第1話:とても礼儀正しい戦争
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ヴァレノワ王国には、誰もが知る「三つの常識」があった。秋に小麦を収穫すること、北の橋は春になると必ず崩落すること、そして姫佳王女とその護衛は、同じ部屋にいると必ず何かを破壊するということだ。
大抵の場合、壊れるのは誰かの「忍耐」だった。
東の塔の最上階で、皇太子姫佳は朝を迎えていた。黒髪をなびかせ、目を細め、芸術的な高揚感に手を震わせながらガチョウの羽ペンを走らせている。
「『ああ、私の勇敢なる騎士よ』」
姫佳は猛スピードで書き進めながら、低く呟いた。
「『あなたは分かっていないのですか? 私の心があなたのためだけに高鳴っていることを。まるで嵐を呼ぶ雷鳴のように……』」
彼女は手を止め、読み返し、蝋燭の火が消えかけるほどの深い溜め息をついた。
「素晴らしい……」姫佳は囁いた。「気味が悪いほど素晴らしいわ」
ヴァレノワの姫佳、21歳。未来の女王であり、三つの軍勢を震撼させた血統を引くアルファ(α)。彼女は今、ペンネーム『ミッドナイト・ローズ』として執筆している小説『深紅の騎士の情熱』第12章の「雨の中の口づけ」のシーンを描いている最中だった。そしてこの秘密は、世界中の誰ひとりとして、絶対に知られてはならないものだった。
その時、扉を強く叩く音が三回響いた。
誰かを尋ねる必要すらなかった。城内で城壁を打ち壊すかのように扉を叩く人間など、たった一人しかいない。
「少々お待ちになって!」
姫佳は完璧な王女の声で歌うように応えると、鷹のような素早さで原稿をクッションの下へと隠した。
だが急ぐあまり、彼女の袖がインク瓶を引っかけた。
恐ろしい沈黙が流れた。コロコロと転がるインク瓶。純白の絹に銀糸の刺繍が施されたドレス――一番のお気に入り――の袖口に、漆黒の染みが静かに広がっていく。
姫佳は目を閉じた。心の中で5まで数える。彼女のアルファとしての威圧感が一瞬だけ漏れ出し、部屋の奥にある燭台が小さく震えた。
「お入りなさい」
処刑人すら身の毛も立ちよだつような、穏やかな微笑みを浮かべて姫佳は言った。
扉が開いた。
王室専属護衛、リッカ・ヴァンス卿が入ってきた。鎧を光らせ、灰みがかった茶髪をくしゃくしゃにし、純粋な怒りだけで早起きしたような態度をとっている。背が高く、肩幅が広く、馬一頭くらいなら持ち上げられそうな腕をしている。口を開かなくても、そのヘーゼル色の瞳がすべてを物語っていた。
アンド何より、彼女はオメガ(Ω)だった。その事実のせいで、これまで「オメガの分せいで剣を執るなど」と宣う貴族が7人も失神している。リッカは礼儀として彼ら全員を医務室へ運んでやり――その後、盾の訓練に励んだのだった。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」とも「良い朝」とも聞こえない声でリッカは言った。
「ブランノック使節団との朝食会が30分後に始まります」
「まあ、時間ぴったりですこと、ヴァンス卿。まるでご自分のお仕事を楽しんでいらっしゃるみたいですわね」
「終わった瞬間なら楽しめます」
「まあ、なんて感動的な率直さでしょう」
「よく言われます」
リッカは腕を組んだ。「……ドレスにインクがついていますよ」
「これは装飾ですわ」姫佳は一目もそらさずに答えた。「南部で大流行しているのです」
「……へえ」
「それと、頬にもついています」
姫佳は慌てて顔に手を当てた。リッカは笑みとは言えないまでも、疑わしいほどそれに近い歪んだ表情を浮かべた。
「王女の顔にインクがつくことなどありませんわ」姫佳が言った。
「どう見てもついています、王女様」
姫佳は立ち上がった。白鳥のような優雅さで部屋を横切り、リッカの目の前で足を止める。彼女を見上げるために、姫佳は少し顎を上げなければならなかった。
「もう一言でも余計なことをおっしゃったら、ヴァンス卿」姫佳は甘い微笑みを浮かべながら囁いた。「次の夜間警備は北の塔にして差し上げますわ。カモメたちと一緒にね」
