第3話 冥府の女神
「……さっそく私の仕事ですね?」
緊急事態の報告を聞くと客将は青い瞳を鋭く光らせて冥府の主を仰ぎ見る。頷いた死の神はラビアを4本の腕で抱え上げ、先導役の黒い犬の後を追って深い渓谷を下へと駆け出した。
「我が使い魔よ、現場の様子はどんな具合だ?」
「騒ぎの中心は現世で因縁があった魂同士で、魔法まで使って戦っています! 魂ですから魔法が当たって消滅したり死ぬことはありませんが、周囲を巻き込んでの大騒ぎになっています。なんでも当主の座をかけて争っていた兄妹で、お互いの仕掛けた罠に誘い出されて死んだとか」
黒い犬の言葉に、振り落とされまいとクジャト神の服を掴んでいた公爵家の末娘が顔を上げる。胸元で身動ぎする彼女の何か言いたげな表情に気付き、クジャト神は客将の背をポンポンと軽く叩いた。
「無理はしなくて良い。俺が必ずそばにいる」
「囁くようなその声に、ラビアは全身のこわばりが解いて一つ首を縦に振った。
「クジャト様、あそこです!」
黒い犬の目線の先、渓谷の底の広間のようになった場所で半透明の身体の魂たちがにらみ合いをしている。魂のうち、片方はでっぷりとした腹の男。それに相対する二人組は、細面の女とその従者のような風情の青年である。男が大きな腹を気にしながら勿体ぶった動きで腕を振るった。魔法を使うための予備動作だ。しかしそれよりも素早く、女の方が実体のない指先から炎をほとばしらせて正面の相手にけしかけた。
「兄さまはいつも動作が遅いんですよ! だからこうして私に先手を取られる!」
「だが君の作戦はいつも失敗した。今だってそうさ、ティエナ」
ゴウ、と強い風が吹いて炎が散った。そこに立った肥満気味の男が疲弊した様子はなく、周囲で見守っていた死者たちがやいのやいのとはやし立てた。しかしすぐさま女の傍にいた青年が嘲笑を滲ませながら、透ける身体で吠えたてる。
「けれど兄さまは死んだんですよ。父さまから公爵家の当主の座も受け取らずに!」
「死んだのはティエナもお前も同じだ! ……くそッ、小賢しいラビアを排除したと思ったら今度はこれか! 家をほったらかしにしていたリパに当主の座を渡すわけにはいかん。私はお前たちを倒してこんな場所から出ていく、そこをどけッ!」
「ここを出て当主になるのはこのティエナよ! 援護なさい、わが弟。この私の前を遮るのなら、冥府の犬でもカラスでも、たとえ冥府の神であろうとも……ッ!」
ティエナの言葉は中途半端に途切れた。自分たちの目の前に無数の刃が落ちてきたのだから、それも当然だった。そして何より見覚えのある魔法だった。ティエナも長兄も次兄も顔を青くし、あるいは顔を強張らせてとっさに周囲に視線を巡らせる。そして……上方に彼女を見つけて目を見開いた。
冥府の風に赤茶の髪をなびかせた彼らの妹が立っている。死の神の隣に、生前と変わらぬ姿で立っている。だがどこかおかしい。そう、「生前と同じ姿」で立っている。透けていない、つまり魂ではない。
なぜ? 彼女は「死の神の花嫁」として死んだはずだ。だというのに、彼らとは違う。ただ死したのではない、何か特別なものになっている。
それを兄妹の誰もが直感的に感じた。
「ラビアァァァァァアッァアッ!」
憤怒と怨嗟の交ざった声を上げたのは長女ティエナだった。フワフワした魂になってしまったはずの身体なのに、炎でできた剣を透けるような手に握って、凄まじい勢いで死んだはずの腹違いの妹に斬りかかる。しかしラビアは退くどころかむしろ一歩前に踏み込んで、中空に出現させた剣を握って正面から灼熱の斬撃を受け止めた。
「ラビア!」
背後で死の神クジャトが切羽詰まった声を上げたが、武勇の誉れを身体に刻んだ乙女は勝気な笑みを浮かべて剣を握る腕に力を込めた。
「そこで見ていてください、クジャト神! 私がどれだけあなたの花嫁に、冥府の女王に相応しいのか!」
その言葉に、クジャト神が顔いっぱいに驚きと喜びを表した。
激しい音を立てて、ティエナの身体が後方に吹き飛ぶ。そのまま体勢を立て直す隙を与えず、ラビアは頭上に無数の剣を出現させてけしかける。彼女の自慢、父譲りの「刃の魔法」である。
「花嫁? こともあろうに、お前なんかが神々の一角の花嫁だと?!」
「私をクジャト神に花嫁として差し出したのはあなた方でしょう!」
姉の傍に駆け寄った次兄が無数の刃の雨を巨岩で防ぎながら、苛立ったように悪態つき、岩の塊をラビアの方に殺到させた。死の神の花嫁はティエナにけしかけた剣の群れを呼び寄せて宙に舞わせ、それらを魔法でひとつの巨大な斧に作り替えた。重厚な刃がその質量で岩石を叩き割り、冥府の大地がズドンと揺れた。足元に巨岩が落ちると次兄は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
