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第百七十七話「葡萄畑の午後」



ベオルブ領、ガランの実家の葡萄畑。星海連盟発足から1年が経ち、穏やかな午後の陽光が、たわわに実った葡萄の房を黄金色に染めていた。


「メル、集中しなさい」


ニーナの声は静かだが、有無を言わせない威圧感があった。彼女の前で、黒髪の少年が小さな法石と格闘している。まだ三歳になったばかりの小さな手で、必死に法石を浮かせようとしていた。


「どうしてこの程度のこともできないの?」


メルと呼ばれた少年は、唇を噛みしめながら額に汗を浮かべている。法石がわずかに震え、一瞬だけ浮き上がるが、すぐに地面に落ちてしまう。


「もう一度」


ニーナの指示は容赦ない。彼女の赤い瞳は、息子の一挙一動を見逃さない。まるで、かつて自分が受けた訓練を、そのまま息子に課しているかのようだった。


家の扉が開き、ガランが姿を現した。


「おーい、二人とも」


彼は穏やかな笑顔を浮かべながら近づいてきた。メルの疲れ切った顔を見て、眉をひそめる。


「メル、疲れただろ?」


ガランは葡萄を一房摘み取り、息子の前に差し出した。


「ほら、これ食べてみな。今年のは特別甘いぞ」


メルは無言で葡萄をいくつか掴み、口に運んだ。紫色の果汁が唇を濡らす。


「それに、母さんがご飯作ってくれたぞ。今日は肉じゃがだ」


ガランは息子の頭を優しく撫でた。


「練習はここくらいにして、ご飯食べよう」


メルは小さく頷くと、家に向かって駆け出した。小さな足音が土を蹴る音が、静かな畑に響く。


ガランはニーナに向き直った。


「なあ、ちょっと厳しいぞ、あれ」


彼の声には苦言が含まれていた。


「現役のブレイドでも、法石を浮かせられない奴はいっぱいいるのに」


ニーナの眉が釣り上がった。


「あなた、甘やかさないで!」


彼女の声が鋭くなる。


「メルベルの子は、もうあのくらいできてるわ!ラムザだって、同じ年齢の時にはもっと」


「メルベルの子は五歳だよ。二つも年上じゃないか」


ガランは肩をすくめた。


「メルはまだ小さい。他の子と遊んで、友達を作って、人との関係性を学ぶべきなんだ。それに楽器とか、絵とか、そういう情操教育の方が」


「それは好きにすればいいわ!」


ニーナの声が更に高くなった。


「私があなたの教育方針に口出したことはないでしょう!?釣りに連れて行くのも、農作業を手伝わせるのも、文句言ったことある?」


ガランは困ったような顔をして、小声で呟いた。


「教育ママはこれだから...」


ニーナの目がギラリと光った。殺気にも似た視線に、ガランは慌てて両手を上げて降参のポーズを取る。


その時、メルが走って戻ってきた。小さな手には、一枚の紙が握られている。


「見て!」


少年は誇らしげに絵を掲げた。


それは、子供らしい無邪気な筆致で描かれた家族の絵だった。


「お!メル、上手だな!」


ガランは感嘆の声を上げた。


「いつの間にこんなに絵が上手くなったんだ?すごいじゃないか!」


彼は息子の頭を大きな手で撫でた。メルは満足そうに微笑むと、今度はニーナに絵を差し出した。


ニーナは絵を受け取り、じっと見つめた。


空の色。濃い青から薄い水色へのグラデーション。三歳の子供が、空は一色ではないことを理解している。雲の形も、ふわふわとした綿のような部分と、薄く広がる部分が描き分けられていた。


家の脇に立つ大きな栗の木。幹のうねり、右に大きく曲がってから上に伸びる独特の形。メルはきっと、この木の下でよく昼寝をしているのだろう。だから、下から見上げた枝の広がり方、葉の裏側の薄い緑色まで覚えている。木の根元には、メルがいつも座る平たい石まで描かれていた。


壊れかけた納屋の屋根。右側が陥没して、そこから雨漏りする様子を見てきたのだろう。トタンの錆びた赤茶色と、新しく修理した部分の銀色。その違いまで、クレヨンで表現しようとしている。


庭を囲む石垣は、大きな丸い石と、小さな平たい石が交互に積まれている。苔の生えた部分は深い緑で、日の当たる部分は薄い灰色。メルが虫を探して遊ぶ、あの石垣だ。


茶色い犬のポチ。片耳が垂れて、もう片方が立っている。尻尾の先だけが白く、首輪の赤い色。いつもメルの後をついて回る、優しい老犬の特徴が全て描かれている。


そして、家族の姿。


ガランは背が高く、大きな手。いつも着ている茶色のシャツの、胸ポケットまで描かれている。優しい笑顔と、少し無精髭が生えた顎。


自分の姿を見て、ニーナは息を呑んだ。赤い瞳に、朝必ずつける薄紅色の口紅。青いドレスの裾の、小さな花の刺繍模様。髪を結ぶリボンの形。メルは毎朝、自分が身支度をする様子を見ているのだろう。母親はこういう人だ、という幸せな観察が、全てこの絵に込められていた。


