アンチ・テーゼ
重苦しき暗雲の天幕ひた隠す、漁業区の微かな街並み。手探りで進む切田くん達は、ここで一旦建物の影に隠れて『ガラス玉』を作ることにする。(投げちゃったのでナイヨ)しかも爆発。
未だ推定戦闘領域。見えない追手がいてもいなくとも、ここで憂いを断っておくのが良いだろう。――闇に紛れた夜間飛行を追うことなど、何者にも出来るものではない。
「…そうね。それが良いと思う」夜陰に潜む細らかな影が、コクリと頷く。
闇に沈めど不思議と目を引く、スラリとした光の輪郭。(…雰囲気、というか。見えないオーラが出ているみたいな…)細やかな修練の積み重なりが、なにげない動作や姿勢に現れ出ているのかもしれない。(…ニワカの僕には絶対無理…)
魔法の光に薄暮と化す建物裏。『飛ばないマジックボルト』を結晶化させながらも、慎重に後方の様子をうかがう。……何も見えない。見えるわけがない。
かといって、他に索敵手段など無い。暗闇からの奇襲があるという前提は心構えを強くしてはくれるが、神経をすり減らす。(それでも敵の射線は限定出来るし、…己の無警戒が作る空白からも、意識して遠ざかることが出来る…)
「じゃあ、行きましょう」
「おねがい」――『ガラス玉』を掲げた切田くんに対し、断固として前にしがみつく東堂さん。なんか熱い。「…あの」
「何?」
「いえ」
ツンとしている。確かに『猫目』を背負った時とは違い、背中に荷物があるので仕方がない。
「……仕方がない、とか思ってないよね?」耳元に、ねっとり囁き声。
「え」
「準備いいよ。飛んで」
「は、はい」柔らかい(強い)締め付けを感じながらも、暗夜行路をゆっくりと飛び立つ。
東堂さんは落ちないようにギュッと抱きついている。感触や体温は感じるし、彼女自体はスマートではあるのだが、なにせ荷物がたくさんあるので重い。(……フギギギ……)ガラス玉にぶら下がる両腕が、限界に悲鳴を上げている。重いなどとは口が裂けても言えない。意地と『精神力回復』を全力で廻し、肉体的な必死さを覆い隠す。
「…類くん?…大丈夫?」両腕で抱き片足をも絡める東堂さんが、怪訝そうに問い掛けてくる。
「…す、すみません!ドキドキしてしまっていて!」
「…してるね?」ドキドキのほとんどは無酸素運動のせいだ。苦しい。……細腕(豪腕)にギュウと力が籠もった。これで剥がれ落ちる心配はないだろうが、潰れたカエルにでもなった気分だ。グエー。(…おかしい。空中で抱き合うドキドキシチュエーションのはずなんですけど?)ドキドキするシチュエーションで合っている。問題ない。
繁華街や王城の灯火は遠く、周囲眼下は真っ暗だ。朧げな街の輪郭、月夜を隠す重き曇天。――じきに、雨が降り出すかもしれない。(このまま宵闇に紛れて、空路からこの街を脱出すれば良いんだろうけど…)
(…今は重量がキツイし、『精神力回復』や『生命力回復』では疲労を回復できない。…どうする?切田類)ふと、誰かの言葉が脳裏をかすめた。……『橋の下やスラムの木賃宿なんぞに泊まったら、身ぐるみ剥ぎに来た奴と問題を起こすだろう。お前たち』
河を伝って巡航し、手頃な橋の下へと潜り込む。
川幅の広い下流域、(汽水域、かな?)大きくて立派な橋が掛かっている。野営の屋根としては十分だろう。そしてこの経路(空路)ならば、身ぐるみ剥ぎに目星をつけられることもない。治安は大事だ。
ゆっくりと河原に着地すると、東堂さんが躊躇せずスイと離れてしまった。……周囲の確認をしている。切田くんはこっそり息を整えつつも、ちょっと寂しい。
「『弱くて飛ばないマジックボルト』」
指をペチンと鳴らす。豆電球ほどの心許ない光が蛍の様に舞い上がり、ぼんやりと周囲を照らし出した。――丸石だらけの河原縁。草むらが土塁を覆って堤防を作っている。街の治水はしっかりしているようだ。ここで一晩明かす事は可能だろう。
