土を退ける狂乱の影
アメイは鼻で笑った。
「黄泉海路なんて、なんてひどいセンス。聞いただけで早死にしそうな名前じゃない」
ロベルトは訝しげに顎を撫でた。
「黄泉海路に、海辺千里か? 納得のいく説明をしてもらえないか?」
千里は指を一本立て、大真面目な顔でデタラメを並べ立て始めた。
「これは命名学における問題だ。人間は異なる社会的関係の中において、自然と別々の呼称が生じるものなんだ。
例えば家庭内での名、戦場での通り名、酒場で名乗る名前とかな」
千里は一拍置き、自信たっぷりに言い切った。
「そして俺は、たまたま二重の自己認知を持った人間だったってわけだ」
「意味の分かる言葉で喋りなさいよ」アメイは呆れて白目を剥いた。
千里は堂々と両手を広げてみせた。
「結論から言うと。俺に名前が二つあっても、全くおかしなことじゃないってことだ」
ロベルトは彼を二秒ほど見つめ、なんと納得したように頷いた。
「……なるほど、一理あるな」
アメイは危うく馬の背から滑り落ちそうになった。
菊江はまたしても堪えきれず、横で吹き出してしまった。
ロベルトは前を向いた直後、勢いよくバッと千里を振り返った。
「そういや、紡命巣都の序列に似てるな。あそこにも二重の名の概念がある。
極めて卓越した実力を持つ者は、二つ目の名号を賜って序列に刻まれるんだ。奴らは『帯名衆』と呼ばれてる」
ロベルトは後ろに向かって親指を立ててみせた。
「例えば、俺の後ろにいる菊江様もその帯名衆の一人だ。名号は『風脈の手』って言うんだぞ」
菊江は少し照れくさそうに触角を撫でた。
「様なんて、やめてよ。風脈の手って響きも、いくらなんでも大げさすぎると思うし」
ロベルトは軽く笑い声を漏らし、片手を広げた。
「紡命巣都の序列で最も上位に位置する、極めて卓越した連中。奴らは『最上位列』と呼ばれている。どれくらい強いかって?」
ロベルトは頭上を見上げ、空を旋回している伝鳥に目を向けた。
「例えば、『天目巡行』と呼ばれる最上位列の一人。
その御方は、各地に散らばるすべての伝鳥の目を借りて世界を見渡し、その耳を通じてあらゆる音を聞き取ることができるんだ」
それを聞いた瞬間、千里は全身の毛を逆立て、驚愕して口を覆った。
――ってことは、俺が鳥に向かって吐いた暴言や、酒への愚痴も、全部聞かれてたってことか!?
千里は慌てて空に向かって拝み倒した。
「天目様! いつもの俺のデタラメはどうかお気になさらず! 俺はマジでルールを守る善良な一般人ですから!」
アメイは冷笑を浮かべ、口元に手を当てた。
「事後謝罪なんて遅すぎるのよ。あんた、もうすでに紡命巣都の賞金首リストに載ってると思うわよ」
菊江は笑い声を漏らしかけたものの、一瞬で顔色を険しくした。頭の触角が動き、即座に警戒態勢に入る。
「早くここから離れて! 地下の土が大規模に退けられて、真っ直ぐこっちに迫ってきてる!」
その直後、足元から不規則な振動が伝わり、地面がガクンと沈み込んだ。
「全員、加速しろ!」ロベルトが険しい表情で叫ぶ。
千里は男性兵士の胴体に両手でしがみつき、目尻に滲んだ涙は疾走する強風に一瞬で吹き飛ばされた。
「やっぱり来やがったよ! 俺たちと別れるのがよっぽど辛かったらしいな……!」
騎獣たちが一斉にスピードを上げる。背後の地表が次々と陥没し、まるで意思を持っているかのように彼らの軌跡を追って這い寄ってくる。
そして爆音と共に、地竜が轟然と土を突き破って姿を現した。
背中に刺さっていた鉄の矢は既に跡形もなく、傷口は凝固した硬い鉱石で無造作に塞がれていた。だが、地竜の全身からは無数の亡霊のような煙が噴き出し、その動きは完全な狂乱状態に陥っている。
「なんであいつが這い出てくるのよ!」アメイが後ろを振り返り、信じられないと叫ぶ。
「這い出てきて当然だ!」ロベルトは獰猛な笑みを浮かべ、兜を被り直した。
「地竜は浮上しないなんてのは、お前らへの嘘っぱちだ! あの矢じりは中空で、中に毒嚢が仕込んである。
二十八種類の毒を調合した破滅の水だ! もし奴が地上で最後の狂舞を踊らなけりゃ、そのまま地下で自分の墓穴を掘ることになってたんだよ!」
騎獣は彼らを乗せたまま陥没エリアを猛スピードで抜け出し、比較的足場のしっかりした場所で急ブレーキをかけた。二人の兵士は千里とアメイを馬から突き落とす。
二人は慣性に逆らえず、泥まみれの地面に無様に座り込んだ。
