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第7話:下町の仁義!

夕飯の、煮物の匂いが混じり合う、そんな下町。

電線が、空を五線譜のように切り裂き、夕焼けだけが、安っぽく燃えている。


私の名はミヨ。どこにでもいる、冴えない中年女だ。

安物のスウェットの膝は抜け、鏡に映る自分は、いつの間にか、昔夢見ていた自分とは似ても似つかない、疲れ切った顔になっていた。だが、不幸ではなかった。


「ただいまあ」


アパートの軋むドアを開けて、油と埃にまみれた作業着の男が入ってくる。夫のタケシだ。


「あなた、お帰りなさい。今日は早かったのね」


食卓に並ぶのは、カレイの煮つけと、ほうれん草のおひたし。


「おう。明日の荷が早くてな。それよりリナは?」


「それが、まだ塾よ。あの子、最近頑張りすぎてるんじゃないかしら」


「フン。俺に似て、根性だけはあるってこった」


タケシは、犬丸運輸という小さな運送会社で、大型トラックの運転手をしている。不器用だが、ガッツな男だ。この下町で、私たち家族三人は、社会の荒波に揉まれながらも、必死に、ただ懸命に生きてきた。タケシが安月給で買ってくれた中古のテレビが、食卓の隅で、今日も嫌なニュースを垂れ流している。


『…またもや、大型車両への飛び込み自殺未遂です。若者の間では「トラックに轢かれれば楽園へ行ける」という奇怪な噂が蔓延しており、警察では…』


「チッ。またかよ」


タケシが、湯呑を置いて舌打ちする。


「馬鹿馬鹿しい。楽園だぁ?寝言は寝て言えってんだ。こっちゃあな、ハンドル握る手に家族の命が乗ってんだぞ」


「本当よねぇ…怖い世の中になっちまったもんだよ」


「ミヨ、心配すんな。俺の『一番星』は、そんな馬鹿どものために走ってんじゃねえ。お前とリナを乗せるために走ってんだ」


タケシの『一番星』。

彼がローンを組んで手に入れ、給料のほとんどをつぎ込んで飾り付けた、自慢のデコトラだ。キャビンには龍が踊り、荷台には鳳凰が羽ばたいている。夜になれば、無数の電飾が、この薄汚い下町で、不釣り合いなほど眩しく輝く。あれはタケシの城であり、誇りであり、そして、私たち家族の生活そのものだった。