だが長女ティエナが立ち上がった。公爵家当主に相応しいという自負とそのための努力はこの程度のことでひるまない。炎を握りなおして長槍の形にして妹が握る剣を弾き飛ばし、それと一緒に彼女まとうケープを剥ぎ取った。その勢いのまま、燃える穂先で刺繍の施された上衣のボタンを引きちぎると、ラビアの肩口の傷が覗いた。
「こんな醜い身体のお前が、私に一度も勝ったことのないお前が……ッ、お前が!」
癇癪じみた罵声を上げるティエナを前に、よろめいたラビアは体勢を立て直し、燃えて中途半端に身体に引っかかった刺繍の上衣を脱ぎ去った。
「ダメにしてすみません、クジャト神」
「気にするな。……いけるか?」
「はい!」
燃えた上衣をクジャト神に預けて鋭く肯定で返事したラビアの、キャミソールから露出した白い背。小柄な乙女の、傷一つない小さな背だ。けれど今はそれ以上の存在感をもって衆目に映った。
ラビアが宙に手をかざす。無数の刃が現れる。そのきらめきにティエナの目に脅えが滲み、それを隠すように彼女は甲高い声を張り上げる。
「私に一度も勝てなかったくせに、今頃何よ!」
「だけど私のこの背には逃げ傷のひとつも無い! これこそ、決して姉さまたちを前にして逃げず屈さず、背後を取られたことも無い、私の抵抗と武勇の証左。あなた方が本当の意味で私に勝ったことなんて一度もないんだ!」
その気迫に怯んだティエナに鋭い剣閃が叩き込まれた。半透明の幽体が大きく揺らいでその場に倒れこむ。だが息をつく間も与えず、ラビアに鋭い風が叩きつけた。
「筋は悪くないのだがな、どうにもティエナは先手を取りたがる癖がある。私に言わせれば愚策の極みだ。力を出すタイミングを見極めてこそ智者。さあそこを退け、ラビア。私は現世に戻る、父上から当主の座を受け継ぐのはこの私だ!」
丸い腹をゆすって長兄が笑っている。鈍重そうな身体に反し、繰り出される魔法は鋭く正確。公爵家の次期当主の肩書に恥じない鍛え上げられた技量。だが、その栄光もすでに過去のものだ。痛ましいものを見るように兄を見つめ、冥府の客将は再び剣を構える。
「そこを退くのは兄さまです。ここは死の国、クジャト神のつかさどる冥府なれば。この地にたどり着いた者が現世に戻れぬのは、子供でも知ること!」
暴風が吹き荒れて、その凄まじさに周囲の魂たちがふわりと浮き上がる。クジャト神が彼らを回収し、使い魔のカラスたちに託しながら剣を振るう花嫁を見下ろした。
宙に無数の武器を浮かせたラビアは風の抵抗が一番弱い場所を探しだす。浮いた武器を素早く収束させて一本の槍に変化させて魔力を通し、風の影響が一番少ないをめがけてそれを突貫させた。風を貫く槍にその奥にいた長兄が焦った声を上げるが、反撃の間は与えない。兄に向って駆け寄りながら、その手に剣を握る。慎重さゆえにティエナらの策謀を潜り抜けた長兄は逆に言えば初速に欠けた。
「待て、待て、ラビア! 私が悪かった、私が公爵位を得たらお前を次期当主にしてやるから!」
「ごめんあそばせ、兄さま。私が欲しいものはもうすべて私の中にあるの! さあ、これで終わり! 大人しく転生の列に加わって!」
魔力の輝きをまとった剣が渾身の力で振り下ろされた。魂は消滅はしないが衝撃は受けるらしい。膝から崩れ落ちて気絶したようになった長兄や長女たちの半透明の身体を、四本腕の死の神が軽々と担ぎ上げると、すかさず使い魔の黒い犬たちが彼らを回収して奥に連れて行く。手が空いた途端、クジャト神は黒と金の目を輝かせて4本の腕でラビアを強く抱擁して抱え上げた。
「ラビア、ラビア! まったく目を奪われるような見事な口上、見事な立ち姿、見事な魔法だ! 俺が無茶を言って客将なんてものを頼んだ上に、実の兄妹たちを相手にするなどと戸惑っただろうに……」
冥府の王は無邪気な笑みを浮かべたが、次第に眉を曇らせてうつむいた。その一連の流れをまじまじと見つめていたラビアは頬傷のある顔に微笑を浮かべ、クジャトの厚い肩に手を置いてごく自然な口ぶりで言った。
「クジャト神。結婚しましょう、私たち」
死の神がピンと背筋を伸ばし、弾かれたように顔を上げて花嫁を見つめた。だが視線をうろうろとさ迷わせ、良いのか、と小声で問う。らしくない態度に、花嫁はクジャト神の頬を両手で挟んでグイと視線を合わせた。
「良いから申し上げたんです。お返事を頂けて?」