「ここで待機して!」女性兵士が腰の長剣を勢いよく引き抜く。
「近づくなよ」男性兵士も流れるような動作で長槍を抜き放った。
そして二人の兵士は手綱を返し、暴れ狂う地竜へと一直線に突っ込んでいった。
千里は痛むお尻を揉みながら、決然と向かっていく二騎の後ろ姿を見つめた。
「あいつら、剣と槍だけで行く気か? 言い忘れてたけど、あの化け物の鱗は爆薬すら通じなかったんだぞ!」
アメイは泥の上に縮こまり、生唾を飲み込んだ。
「兵士はみんな精鋭揃いよ。じゃなきゃ、要塞なんてとっくに廃墟になってる。でも地竜が強すぎる……彼らが勝つことを祈ることね。
じゃないと、僕たちは自分の足で、地竜の毒が回って死ぬまで逃げ回るハメになるわよ」
地竜まであと数歩という距離に迫った時、二人の兵士は息を合わせて馬から飛び降りた。
突進の勢いを利用して左右へ転がり込み、地竜の両脇へ入り込んで挟み撃ちにする。
地竜の前足が狂暴な勢いで女性兵士へと振り下ろされた。
彼女は超反応でステップを踏み、そのなぎ払いを躱す。
手にした長剣が風切り音を響かせ、そのままの勢いで地竜の腹部へ渾身の一撃を叩き込んだ。
しかし、そこからは一筋の眩い火花が吹き出しただけだった。
――手出しのしようがない! 下腹部の装甲も同様に難攻不落ってわけか……
男性兵士もすぐさま後に続き、空を裂く音と共に長槍を地竜の首筋へと突き出した。
火花が四散する中、槍の穂先はあっさりと弾き返され、鱗の上にほんのわずかな擦り傷を残したのみだった。
槍を引き戻し、男性兵士は立ち位置を変えながら、痺れた手首を振った。
「いやはや、とんでもなく硬い骨だな! 穂先が全く噛みつかない。こっちの牙がへし折られそうだ」
地竜が身を翻し、前足を上げて再び女性兵士へと振り下ろし、彼女を数歩後ずさりさせた。
地竜が片方の前足を高く上げきったその一瞬の隙を突き、男性兵士は槍の柄を固く握りしめ、猛烈な勢いで駆け出した。
――その体勢、隙を見せたな。盛大に土下座でもしな!
男性兵士が渾身の力を込め、長槍を真っ直ぐに突き出すと、体重を支えていた地竜のもう片方の前足の関節に重い一撃が叩き込まれた。
火花が散る直後、半身の支えを失った地竜はたまらず頭から沈み込み、地面に激突して局地的な地震を引き起こした。
男性兵士はその揺れに足元をふらつかせながらも、どうにか体勢を保つ。
「這いつくばって泥でも食ってな!」
女性兵士は両手で剣を握りしめ、半空へと跳躍して猛然と体を捻った。
腰の捻りを乗せ、地竜の顔面に向かって左右に回転しながら二つの銀月を描くように力強く斬りつけると、まばゆい火花が激しく散った。
着地の衝撃を前転で殺し、女性兵士は片膝をついて激しく息を切らした。
「どうやら目のような軟弱な部位もないみたいね。まったく、完璧な装甲だこと」
地竜の前足に力がこもり、その巨大な胴体を支えながら少しずつ体勢を立て直していく。
二人の兵士は一斉に飛び込み、剣と槍で絶え間なく前足を攻撃する。
火花が四散するが、巨獣が再び立ち上がるのを阻止することはできない。
悍ましく身を起こした地竜は、もう前足を振り上げて叩きつけるような真似はせず、代わりに太い胴体を狂ったようにうねらせた。
鋭利な鱗に覆われた巨大な尻尾が、周囲に向けて連続で狂ったようになぎ払われ、近くにあった何本もの太い木々を真っ二つにへし折る。
女性兵士はその華奢な体格を活かし、尻尾が横薙ぎに迫った瞬間に仰け反るように地面へ倒れ込み、間一髪で回避する。
鋭利な鱗が彼女の肌をかすめるように通り過ぎた。
巨大な尻尾が迫り来るのを見て、男性兵士はタイミングを見計らい、高く跳躍して上から飛び越えようと試みた。
――そんな大振りな攻撃、俺には通用しねえよ!
だが、地面と平行になぎ払われていたはずの巨尾が、途中で猛然と軌道を変え、空気を引き裂く甲高い音と共に真っ直ぐ上空へと跳ね上がってきたのだ。
男性兵士はゾッとして身震いし、大慌てで長槍を体の前に構える。
――マジかよ、対空迎撃アリか!
金属の悲鳴と共に、鋼鉄で打たれた槍の柄が一瞬にして半月状にひしゃげた。彼の顔を覆う鉄仮面の隙間から、鮮血が滲み出す。
――ヤバい……内臓全部吐き出しそうだ……!
すさまじい衝撃が彼の体を跳ね飛ばし、数メートル先の泥まみれの地面に激突。二転がりしてようやく動きが止まった。




