天野蓮のこと
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〜東雲千尋〜
靴を脱いで上がると、どこか懐かしさを感じさせる匂いが鼻を満たしていく。
廊下の壁には子どもたちが描いた絵や折り紙が飾られ、奥の方からは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「まだ朝ご飯の片付けをしてる子もいるから、少し静かだけどね」
振り返った椎名さんが優しく笑う。
若々しくて落ち着きのある椎名さんの声は、とても親的な立ち位置にいる人とは思えない。失礼だとは分かっているけど、年齢が気になってしまうわね。
「は〜いみんな。お客さんよ、テーブル片付けてちょうだい」
張った声でそう言いながら、椎名さんが一枚の押し戸を開けた、その時。
向かって全面に構えられた窓から朝日が差し込み、視界がぱっと明るくなった。
「ま、まぶし……」
私は反射的に目を閉じてしまい、明るくなった視界がまた真っ暗になる。
いきなりのことで脳の対応が遅れたのか、力んで瞼が重くなっていると、次はドタドタと勢いのいい足音が聞こえてきた。
……え。
恐る恐る目を開けた、その瞬間。真正面に、小さな女の子の顔があった。
「きゃっ……!」
思わず悲鳴じみた声が漏れて、身体がぐらりと傾く。びっくりした拍子に足がもつれ、咄嗟に床へ手をつきそうになった。
けれど、女の子の方は私には見向きもせず、そのまま横をすり抜けていく。
「れんにぃー!」
明るい声と一緒に、その小さな身体が後ろにいた天野へ勢いよく飛びついた。
「おっと」
天野は慣れた様子でそれを受け止めると、苦笑しながらその子の頭を軽く撫でる。
「急に飛びつくなって」
その一言を合図にしたみたいに、奥からも次々と子どもたちが顔を覗かせた。
「れんにぃだ!」
「遠くに行ったんじゃなかったの⁉︎」
「遊べるの⁉︎」
わっと広がる声の中心で、天野は困ったように笑っている。
けれど、その手つきはやけに自然で、飛びついてくる子どもたちを一人ずつきちんと受け止めていた。
私はその光景を、するべきだった瞬きも忘れたまま見ていた。
▽
「……改めて、今日はありがとうございます」
遅れてそう口にすると、椎名さんは私へ椅子を勧めた。
「そんなに堅くしなくていいのよ。来てくれただけでも嬉しいんだから」
柔らかく笑う椎名さんの向かいへ腰を下ろす。部屋の外からは、子どもたちの賑やかな声が絶えず聞こえていた。
さっきまでここにいた天野は、椎名さんの催促も加わり、二週間ぶりに小さい子たちの面倒を見ることになった。
このわちゃわちゃしている輪の中心にはきっと彼がいるのだろう。でも子どもたちの面倒を見るというよりは、面倒を見られている気もするけれど。
ついさっきの囲まれた姿を思い返すと、自然と口元が緩んだ。
「蓮はあの子たちに捕まっちゃったみたいね」
「……そうですね」
「一度捕まると、当分帰ってこないのよ」
そう言って椎名さんは肩をすくめる。
「ずっと、ああだったんですか?」
気付けば、そんな言葉が口をついていた。
「ええ。あの子が自立するようになってから……かしらね」
懐かしむように目を細めてから、椎名さんは続ける。
「何かをするわけでもなかったのに、不思議と子どもたちは蓮のところへ集まるのよ。私も女だからさ、彼にしか出来ないこともあるし、お兄さん的な存在だったのかもとも思っているわ」
こうして言われてみれば、どこか納得してしまう自分がいた。
本人は不本意でしょうけれど、放っておけない性格なのは、ここへ来てから何となく分かってきた気がする。
姉の私が言うべきことではないのかもしれないけれど、兄としての素質を持ち得てる、そう思えるくらいには。
「ま、そのせいで私が夜中に勉強付き合ってたんだけどね」
「——————え? 椎名さんがですか?」
付け加えて嘆息まじりに言われた言葉に、私はめり込むように反応してしまう。
まさかあの勉強バカに師がいたとは……。
「えぇ、そうよ。あの子英語が特に苦手だったから、小学生の頃からみっちり教えてやったわ」
『今でもまだまだだけどね』と、椎名さんは窓の外を見たまま楽しそうに笑う。
間接的に私が苦しめられていると、目の前の方は知らない。
胃が痛くなりそうね。
「でもアイツ、私たちには変なこと言ってばかりなんですよ。椎名さん」
話を戻そうと、私は思ったままを口にする。
すると椎名さんは視線をこちらへ戻したかと思うと、堪えきれないとでも言うように声を上げて笑った。
「へぇ〜それほんとなの? あの蓮が? 面白いとこもあるじゃない」
ひとしきり笑った椎名さんは、目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、それでもまだ口元を緩めている。
「あの子ねぇ、小さい子たちにこそあんな風にしてるけど、『人と話すの好きじゃない』って昔からずっと言ってたのよ」
その言葉に、私は思わず視線を上げる。
「……そう、なんですか」
「ふふ、そんなに落胆する必要はないわ。蓮、いつもはそんな性格かもしれないけど、一人で何でもやってしまう割には、困っている人をちゃんと助けることができる素晴らしい人なの」
椎名さんは微笑みながらそこで一度言葉を切ると、再び懐かしむような目つきをして、窓の外を見た。
「だからっていうのもアレだけどね、あの子はいつも自分がどうしたいかより先に、結局目の前のことを片付けちゃうのよ。褒めても『別に』で終わるし、助かってる人がいるのに本人だけは特別だと思っていない。そこが厄介でもあり、あの子らしいところでもある」
「当の本人は、何も感じてないんでしょうけどね」
「無意識……ですか」
こくりと考え込んでしまう私に、椎名さんは『でもね、千尋ちゃん』と続ける。
「それは、私たちみたいな周りの人が気付いてあげるからこそ、素晴らしいことだって分かるのよ」
なぜか呆れたように笑う椎名さんにつられて、私も思わず口角があがってしまった。
「だからまぁ、少しぐらいお仕置きした方が彼にも分かるかもしれないわね」
「ふふ、そうですね」
悪戯っぽく片目を瞑る椎名さんに、私は笑みを口に出す。
『人に何かをやってあげること』天野自身はきっと、それが特別だなんて思っていない。
だからこそ、周りは自然と助けられているのかもしれなかったし、何も言わないから、当たり前だといつのまにか思ってしまう。
私が感じるよりもずっと、天野は自分の輪郭を作っていると思っていたけれど。でもそれは、確認する人がいなければ何もわからないのと同じだったのね。
「それで……千尋ちゃんは、今日はどうしてここへ?」
不意に向けられた問いに、私は言葉を探さなかった。
「知りたかったんです」
「蓮のこと?」
「はい」
それ以上は続かなかった。
優しいのか、頼れるのか、面倒見がいいのか。そういう言葉では足りない気がするのに、他にしっくりくるものもまだ見つかっていない。
椎名さんはそんな私を見て優しく笑い、部屋の外から聞こえてくる賑やかな声へ耳を傾ける。
「だったら、見てきなさい」
「え?」
「あの子のことは、私が話すより子どもたちの中にいる姿を見た方がずっと分かるもの」
そう言って立ち上がると、椎名さんは廊下へ向かって歩き出す。
「今日は人手も足りないし、よかったら手伝ってもらえる?」
その誘いに、私は迷うことなく立ち上がった。
「はい! 私でよければ!」




