*かべのなかにいる*
荒々しくもお洒落な丸窓が目を引く、小粋な黒樽鎧の転がる境界部屋。(…飾っておけないかな。一式立たせて…)やめなさい。2名もの『スキルホルダー』が無惨にも屠殺されしスローターハウスを出立して、迷路側の下水道を遡る。(ミキサー兵器は何だか怖いので放置)
道順は、最後尾の『猫目』に任せている。憶えてもいる様だが、魔法の地図『マジックマップ・オブ・クレアボヤンス』も確認している様だ。『自信』や『信頼』となどいった甘言でヒューマンエラーを招かぬ様、安全を律する道具はどんどん使うべきだろう。
往路の汚名返上「…ホントに平気ぃ〜?」(…うっさいデース…)「やらせてもらいますよ」「……へーへー」とばかりに先頭を行く。――煌々と輝く照明の先、大鼠が慌てて踵を返すのが見える。
(……賢明だな。僕よりずっと……)何故か、胸がチクリとする。間違い続けている。踏み込みすぎている。(……いや、)留まるよりマシだ。破滅に向かい続けるのだとしても。
頭上の照明球は、従来よりも更に光量を増した『飛ばないマジックミサイル』。そのパワーに脅威を感じたのか、はたまた。
「キルタ、眩しい」
「すみません」
「…眩しすぎるわ、類くん…」
「すみません」
後ろの二人もチベットスナギツネ目になったり手を翳したりしている。鼠も単に、眩しいのが嫌だっただけかもしれない。
中継の伝声管部屋を抜け、本来の下水道へと戻る。
徐々に悪くなる足場。満ち潮か、引き潮か。逆流する海水が汚水と入り混じり、管理通路を浸し始めている。
辟易しながらジャブジャブ進むと、『猫目』が眼帯をつまみ、天井を眺めた。
「上の落とし蓋、つっかえ棒で塞がれてるね。…アレで一応閉じ込めたつもりなんじゃない?」うんざり口調。
「…待ち伏せはどうです?」
「いない。逃げ帰っちゃったみたい。ダサ」
タラップの先、閂で固定されし落とし蓋。『迷宮』を封じる金属隔壁さえも破った相手が、この程度の封印で止められるはずも無い。(…焦りや衆愚のバイアスで、頭スカスカになったのか。…それとも、ただの嫌がらせかな…)
スイと指を振ると『飛ばないマジックミサイル』が急発進し、閂ごと落とし蓋を突き破った。ポーンと天高く、蓋が舞った。
見上げた外の様子は、すっかり夜だ。――曇天。
タラップを伝い、地上に出る。昏い雲の僅かな月明かりに浮かぶ、加工場の輪郭。微かに遠い、破楽戸酒場のおぼろげな影。
(…誰もいない…?)バヨネットの酒場は真っ暗だ。
ならず者たちは、完璧にとんずら決め込んだ様だ。酒場には一切の気配もなく、一片の光源さえ見あたらない。『メイズ・フォレスト』とイェップ=ヤップを倒した切田くん達に対し、彼らは”極めて高い脅威”を抱いている。(…そりゃ、そうでしょうよ…)
(装甲自慢の重戦車が、トップアタック。誘導兵器に搭乗ハッチを抜かれて沈んだんだ。…デサントは、戦線を下げるしかない…)
とはいえ暗闇の中、敵がこちらを伺っている可能性は残されている。今は明かりをつけるべきではないだろう。
歪んだ落とし蓋を掴み、下水孔へと載せておく。(…フギギギ…)とても重い。
「さて、ここからは一緒に居ると面倒そうだね」空々しく、『猫目』が宣う。「…それともキルタ。アタシと一緒に、婆ちゃんの居そうな所まで着いていきたい?」
(『猫目』さんははっきりと、僕らと別れたがっている)否定の気配。内心は、既に決別しているのだろう。
そうあらずとも正しい判断と態度だ。敵対した組織にどの面下げて顔を出すのか。(仲良し面?)無駄な戦闘が増えるだけだ。(…ならば、引き止めたり食い下がるべきではないか…)
「やめておきます」
「だよね」即答し、口元だけでニヤリと笑った。「落ち着いたらまた会おうよ。いつになるかはわかんないけど。…『聖女さま』もね」
「その時はよろしくね〜。アタシは相手に尽くすほうだし、実際役に立つと思うよ?」
(リップだな)別れ際の社交辞令。(…社交だね、切田くん…)具体的な言い回しを避けるのも、お断りの定番だ。(…これでもう、『猫目』さんと会うこともないだろう…)
