思わぬ目的地
※
〜東雲千尋〜
遠くで誰かが話しているような声が聞こえる。
夢と現実の境目を漂うような意識の中で、その声だけが少しずつ輪郭を持ち始めていた。
『――終点です。お降りの方はお忘れ物のないよう、お気を付けください』
聞き慣れた車内アナウンスに導かれるように、重かった瞼をゆっくりと開く。
窓の外はもう流れておらず、バスは静かに停まっていた。
私……寝てしまったのね。
ぼんやりした頭のまま身体を起こそうとして、思うように動けないことに気付く。
左肩に感じる温もり。
何に寄り掛かっていたのか理解するまで、それほど時間は掛からなかった。
「ん、起きたか。よく寝てたな」
寝起きの私に、隣の天野はいつも通りの調子で声を掛けてくる。
終点に着いているというのに、本人はまだ何も準備していなかった……じゃない。
準備をしていないんじゃなくて、私が起きるのを待っていたのだろう。
そう考えた途端、さっきまでの眠気が一気に引いていく。
「その……悪かったわね」
小さくそう言って身体を離す。
「別に気にしてない。起こそうか迷ったけど、気持ち良さそうに寝てたから迷ってただけだ」
「そういうことじゃないのよ……」
まさか寝顔まで見られたんじゃないでしょうね。
聞く勇気はなくて、その言葉だけ胸の内へ押し込める。
私は慌ててバッグを肩へ掛け直し、座席から立ち上がった。
「忘れ物ないか?」
「えぇ、大丈夫よ」
先に立った天野に続いてバスを降りる。
外へ出ると、ほのぼのとした陽気が私たちを包み込んだ。
終点らしく、停まっている車は数台で、小さな待合所と緑の多いロータリー。
その向こうには背の高い木々が並び、山から吹いてくる風が静かに葉を揺らしている。
ここまで来ると、多少は建物もある。
今日の目的地は、ここから歩いてちょっとのところだった。
※
一時間と言われると長く感じるものだと思ったが、経ってみると案外そうでもなかった。
ほぼ変わらない緑が続いていくだけだし、俺が孤児院にいた時とも差分のない退屈な風景だったはずなのに、惰性というか何というか……特別な感情を持っていたわけでもないが、気付けば時間が経っていた気がする。
気持ちよさそうに寝ていた割には、慌ただしく準備をする次女にかられて、俺はさっと荷物をまとめて外に出る。
ストイックなのかドジなのかどっちかにして欲しいな。とも言ってやろうかと思ったが、顔がピンクがかっていたので、追い討ちをかけるのはやめておいた。
「私たちだけみたいね」
「まぁまだ朝だしな」
停車所に建てられている時計が9時を回ったところであることを確認して、大きく伸びをすると、動いてなかった体の節々がピキピキと音を立てた。
次女はそんな俺に見向きもせず、サメのキーホルダーが揺れるスマホを取り出す。
指の動きからして地図アプリを開いているようだ。
「……まさか道、分かってないのか?」
その一言に肩がぴくりと跳ねる。スマホを握る手にわずかに力が入り、彼女は慌てたように画面を閉じかける。
「失礼ね。確認よ、確認!」
行きたい場所があると言うからてっきりよく馴染みのある場所なのかと思ったが、そうではないらしいな。
若干皮肉も混ぜた俺の言葉に対して、まったく……と口篭らせる次女は、やはりどこか落ち着いていない様子だった。
「ほら、行くわよ」
「へいへい」
スマホをバッグに入れてボタンを閉めたことを確認すると、こちらをちらっと一度だけ見て、次女が先に歩き出す。
バスに乗る前よりも軽そうな足取りに、俺もゆっくりついていった。
▽
空気感が柔らかくなったとは言えど、俺たちの間に会話が生まれるわけでもなく、ゆっくりと時間だけが過ぎていった。
相変わらず目的地は教えてもらっていないし、聞いたところで教えてくれる気もしていない。だがマップを目的地手前で確認するぐらいってことで、そんな未知の中でも期待している自分もいた。
まぁ、運動しないがちな俺からすれば、ウォーキングだけで十分な収穫にはなってるんだけどな。
朝早くというのもあってか人通りは少なく、街もどこか静かだった。ドラッグストアなどの開店準備がちらほら見えるくらいで、耳に入ってくるのは俺たちの足音と、風が木を揺らす音くらいだ。
隣を歩くでもなく、二歩ほど前を歩く彼女の後ろ姿をぼんやり眺めながらついていく。
横顔は俺からギリギリ見えない位置にあるものの、後ろ姿だけで見れば、彼女は若干緊張しているようにも思えた。
何か話しかければいいってことでもないし、体調が悪いならそれはそれでよくない。
どう探りを入れようか頭を悩ませていたところ、赤信号で足が止まり、次女が口を開いた。
「あなた、終始無言だけれど疲れてるの?」
「……え?」
俺が驚いたような声を上げると、次女は舐めまわすように俺を一度見てから、すぐ前を向き直す。
「やっぱり何でもないわ。忘れて」
タイミングよく信号は青になり、次女はまたスタスタと先を歩き出していく。
何でもないと言われてしまえば、それ以上開ける口も俺にはなかった。
気にはなったものの、余計な心配は返って苛立たせてしまう可能性もある。特に次女みたいな性格であれば。
女性付き合いというのは難しいものだと、二人の時とは違ったもので感じた。
▽
そうしてまた数分ほど無言のまま歩いていくと、街並みもだんだん変わり始め、店よりも住宅の方が目立つようになってくる。
目的地が近いのか、次女の歩く速度もさっきより少しだけ上がっていたように思う。
そこでようやく俺の頭が違和感を覚えた。
電柱や塀なんてどこも似たようなものだが、一度気になってしまえば嫌でも目に入る。
この道を曲がれば、◯◯外科の広告があって……そう、ここは通学路注意の看板もある。
俺は歩いたことがあった、この道を幾度となく。
そう思った時には、視界の先に見慣れた門があった。
声を出すより先に、玄関の扉が開く。
「いらっしゃい! よく来たわね」
ついこの間まで聞いていた、姉妹たちよりも少し大人な声。
次女は俺から更に一歩前へ出ると、小さく頭を下げる。
「本日はよろしくお願いします」
「あら〜、可愛い女の子じゃない。どうぞ入って。ほら、蓮も早く入りなさい」
「……は?」
孤児院『天使園』の母的存在、椎名さゆりに、俺だけが取り残されていた。
あとで改稿するかも!