リッカは動かなかった。
だが代わりに、彼女の耳がトマトのように真っ赤になった。
英雄的な尊厳を保ちつつ、王室護衛は視線を落とし、調整の必要など全くない胸当ての革紐を極めて真面目な顔で整え始めた。
「さ……さんじゅうふんごです」リッカはドギマギしながら言った。「ちょうしょくです。殿下」
彼女はくるりと向きを変え、逃げ出したいのを必死に隠すような堂々とした足取りで出て行った。
姫佳は扉が閉まるのを待った。そして原稿を隠していたクッションの上にぐったりと崩れ落ちた。
「いつもこれだわ」姫佳は唸った。「まるで私が敵か何かであるかのように見てくるなんて」
一瞬考え込み、ドレスのインク染みを見つめると、純粋な怨念を込めて吐き捨てた。
「しかも……インクがついているところを見られたじゃない!」
宴会場は、焼き立てのパンとスパイス、そして生煮えの外交の匂いで満ちていた。
ブランノック使節団は馬車6台、専属の料理人3人、そして輝くような笑顔と脳みそに見合わない自信を持った若い貴族、ルーカン卿を連れて到着していた。
姫佳は背筋を伸ばし、清らかな表情でテーブルの上座に座り、条約や関税、羊毛の重要性について語っていた。リッカはその背後に立ち、不機嫌さを隠そうともしない彫像のように微動だにせず控えている。
「失礼、ヴァンス卿」
ルーカン卿が身を乗り出し、必要以上にリッカへ近づいた。
「貴女が素手で熊を倒したというのは本当ですか?」
「小さい熊でしたので」
「まあ、なんて謙虚なんだ!」ルーカン卿は笑った。「これほど強いオメガとは……実に愛らしい珍品ですな」
リッカはパチクリとまばたきをした。そんなことを言われて指の一本も折らずに済んだことなど今まで一度もなく、怒るべきか赤面するべきか分からなかった。結局、彼女は硬直することを選んだ。
だがその瞬間、上座の空気の温度が急速に下がった。
ほんのわずかだ。グラスのワインが揺れ、隅で眠っていた狩猟犬が耳を立て、使節団の貴族4人が理由も分からず突然荷物の確認をしたくなる程度には。
姫佳は笑顔を絶やしていなかった。声も荒げていない。しかし、先ほどまで静かな紫水晶色だった彼女の瞳は冷ややかな黄金色に輝き、大広間全体が息の仕方を忘れたかのようだった。
「ルーカン卿」
姫佳は蜜のように甘い声で言った。
「実に興味深いお話ですこと。ですがあいにく、ヴァンス卿は執務中ですの。近衛兵の気を散らすのは、重大なマナー違反となりますわ」
ルーカン卿の顔からスーッと血の気が引いた。
「も……もちろんでございます、殿下! そういえば……愛馬を洗わねばならないことを思い出しました!」
彼は立ち上がり、コソコソと姿を消した。
リッカは激怒しながら、姫佳の耳元へ身を寄せた。
「求婚者を追い払っていただく必要はありません」
「何のお話でしょう、ヴァンス卿? 求婚者などおりませんでしたわ。ただ、あなたの席を奪おうとした男が一人いただけです」
「誰も奪おうなんてしていません!」
「主観的な見解ですわね」
二つ隣の席に座っていたオダリス男爵夫人が、場を和ませようと咳払いをした。
「不埒な話題といえば、殿下……例の小説の噂はお聞きになりましたか? 『深紅の騎士の情熱』という作品ですわ。王都中の貴族の家で回し読みされているとか。『ミッドナイト・ローズ』なる人物が書いているそうです」
グラスのワインを飲んでいた姫佳は、見事な優雅さでむせた。
「かなり……大袈裟な本でしてね」男爵夫人は続けた。「溜め息だの、ハートだの、雨だのばかり。文学の恥晒しだと申す者もおりますわ」
「凄く面白いですよ」
リッカがポロッと言い放った。
死のような沈黙が訪れた。
姫佳がゆっくりと首を巡らせた。男爵夫人はまばたきをし、部屋の隅で犬が大きなあくびをした。
「……つまり!」リッカは地雷原を歩くような声で慌てて訂正した。「とても酷い本だと聞いています! 最悪です! 駄作です! 庶民の読むものです! 雨ばかり降って……騎士がやたらと出てきて!」
