぬ「ミイラ男」が横たわっていた。黒金巌伍長だった。その右手には、激しい熱で手のひらの皮膚が融解し、柄に文字通り焼き付いて剥がれなくなった、下士官用の九五式軍刀が虚しく握られている。
「サラワセへの転進(撤退)が決まった。動けない重傷者は……置いていく」
非情な軍命。佐藤上等兵は「伍長殿を置いていけるか!」と涙ながらに叫んだが、無情にも他の兵士たちに羽交い締めにされ、壕の奥へと引き離されていった。
病院に残されたのは、重傷者を見捨てられずに一人残った、責任感の強い遠藤看護婦だけだった。
支給された白衣は度重なる泥水と血痕、そして赤痢の排泄物の処理で擦り切れ、元の国防色が分からないほど赤黒く汚れている。キニーネも塩酸ベルベリンも底を突き、ウジ虫の湧く傷口をただ竹のヘラで清拭することしかできない過酷な日々。壕内に立ち込める死臭と熱気の中で、彼女は自身の爪の間にこびりついた泥を落とす気力すらなく、乾ききった唇を噛み締めながら、静かに迫る死の足音を待っていた。
日本軍の本隊が去り、完全に静まり返った廃墟の病院。
遠藤看護婦が動けない重傷兵の傍らで息を潜めて怯える中、薄暗い壕の入り口に、足音もなく数人の影が現れた。それは、かつて巌がジャングルで親しく物々交換を繰り返していた、現地の原住民たちだった。
「ひっ……」
遠藤看護婦は恐怖のあまり喉を鳴らし、湿った泥の壁にへばりついた。パプア人の一人が山刀を手に、全身包帯に包まれた巌の姿を見つめている。だが、彼らの瞳にあったのは敵意ではなかった。彼らは「いつも良くしてくれたイワオを死なせるな」と呟くように、ジャングルの奥深くで採取した、怪しく発光する粘り気のある植物の「秘薬」を、巌の包帯の隙間から流し込んだ。
夜の密林に、現地の太古の呪術の詠唱が、静かに、低く壕内に響き渡る。呪術師の手が包帯をなぞるたび、壕内の空気が不気味に凍りついていくのを、遠藤看護婦はただガタガタと歯を震わせながら見つめるしかなかった。
死ぬことすら許されない、禁忌の呪い。
巌の魂は強制的にその焼けた肉体へと縫い付けられた。炭化したはずの心臓が、ドクン、と黒い生命力を宿して跳ね上がる。
ピチャ……、シィ……。
無音。
金属音すら立てず、熱帯の湿った泥を吸う包帯の微かな音だけを響かせて、全身包帯のミイラ男が、のそりと立ち上がった。
その右手は、驚異的な生命力で九五式軍刀をしっかりと握り直している。肉体がどれだけ削げ落ちようが、軍事行動を遂行するマシーンのように、無機質に、だが正確な陸軍の歩法で歩き出す黒金の巌。
遠藤看護婦が、恐怖と驚愕のあまり、言葉を失って壁にへばりつく。その目の前で、不気味な怪異が一体どんな恐ろしい呪詛を吐くのかと、全員が固意を呑んで見守るその瞬間――。
巌は、包帯の隙間から冷たい眼光を光らせ、焼き潰れた喉から、かすかに、ボソボソと掠れた不気味な声を絞り出した。
「……喉乾いた、腹減った、タバコ吸いてぇーよ。……佐藤上等兵……」
怖すぎる見た目と、中身はいつもの不器用な巌のままという、究極のギャップ。
不滅の包帯歩兵となった黒金巌伍長は、軍刀を杖代わりに無音で泥を突きながら、己を遺棄した陸軍と、すべてを焼いた米軍が対銑する、暗いジャングルの奥へと一歩を踏み出した。
(第1話へ続く)
第一話:気合いを入れて友軍を追うぞ!