犬丸運輸の薄暗い事務所。むせ返るようなタバコの煙と、安いインスタントコーヒーの匂い。


「タケシさん、また例の『楽園志望』が出たらしいっすよ。昨日の夜、南陽線の……西浮城駅の真ん前で」


「フン。線路だろうが道路だろうが、迷惑は迷惑だ。死にたきゃ、他所で静かにやりやがれってんだ」


タケシは、運行日誌を叩きつけるように所長に渡す。


「所長。ウチの連中にも、ドラレコの点検、徹底させた方がいいなあ。いーつ、こっちゃあ『加害者』にされるか、わかったもんじゃねえ」


「あーってるよ、だがなぁ…ウチもカツカツなんだ。そんな金、どこに…」


苛立ちと不安が、澱んだ空気のように事務所に溜まっていた。


その夜、タケシは遅かった。

外は、冷たい雨がアスファルトを叩いている。リナはもう、自分の部屋で寝息を立てていた。

深夜二時。アパートのドアが、乱暴に開く音がした。


「あなた…?」


玄関に立っていたタケシは、ずぶ濡れだった。作業着は泥にまみれ、その顔は、見たこともないほどに真っ白だった。


「…どうしたんだい?そんな、幽霊みたいな顔して…」


タケシは、震える声で、絞り出すように言った。


「…ミヨ…俺…人を、轢いちまった…」


雨の国道。

タケシの『一番星』は、いつものように夜の闇を切り裂いていた。ラジオから流れる演歌が、疲れた神経をわずかに慰める。

その時だった。

ガードレールを乗り越え、若い男が、まるで舞台に飛び出す役者のように、車道に躍り出た。


「危ねえッ!!」


大型トラックの車体は、簡単には止まらない。タケシは、床が抜けるほどブレーキを踏み込んだ。

耳をつんざくようなスキール音。タイヤが焼け焦げる匂い。

男は、迫りくる『一番星』のヘッドライトに照らされながら、両手を広げ、恍惚とした、まるで祝福を受けるかのような笑みを浮かべていた。

ドンッ、という、鈍く、湿った感触が、タケシの全身を駆け抜けた。


「…男は、即死だったそうだ。」


台所の安物の椅子に座り込み、タケシは虚ろな目で言った。


「…わざとだ。あいつ、笑ってやがった。こっちを見て、笑ってやがったんだ…!」


「あなた…」


「『楽園』だ…あいつも、あの馬鹿げた噂を信じやがったんだ…!」


翌日、タケシは犬丸運輸に呼び出された。


「おい。おめぇ、クビだ。」


所長の冷たい声が、事務所に響いた。


「所長!事故だ!事故なんだ!…いや、事故ですらねえ!あいつが勝手に飛び込んできたんだ!」


「るせえ!てめぇ、なめたくちきいてんじゃねえぞ?おう。世間が何て言ってるか知ってるか?『犬丸運輸、また不祥事』『過労運転か』…東洋テレビきてただろ!ボゲッ!こっちゃあ、おめぇンせいで、契約切られまくりだ!」


「…おれぁは、俺は悪くねえッ!」


「不注意だ。おめーの不注意だろうが!…な。だから、とにかく、辞めてもらう。それから…」


所長は、一枚の請求書をタケシの前に叩きつけた。


「…轢いた男の遺族への賠償金だ。俺もまあ…悪魔じゃねえからな。一億飛んで二千万。ま、俺にもズダレのおめえを雇ったってぇ非はあるから、俺がかき集めて四千万支払った。だからおめえは俺に八千万よこすだけでいい。八千万は会社が立て替えておいた。おめぇに請求する。あと、遺族には何があっても絶対に関わるなよ!」


八千万。私たち家族が、一生かかっても払える額ではなかった。

あの日から、全てが崩れた。

けたたましく鳴る電話。ドアを叩く、黒い服の男たち。

タケシは、酒に溺れた。

誇りだった『一番星』は、事故の傷跡も生々しいまま、駐車場で埃をかぶっていた。もう、あの眩しい電飾が灯ることはない。


「あなた…しっかりしておくれよ。二人で、やり直そうじゃないか…」


「…るせえ!やり直すだぁ?何で俺が…何で俺たちが、あんなデレスケ一人のせいで…!」


タケシは、酒瓶を壁に叩きつけた。


「ミヨ…すまねえ…おれぁ、もう…もう、走れねえ…」


リナは、学校に行かなくなった。


「お母さん…私、もうイヤだ…」


「リナ…」


「学校に行っても、みんなヒソヒソ言ってる…『あの子のお父さん、殺人鬼なんだって』って…」


「違う!お父さんは悪くない!あんな…あんな馬鹿げた噂のせいで…!」


娘の震える肩を抱きしめることしか、私にはできなかった。

そして、その朝は来た。

タケシが、いつまで経っても起きてこない。


「あなた…もう、朝だよ…」


寝室のふすまを開けた。

タケシは、鴨居から下がったロープに、首を吊っていた。

その足元には、ひっくり返った安酒の瓶が転がっていた。


「…………あ……あなた…?」


声が出なかった。涙も出なかった。

ただ、この世の全ての色が、音と共に消え失せた。

タケシの葬式は、雨だった。

リナは、ただ、人形のように俯いていた。

それから一週間後。

私が、パートから疲れ切って帰ると、アパートの部屋は、不自然なほど静かだった。


「リナ…?ただいま…」


リナの部屋のドアが開いている。

窓が、開け放たれていた。

冷たい風が、一枚の書き置きを揺らしていた。


『お母さん、ごめんなさい。もう、疲れちゃった。お父さんのところへ、行きます』


私は、アパートの屋上へ続く階段を、転がるように駆け上がった。

屋上のフェンスは、破られていなかった。

嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。

私は、アパートの裏手…タケシの『一番星』が停めてある、あの駐車場へと走った。


「リナ…!リナァァァッ!!」


リナは、そこにいた。

『一番星』の、あの龍と鳳凰が描かれた、巨大な車体の、すぐ傍に。

アスファルトの上に、赤い水たまりを作って、倒れていた。

アパートの四階、あの子の部屋の窓から、飛び降りたのだ。


「あ……ああ……あぁぁぁ……」


私は、娘の冷たくなった手を握った。

タケシ。

リナ。

私の全て。

私の、懸命に生きてきた証。

全て、奪われた。

あの、ふざけた「楽園」とやらを夢見た、怠惰な馬鹿どもによって。

一人残された。

この、地獄のような世界に。

私は、死を決意した。

タケシとリナのところへ行こう。もう、何もかも、終わりだ。


…だが。

私の視界に、タケシの『一番星』の鍵が入った。

事故で歪んだ運転席のドアに、差し込まれたままになっている。

タケシが、最後に運転しようとして、やめたのだろうか。

私の乾ききった心に、炎が宿った。


(…楽園…?)


