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ガールズ in ゾンビランド~JK2人の終末くらし~  作者: 一二三 零


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24/24

★準備体操を怠るな

ゾンビはどこから……! 的な話ですが、別にこれ以上広げる気はありません。

GWなので更新

 すべてのはじまりは、隕石だった。

 飛来した隕石。大地をえぐって止まったそれは当然のように華子の勤める研究所に送られた。

 一見、なんの変哲もない隕石だった。過去の事例でも同じようなものがいくつかある。特別な発見はないかと落胆する直前、それは見つかった。

 ──未知の微生物。

 とはいっても、宇宙どころか地球に存在する微生物の多くは解明されていない。単純に数が多い上、生息環境が不明なことが多いために研究に必要な培養が難しいのだ。

 しかし、宇宙の微生物というだけで興味を惹かれる。それは今のところ、地球上で発見されているものとも違うようだった。研究をするにも金がいる。金を集めるには話題がいる。そして隕石の内部より見つかった微生物というのは、その話題にぴったりだった。

 その未知の微生物を研究してみると、思っていたよりもずっと興味深かった。彼らは驚くべき特性を示したのだ。

 彼らは生物に棲み着く。そして仮に宿主の機能に一部支障が出た際──たとえば手足の麻痺など──神経の伝達の代わりをする。

 通常、身体の麻痺というのは神経の伝達経路に異常が発生することだ。この微生物──〝Neurobacillus assistens〟と名付けられた──はその以上部分を補完し、断絶された神経伝達を繋ぐことができた。

 これは素晴らしい発見だった。この微生物をうまく飼いならすことができれば、半身不随などの体に麻痺のある人間が再び五体満足で動くことができるようになる。研究室は当然のように沸いた。華子もまた、歴史に名を残すかもしれない研究に携われることに感動していた。

 研究室にはさらなる金が投じられた。そして外国からも研究者が合流した。華子たちは一丸となって研究に明け暮れた。

 それこそ己の家庭をおろそかにするほどに。

「ママ!」

「ごめんなさい、春人はると。先にベッドに入っていてくれる? 少ししたらママも行くから」

 自宅に持ち帰った資料を眺めながら、華子は幼い息子の頭を撫でた。キリが良いところまで、後もう少し。そうしたらいつものように寝物語に絵本を読み聞かせてあげるから。

 資料を読み終え、華子が寝室へ入る頃には息子はもうぐっすりと眠っていた。華子は小さな手に握られている絵本を抜き取って机の上にのせると、くしゃりとその柔らかな髪を撫でた。明日はきっと絵本を読んであげるから、と。それは果たされることはなかったけれど。

 研究員たちの熱意に押されて、研究は進んでいった。

 動物実験を繰り返し、少なくない成果があった。微生物を注射すると、一日後に足に麻痺を負ったネズミが動き出した。経過観察をしても問題ない。結局そのネズミは麻痺など忘れたように死ぬまで駆けずり回った。

 もちろん、そうならないネズミもいた。微生物を入れて高熱を出して死んでいったネズミたちだ。微生物を体内に入れたネズミは高確率でこちらの道をたどる。しかし研究で毒性を弱めることができれば、夢の未来を実現できる。

 研究は順調だった。少なくとも、その時までは。


 ある日、外国からの研究員であるオリヴィアと華子の五歳の息子──春人はるとが車で移動中に事ゆえにあった。

 華子の息子を研究所のメンバーが幼稚園の送り迎えをすることはよくあることだった。華子は研究の中心にいて忙しくしていて、その他のメンバーに頼むことが多かった。そしてその日はたまたまオリヴィアだった。オリヴィアは車の助手席に微生物の入った注射を置いていた。彼女はいつものように春人を後部座席に乗せて──そして事故にあった。

 助け出された時、車はぐしゃぐしゃで、どちらも息をしていなかったという。運ばれた病院で息を吹き返し──しかし目を覚まさなかった。

 どちらも脳死だと診断された。息はしているが、目を覚ます確率はしごく低い。そう説明された。

 オリヴィアは祖国に引き取られた。彼女は資産家の娘らしく、厳重に管理されて旅立った。彼女の親からの批判はなかった。事故の原因が彼女のミスだったからだろう。

 そして華子の息子の春人もまた、華子が引き取った。この頃の華子は自宅にほどんと帰れなかったから、研究所の一部屋を借り、そこに春人を置いた。研究所の所長が華子の夫だからできたことだ。夫とは意見が対立したが、華子が押し通した。

 眠る息子の頬を撫でる。以前はふくふくとしていたそれが、すこしだけしぼんいるように感じた。しかしそれ以外は、〝ただ眠っているだけ〟のようだった。

 後悔をした。研究に夢中になって、息子のことを後回しにしていた。あの日オリヴィアに任せなければ。華子が送迎をしていれば。今も自分の息子は華子の側できゃらきゃらとかわいらしく笑っていたかもしれない。