「……喉乾いた、腹減った、タバコ吸いてぇーよ。……佐藤上等兵……」
全身を粗末な包帯で巻かれたミイラ男――黒金巌伍長が、焼き潰れた喉からかすかにボソボソと絞り出したその言葉に、泥の壕の隅でへばりついていた遠藤看護婦は、恐怖でガタガタと震わせていた身体の力を、ふっと抜いた。
「……え? 伍長さん……? あなた、生きているの……?」
衣服も階級章も炭化し、皮膚が焼き付いた九五式軍刀を右手に握り締めたまま、のそりと立ち上がった巌。その包帯の隙間から冷たい眼光が光る。
遠藤看護婦は、泥と血に汚れた看護衣の胸元を押さえ、乾ききった唇を動かして悲しい現実を告げた。
「……部隊は、移動しましたよ。動けない重傷者も、軍医殿も、みんな……あなたを置いて、サラワセの方へ転進(撤退)してしまいました」
本隊に見捨てられ、この泥の壕に遺棄されたという絶望。しかし、呪いによって不滅の肉体を得た巌は、包帯に包まれた顔をゆっくりと遠藤に向け、掠れた、だけどどこか実直でぶっきらぼうな声を絞り出した。
「……なら……俺と一緒に、追いかけよう……」
「え……?」
「置いていかれて、たまるか。現役兵の意地、見せてやる……」
巌はそう言うと、不器用な手付きで、誰もいなくなった野戦病院の泥床を這い回り始めた。撤退する部隊が慌てて遺棄していった、貴重な薬品の小瓶。そして、泥に半分埋もれていた、陸軍が昭和18年後半から前線に配備し始めた最新の九九式手榴弾をいくつか見つけ出した。九一式よりも少し小ぶりで、丸みのある平たい鋳鉄製の頭。巌はその九九式手榴弾を、ボロボロになった背嚢のポケットへと、不器用な指先を引っ掛けながら、一つずつ丁寧に詰め込んでいった。
サバイバルの準備を終え、巌は腰の昭5式水筒をひっつかみ、コルクの栓を抜いて逆さに振った。
だが、中からは一滴の水も落ちてこない。完全に空っぽだった。
フィンシュハーフェンの熱帯の強烈な湿気と蒸し暑さが、全身包帯の巌の肉体を容赦なく痛めつける。喉の渇きと、米粒一つもない極限の空腹。頭が朦朧とし、包帯の奥の脳味噌がジリジリと灼かれるような感覚の中で、巌のおっちょこちょいで不器用な本音が、焼き潰れた喉からボソッと漏れ出た。
「……遠藤さん……。おっぱい、吸いたいな……」
「「「…………」」」
一瞬、ジャングルの虫の鳴き声すらピタリと止まったかのような、壮絶な静寂が壕内を支配した。
遠藤看護婦は、自分が聞き間違いをしたのかと、目を点にして固まっていた。全身包帯の不気味な怪異として蘇り、九五式軍刀を手に「俺と一緒に追いかけよう」と男らしくタンカを切った陸軍伍長が、真顔(包帯だけど)で放った究極の失言。
次の瞬間。
パーーーーーンッ!!!!!
地下壕の丸太の天井が震えるほどの、凄まじく乾いた衝撃音が炸裂した。
泥と血に汚れた遠藤看護婦の、渾身の強烈なビンタが、巌の包帯の頬へ完璧な角度で叩き込まれたのだ。
「いった(痛、て)ぇえええええッッ!!!」
呪いによって米軍の銃弾すら弾くはずの不滅の肉体が、看護婦のガチの怒りの一撃によって、凄まじい衝撃と共に物理的に引き飛ばされた。巌は泥の上をズサーッと滑り、壕の支柱の丸太に頭を「ゴツン!」と派手にぶつけて止まった。
「何を不謹慎なことを言っているのですか、このエロ伍長!! 大真面目について行こうとした私の感動を返しなさい!!」
遠藤看護婦が顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
頭を抱えて泥の中で悶絶していた巌は、包帯の隙間から涙目を光らせながら、焼き潰れた喉を必死に震わせた。
「あ、あ、頭が、完全に、目が覚めた……! 悪かった、悪かったからもう殴るな遠藤さん! 包帯がズレる!」
巌は九五式軍刀を杖代わりに、フラフラと、だけどしっかりと泥の上に立ち上がった。
遠藤看護婦の強烈な制裁によって、朦朧としていた意識も、怪異としての底気味悪い空気も一瞬で吹き飛び、中身はいつもの不器用な黒金巌のド根性が、完全に100%チャージされていた。
巌は軍刀の鞘を握り直すと、壕の入り口の向こう、鬱蒼と生い茂るフィンシュハーフェンの暗いジャングルを見据えた。
「よし……! 気合い入れて、友軍を追うぞ‼️」
「はい! 遅れないでくださいね!」
遠藤看護婦がツンとそっぽを向きながらも、しっかりと巌の背中に付いて歩き出す。
おっぱい失言によるビンタで完全に結束した(?)凸凹な二人の逃避行。その先、フォン半島の深い密林の奥では、豪軍のマチルダ戦車に包囲され、陸軍への呪詛を吐いている海軍兵学校卒の超エリート・大槻海軍大尉と、必死に泥壕を掘りながら上官を支える同郷の佐藤上等兵の残存陣地が、二人の接近をまだ知らずに待ち受けていた。
(第二話へ続く)




