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*終章*

 聞こえるのは川の音。僕は埃っぽい緩い上り坂をゆっくりと進む。ずっと道先案内をしてくれていた黒脛巾のおじさんは、僕にも分かる道に出たと知るとさりげなく斜め後ろに下がった。坂を一歩進むごとに川の音は近づいて、大助と過ごした夏の日が蘇って来る。

 「あ……」

 坂を上がり切ったところで視界に広がった見慣れた景色に僕は足を止め、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。川岸を行き、覚えのある大きな石にそっと腰を下ろして空を見上げると、それはあの日のように青い。ぽっかりと浮かぶ白い雲さえあの日のようで、ともすれば、まるでその辺に大助がいるのではないかという錯覚を起こしてしまいそうになる。同時に、胸をせり上がって来る感情にも襲われる。

 「大助……」

 この九度山を出る前、生きろ、と僕は大助に言った。大助が生きることを僕は願った。幸村様も願った。けれど大助は大坂城と共に燃えた。それは一体どんな思いなんだと、いくら考えても僕には理解が出来ない。他に選べる道はあったはずなのに自らその道を選ぶ大助が馬鹿だと思う。僕と大助との考え方はどうしたって一本にはつながらないのだろうか、そう思うとますます馬鹿みたいで、悔しくて、哀しくて、虚しくて、腹が立って、怒鳴りつけたくなって、ぶっ飛ばしてやりたくなる。そしてひたすらに……泣きたくなる。

 川を往く水は、上流のどこかから湧いてはここへ流れ着き、前から引っ張られるのか後ろから押されるのか、一時たりともとどまることなく進んでいく。今見た流れは、見たその瞬間から過去になる。けれど途切れはしない。遥か昔からここには川があり、今と同じように誰かの前を通り過ぎて行ったのだろう。早い流れに乗り、緩い流れに乗り、岩にぶつかり、渦を作り、滝を落ち、命を育み、命を守り、人の愚かさも恨みも優しさも涙も、そこにあるあらゆるものを呑み込んで、ただ静かにここを川は流れていたのだろう。

 屋敷を飛び出した日、僕はここで膝を抱えてたっけ。あの時きっと僕は、幸村様が迎えに来てくれることを心のどこかで待っていた。早く自分を呼ぶ声が聞こえないかとそればかりを願っていたのではなかったか。そうやって大人の気を惹くことで、自分がここにいていいのだという証を求めていたのではなかったのか。

 幸村様も内記さんも僕のことを子ども子どもと言っていたけれど、確かに僕は子どもだったのだ。


 ……そこは、空白の時間を感じさせない姿で留まっていた。門をくぐると土の匂いさえ懐かしく、僕は庭へとつながる木戸に手をかけた。押しやるとギィーッと軋んだ音が静寂に響く。幸村様と馴染みのあった村人たちが手入れをしてくれていたのだろうか、屋敷の雨戸はきっちりと閉じられ、庭の草木もさほど荒れてはいない。まるで、もう帰ってくることのない主をそれでも待っているかのように。

 

 幸村様がよく見上げていた桃の木、それも変わらずそこに立っていた。幸村様は十年を遥かに過ぎた年月、この木が実をつけるたび、ここでこうして、この実が熟してくるのを見上げるのは幾度目であろうかと思いを巡らせていた。

 些か長くなりすぎてしもうた、そう言って。

 枝のひとつひとつに目をやれば、今もまた桃の木は実をつけていた。まだまだ熟すには時間の必要な実。

 『生きてこそじゃ。生きてこそ何かを為せるのじゃ』

 幸村様の繰り返した言葉が脳裏に浮かぶ。そして僕は思う。首にかけた六文銭はただの飾りになっていただとか、己は牙の抜けた虎に成り下がっていただとか、幸村様は自分のことをそう卑下したけれど、やはりそれは違っていたのだと。

 幸村様は毎年、この桃の木をここでこうして見上げながら、厳しい冬を越えて花を咲かせ、実をつけ、熟していくそれに自分を重ねていた。生きてさえいればまた槍を手に戦場を駆け、白日の下へ六文銭旗を翻すことが叶うと信じ、その日をここに立ってずっと思い描いていた。