「へえ、不思議ですわね」姫佳は湖をも凍らせるような甘い声で言った。「読んだこともないのに、なぜそんなに酷いとお分かりになりますの、ヴァンス卿? お読みになったのですか?」
「滅相もございません」
「一ページも?」
「文字一つたりとも」
「では、一体どこでそんなご意見をお聞きになったのかしら?」
「ある……婦人から聞きました」
「どちらの婦人ですの?」
「……通りすがりの婦人です」
男爵夫人は笑いを噛み殺すためにグラスを口元へ運んだ。姫佳は敵の城壁に亀裂を見つけたものの、攻撃すべきか降伏すべきか決めかねている将軍のような目つきでリッカを睨みつけた。
――実のところ、リッカ・ヴァンスはその本を暗記していた。章ごとに。溜め息の数まで。そして、作中の主人公である「深紅の騎士」が短髪で、肩幅が広く、耳まで真っ赤になる困った癖を持っているのは、決して単なる偶然ではなかった。
だがもちろん、そんなことを知る者は誰もいない。
もしヴァレノワ王国で「なぜ姫佳王女と護衛卿はお互いを嫌っているのか」と尋ねれば、三通りの噂と、たった一つの真実が返ってきただろう。
8年前の夏至の宴でのことだ。当時14歳だったリッカは、ふたつの公爵家とブランノック大使を含む全宮廷の目の前で椅子の上に立ち、当時13歳だった姫佳が秘密裏に書いていた最初の原稿『深紅のバラの溜め息』を、朗々とした朗読劇のような大声で読み上げたのだ。
会場は大爆笑に包まれた。セラフィン女王すらテーブルにしがみついて笑ったほどだ。
だが、姫佳だけは笑わなかった。青ざめた顔でじっと佇み、それまで唯一「未来の女王」としてではなく接してくれた親友を見つめていた。
リッカは一言も発せずに椅子から降りた。そしてなぜそんなことをしたのか、一度たりとも説明しなかった。
その夜以来、二人は宿敵となり、どちらも最初の一歩を踏み出すことを拒んだまま、8年間にわたる冷戦を続けているのだった。
その夜、近衛兵舎にて。
リッカ・ヴァンスは部屋の鍵を閉め、椅子でドアを塞ぎ、窓が閉まっているのを二度確認してから、マットレスの下から分厚い本を取り出した。表紙には『左翼戦術における軍事戦略論』と書かれている。
もちろん、中身に戦術など書かれていない。
「……私はただ、敵を調査しているだけだ」
リッカは自分に言い聞かせるように呟き、『深紅の騎士の情熱』のお気に入りのページ――すでにページの角が擦り切れている――を開いた。
熟読し、読み返し、すでに暗記している一行を低く呟く。
「『たとえ貴方に憎まれようとも、私の心は永遠に貴方のものだ』」
彼女はページを見つめた。それから枕に顔をうずめ、40秒間にわたる押し殺した絶叫を上げた。隣の部屋の兵士が「ネズミでも出たのか!?」と怯えた声を上げるほどだった。
東の塔では、姫佳が羽ペンにインクを浸し、原稿へと戻っていた。
半ページ書き、読み返し、一行消し、また書く。
物語の中で、深紅の騎士は短い髪と赤い耳を持ち、言葉以上に多くを語るヘーゼル色の瞳をしていた。姫佳は紙の上で羽ペンを止めたまま、長い間その文字を見つめていた。
「ただの偶然よ」彼女は原稿に向かって言った。「よくある典型的なキャラクターだわ」
原稿はもちろん、何も答えなかった。
扉がノックされた。今度は荒々しい三打ではなく、侍女による控えめなノックだった。姫佳はいつもの素早さで用紙を隠した。
「殿下」侍女が扉越しに告げた。「セラフィン女王陛下が、明朝一番で玉座の間へお越しになるよう仰せです」
「何事かしら?」
「詳しくは伺っておりません。ですが……」侍女は咳払いをした。「ヴァンス卿も召喚されております。お二人、ご一緒にです」
姫佳は動きを止めた。
遠く離れた兵舎で、40秒間の押し殺した絶叫がピタリと止まった。
(第2章へ続く……)
本章をお読みいただきありがとうございます!
今回は姫佳とリッカの「過去の因縁」と、城内で繰り広げられる静かな(?)攻防戦を描いています。
楽しんでいただけたら嬉しいです。それではどうぞ!