出会う機会があった場合、その時は、おたがい敵同士である可能性が高い。
ガバナは『スキルホルダー』との直接戦闘を嫌がっている。よって、切田くん達に差し向けられる刺客は、暗殺や奇襲、搦め手によって、事をなそうとするだろう。
なれば『猫目』を刺客に立て、『デスレイ』や仲良し暗殺など。仕掛けてくる可能性は十二分にある。
やれと言われれば『猫目』はやらざるを得ない。外部に抑止力を持たぬ組織など、いつの世も卑劣に堕ちるが当然。(それが、普通の人たちですからね…)積極的に卑怯な手管を使ってくる事だろう。(…腐敗、ではあるんだろうけど。ほっときゃ腐るのは当たり前だよな)自然の摂理だ。
ならば、このまま彼女に強力な迷宮装備を渡したままでは、『危険』ということにもなる。(……いや、)即座に意見を翻す。(…取り上げるべきじゃない…)
(『猫目』さんが組織を裏切っていない事を示す足しになるはずだ。…黒衣の勇者が選んだ決戦武装。極めて強力なものだし、功績としては十分だろう…)
切田くんの眼前には、現実の分厚い暗闇が横たわっている。(結局のところ、『猫目』さんには帰れる場所がある。たとえそれが、ろくでもない場所だとしても)
(飢えと乾きに苦しみ、獣の襲撃に怯えて眠る。そんな寄る辺のない流浪人になるよりは、ずっとましなはず……)力なき自由など、生存さえ許されない。考え込む少年をチラと一瞥し、返事を待たずに『猫目』は言った。
「じゃあね〜。ふたりとも〜」抜身の刀をフリフリ振って、振り向くことなく夜の闇に消えた。
背を見送る東堂さんが、……自身だけに聞こえる声で、ボソリと呟く。
「……聞き分けのない子」
さて、のっけからの目的だった『迷宮』探索も一段落が着いた。それを踏まえて切田くんは、これからの指針、どうするかの解答を導き出す。
「この街を脱出しましょう。鋼さん」
「……切田くん……」虚を突かれ、振り向く黒影。暗夜の曇天にさえ凛と立つ、僅かな灯りに浮かぶ、細身の輪郭。
落ち着いた論調で続ける。「僕らはまだ、僕らを取り囲む牢獄の壁を破ってはいません」
「『迷宮』探索がこうなってしまった以上、死中の活に拘るのは危険です」
「今は、強化よりも退避を優先しましょう。一度、相手の手中から完全に脱するべきです」
姿の見えない膨大なる敵。国の手配が掛かり、巨大な裏組織とも敵対。射程内に居座っての二正面作戦が始まろうとしている。(…無理デース…)索敵も碌に回せない現状、流石にここらが潮時だろう。
安全な場所まで退避して、その後のことはまた、落ち着いてから決めればいい。……戦うにしても、忘れたふりをするにしても。
たおやかな影が、考え深げに覗き込む。
「もういいの?」
(…嫌さ。良くない。怒りや恨みが消えるはずも無い。…だけど、引っ張られすぎれば判断が鈍る…)
(敵の攻撃より逃れれば。…不安や警戒心、そういったストレス障害を排除できる。…もっと、冷静な判断が出来るようになるはず…)はっきりと断言した。
「ええ」
――東堂さんは暗闇の中、穏やかに微笑んだ。
少年の手をそっと引き、自然と二人の指を絡める。
「…私も」
「一緒に行ってもいい?」
覗き込まれている。
「もちろん。一緒に来てくれますか?」
「いいよ?」いたずらっぽく彼女も即答し、「…フフ…」破顔して、嬉しそうに笑った。
◇
少女は未だ、その場にいた。
加工場の上。屋根を死角に風下に陣取って、見えない闇に潜む黒影。
行儀悪く股を開いて座り込み、両の裸眼で覗き見る『猫目』が、音を立てずにクスクス笑った。
「いくら『聖女さま』がぶっ飛んだ美人だからって、結局のところは…」
「…床に入れば、抱き心地の悪い処女のマグロ」嫌味な笑みを浮かべ、舌なめずりする。
「アタシとやっちゃえば、その差は歴然。味わってしまえば、格落ち相手じゃ物足りなくなる。……フフ。快楽の手管は細かいことの集まりなんだ。お勉強には、とても時間が掛かるのさ」
