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映画の原作小説を読んだ

 古川日出男の『平家物語 犬王の巻』(河出書房新社)の内容に触れます。一部ネタバレがあります。

 映画の『犬王』の原作、古川日出男の『平家物語 犬王の巻』(河出書房新社)を図書館で借りて読んだ。

 あらすじだけなら、原作小説と映画に大きな違いはない。

 あらすじ(・・・・)だけなら。

 小説と映画の表現は違うものだと、改めて思い知らされる。

 細かい設定の差異は勿論ある。映像で表現する以上、映画ではどんな顔をしてどんな服を着ているか、背恰好はどうか、きちんと描かなければならない。また、どんな脚本、どんな演出の方向にするかで姿かたちの描き方が変わってくる。

 アニメの『平家物語』を観たが、その古川日出男の手による現代語訳版や、その他の古川作品は書店で見掛けて手に取ったことはある程度で、きちんと読んだことがない。だから、『平家物語 犬王の巻』で初めて触れて、ああ、こういう表現の人なのか? この語り方で訴えかけてくるのね? と感じた。作品の題名に「平家物語」とあるからか、小説の「犬王」は琵琶法師が語り掛けてくるようだ。文語体に近い古い言葉遣いをしている意味ではない。息遣いと熱気が伝わってくるような、そう、犬王と友有が口伝えで残した物語を再現して語っているような流れだ。二人の生まれ育ち、出会い、そして創造、歴史的な背景。

 どんな内容の出し物を二人が舞台に乗せたか、それが滔々と語られる。

 どのような衣装を身に着け、どのように奏で、どのように唄い、舞ったか、それは読者の想像の中にある。観客の興奮もどこか一歩引いた所で想像する。

 映画はその「どのように」をはっきりと観客に見せなければならない。そして劇中の観客の興奮は、映画の観客の興奮と一体化する。新型コロナがなければ、発声上映が実施されただろう。

 ただ、思うに、映画で容姿をはっきりと見せなければならなかったがゆえに、犬王が全ての呪詛を浄められた後の直面(ひためん)に不満があった。監督やキャラクターデザインの方の思い描く犬王の顔はこうなのか? わたしなら違う、と。

 あらゆる穢れがその身から消え、原作小説で語る、犬王は窮極(きゅうきょく)の美しさ、穢れとは対極の美相を得た。それがその顔なの?

 しかし数ある中から美男美女を選んで示せと言われて、果たして正解があるだろうか?

 百人一首の小野小町の絵姿が後ろ姿で顔を見せぬようにしているのと同様に、窮極の言葉まで使われる美貌は描かれぬままでいる方がいいのかも知れない。

 小説は小説、映画は映画の楽しみ方がある。

 読書では語られる言葉、紡がれる言葉から、過酷な運命を切り開いていく二人の姿、現世(うつしよ)の儚さ、に感じ入る。

 銀幕から溢れ出さんばかりの登場人物たちの体の動き、躍動する舞台、響き渡り、観客を熱狂させる音楽は映画ならでは。

 どちらも面白い体験をさせてくれた。

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