月光腸
――――暗闇が広がっていく。上下左右も曖昧な闇のなかに体が放り出された。……いや、現実じゃない。深く微睡んでいるんだ。夢のなかか、瞼の内側か。
脳の霧を振り払うように、理性によって曖昧ながら正気を取り戻していく。毅然として闇のなかを睨み据えると、うねうねと蠢き発光を繰り返す原始的な生物が視界に入った。
グレンはすぐに«蒼輝刀»を構えようとしたが、手は空を掴むだけだった。一瞬で血の気が引くほどの明晰夢。
――夢のなかで武器を一つとて持てちゃいなかった。
「そういうことをする異界道具か……!」
ぶにぶにとした腸そのものが体に絡みついていく。
逃げようにも、もがく脚は何も蹴ることもできず、踏ん張ることもできない。闇の中を漂うだけの肉体はすぐに捕らえられた。
鮮やかな碧の雷光が体を焼いて、粘液を帯びた不快な熱が首を、腕を、鳩尾の奥を締め付ける。
「ッぐ……あぁああ……!」
グレンは呻き、歯を軋ませながら目を見開いた。……何も見えない。映るのは先のない黒色と、グロテスクに蠢く発光生物だけだった。
わずかに電撃が休まると、どうしようもなく痙攣していた筋肉が弛緩した。歯の隙間からこぼれ出る煙。致死的な雷撃のはずだが。夢である以上、終わることはない。
「……問題ない。アズレアがてめえなんか……ソーセージにしてくれるさ」
一人心地に強がりをぼやいた。彼女がこれを殺したとして、起きれる保証はない。そうなれば碧色のこの街で、彼女は地下で一人か? ……考えたくはないな。
冷ややかな笑み。再び雷撃が全身を奔ると同時、抗い難く苦悶するほかなかった。そのうち、絡みついてた長い臓物の断面が歯もなにもなく手を呑み込んでいく。
«月光腸»の体液が皮膚を溶かしていく。それは筋肉そのものだ。呑まれた腕が軋みをあげる。ぐじゅぐじゅに腐食し、骨の内側が圧迫されていく。――耐えるほかない。アズレアが…………倒してくれるはずだ。
「……いつまで、だ」
滲む涙を拭うことはできなかった。霞む視界で闇の奥を見つめる。色はない。形もない。覗き込むほど、痛みのなかで疑念が過る。
――焦燥。«第六視臣»でさえ何も映し出すことはない。
暗い闇に見下され、雷撃が空気を弾くなか確かに響く水音は、臓物に腕を食まれ、皮膚と肉がちぎれていく音だ。……とんだ悪夢に魘されている。
朦朧と夢のなかで瞼を閉じていく。最中――、光を見た。
それは闇のなかにではない。誓約を破ることを戒める青色の火だ。死ぬなら、殺すぞと。そんな風に言われている気がした。
「……っっ、はは……!」
瞬間、みっともない痙攣は止まっていた。途方もない痛みに抱かれながらも、意地だけが苦痛を漏らすことを押し殺していた。
夢のなかでさえ、炎が見ている。青色は見ている。
「……俺は、」
何を言おうとしたのだろう。
痛み、痛み、痛み。全身を塗り潰す苦痛が先の言葉を失わせていく。眼球に散る雷光。角膜が痺れた。
声にならない絶叫をあげて、意識を投げ出したくなる。
だが、痛みがあるなら。……肉体は死ぬつもりはないらしい。なんて傲慢なやつだろう。嫌気が差した。これも嫉妬だ。醜いほどにめらめらと、心身を焼いて青色の火が業火へと変わる。
「見られて、ンなら……。情けないところは、……見せらんねえな…………」
格好つけなきゃいけなかった。もはや強迫観念だ。自分自身のことは肉体も素性も、エインがどんな意味を込めてこんな性格にしたのかもわからないが。
体に書き込まれた意思が突き動かす。……彼女からしたらとんだ反抗期だろう。敵対してる女に懐柔されたすえに、これだ。
「原生生物風情が――――、俺は……二人の色付きから求められてる漢だぞ。……、てめえごときが……ッッ、夢のなかで暴れたところで……どうにもなっちゃいねえよ……!!」
少女が語った見たこともない人物を真似るように、浮かべる傲慢不敵な笑み。«月光腸»が食んでいた腕を強引に、動かした。
――動かせた。胸の内側から溢れ出る青い灯火にちぎれた手を置くと腸は蠢き悶えながら青色に包まれていく。
そして、双眸に映る青色が文字へと変わっていく。«青き番犬の禁章»が誓約を刻んでいく。
『グレン・ディオウルフは寝る前に御主人たるアズレア・ファリナセナへキスをしなければならない』
「なんだ……このふざけた誓約は」
ぼやいたときには、火文字が肉体に刻まれた。身を焦がし、暗闇が晴れていく。ぼんやりと目を開くと、幼いような、大人びたような。どちらにせよ誇らしげな表情を向けるアズレアがいた。
「君は今、我の誓いを破ったのだよ。寝る前にキスをしなかったからな? ゆえに、貴様は罰を受けたんだ。一日は眠ることはできん」
「ッ……なんでもできるのか? その異界道具」
「なんでもではない。できることだけできるのだよ。それに、我が離れてしまえば君は一生眠れん。死ぬぞ」
「悪夢で死ぬよりはマシだな……。それで、どうにかなったのか…………」
よろめきながら体を起こすと、足元に大量の«月光腸»が散らばっていた。だが依然として宙には夥しく漂っている。アズレアが異界道具を行使する隙は、アレキサンダーのやつが時間を稼いでいたらしい。
「おはようのぽ! これで形勢逆転のぽね」
傘の一部が雷撃に撃たれ焦げ朽ちていた。
「んんー、それがだな。状況は悪化するばかりなのだよ。我としても不本意なのだが」
青く凛々しい瞳がエーテルタンクの奥を見据えた。視認できる人影。一人の便利屋が立っていた。唯一マシだったことと言えば、それがエインではないことだろう。
緋色だった双眸に意思の光はなく、ただ碧色に染められていた。迸るエーテルの雷光。長い銀の髪が揺れていた。華奢な手に握られたのは身の丈よりも長い、鋭利な刀だ。
「【剣威】……」
死んだ少女は電気信号に操られるまま切っ先を向けた。