せせら笑い顔がスン…となり、曇り夜空を陶然と見上げる。「…ねぇキルタ。感じたフリもしてあげるけど、…あたし、絶対メチャクチャ感じるよ…」
「…だって、好きな人相手だよ?心が気持ちよがっているもの…」
そこには、僅かな隙間を縫って届く、月の光が広がっているはずだ。
「…『いけないこと』?そうだね。…でも、それは、永遠の重しになる」
「無かったことだって嘘ついても。いくら綺麗事を並べたって。忘れる事なんて出来やしないし、永遠に、納得が得られることもない…」お手手繋いで去る二人の姿が、暗闇に浮かぶ金色の両目に、はっきりと映っている。
少女は嗤った。
「…だからぁ〜。アタシが一度キルタを食べちゃえば、それでぜぇんぶ解決ぅ」
「ドロッドロに冷え切らせて、カラカラに萎えさせて。嫌なことする気力も熱も、ぜぇんぶアタシが奪い取ってあげるよ〜」
「…んだってぇ、アタシだってぇ、あたしに出来る、アタシの手札で勝負しないとぉ…」黄泉の瞳が、クスクスと、チェシャ猫みたいに笑っている。
「…それにさぁ、クッソ重い真面目女の介護だなんて、続ければ続けるほど疲れきってしまうだけだよ」
「…介護に疲れて、懊悩にも疲れて…」
「……今はわからなくても、わかろうとしなくても。疲れはその身に刻まれて、どうしようもなく降り積もっていく……」
「……あたしが救い出してあげる。キルタ……」静かに、音もなく立ちあがる。
「いくらパワー負けをしていても」
「ずっと暗闇を這いずり登ってきたあたしは、タフさならば誰にも負けやしない」
「…もちろん夜も」いたずらっぽく嫣然と笑い、『猫目』は背を向けた。
「……綺麗な世界に引きずり込んで、箱に閉じ込めて殺そうとする女から。――アタシが、救いようのない現実の世界に引っ張り上げてあげる。救い出してあげる。……ね?そうしよ?」夜風を切って、屋根の上を飛び出した。
「…すぐに会いに行くから。…ハァ…待っててね?キルタ」少女は、声と息を弾ませた。
「それで、あたしと一緒になろ?」
◇
ガバナ『闇迷宮ギルド』の主、バヨネットの名を持つ老婆は、いけしゃあしゃあと酒場に居座っていた。周り以外全ての明かりを消して、全てのならず者さえも逃げ去って、なおもゆったり、煙管煙草を吹かしている。
もうもうと煙の立ち込める、ヤニ臭い秘密の小部屋。――若い頃より名のある魔術師として鳴らしたバヨネット老婆は、この『入り口のない』隠し小部屋を使うことの出来る、唯一の人間だ。
(ヒヒッ。なぁにを慌てることなぞあるものかいっ!!どいつもこいつもケツの穴の小さいこと。奥のメスイキ腺までみみっちいねぇ。鍛えてないのかいっ!?キヒヒヒ…)
余裕綽々、プカリと一服する。
召喚籤引きで偶々当たりの『スキル』を引いて、にわかの無双気分でいる異世界勇者が相手とて。誰も入り込めない『この部屋』まで手出しする事は出来ないし、――出来たとしても、しっかりと緊急手段は用意してある。何も問題はない。
よって今は、素知らぬ顔で距離を取り、後できっちり暗殺を仕掛けた後で、責任者からたんまり賠償をせしめる事にする。
それが筋というものだ。(…筋は通しておくもんさ。…人をカタに嵌める時は、特にねぇ?ヒヒヒ…)
老婆がプカプカ居座るこの場所は、二畳の広さもない小さな隠し部屋だ。
魔法の灯り照らす、押し込まれし豪華な椅子にゆったりと座り、サイドテーブルの煙管盆にカンと吸い殻を落とす。
すると、コンコココンコン。(…うわぁっ…)リズム良く叩かれる打音。コココンコン。(…本当に煩いねぇ。憩いの時間に勘弁しておくれよ、まったく……)蓋を開けると、聞き慣れたうっとおしい音声。
『『猫目』でーす。『猫目』のお帰りですよー。婆ちゃんやーい』
伝声管を通って響く、くぐもった少女の声。……瞑目し、深く鼻息をピューと吹く。問題児が帰ってきたようだ。
「明かりをつけな。『猫目』」
『火種も魔法も持ってないよ。別にアタシはいらないし。明かりが欲しけりゃ婆ちゃんがホホイとつけりゃいいじゃん』