ふざけるな。

ふざけるんじゃないよ。

あんたたちが、何の努力もせず、ただ他人の人生を巻き添えにしてまで行きたがった、その「楽園」とやら。

タケシやリナは、そこへ行けたのかい?

いいや、違う。あの子たちは、ただ絶望して死んだんだ。


(…どうせ死ぬならば…)


私の手が、ゆっくりと、トラックの鍵に触れる。冷たい金属の感触。


(…どうせ死ぬならば、タケシやリナを道連れにした、あんたたち馬鹿どもが向かったという、その『楽園』という、異世界とやらに、このあたしが、行ってやろうじゃないかッ!)


この、タケシの形見のトラックと共に。

タケシの無念と、リナの絶望と、私の怒り、その全てを乗せて。


夜が明けた。

東の空が、血のように白んでいく。

私は、『一番星』の運転席に座っていた。

タケシの汗が染みついたハンドル。ダッシュボードに置かれた、家族三人の色褪せた写真。


「見ててよ、あんた、タケシ。リナ。」


私は、鍵を回した。

腹の底に響く、重いディーゼルエンジンの咆哮。

『一番星』が、目を覚ました。

事故で片方のライトが潰れ、龍のペイントは剥げ落ちている。だが、確かに、タケシの魂が、この鉄の塊には宿っていた。

私は、アクセルを踏み込んだ。

夜明けの高速道路。

朝日が、フロントガラスに突き刺さる。

私は、タケシが愛した演歌のカセットを、デッキに叩き込んだ。

けたたましい歌声が、キャビンに響き渡る。


「行くよッ…!」


私は、高速道路を走る。走る。走る。

家族の思い出が、涙と共に溢れてくる。

リナの笑い声。タケシの不器用な優しさ。

私は、ハンドルに全体重をかけた。

『一番星』が、金切り声を上げて、急反転する。

タイヤがアスファルトを掴み、私は、逆走を始めた。

前から来る車が、パニックに陥り、私を避けていく。

だが、私は構わない。

私の目は、ただ一点…前方から迫る、巨大な「影」を捉えていた。

私と同じ…大型の、トラック。


「うおおおおおおおおおおッ!!!!!」


運転手の、恐怖に引きつった顔が見える。

だが、もう、止まらない。

私は、アクセルを、床が抜けるほど、踏み抜いた。


「いくぜええええええええッ!!!!!」


時間が、止まった。


衝突。

凄まじい金属音。タケシの『一番星』のフロントが、紙細工のようにめり込み、潰れる。

だが、私の怒りは止まらない。

『一番星』は、その質量と執念の全てを叩きつけ、トラックを、ガードレールごと弾き飛ばした。


巨大な鉄の塊が、もつれ合いながら、高速道路から「落下」する。

眼下には、都市のエネルギーを支える、巨大なガスタンクと、ガソリンスタンドがあった。

タンクローリーが、まずガスタンクに激突した。

一瞬の静寂。

次の瞬間、世界は「白」に塗りつぶされた。


轟音は、音ではなかった。それは「衝撃」そのものだった。

地平線の果てまで届くかという閃光が走り、巨大な火球が、夜明けの空を飲み込んだ。

太陽が、地上に二つ生まれたかのようだった。

ガソリンスタンドの地下タンクが、連鎖的に誘爆する。

第二次、第三次の爆発が、キノコ雲のような、おぞましい黒煙の塔を天高く突き上げた。

熱波が、数キロ先のビルの窓ガラスを粉砕し、衝撃波が、高速道路の橋脚を根元から揺るがした。

アスファルトは溶解し、鉄骨は飴のようにひん曲がる。

全てを焼き尽くす炎の嵐。

地獄。

まさしく、地獄の釜が開いたかのようだった。

だが。

その恐るべき爆炎の中心地。


タンクローリーが叩きつけられ、ガスタンクが巨大なクレーターと化した、その爆心地。

そこに、ミヨのトラックの残骸は、なかった。

タケシの『一番星』の、焼け焦げた破片一つ、そこにはなかった。


まるで、最初から存在しなかったかのように。

あるいは、衝突の瞬間、その膨大なエネルギーの奔流の中で、別の法則に飲み込まれたかのように。


ミヨのトラックは、消滅していた。

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