 それなのに。

 いいや、もう過ぎたことだ。いまさら後悔をしても仕方がない。ならば次を考えなければならない。

 春人が目を覚ませば。目を覚ましさえすれば、どうなっていようと構わない。あの細菌もある。もしも全身が動かなくなっていたとしても、きっと元に戻して見せる。

 その日から華子はさらに研究に没頭した。煮詰まれば部屋を訪れて息子の顔を眺めて、また研究へ戻っていく。

 そんな時間をどれほど繰り返しただろう。その日は暑い夏の日だった。

 バツリ、という音と共に電気が落ちた。研究室には窓がある。薬品などに影響がないようにと最低限の数ではあったが、時刻はまだ昼だ。十分に陽の光は入ってくる。ただ手元が少しだけ見にくいだけだ。

「大丈夫よ。非常用発電機がある」

 動揺の声を上げる職員たちに聞こえるように、華子は声を張り上げた。その数秒後、また電気が付いた。

 ほっと息を吐く。大きな被害にはならないだろうが、いくつかの実験はまたはじめからやり直さねばならないだろう。原因は分からないが、さしあたっては問題がない。職員にいくつか指示を出して、華子は部屋を出た。

 目指すのは息子の眠る部屋だ。

 電気はすぐに復旧したから問題ないはず。病院から医療器具を借り受ける際に、非常時の動きも説明された。大丈夫、きちんと動いているはず。

 それでも、なんだか嫌な予感がして足は自然と早くなった。

 扉を開けて、まずはじめに見えたのは大人の人間の影だった。影は息子に覆いかぶさるようにしている。そして、ピーという甲高い不吉な音。心電図の音だ。

「なにをしているの?」

 硬い華子の声に振り向いたのは、もう何日も顔を合わせていない夫だった。つまり息子の父親。

 しかしその手に持っているものを見て、華子はカッとなった。

「なにをしているの!」

 夫が手にしているのは息子の人工呼吸器だった。それがなくては息子は息ができない。

 華子は体当たりをするようにして夫から機械を奪った。焦りで手が震えるのをどうにか抑え込んで再び息子に装着する。

 しかし呼吸が始まらない。本来ならば定期的に脈打つはずの心臓がただ平坦に沈黙してる。ピーという不吉な音が止まらない。

「……もう眠らせてやろう」

「なにを言っているの?」

「この子はもう、目を覚まさない。無駄なことはやめるんだ」

「ムダじゃないっ! ムダじゃなかった! ……アナタがこの子を殺したのよ! ふざけないで! 人殺し、人殺し!」

 華子はむちゃくちゃに夫を殴った。夫はたまらないというように部屋を出ていった。華子はその背にパイプ椅子を投げつけてから、息子のベッドにかじりついた。

 息子の頬を撫でる。今日の朝に見た時にはわずかに色づいていた頬が、いまはもう青ざめている。息子が「ママ」と呼ぶ声を思い出す。この子はもう、華子のことをそう呼んではくれないのだ。その機会は永遠に失われてしまった。

 と、視界の端で息子のまぶたがぴくりと動いた。

「──え?」

 見間違いかとじっと見る。たしかにぴくりぴくりとまぶたが痙攣している。

「春人ッ!?」

 呼びかけるが、子どもは目を覚まさない。しかしやはり、ぴくりぴくりとまぶたが痙攣している。

 華子はすばやく口元に手を当てた。次に胸元にも。しかし呼吸している様子も、心臓が動いている様子もない。心電図は無慈悲に底を這っている。

 華子は小さく息を吐いて、息子のまぶたを開けた。──瞳孔は拡大されたまま。

 ──どういうことだろう?

 華子は己の優秀な頭を働かせ始める。

 息子は〝死んで〟いる。少なくとも医学的には。しかしまぶたの痙攣──筋肉の収縮がある。これは──完全に死んだとはいえないのではないだろうか。

 その考えは、天の救いのように思えた。


 華子は息子を施設のさらに奥まった部屋にかくまうことにした。夫はそれを不審がった。

 遺体をそのままにすると法に触れる、と夫はまるで自分が正しいことをする人間のように言ってくるが、息子を〝殺した〟のは彼だ。その点を指摘すれば、彼は気まずそうに黙りこんだ。

 停電──あとになって電気会社の事故だったと聞いた──に便乗して息子に手を出したのも「不幸にも停電によるもの」という言い訳のためだろう。

 〝殺した〟時の彼の言い分も、華子は信じていなかった。

 さも息子のためのように言っていたけれど、本当ではないだろう。仮に本心の一部であったとしても一割にも満たないだろう。彼は、おそろしいのだ。自分の息子が生と死の間で──それも限りなく死に近い場所にいることが。己の過ちを突きつけられるような気がして。

 夫は、悪くない父親だったと思う。華子と同じ研究員で、この研究所の所長。仕事は忙しくはあったが、週末には息子とよく遊んでいた。それは息子を愛しているからというより、「父親というものは自分の子どもに対してこうやって振る舞うものだろう」という世間の目を気にして接していた。彼を形作るのは自分自身ではなく人の目で。そういうひとなのだ。だから今の華子にもなにも言わない。

 彼にとって目覚める確率の低い息子は目につく瑕疵のようなものだったのだろう。嵐には立ち向かうよりも耐えることを選ぶ人だけれど、対処可能な範囲のストレス源にはすばやく行動する方だった。場所ばかりとる使う可能性の低い道具や、父の形見だという修理不能な時計を捨ててしまうとか。