『チンカラホホイって?おもしろ』
(何が『おもしろ』よぉぉっ!!)脳血管切れそう。「……ええい……」(…まったく。聞き分けのない子だよ…)忌々しげに煙管を咥え、ため息混じりにフスーと吹く。
少女に宿る、暗闇を見通すスキル『猫目』。比較的発現しやすいコモンスキルではあるが、裏の人間には非常に使い勝手の良い、垂涎『スキル』だ。(…『羨ましい』って気持ちなんざ、この歳になりゃ擦り切れちまうもんだけれど…)月の隠れた闇夜の酒場内でも、そりゃあ問題はあるまい。
(…片方の目は潰された、と言っていたね…)眼帯を外させた事もあったが、正直気分の良いものではなかった。(…まあ、アタシらでさえ歯牙にも掛けない様な、底辺の底を這いずる様な輩には。…フン。コモンスキルでさえさぞかし羨ましかろう。嫉妬から恨みを買ってもしょうがあるまいねぇ…)
さて、鉄火場だ。慎重に探りを入れねばなるまい。(…脳足りんどもの話じゃあ、『裏切った』事になっていたけれど…)
ならず者たちのイキり仕草を思い返す。(あんな吹聴のしかたじゃ、話半分ってところだね。唐変木ども。…ああ、面倒くさいったらありゃしないよ。ちゃんと証拠を持ってきな!証拠をっ!)いつもながら頭が痛い。
酒場入り口の伝声管付近に、今、『猫目』が居る。(…ええい、もどかしいね…)情報を集めようにも、現状では視覚的な情報を伺い知ることは出来ない。伝聞と質疑応答だけがソースだ。
現に今、こいつは反抗して言うことを聞かなかったわけだが。こんなの日常茶飯事だ。叱りつけても灸を据えても、少女の減らず口が止まることはない。コイツには、そんな図太さがある。
(既に、『ホルダー』二名の損失さぁ。屋台骨まで崩れちまうよ、まったく。…考えなしに毒虫どもを引き込むたぁ、アルコルのうすのろめ…)
(…フン。それともわざとかい?グラシス組。このアタシに戦争を仕掛けようってのかい?だったら、相手になってやろうじゃあないかい?)
慎重に言葉を選ぶ。「…仕方のない子だねぇ。裏切ったんじゃなかったのかい?『猫目』。他の二人は?」
『さっき適当に別れたよ。…ホンット無茶言わないでっての。この件はこうやって『酷いこと』になっちゃうって、婆ちゃんには最初からわかってたんじゃないの?』
いつも通りの軽薄さ。異常は感じられない。
『あ〜んな滅茶苦茶あたし一人に押し付けてさ。無理無理ムリーよ。馬鹿じゃないの?あの後アタシがどんだけ苦労したと思ってるのさ。お給金の割に合わないんですけど?』
もちろん、鵜呑みにするわけにはいかない。
「…そんな口先で、本当にあたしが信用すると思ってるのかい?信用に値する対価はあるんだろうね?」
『ふふーん。見て?黒衣の勇者の装備だよ。特殊部隊の』
暗闇で見えない。
無人を偽装するためとはいえ、酒場の中は真っ暗だ。これでは、映像を伝える遠見の魔法【ウィザードアイ】を使っても意味がない。
せめて魔力光が見えれば使い勝手も良いのだが。声を伝える【ベントリロキズム】が詠唱を遠隔中継できないのと同じように、【ウィザードアイ】を通して【ディテクトマジック】を使うことは出来ないのだ。
「…『黒衣の勇者』?近衛の特魔戦の?…馬鹿こくんじゃないよ!呼ばれたばかりの新参に勝てる相手かね!」
『うまいこと罠に嵌めてたよ。それでも危なかったけど。…この曲剣凄いよ?流石勇者の装備って感じ』
「……」
どうも話運びに嘘っぽさがない。(…こまっしゃくれたガキだけど、騙しに来たことはないからねぇ…)
国の狗、『黒衣の勇者』どもは強力だが、あの狂ったゴブリン軍団を倒す力があるのならば、なるほど。戦いようによっては勝ち目も無くはないのだろう。
そんな奴らが『敵』として、この酒場の暗闇に潜んでいる可能性がある。……やはり『猫目』は裏切って、虚実を混ぜてこちらを引きずり出そうとしているのかもしれないし、召喚勇者どもに脅されているかもしれない。今は、動くべきではないだろう。
「今日は成果を置いて帰りな。よく吟味して、お前の明日以降の扱いを決めるとするよ。『猫目』」