増水の危険はあれど、水も開けた場所もある。(…釣具がほしいな…)野営にはうってつけの様にも見えるが、先客は見当たらない。(ダンボール小屋みたいな施設は無し…)極めて治安が良いか、その逆なのだろう。
藻や水草の生えた、僅かにゲオスミン臭を感じる水面。(都市部下流域の水なんて、衛生的にろくでもないんだろうけど…)ただでさえ大都市の河川である。上流にも、人の営みや生態系があるはずだ。……幸いそこまで逼迫していない。飲料水にするのはやめておいたほうが良いだろう。
「危険な兆候は無さそうね」見回りを終えた東堂さんが寄り添ってくる。近い。「…そうね。類くんの矢避けの魔法は、夜間飛行の冷たい風も防いでくれたのだし」
「きっと、テントの代わりもしてくれるのでしょう?だったら野営は、ここで十分」
言われてみれば今回の飛行時、身体を凍えさせようとする相対的な強風を感じなかった。【ミサイルプロテクション】が風防となってくれたのだろう。――『精神力回復』による魔力回復は、かなりの水準だ。回復量が魔力消費を超えているし、維持に集中が必要な魔法でもない。ならば確かにテントの代わりになって、夜風からふたりの体温を守ってくれるはずだ。
「だったら、地面に奪われる体温の側を気にしましょう」そう言い、荷物を広げ始める。……彼女の背負い袋はパンパンだ。邪魔な金目のもの、食料袋などを引っ張り出して、奥に詰め込んだ防水布や毛布を取り出す。「類くんのも出して」
「はい」(…フギギギ…)無理に引っ張り出した防水布や毛布を渡すと、彼女は二重に敷き始めた。テキパキしている。(…無駄のない動きというのは、それだけで見入っちゃうな…)
……何も出来ずにただ眺めるだけの切田くんは、なんだか野営というよりも和気藹々とした河原キャンプの気分になってくる。(…ヤベ)皆が陽気に忙しく立ち回る中、自分だけがポツンと身の置きどころのない河原キャンプだ。とてもつらい。(…いけない。僕もなにか手伝わねば)「僕は食器を用意します」
「…え?…ええ。おねがい」不思議そうに首をひねったが、気を取り直して食料袋から缶詰を取り出し、いろいろな角度で眺めて、また首をひねる。不思議。
切田くんはスカスカになった背負い袋に手を突っ込んだ。ズボ。(…何のことはない。『マジックボルト』の結晶化を成形して、食器を作り出せばいい)光が漏れないよう蓋をして、『スキル』の力を凝縮させる。――結晶化。延伸形成。
にゅっと手品みたいに取り出したるは、一本の透明な棒だ。
「『マジックはし』です」
「……マジックはし」東堂さんはオウム返しをする。
正確な円柱を模った細長い棒だ。ちゃんと箸としては使えそうだが、食器というより工業用マテリアルである。
「……食器ね?」
「食器ですとも」
「……そうかも」
怪訝ながらも興味を持った彼女は、缶詰を両手に掴んだまま毛布に座り込み、隣をポスポスポスと叩く。
「はい」素直に腰掛ける。くっつかないよう遠慮したつもりだったが、向こうから寄ってきたので超近い。それに期待する顔でめっちゃ見られている。(『なにか面白いことやって!』の視線…!?)緊張する。(…無理ですぅ…)ボケスレイヤー地獄だ。
合計四本の棒状マテリアルをにゅにゅっと用意してみせ、そして、次の食器を生成する。
「それと、『ガラスの皿』」
「スレートプレートね」
「…?」(スレ…なんて?)……ちょっとよくわからなかったので、切田くんは黙ってうなずいておいた。一見クールだ。
丸盆状の薄い板だ。出来れば皿の凹凸をつけたかったが、残念ながら平面である。ちゃんと皿として使えそうだが、汁物には対応していない。(…なんだか【シールド】の魔法に似ているな。咄嗟に出せれば強いんだろうけど…)思い出すのはプリーチャーの割れる防壁。生成スピードに差は有るが、ひょっとしたら原理は同じなのかもしれない。
東堂さんは缶詰をひとりきり観察した後、縁をつまんでメリリと開く。……きっとプルタブがあったのだろう。(…現代的だな〜)そして中身を見せてくれる。「魚の水煮ね」