 だから夫にとっては息子はそういう「本来の機能を失った道具」のようなものだったのだろうと思う。いつまでも場所を取っておくよりも、処分してしまいたいと思ったのだろう。

 怒りはある。当然、ある。

 しかしそれ以上に、今の状況を悪くしたくなかった。

 夫は実害がなければ動かない。今は自分の罪を華子が知っているということで手を出してこないだろう。彼は華子が死んだ息子を部屋に放置しているとは決して通報しない。なぜなら、それはつまり華子に彼の罪を話させることになるのだから。

 しかし華子が夫の罪を一方的に責めれば、彼はリスクをとっても今の状態の清算を考える。彼はいいわけだけはうまいのだ。罪に問われたとて、たいしたものにはならないだろう。

 ならば、現状維持だ。そして研究を進めなければならない。それは息子のためでもあり、そして華子のためでもある。

 あの細菌の研究で華子はチーフを担っている。実際、己がもっとも多くのことを知っていると自負している。しかし夫が華子をチーフの座から外せばどうなるか。息子は取り上げられ、研究所を追い出されることになるかもしれない。

 そうならないために、〝欠かせない人材〟として研究を推し進める必要がある。


 ◆◆◆


 あれから三年。

 驚くべきことに息子の春人はあのときのまま眠り続けている。

 栄養剤の接種もないにもかかわらず、ほとんどあのときのままの姿だ。心臓が動いていないにもかかわらず腐敗もない。医学的に見て、ほとんどありえない状態だ。だが実際に起こっている。

 おそらくコールドスリープに近い状態なのではないかと華子は仮説を立てている。

 クマは冬眠中に代謝を四分の一ほどに落としている。冬眠は半年ほどに及ぶにもかかわらず、その間に筋肉や骨の量はほとんど変わらない。それと似たようなことが、そして究極のものが己の息子に起こっているのではと華子は予測していた。本来ならばありえないことだが、彼はあの細菌を保有していた。おそらく、あの事故の際に割れた注射の欠片に触れたかなにかをして取り込んだのだろう。

 あの細菌は生物に取り込むと高確率で高熱が出て死亡してしまう。しかし息子は接種した時点でほとんど死にかけだった。本来ならば機能するはずの免疫力が低下していたのだろう。それが奇跡的に良い方向へ働いて適合できた。そういうことなのだろうと思う。

 そして研究の方。こちらも悪くない進みを見せている。

 問題だった毒性をかなり薄めることができた。マウス実験段階で八割を越えていた死亡率を、今は二割まで減らせている。これからも死亡率を下げるために研究を続けていくつもりだ。しかし現在の状況でも奇跡を信じてこの薬を求めるものはいるだろう。

 そんな中で、東京で開かれるシンポジウムに声がかかった。研究所からは代表として所長《夫》と華子が出席することになった。本心としては息子のそばから離れたくはなかったのだけれど。


 そうして出向いた先の首都で、パンデミックが起こった。

 たちの悪い風邪が流行っているようだという話はニュースで聞いていた。しかしそれ以上の情報を知らなかった。ここ数年はほとんど研究で忙しかったのだ。仕事に関連する情報は仕入れていたけれど、その他の内容はほとんど集めていなかった。

 だから、はじめは運の悪い時期に来てしまったと思うだけだった。一時的に足止めされるが、検査でも受けて問題がなければすぐに帰ることができるだろう、と。

 しかし華子の想定に反して自体は思わぬ方向へ進んでいった。

 通行の封鎖がまずあった。次いで、自宅待機の呼びかけ。外部からの訪問者はホテルや旅館などから出ないように、と。ずいぶんと厳重な警戒だなと思ったが、この時はまだ楽観視していた。

 華子たちは言われたとおりにした。華子たちはシンポジウムに招かれた側だ。ホテルの料金についても主催者側が出すことになっていた。

 明確に良くない状況だと認識したのは、部屋のドアを荒々しく叩かれた時だった。

 早朝だった。まだベッドの中にいたが、あまりにも大きな音で目が覚めた。しかし恐ろしく、ドアは開けなかった。隣のベッドで寝ていた夫も目を擦って体を起こす。

 音はしばらくして隣の部屋に移った。同じようにしてドアを叩かれている。「すぐに逃げろ」「ここにいてはいけない」とかそういったことを叫んでいたように思う。火事でも起きたのかと、ここでやっと華子は扉を開けた。同じように思っただろう他の部屋の人間も、部屋から顔を出していた。

 隣の部屋から顔を出した女性と目が合った。「なにが合ったんでしょうか?」「わからないわ」そんなことを喋ったと思う。そうしている間にふらふらと千鳥足で歩く男性が近づいてきた。華子たちは不審な目でそちらを見た。彼女は親切にも部屋から出て、「大丈夫ですか?」と声を掛けた。そして、噛まれた。

 なにが起こったのか、すぐには分からなかった。女性が悲鳴を上げて、その手から鮮血を滴らせているのを見て、男性が信じられないほどの力で噛み締めているらしいことを認識した。手元に武器はなく、玄関先を見回して靴べらを見つけた。それを掴んで男性の頭を殴った。三度殴ってやっと口を離した男性を蹴り飛ばして、華子は女性をぐいと引っ張って自分たちの部屋に入れた。夫は突然現れた見知らぬ女性を白黒とした目で見ていた。

 まずは女性の手当だ。包帯などはないから、シーツを割いた。非常事態なのでこれくらいは許されるだろう。夫にはフロントに連絡するように言った。

 しかし手当を終えても、フロントに電話は繋がらなかった。なにが起こっているのか。少しでも情報を集めようと付けたテレビでとんでもないことが起こっているのを知った。

 ──感染者急増。

 ──死者が動き出した!?