 僕を標にして幸村様は九度山を下りたんじゃない。幸村様は己の中に標を失くしてはいなかった。ただ、ここでの穏やかな暮らししか知らない大助が、熟す前にもぎとられる実にならないようにと願っていただけなんだ。真田の男子ながら初陣も叶わず、満たされないまま成長した大助ではあったけれど、幸村様はその大助の気持ちを分かった上で、されど、と。

 幸村様も結局は、己の命を奪うことになる宿敵徳川と同じように、誰もが穏やかに暮らせるその日の来るのを願っていただけ……。

 その徳川は、夥しく流れた血の上に260年の泰平の世を築く。

 「あぁ……そうか……幸村様、分かりました……」


 『そなたの申すように、のちの世のことを未来、過ぎた世のことを過去、そう名をつけ、過去が積み重のうてそれを未来とするならば、未来は過去の積み重ねなのであろう?過去がある故にその未来なのじゃ。ならば、400年ののちの世にそなたが生まれ、その証を私に示したということこそが、私がやはりどうあってもここでこうしておったということなのじゃ』


 未来というものの礎は、あまりに哀しい過去で出来ているのだと僕はここへ来て知った。けれど、幸村様の最期は哀しいものだと僕が勝手に思い込んでいただけで実はそうではないのかもしれないということと同じように、それはきっと、哀しみだけで出来ているのではないんだ。温かさがあり、喜びがあり、つらさがあり、そして哀しみもあって、いろんな人のいろんな感情が礎となってひとつの標となる。山から流れ往く川が海へ出て再び空から降り注ぐように、それはつながっている。

 僕は手のひらを幹に触れ、ゆっくりと凭れかかって目を閉じた。

 


 「鷹弥」

 聞きなれた声が僕を呼ぶ。懐かしさに胸をいっぱいにしていると、それはもう一度。

 「鷹弥」

 桃の木に凭れかかっていた体を起こし、声のしたような気のする方へ顔を向けると、そこには見慣れた穏やかな笑み。

 「いかがした、鷹弥」

 「ゆ、き……むら、さ……ま!?」

 「如何にもそうじゃが?」

 それは幸村様。紛う方なき幸村様その人……としか思えない。目を見開いて固まった僕をおかしそうに笑っている。

 「どう、して……」

 わけが分からないといった顔で瞬きもなくただ自分を穴の開くほど見つめている僕から視線をずらした幸村様は、数歩進んで僕に並び、桃の木を見上げる。そして幹に手を触れ、言った。

 「今年もまた実をつけたのう」

 「え……?あ、はい」

 とりあえず返事をしてみるものの、思考がついて行かない。

 「そなた」

 幸村様が隣の僕を見て手を伸ばしてくる。その手は頭に触れ、少しばかり大きゅうなったか?と尋ねる。

 「え!?いえ……そんなこと……」

 ないと思う。幸村様と別れてから経過した時間はほんの少しだ。

 「左様か?何やら頼もしゅうなったようじゃがの」

 けれど、守られてばかりだった相手に頼もしくなったと言われて嬉しくなるのはどうしようもない。

 「……幸村様?」

 「いかがした」

 「お怪我はないのですか?」

 不思議だった。腕も足も大丈夫そうだし、どこかが痛むような素振りもない。

 「大事ない」

 幸村様は答えて笑う。僕は、でも、と続けかけたけれどそれはなぜか言うべきでないような気がしてやめ、別のことを口に出す。

 「幸村様……」

 「何じゃ」

 「大助と、内記さん……は」

 すると幸村様は小さく息を吐いてから答える。

 「あやつらにも寄るべきところはあるようでの」

 「寄るべきところ?」

 「大助は母の元へ行ったのであろう。内記は……妻女のところへかの。この幸村が寄るべきはここじゃと思うて私はここへ参った。ここにはそなたが戻って来ると思うておった故な。じゃが少しばかり長くなりすぎたようじゃ」

