第十九話:嘔吐
「ムシキ、てめぇ……山に封印されたくせに、何でここにいやがる!?」
「ひゃは! 色々あってな。邪魔な鈴も取れて、せいせいしたわ。あとはこの縄だけだな」
ムシキは首に巻き付いた縄を、鬱陶しそうに引っ張っている。
おそらく、封輪と同じ機能を果たしているが、両足首にも縛られていた痕があり、解封できる者はそうはいないはずなのにと、セイランは冷や汗が流れた。
「動くなよ。俺っちの素早さは知ってるだろ? お前らじゃ即死だ。特にそこのチビ」
バツを指差したムシキは、舌なめずりをするように笑っている。セイランは頭が沸騰しそうになったが、なんとか抑えて両手に気を込めた。
「そこの女もだ。死にたいのか? 死なせたいのか?」
「くっ……!」
セイランは顔を歪め、ユウロンを見た。封輪を解く時間すら、与えられないだろう。せめて二人を守らなければならない。
「はぁっ!」
「──お、おい、小娘!」
ケイリンの結界術のように、ユウロンとバツの周りを白銀で覆った。ムシキは白けたような顔になり、その銀壁を蹴りつけた。
「はぁ……いらんことしやがって、死にたいらしいな。にしてもこれかてぇ。銀じゃねぇのか?」
ムシキは蹴り上げ、銀特有の鐘が鳴るような音を何度も響かせた。
普段なら高く澄んだ音に聞こえるのに、今は違う。
壊される前に、あの猿を壊さなければ。
セイランの心に広がっていく、どす黒い感情が両腕を支配した。表情は消え、セイランの眼光だけは鋭かった。
「去りなさい、ムシキとやら。でなければ……」
「おっ、やろうってか?ちんたらしてると、あいつら息が詰まっちま──おっと」
言い切る前に、セイランは踏み込んだ。間髪入れずに、殺意を込めて斬った。
しかし、その一閃はかすりもせず、ムシキは煽るように口の端を歪めて笑っている。
「今は何も持ってねぇから不利、とでも思ったか?」
そう言うや否や、ムシキの頭が目の前に伸びてきて、視界に火花が散った。
不意を突かれて飛びそうになる意識をなんとか留めたが、頭突きを受けたのだと理解する前に、横腹を薙ぐような蹴りが抉ってくる。
蹴り飛ばされた勢いで池の浅瀬まで転がっていき、冷たい水を全身に浴びて、セイランの体は凍りつきそうになった。
膝をついて立とうとするセイランを、ムシキは上から冷やかすように言った。
「なんか仕込んでるのか? そういう力があるとは聞いてたけど、面白いじゃん? それでもその無様を晒してんだけどな。ひゃはははは!」
蹴りが入る寸前、反射的に盾を形成した。
それでも、盾ごと吹き飛ばされて、衝撃を和らげたはずなのに、体を動かそうとすると痺れるような激痛が走る。
逆流するような吐き気を堪えて、セイランは剣をかまえた。
「げほっ、はぁ、はぁ……」
「力はあっても、経験が足りてねぇな。いくら寝起きの俺っちでも、お前じゃ相手にならねぇよ」
封印から目覚めて、まだあまり経っていないはず。それでもこの強さなら、なす術もなく殺されるかもしれない。
震えを誤魔化すように、セイランは剣を強く握りしめた。
「ひゃはっ、力入れすぎ!」
ムシキの姿を見失った瞬間、視界が傾いた。足を払われたのだ。
地面が近づいてきて、屈んでほくそ笑むムシキが目に映ると、かつてないほどに陰の気が膨らんでくる。
セイランは咄嗟に、腕輪に手をかけようとした。今は暴走してでも、やるしかない──。
「おっと、まずいまずい」
しかし、最後の頼みの綱も切れた。
足で踏みつけられて、土にまみれたセイランの腕は動かない。実力差は明白で、セイランは歯軋りすることしかできなかった。
「あーあ、だから言ったのに。ひゃはっ!」
ムシキは足を後ろに上げながら、冷笑した。
その足が体に見合わぬほど巨大に見えたかと思えば、鳩尾に蹴りが刺さり、鋭い痛みにセイランはえずいた。
「うぐっ……! おえっ……」
せっかくみんなでつくった食事が、苦みと酸っぱさとともにこぼれていく。
それが霞んでいる視界の端に映り、これなら見ることなく最期を迎えたかった。
──そう思うほどに、セイランの心は折れかけていた。
温かさを奪っていく冷たい涙が、池の水と混じって、頬に広がる。
セイランはせめて睨もうとしたが、前がよく見えずに何度も瞬きをした。
「もう終わっちまったか?まぁ、こんなもんか」
飽きたようにため息をつくムシキの、足首の痕がまたぼんやりと見える。しかし封印するにしても、気が足りそうにない。
「ぐっ……バツ、ユウロン……」
なんとか立とうとするセイランを、ムシキは右足で踏みにじってくる。このままでは二人が──。
セイランはかじかむ手で、ムシキの右足を掴んだ。この怒りや恐れも、生きていくためにある。
負の感情を制御しなければならないと、極まった陰の気に意識を集中させた。
「──転化」
「あん? この期に及んで何だ?」
「封!」
白い閃光が走ると、飛びのいたムシキが一回り縮んでいく。
銀でつくりだした即席の封輪だったが、なんとか成功したらしい。セイランは弱々しくも、笑みを浮かべた。
「くそっ、せっかく外れたのに。またかよ!」
陰を極めれば、陽となる。
今度は陰の気を陽の気に転化させて、釣り合わせたのだ。陰の気で暴走することがなかったおかげで、転化することができた。
「ありがとう、じいちゃん……」
しかし、まだ油断はできない。封じきるには、三つの封輪がいる。
それだけムシキが強いということだが、俊敏さは落ちているはず。
セイランは力を振り絞って、立ち上がった。封印できないのなら、狙うはあの伸びる首しかない。
動かしにくそうにしている右足を、セイランは意趣返しに払った。
そして、こけたムシキの首元に、剣を突きつける。
「その首、落としてやる」
「ひっ、ひょえ〜。封印じゃねぇのかよ!」
ムシキの左の足首を一瞥したセイランは、剣を握る手からわずかに力が抜け、眼光の鋭さが薄れた。
しかし、ハッとして、唇を結ぶ。殺さなければ、殺されるのだ。
負の連鎖だとわかっていても、迷っている暇はない。封印よりも確実だ。
目を大きく広げたセイランは、そう自分に言い聞かせ、ためらいの声を遮るように、剣を振り下ろした。
「──ねぇ、待ってくれない?」
思わず従いたくなるような、静かな声がした。
しかし、間に合わない。セイランの手には、斬った感触があった。
「危ない、危ない。よかったね、ムシキ」
セイランが斬ったのは、木だった。ムシキを守るように、さっきまではなかった大木が生えている。
森の奥から現れたのは、二十歳前後に見える女性だった。
透き通った緑の翡翠のような瞳で、藍色の長い髪が風でなびいている。
会ったことがないのに、惹きつけられるような蠱惑的な雰囲気を、セイランは感じた。
「どこに行ったのかと思えば、勝手に暴れて……セイランさん、だよね?ごめんなさい。しつけておくから、許してね」
有無を言わせない迫力があるような、子守歌のように落ち着くような、不思議な声だ。
セイランは、その場にへたり込んで、剣を落としていた。