 ──暴徒が暴れ回っている。

 少しでも研究を先に進めるために、直接自分にかかわりのない情報はほとんど遮断していたのだ。ここまで酷いことになっているとは思わなかった。

 テレビを呆然と見る。

 映しているのはどこかの店内だろう。カメラはガラス張りの外を向いている。通りにはちらほらと人がいて、逃げるように走っている。しばらくその様子を映していたが、ひとりの男がカメラに近づいてきた。目が茫洋としていて──さきほど、女性を噛んだ男の目と似ている──、正気ではなさそうだった。「なに」「どうした」というスタッフたちの小さな声が入る。男はまっすぐにガラスにぶつかった。バチンッとかなりの音がした。しかし男は微塵も痛みを感じていないようだった。男は彼方に視線を飛ばしたまま、またガラスに体当たりをする。──何度も、何度も。

 カメラがズームされて男に寄った。華子はそこで彼が首元から血を流していることに気づいた。色の濃いシャツを着ていたために見逃していた。そしてそのことにリポーターも気づいたのだろう。「ヒッ」と引きつった悲鳴が聞こえた。男の体当たりが次第に激しくなっていく。ガラスに打ち付ける皮膚の一部が破れて血が滲んでいる。カメラの奥から慌ただしい足音が聞こえてくる。おそらく店員だろう後ろ姿が映って、カーテンが閉められた。しかし男が体を打ちつける音は変わらない。そこで映像が切れて、スタジオに戻った。

 どうやら取材に行ったタイミングで暴徒が暴れているという情報を得て、リポーターたちは一時的に目についた店に退避させてもらっていたらしい。そこであのようなことになったようだ。結局あの男は警察に取り押さえられたとのこと。流行りの感染症患者だったようだが、詳しい話は聞けていないとのこと。そして同じようなことが各地で起こっているという。アナウンサーは硬い口調で「なるべく自宅で待機するように」と繰り返していた。「不用意に家から出ないでください」「外で物音がしても軽い気持ちで見に行かないでください」「発熱したら保健所に連絡をお願いします」

 衝撃的なニュースだった。部屋の人間たちは呆然とそれを見ていた。現実をうまく飲み込むことができずに部屋に沈黙が落ちる。

 夫の青い顔を見返しながら、華子は思考の端であることを考えていた。

 ──死人が動きだす。

 聞き覚えのある話だった。少し前に、息子と共に事故にあった外国人女性──オリヴィアの家族から連絡があった。オリヴィアが意識を取り戻した、と。

 唐突な電話だった。あの事件の直後ならばともかく、その後はずっとなんの連絡もなかったのに。

 オリヴィアもまた、華子の息子と同じように〝脳死〟と判定された。医学的に脳死は回復の可能性はないとされている。華子には研究の結実という希望があった。しかし彼女にはそれはなかった。彼女の親族は研究のことをほとんど知らないのだ。

 だから、彼女が意識を取り戻したと聞いて、まず湧き上がったのは「まだ生かしていたのか」という感想だった。次に「回復の可能性はなかったはずでは」と思った。

 華子にとって、オリヴィアは息子を脳死へと追いやった加害者である。そしてオリヴィアの家族にとって、華子は被害者の母親だろう。気まずくてしかたがない。賠償の話やその他のあれそれの後は没交渉だったのだ。

 聞いてみれば、オリヴィアは意識を取り戻したものの錯乱して暴れるという。拘束して治療しているが、鎮静剤を打ち込んでも意味がないという。それにどうにも心臓の動きが鈍くて……と言葉を濁していたが、華子は「もしや」と思った。もしや、春人《息子》の状態と同じなのかもしれない、と。

 そうであるならば、心臓が動いていなくとも不思議ではない。息子は心臓が止まり、生きもしないまま三年も眠り続けているのだから。オリヴィアもまたそうであってもおかしくはない。あるいは、目覚めれば心臓はまた動きだすのだろうか。

 オリヴィアの家族からの話は迂遠で分かりづらかった。それが被害者家族への遠慮であるのか、それとも〝言えないこと〟であるのかは分からなかったが。

 華子も息子の研究の役に立つかもしれないと根気強く聞き出した。

 それによると、オリヴィアは母国に着いた時から様々な治療が施されてきたらしい。〝脳死〟は回復不可能と言われているが、あくまで〝今の医療ならば〟だ。いつか不可能を可能にする発見があるかもしれない。その想いで生かし続けたのだろう。