茹でた魚の身がみっちりつまっている。白く濁った汁は加工時に煮沸したものだろう。缶詰自体も非常に大きく、トマト缶より一回り大きいアメリカンサイズだ。とても食いでがありそうだ。
スンスンと匂いを嗅ぎ、東堂さんが言う。「塩を取って」「はい」初回攻撃時にあえなくブロックされ、出番のなかった塩の小瓶が、満を持して日の目を見る時が来た。おめでとう塩の小瓶。……名誉挽回とばかりに魚缶へと襲いかかる。ドーンドーン。ワーワー。
石を敷き詰め平たくした場所に缶を置き、【ヒート・ウェポン】で加熱する。もはや武器でも何でもないが、出来てしまったものは仕方がない。
煮立った所にチーズの欠片が放り込まれる。きっと、今朝食べたベーコンピザパンの様に、上部にチーズの層が出来上がってピザ状になるに違いない。ピザ的なチーズはかっこいいチーズだ。
……みるみるうちにチーズの欠片は小さくなって、溶けて消えてしまった。切田くんはなんだかしょんぼりする。
平皿の上に魚を取り分け、食料袋から出したバゲットを『回復』させて割り、添える。フレッパーズ風キャンプ飯の完成だ。
東堂さんが上品に手を合わせ、切田くんはさっそく箸をつけながら言う。
「いただきます」
「いただきま」
「帽子」
覆面を外し、バゲットに魚を乗せてかぶりついてみる。(…美味いな。ちゃんと食える。異世界の缶詰も侮れない…)「意外においしいですね。これ」「そうね。うん、ちゃんと美味しい」
ニシンのような独特の風味を持った白身魚だ。適度に塩味のある熱々の煮魚に、チーズの脂分と風味が効いている。臭み消しにもなっているのだろう。――ご飯が欲しいが、意外とパンにも良く合う。なかなか充実したキャンプ飯となった。
未だ熱を発する缶から煮魚をすくい上げながら、切田くんは思う。(これで、バゲットを全て食べきってしまったな。今日中に手頃な主食を手に入れないと。…ラノベでよくある保存用堅焼きパンとか、船乗りが食べる地獄のビスケットみたいなものが欲しい)歯が折れたり蛆が湧いたり。それでいいのだろうか。
缶詰のある世界ならば、保存食も充実しているに違いない。(MREとか無いものかな?)『マジックボルト』を使えば魚や鳥、獣も狩れはするだろうが、切田くんたちは捌き方もろくに知らない素人なのだ。(魚ぐらいかな…)夜が明けたら加工品を買い込むのが良いだろう。
ふたりが現在までに通ってきた経路だが、――王立研究所のある西部郊外、そこから南回りでグラシスの港湾地区へと向かい、海沿いに東部の漁業区を通り抜けて、……現在はやや北寄り、海へと流れ込む大型河川の河口付近に留まっている。中央の王城を大きく迂回するルートだ。『敵』は王城を中心に活動しているはず。脱出経路はこのまま遠ざかる、北側へと抜けるルートが良いだろう。
河の上流には、遠く山地が広がっていたはずだ。人目を忍んで険しい地形を踏破せずとも、今日のように夜間飛行で空域を突破すれば、人目はばからず脱出するのは容易である。(…持ち味が生きたな…)
山間部は野営に厳しい環境なのだろうが、テント代わりになる【ミサイルプロテクション】、さらに東堂さんの【プロテクション】は虫よけにもなる。キャンプギア魔法で野営力の強化は進んでいる。問題ない。
眼前に広がる非飲料水の代わりに、水袋からワのつく飲み物を飲む。(…渋くて酸っぱい。…顔がしわしわするぅ…)相変わらずの味だ。(美味すぎると飲んじゃいますからね)明日はこれの補給も必要だろう。
◇
食事を終えて、人心地がつく。切田くんは一旦陣地から追い出されてしまう。――毛布を二重に大きく敷き直し、端に寝そべった彼女は、……じっと見つめて、誘うように両手を広げた。
「……ん。来て」
(…あわわわわわわ…)なんだか艶の有る仕草だ。もちろん行くし、行くしかないが、急にそんなことを言われてもあたふたしてしまう。
