1:異世界
死因は覚えていない。
いや、そもそも死んだかどうかすら、はっきりとしていなかった。ただ脳裏に浮かぶのは、ついこの前のことなのか、あるいはもっと昔のことなのかも分からない、俺自身の記憶であった。
俺は、自分のことを何もできない、つまらないやつだと感じていた。
心のどこかにあった十代特有の全能感――自分は何にでもなれるなどという根拠のない自惚れは、とうの昔に消え去っていた。少しの金と、それによって得られる小さな安息を求め、日々を浪費していた。そんな覚えがある。
ああ、今日も一日が始まってしまった。
何も成せていないのに、何も始められていないのに、何一つとして区切りをつけられていないのに、それでも今日が始まってしまったのだ。
そんな憂鬱な気分に苛まれながら体を起こすと、そこは俺の知らない場所だった。
いや、知ってはいた。
いや、それも違うな……知らない場所にいることを自覚した。そう表現するのが一番正しい気がする。
俺の名前は『レイ・フォン・アスター』。アスター家の三女として生まれ、三年間、この家で育ってきた。
いや、違う。俺の名前は……違うんだ。俺は日本に住んでいて、それで……。
その瞬間、俺は理解した。
ああ、俺はこの少女に生まれ変わったのだと。
三歳児の体というのは面白いものだ。
手を伸ばし、背伸びをしても、大抵の家具には手が届かない。触れる物はどれも大きく、視点は低い。窓の外を眺めても見えるのは青空と、遠くにある建物の屋根の先端くらいのものだった。
そのせいか、窓の外から聞こえる笑い声さえ、どこか遠いものに感じられた。
転生を自覚して一ヶ月。
両親の話を聞いたり、“メイドさん”や“執事さん”の会話に耳を傾けたり、屋敷の中を歩き回ったりしているうちに、分かったことがいくつもある。
どうやら俺が転生したのは、現代でも未来でもなく、過去。それもヨーロッパのどこかの国であるらしい。
まるでドラマか映画のセットの中で暮らしているような気分だ。
俺の住んでいる家、いや“屋敷”はとてつもなく広い。
バロックだったかゴシックだったか、その辺りの建築様式で造られているらしく、建物そのものが芸術品のようだ。使用人は今の俺が把握しているだけでも四十人以上。部屋の数に至っては、数えるのも億劫になるほどある。
こんなにたくさんの部屋、一体何に使うんだよ。
屋敷探索を始めたばかりの頃はそんなことを考えたものだが、今では、そのほとんどが使用人や来客のための部屋なのだろうと理解している。
屋敷が建っているのは田舎だ。
大きな門の外には石畳で綺麗に舗装された道が伸びているが、その道も途中で曲がり、その先には緑が広がっている。
屋敷の北側には高い塔もある。あそこまで登れば周囲を一望できるのだろうが、生憎、扉には鍵が掛けられていて立ち入れそうにない。
屋敷の裏手には入江があり、石造りの階段を降りれば小さなプライベートビーチが広がっている。
なんという贅沢。なんというロマン。
もし俺が建築評論家だったなら、迷いなく星五評価をつけて『人生で一度は行ってみたい観光地』などと銘打った写真集でも出していたところだ。
いや、評論家は写真集なんて作らないか。
ともかく、俺はこの生活をかなり気に入っていた。
前世については未だによく思い出せないが、流石にここまでいい生活をしていたということはないだろう。
そんな生活にも慣れ、流石にビーチに出て海岸線を眺めることにも飽きてきた、ある日のこと。
俺は芝に覆われた広い庭で、兄たちが何やら意味の分からない奇声を上げている様子を眺めていた。
何やってんだ、あれ。
前世の俺も小さい頃はあんなことをして遊んでいた、と母に聞かされたことがある気もする。
だが、あれはどう見ても遊んでいる様子ではない。
大真面目な顔で立ち、時折声を張り上げながら妙な動作を繰り返しているものだから、余計に奇妙に見えた。
「ロイス兄さんたちを見ているの?」
そう声を掛けてきたのは、俺の姉『リリ』である。
「あれ、なにしてるの?」
俺が拙い言葉でそう尋ねると、リリは少し微笑んだ。
「あれはね、『―――』の練習をしてるの」
落ち着いた話し方だ。大人びていて、とても十四歳の少女とは思えない。
その『―――』とやらが何を意味するのかは分からないが、まあ、貴族特有の儀礼か何かなのだろう。
とはいえ、分からないままなのも気になる。
「リリ姉、『―――』ってなに?」
そう聞くと、リリは少し驚いたように目を丸くした。
「そういえば、レイはまだ見たことなかったわね。いい? よく見ておいてね」
リリはそう言うと、人差し指を一本、空へ向けるように立てて目を瞑り、静かに唱えた。
「我、星の花の名を冠する者。かの英雄ウィル・フォン・アスターの名を借り、その契りを以って世界の理の一端を今ここに顕現せしめん『虚光灯籠』」
え、厨二病?