「もちろん、もちろんだ! 喜んで、ああ、是非に! ラビア、我が花嫁、我が冥府の女王よ!」
ぱっと破顔して明るい笑みを浮かべたクジャト神がその場に膝をついた時、向こうの方にいた使い魔の黒犬やカラスたちが群れになって駆けてきて、一斉に口を開いた。
「おめでたいところ申し訳ないんですが、緊急事態です!」
「冥府の川の穢れが溢れてきています! だから言ったじゃないですかクジャト様、川の穢れ祓いはこまめにしてくださいって!」
「川の傍にいた魂たちは被害が及ばないようにすべて退避させ、我らで押し留めていますが、急いで来て迎撃してください!」
目をぱちくりさせていた冥府の神は花嫁をその場に留めおこうとしたが、冥府の女王はぐいとクジャト神の脇腹の方の腕を引いた。
「対等な者として一緒にいるんでしょう?」
冥府の女王の青い瞳が輝いて冥府の王を射抜く。それだけで充分だった。クジャト神は花嫁を抱え上げ、そのまま力強く地を蹴った。凄まじい跳躍だ。時折、あちこちに露出した岩や水晶を足場にして飛ぶように駆け、魂たちの道順の奥へ急ぐ。次第に水音が聞こえ始め、あたりが暗くなった。鍾乳洞のような洞窟に入ったらしい。とたんに視界に靄がかかったが、すかさずクジャト神は巨大な鎌を振るってそれを切り裂いた。
「今の靄が、冥府の川で洗い落とした魂の記憶や感情、罪の類だ。これらの穢れは川に溜まるのだが、ちょっとサボるとすぐこれだ」
だからサボるなって言ってるでしょ、と口々に文句を言う使い魔たちが穢れを引き裂いて充分な広さのある足場を確保すると、冥府の王がそこに立ってラビアを降ろした。靄は意思を持っているかのように宙を動き回り、死の神とその花嫁を取り囲もうとしている。冥府の女王は素早くクジャト神と背中合わせになるように立って剣を構えた。初めての共同作業ですね、と使い魔たちが茶化すと4本腕の巨漢は面白がりながら巨大な鎌を構えて歌うように言った。
「このクジャト、病める時も健やかなる時も、苦しき時も悩める時も」
大鎌が唸って、靄を蹴散らす。
「このラビア、悲しめる時も喜べる時も、貧しき時も富める時も」
冥府の女王の頭上に現れた無数の武器が流星のように宙を走って黒い靄を貫く。
「互いを敬い、互いを慰め」
ブーメランのように飛んだ大鎌が死角に潜んでいた靄まで裂いていく。
「互いを助け、互いを慈しみ」
魔力をまとった刃が振られて飛んだ斬撃が、遠方の靄を消し去った。
「真心を尽くしてラビア女神を愛することをここに誓おう!」
「真心を尽くしてクジャト神を愛することを誓いましょう!」
川の穢れが消え去ったことを確認した二人が顔を見合わせ笑みを浮かべる。この冥府の新しい夫婦に使い魔たちが揃って問うた。
「何に誓って?」
答えは間髪入れず、堂々と朗々とした声で。
「我が二対の腕に誓って!」
「我が傷に誓って!」
***
地上に対して死の神クジャトから神託が下ったのは、実に、国一番の公爵家の葬儀の真っ最中のことだった。
5人の子供たちのうち長男と長女と次男、末の妹の4人が、危篤状態の現当主を置いて一気に死に絶えたことは国中でも噂の的になっていたが、この神託の一件は人々を大いに驚かせた。
否、神託というほど堅苦しいものでもない。4人の兄弟姉妹の葬儀を病床の父に代わって執り行っていた次女リパが、死の神の紋章が刻まれた祭壇に祈りを捧げていたとき、その声が響き渡った。
「皆に報告がある。冥府の主、生死の境の番人、死の神、古き神々の子にして古き神々を屠りし者、大海神の弟であるクジャトはこの度、公爵家の末娘ラビアを我が妻として迎えた。勇敢で気高い、俺の最愛である。同時に俺と共に冥界の秩序を守る、冥府の女王でもある。というわけで、以後よしなにたのむ」
兄たちはともかく、末の妹のことを思って涙をにじませていた次女リパは泣くことも忘れて唖然とした。「ラビアです、よろしくおねがいします」なんて少し照れたように挨拶するあの懐かしい妹の声が聞こえたのだからなおさらだ。
多くの者が集う大貴族の葬儀の席のことであったから、この一件は国を超えて知れ渡り、神話には新たに「冥府の女王」という項目が加わることになった。
公爵家の次女リパはこれ以後、クジャト神とその妻たるラビア女神を篤く敬うようになった。危篤状態だった公爵家の当主が痛みもなく眠るように亡くなると、父の座を継ぎ、最期は孫やひ孫に囲まれて100歳で天寿を全うするまで健やかに生きたらしい。これもひとえにクジャト神とのラビア女神への信仰のたまものであると、後世の人々は語ったという。