変に慌てる挙動を眺め、『聖女』は言い含めるように続ける。「状況がそうしろと言っているの。野営に一番必要なのは体温を保つことでしょう」少しのため息。「…あのね、類くん。いくら私だって、この状況でなにかしようだなんて思っていないから。類くんにとっては残念かもしれないけれど」
「残念です」残念である。切田くんは落胆した。
口をつぐんだ東堂さんが、頬を染めて眉を釣りあげる。
「…慌てるのか口説くのか、どっちかにして」
口説いたつもりなどなかったが、余計なことを言うべきではないだろう。――両腕を広げたまま、透明な声が語りかけてくる。
「今はとにかく、冷えて体を壊さないこと。『生命力回復』で傷は治せても、病気や消耗を治す力があるとは言い切れない。……類くん。状況も私も、これが良いって言っているの」
「……腕が疲れるから早くして」急かされてしまった。「はい」覚悟を決めておずおずと座り込み、……そして、遠慮がちに倒れ込んでみる。
すると、彼女の片腕の上、「…フフ…」満足そうにグイグイと(……んんー?)抱き枕みたいに引き寄せられてしまう。
(…あったかい…)ふたりとも、厚く着込んでもこもこしている。奥の体温は感じるし、もちろん気分は良いのだが、とにかく何だか緊張する。――ギュウと締め付ける圧力。服越しのやわらかな箇所が、密着を通してはっきりと主張している。
間近にて覗き込む、少し年上の美少女。周囲全てを吸い込む引力を持った、望まぬ傾国美貌の主。――長い睫毛の陰に潜む、親密な視線。
固まる彼の首元に、顔を近づけてスンスンとする。「…少し、汗臭いね」
グサッ。「…す、すみま」「?いいけど」やんわりと切られる。……心なしか、以前より濃く感じる良い香り。そこには汗の気配も強いが、そんなもの男の情欲を掻き立てるだけである。(…これ以上はダメ、ダメッ…!)ただでさえ『スキル』で無理に抑え込んでいるのだ。切田くんの『精神力回復』が、ギシギシと軋みを上げている。
彼女は静かに目を閉じ、朗々と詠唱を始めた。
「『世にあまねく聖なるものよ、淀みを払う清浄さよ』」
「『ここに清らかなる風となり、水となり、光となり、力となりて満ち溢れ、我等に積もりし穢れを払う、永遠にたゆとう廻りとなれ』。【ピュリフィケーション・サンクチュアリ】」
穏やかな風が巻き起こり、澄んだ空気が力場内を埋め尽くした。美しくも細やかな光が、スノードームみたいに辺りに満ちて、二人の身体を労る様にゆったりと巡る。(……綺麗だな……)荷物や体を通り抜けながら、光の粒子は静やかに消えていく。
スンスンと顔を近づけた東堂さんが、ジトッとした目で微笑んだ。「ほら、良い匂い」
切田くんは恥じ入って、(あなたのほうが良い匂いですよ!)と逆ギレしたくなった。しかしながら、彼女の纏う空気、……真剣さと緊張、触れ合う距離でじっと覗き込む、流麗で高い印象値を持つ美少女の放つ、――高い熱が入り混じったある種の予感に、切田くんは竦む。
目を逸らせない雰囲気の中、彼女は言った。
「類くん。キスしたことある?」
(……ぐうっ…!?)予感は預言へと姿を変える。これから確実に起こるであろう出来事への期待と後ろめたさに、思わずしどろもどろになった。「あ、ありませんけど」声がうわずる。
「私もない」接触距離で覗き込み、東堂さんはこともなげに言った。「じゃあ、しましょう」
「え」
「キスをしましょう」神託の如き宣告に、今、預言は成就されようとしている。切田くんの脳内は、とにかく真っ白になってぐるぐる回る。まるでバットを額に当てて三拾回転だ。
「…あの、鋼さん…」裏返って言い淀む様子に、……いつかの台本を読み上げる様な、淡々とした口調が問いかける。
「変なことではないでしょう?今までの道筋の、証明としてのキス。…嫌?」
「嫌なわけないですよ。でも…」「待って」煮えきらない彼の機先を制し、言い募った。「言いたいこと、何となくわかるよ。…でもね、類くん」
「それ、どうでもいい。そんなのはどうでも良いことなの」