 そして、意識を覚醒させるためにとある薬品を注射したところ、目を覚ましたという。しかし〝完全には〟意識が戻らなかった。言葉を解さず唸り声を上げ、手当たり次第に人を噛もうとするらしい。運悪く噛まれた人は高熱を出して生死の境をさまよっている、ということまで華子は引き出した。

 結局、華子がオリヴィアの助けになることも、聞き出した情報が息子の助けになることもなく、なにか分かれば互いに連絡をするという約束をして話しは終わった。

 オリヴィアが目を覚ました際の薬品は聞いたが、華子はそれを息子に試してみようとは思わなかった。わざわざ華子に連絡してきたのだ、あちらも相当に切羽詰まっていたのだろう。息子をそんな状態にしたくない。息子にはもう少し確実性の高い方法でなければ試したくはなかった。

 そしてそんな会話が半年以上前。〝死人が動きだす〟。その症状はオリヴィアのそれに似ていないだろうか。

 断言はできない。強引な結びつけかもしれない。しかしその思いつきは、華子の頭にこびりついて離れなかった。


 ◆◆◆


 噛まれた人間が同様に正気を失うと知ったのは、それからしばらく経ってからだった。

 廊下には女性に噛み付いてきた男がウロウロとしている。そして男ひとりきりではなく、数が増えている。とても外へ出ることができない。

 しかし女性の傷は思ったよりも深かった。警察も救急も電話は通じない。ずっとコール音が鳴るだけだ。女性は徐々に顔色が悪くなっていく。

 ここで夫が外の不審者をどうにかできるような気概をもつ人間であれば頼もしかったのだが、不測の事態において彼は欠片も役に立たなかった。むっつりと黙り込んで腕を組んでいる。彼を知らない人間が見れば威厳がある、というように解釈したかもしれないが、それなりの年月を彼と共に過ごしてきた華子には分かる。あれは口を開けば的はずれなことばかり言ってしまうから、ならば口を閉じて少しでも自分を賢く見せようというポーズだ。一見、問題解決のために思考を巡らせているように見えるが、頭の中は空っぽだ。ただ息を吸って吐くだけの置物と変わりがない。面倒なタイミングで口出しをしてこないだけ、置物の方が優秀ですらある。

 そんな時だ、部屋の内線電話が鳴ったのは。

 電話は隣の部屋からだった。華子たちと同じように閉じ込められているらしい。食料もほとんどなく、部屋から出たいが廊下をウロウロしている人間が邪魔で出来ない。協力しないかという内容だった。他の部屋の住人も誘うつもりらしい。華子は一も二もなく頷いた。

 それからは早かった。囮役と攻撃役を決めて、どうにかこうにか華子たちは廊下の安全を確保した。

 そこまではよかった。だが大変だったのはその後だ。

 正気を失った人間は華子たちの部屋の階だけではなく、ホテルのそこかしこにいたのだ。偵察に行っていたメンバーが帰ってきて華子たちはぞっとした。しかしこのままずっとここにいるわけにもいかない。籠城をするとしても食料が必要だ。外へ逃げるという選択肢はなかった。窓から見える外もかなりの人数の人間が茫洋とした目でウロウロと歩き回っていたので。

 できれば厨房に入りたいところだが、厨房は一階だ。この階からはかなり距離がある。しかし選択肢はさほど多くはなく、結局は強攻することになった。

 そうしてふたりほど噛まれたがどうにか厨房に転がり込んで。すでにそこに避難していたメンバーもいて、人数は倍に膨れ上がった。

 集団になればある程度余裕が生まれてくる。そのせいか、ふらふらとしながらも気丈に自分のちからだけで立っていた女性が倒れて高熱を出した。それから時を経たずに噛まれた人間たちも。

 はじめの頃は雑菌でも入ったのだろうと思われていた。しかメンバーのひとりがぽつりと呟いた一言で空気が変わった。「ゾンビみたい……」

 華子も詳しい訳では無いが、そういう系統の映画の再放送を何度が観たことがある。確かに酷似しているところはある。

 急激な感染。感染者たちの暴徒化。正気を失ったような動き。

 そして、ゾンビものにはセオリーがある。それは──。

 ばっ、と部屋にいた人間たちが同時にある方向──熱にうなされる〝噛まれた〟人間たちを見る。

 ──そう、ゾンビといえば、噛まれることで感染する。ならば……、彼らは。

 頭によぎったことは皆同じだろう。気まずい沈黙が流れて──、誰かが「事実はともかく、僕らも熱を出したらいけないし、場所を区切らないか」と言い始めて、あっという間に彼らは隔離されることが決まった。……といっても、ただ単に部屋を分けただけだが。厨房の前に小さな部屋がある。厨房は健康的な人間が、その小さな部屋に具合の悪い人間が置かれることになった。

 そうして、三日もしないうちにホテルの電気が落ちた。メンバーが携帯端末で知ったところによると、発電施設で爆発があったらしい。写真もあったために、おそらく事実だろうと思われた。テレビが「自宅待機をお願いします」と同じ映像ばかりを繰り返すようになっても、インターネットはまだ生きていた。だがマスメディアが偏った放送をしつつも一定の質を保っているのに対して、こちらは玉石混交。嘘とも真実とも分からない情報が飛び交っているようだった。華子自身はそういったものに詳しくないのでよく分からなかったが、予備のバッテリーを使って小さな画面に没頭していたメンバーが言うには、華子たちはまだマシな部類らしい。食料のアテもなく閉じ込められて決死の覚悟で外へ出て感染者に食い殺された映像などがSNS上で大量に流れているという。

