活かせる前世の知識なんて無さそう
エレベーターが、上の階から降りてくる。扉が開いたその瞬間、小野優子はため息をつきたくなった。
‘何で、こいつと一緒になる訳?’
エレベーターの先客である中年男性も、同じ様にため息をついている。優子が住むこのマンションの管理組合理事長・安西だ。とはいえ、『理事長』だの『安西さん』などの名称で彼が呼ばれることは、数少ない。彼の陰でのあだ名は、『門番』だった。
「小野さん!夜にヒールで階段上がるの、止めてもらえる?響くんだよね」
案の定、優子がエレベーターに乗り込むなり、安西はまくし立て始めた。
「昨日の午後八時三十分!階段のとこまで行って、ちゃんと確認したんだからね。女のシルエットで、ベージュの靴だった」
安西が、優子の履いているベージュの靴を指さす。始まったな、と優子は嘆息した。誰に頼まれたわけでもなくマンション内を監視して回り、些細なことで住人を糾弾するのが、この男の生き甲斐なのだ。『門番』の呼び名は、ここから来ている。
「はい、すみません」
午後八時半くらいなら非難される時間帯ではないし、第一優子の靴は、さほど靴音の響かないローヒールなのだが。反論したところで通じる相手ではないので、優子はとりあえず謝ることにした。
「ったく、最近の女子大生は……」
安西がしつこくぼやいていると、またエレベーターが停止した。新たに乗り込んできた中年男性を見て、優子は顔をしかめたくなった。またもや、苦手な住人だったのだ。
「工藤さん、こんにちは」
それでも優子は一応挨拶したが、相手は黙殺した。この工藤という男は、大学病院に勤務する医師だそうだ。エリートぶりを鼻にかける彼は、他の全住人を見下しているのである。
「ちょっと、工藤さん!あんたにも、言いたいことがあるんだ」
一方、工藤相手でも通常運転の安西は、早速彼に噛みついた。
「管理人に、自分の自転車に積もった埃を掃除しろ、って言ったそうだね。そんなことで、管理人をこき使うもんじゃない。自分の自転車くらい、自分で掃除するもんだろ」
工藤は、クレーマーとしても有名なのだ。それにしても、そんな無茶ぶりをしていたとは。だが工藤は、平然としている。
「自転車置き場にある自転車なんだから、管理は管理人の仕事でしょう」
「管理組合規則を知らないと見えるな。第二十二条、管理人の職務内容は……」
わあわあと二人が言い合っていたその時、またもやエレベーターが止まった。扉が開くなり、甲高い声が響き渡る。
「こんにちはあ、皆様。今日も良いお天気ですわねえ。安西さん、工藤さん、小野さん。ご機嫌いかがでございますか?」
片山という主婦だ。いついかなる時も愛想が良く、一見すると感じの良い人、という印象である。だが……。
「まあっ、小野さん。恐れ入りますわあ。厚かましゅうございます」
片山が、大げさに目を見開く。たまたまボタンの近くにいた優子が、『閉』のボタンを押したからだ。さらに彼女は、優子に向かってペコペコと頭を下げた。
「本来ならばわたくしが閉めるべきところ、お手を煩わせてしまいました。本当に、本当に申し訳ございませんでしたわあ」
「いえ、大したこと無いので」
言葉少なにこう返しながらも、優子は内心うんざりした。片山は、全てにおいてリアクションが過剰なのだ。本人に決して悪気は無いのだが、このテンポに付き合い続けるのは、正直疲れる。優子は密かに彼女を『丁寧おばさん』と呼んでいた。
‘はああ。今日は、苦手な人たちばかりと一緒になっちゃったなあ……’
会いたかったのは彼らではなく桐村なのだが、と優子は内心思った。同じくこのマンションの住人男性だ。年齢は二十代後半か、長身で整った容貌をしており、垢抜けたファッションにいつも身を固めている。職業は不明だが、芸能関連ではなかろうかと優子は推察していた。愛想も良く、会えばいつも、爽やかな笑顔で挨拶してくれる。優子は密かに憧れていたのだった。
さっさと一階へ着かないだろうか。優子が本格的にため息をつきたくなったその時、不意にドンという音がした。それまでスムースに動いていたエレベーターが、停止したのだ。
「事故ですか?病院に遅刻するじゃないですか。理事長さん、あなた、定期点検はちゃんとさせてるんでしょうね?」
「わしに抜かりがあると思うか!あらゆる保守会社を検討して、最適な所に点検依頼したわ!」
「まさか、わたくしが乗ったことで重量オーバー?だとしたら、どうお詫び差し上げればよろしいのかしら!」
工藤、安西、片山の三人は、わあわあと騒いでいる。彼らをなだめようとした優子だったが、次の瞬間、エレベーターが急降下していくのを感じた。そして優子の意識は、ふっつりと途絶えた。
※※※
朝の日差しの中で、ジャスミン・オリオールは重い瞼を開けた。昨夜の酒がまだ残っているようで、頭がガンガンする。
‘完全に飲み過ぎちゃったわ……じゃなくて!’
ジャスミンは、勢いよくベッドから飛び起きた。前世の記憶を取り戻したではないか。
‘小野優子、という女子大生だったわ、私は。自宅マンションのエレベーター事故で死亡して、このセルフォシア王国のオリオール辺境伯夫人として生まれ変わったのよ’
安西たち三人は、あの後どうなったのだろう。気になるが、確かめる術は無い。それにしても、せっかく前世の記憶を取り戻したのだから、何か現在に活かせないだろうか、とジャスミンは首をひねった。
‘ラノベだと、前世の知識を活かして活躍ってのが王道だけど。私の場合……’
自慢では無いが、平凡そのものの女子大生だった。誇れる資格も特技も無く、ただ毎日酒を飲んで遊び歩いていただけだ。座右の銘は、‘酒は百薬の長’だった。
‘まあいいや。活かせる知識が無いんなら、仕方ない’
早くも諦めると、ジャスミンはベッドから起き出した。ベッド脇のテーブルには、無数の酒瓶が並んでいる。夫不在の日々が寂しくて、酒を飲んでは気を紛らわしているのがジャスミンの日常だ。夫ロラン・オリオール辺境伯とは、完全な政略結婚だった。妻と顔を合わせるのが気まずいのだろう、ロランは仕事にかこつけては、屋敷を留守にする。現在もそうだ。
‘前世の知識を活かして活躍できたら、夫も振り向いてくれましたってパターンがラノベによく書かれてたけど。私の場合は、当てはまらないわね’
夫のことはひとまず置いておくことにして、ジャスミンはガウンを羽織った。前世の女子大生時代、酒のお供に色々なつまみを探すのが趣味だったのを、思い出したのだ。だがこのオリオール邸では、つまみになるような食材はほとんど提供されない。厨房へ探しに行こう、とジャスミンは思った。
‘お酒を止めるつもりなんで、全く無いもんねーだ’
考えてみれば、前世でも今世でも酒を飲んでいるな、とジャスミンは苦笑した。