祖父母のロベルトとマルタも、それぞれの特徴が描かれている。ロベルトの曲がった腰と杖、マルタのエプロンと優しい目尻の皺。


メル自身は両親の間で、両手を広げて笑っている。黒い髪に、父親譲りの褐色の肌。母親からもらった、少し上がった眉の形。


これは、実在する家族の絵だった。毎日見て、触れて、愛されている子供だけが描ける絵。


ニーナは震える手で絵を持ったまま、かつての記憶と重ね合わせた。


孤児院で描いた絵。想像の父は顔がなく、母は輪郭だけ。家は四角い箱で、庭も犬もなかった。灰色のクレヨンばかり使った、寂しい絵。


でも、自分が本当に描きたかったのは、これだったのだ。この温かい色彩、この幸せな観察、この確かな存在感。


目の前の小さな画家は、自分から生まれた存在。自分が夢見て、諦めて、そして奇跡的に手に入れた幸せを、当たり前のものとして描いている。


「母さん?」


メルが不安そうに見上げている。


ニーナは息子の頭にそっと手を置いた。柔らかい黒髪が、指の間を滑る。


「本当に...上手ね」


声が震えそうになるのを必死で抑える。


「飾ってもいい?」


「ええ...みんなの見えるところに...飾りましょう」


「ん!」


メルは短く返事をすると、家に向かって走り出した。夕陽を浴びて、その黒髪が黄金色に輝く。まるで、光の糸で編まれた王冠のように。


「俺も手伝うぞ」


ガランが息子の後を追う。


ニーナは一人、その場に立ち尽くしていた。


揺れる葡萄の葉の間から差し込む光。息子の笑い声。夫の優しい声。義父母の温かい眼差し。全てが、かつて夢見て、そして諦めた光景だった。


これは現実なのだろうか。


ふと、恐ろしい考えが頭をよぎる。もしかしたら、自分はどこかで死んでいて、これは最後に見る幻想なのではないか。あの数々の冒険の中で、銃で撃たれたか、剣で貫かれたか、塩と化して消えたか。


足元がふわふわと浮いているような感覚。幸福と恐怖が入り混じった、奇妙な陶酔感。


「おい、ニーナ?」


ガランの声で現実に引き戻される。


「さあ、夕食にしよう。母さんが待ってるぞ」


彼は心配そうに妻を見つめている。


「大丈夫か?顔色が」


「ええ...大丈夫」


ニーナはゆっくりと歩き出した。家の入り口で、メルが待っている。


「母さん、早く!」


小さな手が、自分の手を掴む。温かい、確かな感触。


これは夢ではない。これは現実だ。


ニーナは息子の頭をもう一度撫でると、家の中へ入っていった。扉の向こうから、義母マルタの優しい声と、料理の香りが漂ってくる。


葡萄畑を渡る風が、穏やかに吹いていた。


かつて、彼女は孤児として、軍人として、そして女帝として、数えきれない戦いを生き抜いてきた。裏切りと陰謀の中で心を閉ざし、愛することを恐れ、幸せを信じられなかった。塩化爆弾の恐怖、帝国の崩壊の危機、命を賭けた戦い。全てを乗り越えて、ようやく辿り着いた場所。


それは、壮大な宮殿でも、星の彼方でもなく、葡萄畑に囲まれた小さな家だった。


夕陽が、彼女の歩んできた長い道のりを優しく照らしている。孤児院の冷たい床、戦場の血と硝煙、玉座の重圧。その全てが、この瞬間のためにあったのかもしれない。


扉を閉める時、ニーナは振り返った。


空には最初の星が瞬き始めていた。かつて征服を夢見た星々。今は、息子と一緒に眺める美しい光。


家の中から、メルの笑い声が聞こえる。ガランが何か冗談を言ったのだろう。マルタの優しい叱責、ロベルトの豪快な笑い声。


普通の、ありふれた、家族の夕食。


だが、ニーナにとって、これこそが最も尊い宝物だった。長い長い旅路の果てに、彼女はついに、本当の家を手に入れたのだから。

第三部「覇道の果て編」完結です。


塩化爆弾事件により、帝国は崩壊。

愛するガランは死に、幼い息子メルは行方不明に。

ニーナは全てを失いました。


第四部「星海の彼方編」では、さらに時代が進みます。

帝国崩壊から十八年後――

舞台は現代の地球、東京。


イカれた都内でも評判のサイコパス高校生。

「七夕竹彦」と名乗る高校生。


SF×コメディ×ファンタジー。

銀河を股にかける冒険譚が始まります。


引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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