 こうなる以前に政府の用意したシェルターに入ることができるという話もあったらしいのだが、抽選式の上、華子たちは住民票のある土地から離れているために権利がなかったのだ。このホテルに閉じ込められていた人間たちはみな華子たちと同じようなものだった。

 停電したその日の夜だった。

 厨房で寝ていた華子は変な音で目を覚ました。ぎぃぎぃぎぃ。断続的に繰り返される軋み音。夢現にそれを聞く。はじめはなんの音か分からなかった。うるさいな、と思いながら寝返りを打つが一向に音が止まらない。誰か起きないだろうか、とも思うものの、その気配はなかった。

 仕方なしに華子は起き上がった。音が鳴っているのは厨房と隣の部屋を隔てる扉だった。扉には中が見えるように小さな小窓がついている。寝ぼけなまこでそこを覗き込んで、はっと息を呑んだ。眠気は瞬く間に消えてしまった。

 扉の前にいたのは、あの(・・)女性だった。一番初めに噛まれて、一番はじめに発熱して、一番症状が重かった、あの女性。

 立ち上がれるほど治ったのね、とはとても言えなかった。女性の目は焦点が合っていない。青白い顔で、ただひたすらに扉を開けようと押している。ドアノブも回しているのか、ガタガタと動いている。

 ──ガアンッ!

 華子が呆然と突っ立っていると、女性は扉に体当たりをした。大きな音が響く。それが何度も繰り返される。

 流石の音に他の人間も目を覚ましたのか、華子のそばに次々と集まった。そして扉の向こうの女性の様子に息を呑んだ。

 ガアンッ! また大きく扉が鳴る。その様子を華子はただ目を見開いて見つめる。

 頭の中では最愛の息子と……オリヴィアのことが巡っていた。


「なあ、あの感染症について、お前は知っているんじゃないか?」

 そう夫に囁かれたのは、あの女性が始末・・された翌日だった。

 あの日、〝ゾンビ〟になったのはあの女性だけだったが、生存者たちは噛まれた人間を準感染者と定めたらしい。わずかに行われていた世話も行われることがなくなり、あれではそう遠くないうちに死んでしまうだろう。そう思う華子もまた、彼らの世話をする気がないので他人を責めることはできないけれど。

「……どうして?」

 夫の言葉に華子は小さく体の動きを止めた。それに気づかれないように平素の態度を心がけて首を傾げる。

「だいぶ前にオリヴィアについて問い合わせがあっただろう」

「ええ。……たしかに、彼女の事例に似ていないこともないわ。でも──……」

 夫は人間味が薄く、世の中に規範に沿うことで人間らしくみせる人間だが、運営者という視点で見れば無能ではない。当然、かつて自分の研究所に所属していた人間のことも覚えている。

 あからさまにはぐらかすべきではない。彼は最後には保身を大事にする人間だが、善悪というものをしらないわけではないのだ。皆のためにと悲劇のヒーロー(・・・・)になることも選べる人間だ。

「調べてみないと分からないわ。まったく違う可能性もある。私も、多くを聞いたわけじゃないの」

「そうか……? そう、か。だが、もしも同じなら、私たちの研究所には、あの子が……」

「あの子はまだ目覚めていないわ! 目覚めたって、あんなバケモノになるわけがない!」

「……ああ、そうだな。分かっている」

 息子のことに口を出されてカッとなった。夫は怯んだように口をつぐむ。「分かった」といいながらも、彼の瞳の奥には疑念が渦巻いている。彼のそれを晴らすすべを華子は持っていなかった。緊張を含む沈黙がふたりの間に漂う。

 それを遮るように離れた場所から「わあっ!」と歓声が上がった。

「救援隊が近くに来るって!」

「場所はすこし離れているけど、ずっとここにいるよりもマシだ!」

 生存者たちがラジオを囲んで興奮気味に話し合っている。どうやら自衛隊から避難の呼びかけがあったらしい。期日は明日の十五時。その時間に規定の場所に居ればシェルターまで連れて行ってくれるらしい。指定された場所はこのホテルから少し離れた公園だ。呼びかけが本当ならば危険を犯す勝ちがある。

 生存者たちは久しぶりの朗報に顔色を明るくさせた。決を採るまでもなく、どうするかは決まった。


 ◆◆◆


 ホテルを出た時点ではまだ脱落者はいなかった。目的地の公園までは歩いて十五分ほど。普段ならばなんてこともない距離だが、パンデミックが発生している現在はそう簡単なことではない。

 ホテルの外は思った以上に感染者たちが闊歩していた。彼らは生存者の集団に気づくと、ふらふらと近寄ってくる。もしも生存者がひとりであったならば、彼らの隙間を走り抜けられたかもしれない。だが生存者たちは複数人で、しかもそのメンバーには老人や子どもも含む。皆で固まって動こうとすればあっという間に感染者たちに囲まれてしまった。