『へーへー』伝声管の声が、皮肉っぽく返す。
『あたしが婆ちゃんを裏切った所で、アタシにこの先どこに行けってのさ』
『婆ちゃんは厳しい人だけれど、あたしに目を掛けてくれてるじゃん。いつも良くしてもらって、感謝してる』
老婆は思わず鼻白んだ。……鼻白んだことに苛立ち、声を荒げる。「…いきなり何だいっ!!そんな安いおべっかに金は出さないよ!!」
『おべっかめいた都合の言葉だって、ありがたがってるのは事実なんだ。別に言われて損をするものでもないでしょ。…ところでさぁ?もうあいつらのところに行けとか言わないよね?婆ちゃん。あと歩合のお手当もね。危険手当もー』
「……まったく。……ハァ。考えとくよ。ほら、成果を置いてさっさと消えな」
『ばいばーい』伝声管の閉まる音。
こうして苛立たせはするものの、こんな様を晒す子供相手に慎重すぎたかもしれない。老婆は口元を綻ばせる。
(あきれたお花畑だよ。『感謝してる』ときたもんだ)
子供の頭などそんなものだ。わからぬままに不安に踊り、大人に媚を売って庇護を求める。
気に触ることも多々あるが、結果的に『聞き分けの良い子』を演じると言うのであれば。別に子供のひとりぐらいその辺に置いてやってもいいし、炊き出し気分で最低限の飯くらい恵んでやってもいい。それが大人の慈悲というものだ。
上機嫌にフフフンと鼻で笑い、空の煙管を詰め替えようと、サイドテーブルの煙管盆へと手を伸ばした。その時。
――殺気。
(……!?)長年鉄火場をくぐりぬけた老婆の勘が、愚にもつかぬ根拠のない直感が正しいと、警鐘を鳴らす。
「【フォース・シールド】っ!!」
即時詠唱、右方側面。煙管を杖代わりに、老婆は叫んだ。
魔力が渦巻き瞬時展開される、強固なる防御力場。――物理・魔法問わず、全ての攻撃を弾き返す魔導の叡智、絶対防御壁。
――銀光が閃いた。
鋼芯入りの漆喰をぬるりと抜けて、白刃が、あっけなく老婆の前を通り過ぎた。
ボロリ、と、手首が落ちた。
ぺたんと着地し、煙管がカラカラと転がる。――老婆は叫んだ。「壁をぁあああっ!!…ああぁあああぁああぁぁ…」
断面晒した手首を押さえ、アーアー呻く。ジョロジョロと血が噴き出し、よだれが溢れて滴り落ちる。
怨嗟に駆られ、壁の線を睨みつける。……そんなはずはない。何故ここがわかった?
ここには隠し扉も出入り口も存在しない。伝声管の配管だって巧妙に壁中を這い、追うことだって出来ないはずだ。分かる道理などないのだ。
「アハハッ!!わかんないでしょう!?アンタには!!」
斬撃痕を潜り抜ける、逆撫でるせせら笑い。「どんなに綺麗な事を並べたって、積もり積もった憎しみの心は止められないっ!!…だって今も、ずっと害されてるってことだもんねぇ!!」
へなへなと座り込んだバヨネット老婆は、過呼吸にヒハヒハ喘ぎながらも罵声を絞り出した。
「…きょむすめぇ!」
「…何でわかんないかなあっ!ホンット!!」ゴリッ、ゴリッと、斜め二度の斬撃。
ドカン!!と打撃音。鋼芯入りの壁が、三角形にくり抜かれて落下した。瓦礫が煙管と手のひらを、グシャと押し潰した。
――暗がり。窓越しに光る、金色の瞳。
「見て!!よく見て!!今だって、ほら!!」嬉々として声を弾ませた。「アタシの気持ちが害されている!!」
「…てぇ、【テレポート】ぉ!!」絞り出した短縮詠唱は、不発。指に嵌めた詠唱短縮の指輪は、手のひらごと瓦礫に押し潰されている。
逃げ道などない。ここには出口も入り口もない。老婆は壁の中にいる。
無いはずの手を翳し、バヨネット老婆は叫んだ。
「やめな!!」
窓の向こうが、何かを振りかぶる。――金色の両目で見下げ果て、『猫目』は嘲笑った。
「ざぁ〜こ♡」
投擲物が、瞬時に絶対防御をすり抜けた。
視界が、ゆっくりと天井を向く。……廻る景色。壁、床。椅子やサイドテーブル。自身の背中。
軽い打撃に床を舐める。……口をパクパクと動かすも、声が出ない。
そして、視界は、じきに闇へと飲まれた。