 時がない、と続けて幸村様は僕に体ごと向き直り、僕を見ては何度も頷く。

 「幸村様……?」

 「……そなたは」

 僕の左の頬に幸村様の右の手のひらが触れる。その冷たさにビクッとしたが、そういえば夕暮れが近づいて気温が下がって来たような気もする。

 「私に……この幸村に、真田幸村として生きることを思い出させてくれた。そなたがここへやって参らねば、真田幸村という男はここを吹き抜ける風にひっそりと消えたであろう。そなたのお陰じゃ。そなたのお陰で私は、真田幸村として最期を迎えることが出来た」

 ……今、おかしな言葉を聞いた。視線をあちこち彷徨わせて考えても、やはりそれはおかしいと思う。

 「最、期……?」

 しかし幸村様は黙って微笑むばかり。僕の頬に触れたままの幸村様の手のひらがあまりに冷たいと改めて思う。

 「ゆき、むら、さま?……幸、村、……さま……!?」

 ふっと、頬の冷たさが消えた。はっとして僕はその手に自分の手を重ねて捕えようとするが、それは僕の手の下に捕えられたにもかかわらず消えて行く。

 「あ……あ……」

 「鷹弥、空を舞え。鷹のごとく勇ましく、我が六文銭旗の翻る空を舞え。そうして400年の時を()き、二度とここへは戻って参るな。そなたは我が標であった。故にこの先は私がそなたの標となろう。400年の時を超え、私はそなたの……」

 幸村様の声はどんどん小さくなり、遠ざかる。同時に幸村様の姿も薄くなり、桃の木が透けてくる。僕はそれをどうにかここにつなぎ止めたくて、どうにでもそれを失いたくなくて、必死に手を伸ばす。

 「幸村様!幸村様!幸村様!幸村様!幸村様――ッ!!」

 桃の木がざわっと揺れ、僕の悲鳴が辺りに響く。

 「ゆ……き……」


 『そなたは今、確かに我が礎となった』


 幸村様は往ってしまった。本当に逝ってしまった。僕に伝えることをこの世での最後とし、消えた。

 がくんと膝から地面へと落ちた僕の涙は次から次へと途切れることなく溢れ、乾いた土を黒く変える。悲鳴にも似た声を上げて崩れた僕は、夕暮れの少し冷たい風が庭を抜けて行っても尚、そこで泣き続けた。



 時は江戸。ここは九度山、真田の屋敷。

 主はもう、いない。





 ――暖かい。

 そっと目を開ければ思いのほか眩しくて、僕はぎゅっと目を閉じる。片目ずつを開けて光に慣れ、何気なく辺りを見回せば、そこは、教室。

 「……っ!」

 息を呑んで、机に広げられた教科書に目をやる。それは記憶にあるままのページ。そして目に飛び込んでくる四文字。

 『真田幸村』

 僕はまた息を呑み、恐る恐るその文字に指を伸ばす。ゆっくり、そっと、指先でなぞれば、降り注ぐ陽射しにそれがほんのりと暖められていることを知る。

 ……ただのうたた寝?

 ただの……夢?

 もう一度僕はその四文字をなぞり、頭の中で「サナダユキムラ」と繰り返してから視線を窓の外へ向けた。そこには青い空が広がっていて、ぽっかり浮かぶ白い雲はひとつだけ。

 見たことがある。

 そう思った時、中庭の木が、風がひゅるりと吹いたことを僕に教えた。

 




 400年の昔。

 今と変わらぬ青い空。

 赤い旗の下に集った真田の兵たち。

 その中で誰より赤く、誰より雄々しく、誰より鋭かったその人こそ、真田幸村。

 穏やかな空気をまとい、柔らかく笑み、そっと僕を抱きしめた、その人こそ――

人質生活に蟄居生活。人生の大半をそうして過ごした真田幸村という人が歴史の表舞台に出るのはほんの一瞬です。よく伊達政宗について、あと10年早く生まれていれば天下が取れたか、という話が出ますが、やはり歴史は歴史以外の何ものでもないのではと思うのです。もしもを考えると面白いのも歴史ですが、もしもがないのも歴史の面白さではないかと。

その中で彼らが何を思っていたかを考えていたらこんな小説を書きたくなった、そんな次第です。

作中に登場する人物始め、史実については虚実ない交ぜとなっておりますことを改めてご了承下さい。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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