 はじめのうちは感染者に全員で抵抗していたが、自分たちの劣勢を悟ると逃げ出す人間が出た。ひとりが逃げ出すとそれに続くようにして複数人が逃げ出していく。そうなればもう終わり。そもそもこの集団はたまたま今の期間にホテルに泊まっていた人間たちの集まりだ。固い絆に結ばれているわけでもなく、あるのはただ協力し合った方が己の生存確率が高まるという打算だけ。まとまりなどないようなものだ。それぞれがバラバラに逃げ出していく。

 華子ももちろん、逃げ出した。その後ろに夫も続く。周囲の悲鳴の声を聞きながら、ただ必死に走った。

 目的地まであと少し、というところだった。

「華子! 華子ぉ!」

 必死過ぎて、一瞬、その声に気づかなかった。だがもう一度「華子!」と呼ばれて振り向く。そこにはなにかに躓いて転んだのだろう夫がいた。すぐには立ち上がれないようで懸命に華子を呼んでいる。その近くには白濁した目をもつ感染者。

 華子は一歩踏み出して、しかしそこで足を止めた。

「華子?」

 この男は書類上は華子の夫だ。確かに愛を持っていた時もあった。だがこの男が、息子を殺したのだ。

 そして、この男はオリヴィアのことを知っている。そしてこのパンデミックに彼女が関係するのではないかと、疑っている。根拠はないだろう。だがこの男は知らない情報として、華子はこのパンデミックがはじめに起こった国がオリヴィアの母国だというのを聞いていた。一番初めに逃げ出した若い子に雑談の合間に聞いたのだ。SNSでそう言われている、と。

 まだオリヴィアとこのパンデミックを紐付ける決定的なものはない。だが華子は、ほとんど直感的に彼女がこの自体の始まりなのではないかと疑っていた。

 そしてなりより、そこから芋づる式に華子の愛する息子の存在を知られることを恐れていた。

 息子はあんなバケモノではない。そう信じたいと思う心とは別に、冷静に囁く声がする。

 あまりにも合致しすぎている。この自体は私たちの研究所から始まったのではないか。だとしたら……息子はどうなる。オリヴィアがはじまりのひとりだとしたら、息子もまたそうなる。だとすれば、〝研究〟と称してあの子はどうなるだろう。

 夫には期待できない。悲壮感を漂わせながら、しかし心の奥底ではしめた、と笑って息子を差しだすだろう。彼に自覚はないしないかもしれない。なぜなら彼はできるだけ自分が〝正しい〟人間でいるために、己の心すら偽るから。だから本当に苦渋の決断だと思って──けれど安心して肩の荷を下ろすだろう。

「……はなこ?」

 華子は駆け寄りかけた足を引いた。キョトン、と夫が華子を見る。まるで信じられないものを見るように。彼はもう一度口を開こうとして唇を開けた。感染者はもうすぐそばまで迫ってきていた。

 華子は踵を返した。悲鳴から早く遠ざかることができるように走る。

 だって、仕方がない。息子のためなのだ。あの子に酷いことはできない。それに、夫はあの子を殺そうとした。あの子を守るためだ。生かしておいたら、次こそ本当に殺されてしまうかもしれない。

 自分に言い聞かせるように思い込む。

 走る、走る。

 これがもうひとつの分岐点だった。

 華子は夫を切り捨てた。あの子のために、と言い聞かせて。

 ──もしかしたら、この地獄の始まりは自分なのではないか、厄災の箱を開いたのは自分ではないか、という疑問には蓋をして。


 ◆◆◆


 保護されてから、華子は己の身分を明かした。

 己が微生物の研究者であること。できることがあれば協力したいこと。

 華子以外の研究者も幾人かいた。同じシェルターに、というわけではなく、華子以外の人員は大学の施設で研究を勧めているらしい。それでも片手で数えられるほど。すでに原因のウィルスは特定できているものの、ワクチン開発は進んでおらず。

 はじめはまだ通信が繋がっていた。だがある時を境に外部との通信が取れなくなった。華子はひとりで研究を進めることになった。

 華子の懸念は当たっていた。原因とされるウィルスは華子が研究してきたものに酷似していた。多少の変異はあるが、限りなく近いもの。その事実は、華子の胸に黒いシミを作った。必死でそれを消そうとするが、そう簡単に消えるものでもない。それに、シェルターの中は安全な代わりに刺激が少ない。酒に溺れるのは難しく、できてせいぜい煙草を吸うくらいだ。はじめて吸って、まずいと咳き込んで、しかしそのまずさに救われたような気がして、たびたび手を伸ばした。

 研究は進む。華子はもう、戻れない。

 それから華子のいるシェルターが機能を停止するまで、華子は粛々と研究を続けた。その間にワクチンの下地は作ることができた。しかし完全なものではない。それ以前に、人に接種できるものでもない。

 そうして試行錯誤を繰り返しているうちに、シェルター内部でパンデミックが発生して、華子は研究室を追われた。そして、始まりの場所──華子の所属視する研究所を目指すことになった。今まで顔も見たことのない部隊に守られながら。