なんて舐めたことを考えていられたのも、ほんの一瞬だった。
俺は、奇跡を目にした。
リリの指先に、暗い炎が灯っている。
なにこれ!? 手品!?
ということは、庭で兄貴たちが練習してたのも手品ってことか?
いやいや、違う。これは……。
ただの幻覚ではないかと恐る恐る手を近づけてみると、その暗い炎からは確かに冷気が漂っていた。およそ偽物とは思えない。
薄々、勘づいてはいた。
英語などとは根本的に文法から異なる謎の言語。会話や本の中に度々登場する『―――』という単語と、それに関連して語られる妙にファンタジーじみた話。そして、どういう仕組みで動いているのかまるで見当もつかない道具の数々。
『―――』とは、つまり『魔法』を意味している。
ようやく確信した。
ここは、魔法の存在する『異世界』。
そんな世界に、俺は転生したのだ。
転生を自覚してから、早くも一年が経った。
四歳の誕生日を迎えて数日。俺は屋敷の書庫に入り浸り、言語の解析と、自分の置かれた状況の把握に努めていた。
嫌な予感がしていたのだ。
どこかで聞いた覚えのある、『レイ・フォン・アスター』という名前。
四歳児なりの拙い言語能力と前世から持ち越した知識を総動員して、少しずつ書物を読み進めていく。その中で“ある名前”を見つけたとき、嫌な予感は確信へと変わった。
『ウィル・フォン・アスター』
イルグラーデ王国お抱えの貴族家『アスター家』の開祖にして、三百年前の人魔大戦を終結へ導いた大英雄。
そして、この世界でラスボスとなり得る人物。
ここは、俺のよく知るゲームの舞台になった世界だ。
ゲームの名前は……思い出せない。けれど俺は、この世界のことを知っていた。
剣と魔法の世界、と言っても、単純な中世ファンタジーではない。
蒸気機関もどきに、古代文明の遺産。その機構をほとんどそのまま流用して作られた高度な機械類まで存在している。
例えるなら、中世から近世辺りの文化を、そのまま近代へ持ち込んだような、どこか現実離れした歪な世界観だ。
もっとも、ここが本当に「ゲームの中」だとは思っていない。
超高度に発達したVR世界に閉じ込められていて、自分はそれを忘れている――なんて映画を見たことがある気もするが、前世にそんな技術が存在していた覚えはない。何より、直感的にその考えは違う気がした。
だから今のところ、俺はここを『俺が遊んでいたゲームの元になった世界』なのではないかと考えている。
確証などない。ただ、少なくとも今の俺には、その考えが一番しっくりきた。
そして、その推論が正しいのなら、俺は何らかの理由でこの世界に転生したことになる。
随分とファンタジーじみた話だが、現にこの世界には『魔法』なんてものが存在している。そう考えれば、あながちあり得ない話でもない……のかもしれない。
なんにせよ、俺はゲームで描かれた範囲に限れば、この世界が辿り得るいくつもの未来と、その結末を知っていた。
改めて整理しよう。
俺の名前は『レイ・フォン・アスター』。イルグラーデ王国の王族とズブズブな関係を持つ、有力貴族『アスター家』の次女。つい先日、四歳になったばかりの小さな少女だ。
だが俺は、彼女のことを知らない。
……いや、俺自身のことを知らない、と言った方が正しい。
前世の俺は、あのゲームをかなりやり込んでいたはずだ。それでも、『レイ・フォン・アスター』という名前に該当する人物の記憶はなかった。
ただし、『アスター』という家名そのものには聞き覚えがある。
ゲーム本編が始まるのは、確か統一歴四百五十八年の三月頃。
その時点でアスター家はすでに失権し、貴族家としては消滅していたはずだ。
現在は統一歴四百四十七年。そして、アスター家が滅んだとされていたのは四百五十四年。
つまり、大体七年後。
「ふむ、どうしたものか……」
正直、まるで実感が湧かない。
まあ、それも仕方がないだろう。何せ『もしかしたら七年後、家を襲撃されて死ぬかもしれないです』なんて未来を知識として知ったところで、実感を持てという方が無茶だ。
とはいえ、何もできない子供のまま七年後を迎え、無抵抗に殺されるなんて御免だった。
だからといって、四歳児にできることなど限られている。
……いや、待てよ。
確か、魔術の訓練は幼少期に始めるのが最も効率的だ、という設定があった気がする。
イルグラーデ国立魔法学園の書物棟に置いてあったゲーム内資料、『魔術師育成のすゝめ』とかいう本に、そんなことが書かれていたはずだ。
いや、よくそんなことまで覚えてたな、俺。
ゲームのタイトルすら思い出せないくせに。
若干の気味悪さと、それ以上のありがたさを感じながら前世の記憶へと思考を向け――。
いやいや、そうじゃない。今は魔術だ。
ゲームの中では、UIをポチポチ弄ればポンと発動していた魔術。
だが実際に自分で使うとなれば、話はまるで違ってくる。
分かるのだ。これは、訓練なしに扱えるものではない。
ゲーム内の設定でも、才能による優劣こそあれ、魔術師たちは皆、それなりの訓練を積んでいたはずだ。
ゲーム本編に登場しなかった俺――レイ・フォン・アスターという少女に、どれほど魔術の適性があるのかは分からない。
けれど、魔術を習得できれば、少なくとも護身くらいには役立つだろう。
というわけで俺は、七年後の襲撃に備え、魔術の鍛錬を始めることにした。
すごいね、魔術って。
全くもって上手くいかない。
リリが使っていた詠唱をそっくりそのまま唱えてみても、魔術は発動しなかった。
仕方がないので屋敷の書庫から魔術指南書を持ち出し、独学で試してみた結果が、これである。
「なんて言い訳しようか……」
俺は床にどっかりと座り込み、熱で溶け、歪み、見るも無惨な姿になったガラス窓を眺めていた。
どうしてこうなった?