揺るがぬ断言に、(……そ、そんなことは)細々と反論する。「…どうでも良くはありませんよ。鋼さんの今の気持ちには、間違いなく『スキル』の力が働いているはずです。インチキ要素です」
「もっと名前を呼んで」「…うぇ?…」突然の内角球。仰け反りそう。「は、鋼さん?」目の前の綺麗な造形が、ニマァ…となる。心の中がシェイクされる。(…炭酸抜きコーラになるぅ…)
「…そ、そういうの、鋼さんは嫌じゃないんですか?」切田くんの持つ『精神力回復』は、恒常の力となって今も彼女の中へと流れ込んでいる。……頭の回らぬ咄嗟のことで、ずるい聞き方になってしまった。唇を噛む。
歌い上げる様な、透明な声が答えた。「悪意や欲望ではないんでしょう?類くんはずっと、私を助けてくれている。そうしようとしてくれている」
「ちゃんとわかるよ?……他の誰にも伝わらなくても、……私にだけは、ちゃんと伝わってる」
「――だからそれは、ただの切っ掛け」
彼女は、真剣な瞳で、言い含めるように続ける。
「あれからずっと、きみと私のよすがは紡がれているの。…だからこれは、紡がれた糸が膨らんだだけのこと…」
ふたりの顔が、徐々に近づく。「……つまり、『ガタガタうるさい』」「え、すみま」「……フフ……」熱を持って覗き込む、そこにいるだけで人を緊張させる流麗なる美貌が、今、甘苦しい欲を含んで、自身と深く触れ合おうとしている。
(……)切田くんは硬直したまま、なすがままに、ほんの少しだけ唇を開いた。
額がコツンと当たった。
照れくさそうに彼女ははにかみ、しどろもどろに言う。「あのね、その、…類くん。こういうの、ほんとはね?」
「……その、キスだとか、男性とのこういった事。……以前は、良い事だなんてとても思えなかったの。……『気持ちが悪い』って……」しおらしき懺悔の告白。切田くんはキス的な行為に幻想のあるほうだったので、黙って聞く。
「それにね、こうも思ってた。本当に頼れる人なんていない。だから私は、ひとりで良いって」
「……でもね。私、知っちゃった……」額が離れ、唇が近づく。
ふたりの鼓動が高まる。
「教えてくれたのは、類くんだよ」
あっけなく圧しつけられる、柔らかくてしっとりした感触。素肌の感触とはまた違う、わずかに開いた隙間より感じる吐息。……ほんの少しの、アルコールの臭い。
もう一度、離れた唇が圧しつけられる。――下唇を啄まれた。
軽く引っ張られ、離れる。……上気した顔が、そのまま間近に留まっている。
熱に浮かされた彼女は、上ずった声で呟いた。
「……許し合ってる感じがする」
『嘘つき』
――刹那の思考が牢獄の如く取り囲み、頭の中が真っ白に感光する。ストロボライトの焼き付き越しに、閃光パルスが瞬いて、スライドショーが物凄い勢いで加速する。……廻る。廻る。
「嘘をつくなよ、切田類」
『みんな嘘ばっかり!』
「ニセモノが」
『インチキをしたな』
「ビビリのくせに」
『調子に乗るなよガキが』
「良いわけ無いだろ」
『釣り合ってないよ』
「ご都合主義」
『また、騙したのか』
「催眠チートが」
『見ろぉっ!このザマを!』
「もう、引き返せない」
『ずっと苦しむことになるわ』
「…類くん?」
……怪訝そうな、臆した様な。心配そうな声。――『精神力回復』が、嫌な軋みを上げている。
切田くんは、歯車で作られた機械のようにぎくしゃくと動き、目の前の人影を抱きしめた。
「…あ…」陶然と、その声の甘さに恥じ入って、彼女は真っ赤になってうつむく。そして穏やかな顔で、嬉しそうに微笑んだ。
……心が冷たく、固くなっているのが分かる。
ゲシュタルト崩壊を起こした様に、光景や行為が意味を失っている。
安心して拘束を緩めた東堂さんが、硬化した胸をゆっくりとさする。「謝らないといけないことが、ひとつあるの。聞いてくれる?」
深刻な気配はない。切田くんは返答する機械となって、気軽な体で答える。「なんです?」
「憶えてる?私があの子と言い争ったとき。黒衣の勇者から逃げてきて、大広間で」(『猫目』さんとバチバチにやりあったときの話?)