 首都からの移動は思った以上に大変だった。

 こうなってしまえば、移動手段は原始的な方法──徒歩しかない。車を使いたいところではあったが、道路という道路のところどころで衝突事故を起こした車が道を塞いでいたり、あるいは感染者の群れが道を塞いでいたりしてまともに移動できなかったのだ。仕方なく徒歩を選んで、しかしそれも楽ではなかった。

 ただ道というものは直線距離でまっすぐ進めるわけではない。その上、道の先には感染者たちがいることもある。それが少人数であればそのまま押し通るが、明らかに数が多い場合は避けて大回りをすることになる。そして夜はつなに柔らかなベッドで眠れるわけではない。むしろ、そうなることの方が少ない。硬い地面で、感染者の襲撃に怯えながら眠る。それは徐々に華子たちの体力を削っていった。

 目的地にかなり近づいてきた頃に、華子は大きく体調を崩した。それで近くにあった民間のシェルター──居住区に柵を張っただけの簡単なもの──に身を寄せた。熱が下がってすぐに出ていかなかったのはそれが必要だと思ったからだ。

 ここにたどり着くまでに、華子の護衛として着いてきた隊員の半数以上を失った。首都からここまでの距離よりも、ここから目的地の距離の方がずっと近いが、それでも全員が無事にたどり着けるとは思えない。首都から離れてから人口の影響か、都市部に近づかなければ車に乗ることができるようにはなってきてはいたが、それでも常にというわけにはいかない。ならば、今ここで不足している情報を集めるべきだと思った。

 設備は整っているとはいい難い。だが、今のタイミングしかないと思った。

 華子は今まで感染者たちの内部──ウィルスについての研究ばかりだった。だがそれだけではなく、その生態についても理解するべきだと思った。生き残るために。そして目的を果たすために。

 そうして必要な情報を集め、誰かの謀か、あるいは偶然かでそのシェルターを出ることになって。

 後少しで研究所というところに来るまでに華子を守る盾はふたりだけになっていた。

 逃げ込むようにして転がり込んだストリップバーでさて、と考える。さて、これからどうしよう。

 研究所へは行く。当たり前だ、それが目的地なのだから。だが、このふたりを連れて行くのか? しかし華子ひとりでは研究所までたどり着けるかも怪しい。だが、ふたりとも研究所に連れて行った場合、華子の思う通りに事が動かせる保証がない。

 数は力で、同時に抑止力でもある。強い敵であっても数があれば勝つことができるし、ひとりでいれば堕落するような人間も他人という目が多いほどに律される。道を踏み外しにくくなる。

 ふたりのどちらも、華子の言うことを聞いてくれるならばいい。だがそうでなければ。見るに、彼らは先輩と後輩だ。それもごく親しい。ぽっと出の華子よりもよほど。

 となれば、やはり連れて行くのはひとりがいいだろう。その方が華子もコントロールがしやすい。

 ならば選ぶのはどちらか。先輩か、後輩か。どちらも、華子よりも若い。だがどちらも、華子という〝女〟に好意を持っている。それに深さの差はあれど。

 華子はいままでの旅路を思い出す。どちらも人好きをするのか、言葉少ない華子にもよく話しかけてくれた。後輩の方は一歩引いていたが、それでも悪くない関係だったと思う。

 先輩は見るからに体格がよく、お調子者だ。ムードメーカーで、おどけてよくひとを笑わせていた。彼は人に好かれたがる傾向がある。共にいる人間に引きずられるタイプ。つまりは、誘惑に弱い。

 対して後輩は、力は先輩ほどはないが、慎重で細かいところに気が付く。自分中心的ではあるものの、十分に心優しい。人に引きずられる部分もあるが、どちらかというと個人の心情を優先するタイプ。おそらく、やろうとして誘惑できないわけではないが、彼の場合は慎重──ひっくり返せば怖がりだ。どうしたって先のことを考えてしまう。今回の目的で言えば、操りにくい。

 華子は先輩の方を連れて行くことに決めた。彼は華子に惚れていたから、誘導するのは案外楽だった。後輩が寝入ったところで言い寄った。そして朝方にふたりで店を出た。


 研究所にはうまく着くことができた。中はガランとしていて、少し埃っぽかった。パンデミックが起こってすぐは自宅待機を命じられていたようだから、職員たちはみな家に帰ったのだろう。彼らが今、どうなっているのかは知らないが。

 施設をひととおり見回って、いくらかは奴らがいたが、それもすべて男が始末してくれた。他には脅威がないことを確認して、男はほっと息を吐いて肩の力を抜いた。男にシャワーが使えるから休んでちょうだい、と部屋に案内する。男がそこに入ってすぐに扉を締めた。外から開けられない。異変に気づいた男が扉を叩く音がする。華子は足早に去った。


 数カ月ぶりにその部屋に入った。埃っぽい空気。あとで掃除をしてやらねばならない。それ以外はあの日、あいさつをした時から変わらない室内。そして変わらぬその子。華子はやっと肩の力を抜いた。

 落とした吐息が酷く疲れている。しかし華子はたどり着いた。ここに。ならば。ならば……。

 華子は愛する息子の冷たい頬を撫でて、疲れの滲む目元をきつく閉じた。

「ああ……──、」



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