俺はもう一度、魔術を組み上げたときの過程を頭の中で辿ってみる。
魔術とは、魔力を用いて物質やエネルギーを操作、あるいは生成することで、様々な現象を引き起こす技術だ。
魔術にはいくつもの分類が存在し、その中でも俺は『操作系』の『熱属性』や『物質属性』を比較的得意としていることが分かった。今は、その辺りを中心に練習している。
魔術を組み上げるには、いくつかの工程がある。
例えば、『操作系の熱魔術』なら、
『すでに存在する熱を確保』
↓
『魔力に熱エネルギーを含ませる』
↓
『体内の魔力器官とのリンクを通して魔力を操作』
↓
『必要に応じて追加のエネルギーを確保』
といった具合だ。
ここへさらに『発生系の物質魔術』で燃料を生成して加えれば、炎を作ることもできる。『射出速度』を設定すれば、それを遠くへ飛ばすことだって可能だ。
屋敷の書庫にあった魔術指南書に従い、一つ一つ手順を踏んで練習を始めた。
途中までは、驚くほど順調だった。
だが最近、どうにも上手くいかないことが増えてきた。
どうやら俺は、『発生系』の魔術が大の苦手らしい。
魔術は、大きく二つに分けられる。
一つは、すでに存在している物質やエネルギーを操る『操作系』。
もう一つは、魔力から物質やエネルギーを生み出して扱う『発生系』だ。
操作系は簡単だった。
対象の状態を魔力を通して測定し、それでも不明瞭な部分を、なるべく詳細な想像で補完する。そうすれば細かな操作が可能になるので、あとは起動条件や動作の過程を設定してやればいい。
一方、発生系ではそこへさらに『虚構物質』、あるいは『虚構エネルギー』を生み出す工程が加わる。
これが厄介だった。
虚構物質も虚構エネルギーも、現代科学の知識がほとんど通用しない、完全に未知の概念なのだ。
魔術辞典には、
『魔力によって生成された物質、またはエネルギー。術者による制御が継続している間のみ、魔術として存在する。制御を失った場合、崩壊、もしくは霧散し、即座に魔力へと還元される』
とある。
だが、さらに詳しく調べてみると、実のところ、その原理は未だ完全には解明されていないらしい。
だから想像しづらい。
こればかりは理屈ではなく、感覚の領域なのだ。上手く扱うには、それなりの才能が必要になる。
そして生憎、俺にはその才能が足りていないらしかった。
今回もそうだ。
まず魔力から虚構熱エネルギーを生成し、そこから操作魔術へ切り替える……はずだった。
だが、その切り替えが上手くいかなかった。
制御を失った熱は暴走。そして俺の手を離れた虚構熱エネルギーは、何故か霧散することなく窓を焼いた。
「……なんで消えなかったんだ?」
魔術辞典の説明が正しいなら、制御を失った時点で魔力へ還元されるはずなのに。
まあ、どこかで手順を間違えたんだろう。
たまたま水魔術が上手くいったからって、いきなり危険な熱なんて扱うべきじゃなかった。
明らかな失敗だ。
これだから俺は、調子に乗ると痛い目を見る。
これからは一歩一歩、堅実に。それを心に刻んで励むことにしよう。
それはそうとて。
俺はもう一度、見るも無惨な窓を見上げた。
「……これ、どうしようか」