「……『生命力回復』の力を、当てにしないでって言ったこと。……信じることの出来ないものに、必死に祈らなくてはいけないからって」
(言った。確かにそう言っていた。……ごもっともな話だ。東堂さんの『生命力回復』は、そこにあるだけで心強いんだから。頼りすぎて負担をかけないようにしないとな)
「あれ、嘘」
(……んぇ?)切田くんは困惑した。(……どういう意味?)固まった意識がねじねじする。(ツイスト意識だ!)空気を読まずに突っ込みたい。……突然の告解。言葉の意味が、まるで脳内に入ってこない。
抱き合ったままの、腕の中の彼女は動かない。――触れているのに、触れてはいけない。そんな畏れを伴った空気が、……腕の中にある温度が、恭しくも高価な人形であるかの様に錯覚させる。
余韻を掻き消す、奇妙で不吉な雰囲気。毛布を通してなお伝わる、冷えきった地面の感触と温度。
「…何ですって?」
「出来て当然だって思ってる。『私には出来る』って信じているし、類くんに頼りにして欲しいとも思ってる」滔々と歌う彼女は、重ねておかしなことを言い出した。「――それに、類くんが喜ぶかと思って」
(…弱音を吐いた事が?)「…鋼さんが僕に、弱々しい所を見せることがですか?」
「いいえ」重みが離れ、じっと、覗き込まれる。……深淵の双眸。曇天の橋の下、虚ろを宿して艶やかに笑う、――月蝕みたいに空虚な、透明な美貌。
「……そんな嘘をついて笑う、私を見て」
「ずっと見てるよ?切田類くん」
「類くんは、私のそういう、ちょっと、黒いところが好き」
――躰が強く絡みついた。艷やかで、しっとりとした唇が、――地を這う蛇の舌みたいに、耳の穴に直接囁きかけてくる。
「…私も好き…」
……囁きが、鼓膜を通って脳幹を揺らす。
「私が嘘の猫を被っても」
「……あなただけには、そっと、教えてあげるね?」
顔を上げて、じっとりと笑いかけられる。「私を選んでくれたこと、後悔なんてさせないから」
「おやすみ、類くん」
「…え、ええ。おやすみ、鋼さん」切田くんもねじねじしたまま、固く、笑い返した。
二人の毛布が折りたたまれ、寝袋状になる。
より深く、グイと抱き寄せられて、……もぞもぞと、収まりの良い位置を探っている。
――彼女の固く、深い吐息は、しばらくすると、静かで浅い寝息へと変わった。
切田くんは身を固くしたまま、ふたりを取り巻く夜の向こうをじっと見つめていた。――体中が酷く混乱している。…ぐるぐる、…ぐるぐると、意識が回っている。
まるで、異世界に迷い込んでしまったみたいだった。
(……ここは、どこだ……?)
やがて、答えのなさに辟易し、『弱くて飛ばないマジックボルト』を消滅させて、……暗闇の中。すべてを振り払うように目をつぶった。
遠くで白いフクロウが、強く鋭い羽音を立て、飛んだ。